どこにでもあるような、古ぼけた集会所。街そのものからは少し外れたところにあって、周囲は、取り囲むように樹木が林立している。
既に夕刻である。日没までは、まだ時間はあった。
町はずれにある集会所に入った者は、2度と外には出られない。端緒は、そんな噂話だった。
あらすじはまるで、子供を脅かすための怪談話である。確かに、木々の間から見える建物は所々朽ちていて、突然崩れても不思議はないと思えた。
だが、本当に消えた人間がいた。何人もの人間が、神隠しにあったかのように、居なくなったという。
確かに、特異なものも感じられた。微かな血の臭い。それが、武仁が潜んでいるところまで、漂ってくるのだ。風で簡単に流れてしまうほどだが、確かに臭う。
普通の人間では、まず気づかないだろう。だが、伊達に何年も鬼殺隊の隊士をやっている訳ではない。
あらゆるものに敏感になれなければ、どこかで死んでいて、おかしくなかった。そういう自分の感覚は、決して疑わないことにしているのだ。
「
小声で、上空に呼びかけた。近くの枝に、那津が降り立てくる。
「胡蝶隊士らに伝令。現場と思われる場所を、発見した。今のところ、鬼の姿は認められない。日没間際だ。こちらはこのまま、外から監視を続ける」
那津が飛び去ると、武仁は少し離れたところの木陰に移動した。胡蝶姉妹は、街中で情報収集に当たっている。今のところ、連絡は何もない。
鬼がこの事態に関わっているのは、間違いないだろう。それがどの程度の鬼で、何をしているのか。血鬼術を会得していることも、十分に考えられた。
胡蝶姉妹が合流してくるまで、まだ時間はある。その間に、考えられる限りの想定を、積み上げておく。
生き残るために取りうる手。刀や暗器といった形あるものだけが、武器ではないのだ。
日没後、不意に、人の出入りが増えた。
2人、3人とまとまって街の方から現れ、廃屋同然の集会所に集まってくる。およそ、30人は入った頃、胡蝶カナエとしのぶが合流してきた。
「情報は共有しておきたい」
「街に住んでいる人たちの集まりが、今日あそこで開かれるらしいわ」
「あんな廃屋ですることもないだろうに。神隠しの噂がある建物だ」
建物には何か所か高窓があり、そこから、薄明かりが外に漏れている。何度か影が、灯の側を横切っているらしく、影で揺れていた。
「いろいろな人に聞いたのだけど、間違いないらしいわ。このところ何日かに一度、ああやって人が集まるらしいの」
「そうか」
武仁は集会所に眼をやった。人の気配。伝わってくるのはそれだけである。ただ、人が集まっているというだけなら、血の臭いは何だったのか。
「もし鬼が現れなければ、振り出しか」
「何よ、その言い方。居なかったら私たちが悪いみたいじゃない」
「そんなことはないが」
「余所者が、怪しまれないように話を聞くのは、大変なんだから」
「だからこそだ、しのぶ。その大変さがわかるからこそ、私は早急に鬼を見つけたい。私たちは、鬼殺隊なのだ。死人を前にものを考えるのは、誰でもできる」
「そうですね。私たちがいる以上、これ以上の犠牲者は、出したくありません」
カナエがそう言うと、しのぶはもう何も言わず、憮然とした表情で、ぷいと首を横に向けた。
枝葉の間に見える空は、まだ暮の色に染まっている。だが武仁の周囲は、既に闇の中に沈んでいた。
先ずは、様子見。武仁が地に腰を下ろそうとした、その時だった。
唐突に、血の臭いが漂ってきた。それも、徐々に濃くなっていく。
「この臭いは、血?」
「行くぞ。先頭は私、次にカナエ、最後がしのぶだ」
言葉を放ったとき、武仁は既に走り出していた。
集会所の壁の一箇所。明らかに脆くなっている箇所。建物を見張っている内に、それは見切っていた。容易く蹴破り、中に飛び込んだ。
まず、濃い血の臭いが、鼻をついた。でかい盥に、人が群がっている。飛び込んだ武仁にも、何ら反応がない。いや、一体だけ反応していた。
「お前は、鬼狩りか!」
言葉。返さずに、日輪刀を抜き放つ。一ツ目の鬼の姿は、眼で捉えている。
全集中 水の呼吸・壱ノ型 水面斬り
「お、お前! 俺を、守れ!」
鬼が何か喚いている。構わず、日輪刀を振るう。不意に、刃と鬼の間を、何かが遮った。人間の男。体を切り裂く寸前、何とか武仁は刀を止めた。
刀を下ろし、下がる。男は追ってこない。ひどく虚ろで、何の意志も感じられない眼を、向けて来るだけだ。
その男の左右に、次々と、人影が横並ぶ。男も女も、中には子供もいる。誰も声ひとつあげない。まるで、人形か何かのようで、鬼を守るように立ち塞がっている。
「なによ、何なのよ。姉さん、これって」
カナエとしのぶは、背後にいた。近くの盥を覗き込んで、顔をしかめている。
「人間の血を、貯めていたのね。ここにいる鬼が、飲むためだと思うわ」
「でも、どうして、こんなことを」
「2人とも、油断するな。これは、血鬼術だ」
3人の周囲を、異様な雰囲気の群衆が取り囲む、という様相だった。
自我を失った様子。そして鬼の、己を守れ、という言葉。そこから察するに、この鬼には人間の精神を錯乱させる能力がある。
いま、あの鬼は、人垣の向こう側に隠れている。どす黒い肌。一つ目。まるで子供のような大きさの鬼。まだ、気配はある。
しかし、外からでは、全く感じなかったものである。地下に穴でも掘ってあって、日中は隠れていたのかもしれない。尤も、気配などはいくらでも殺しようがある。
「鬼狩りの癖に、目敏い奴がいるな」
鬼の声ではなかった。取り囲んでいる人間のひとりが、代わりに声を発していた。
「こいつらは、見ての通り、今は俺の奴隷だよ。夜な夜な俺のために、こうして血を流してくれるのさ」
また、別の人間が声を放った。女の声だった。
武仁は、口を開かなかった。胡蝶姉妹には、何も口を利くな、と手で合図する。こちらの意志は、2人とも汲んだようだ。
何が血鬼術の発動条件となっているのか、知れたものではなかった。言葉を交わしたり、匂いを嗅がせたりするだけで発動しても、おかしくない。
「何か、言えよ。別に、口を利いたからって、俺の術には引っかからねえさ」
「大したやり方だ」
慎重に喋った。気づくような異常は、何もない。先ず、武仁はそれを確認した。胡蝶姉妹は、口を噤んだままである。
「狡猾だな。人の血肉に飢えた鬼のやり方とは、とても思えない」
「俺には俺の、順序ってものがある。まずは街の連中を全員、術に嵌める。喰ってやるのは、そこからさ。そして、それは遠い日のことじゃあない」
「相当な人数を、術に嵌めているということか。ここにいない人間達も」
「まあ、一度に動かせるのは、これが限界だがね」
「約30人といったところか。少し、喋りすぎだな」
「この人数、それに人間だぜ。斬れないよなぁ、お前達鬼狩りには。鬼狩り以外にも、俺のことを詮索する奴が何人かいたが、全員、喰ってやった。そして、お前達もそこに加わることになる。いや、その女2人は、生かしてやってもいい。俺の、人形としてだがな」
一斉に、取り囲んでいる人間たちが笑い声をあげた。そのあまりに無感情な声は、汚れて朽ちた壁や天井に反響し、より一層、不気味に聞こえた。
「ふざけないでよ」
しのぶが、声を荒げた。
「しのぶ」
「姉さんに、手出しはさせないわよ。絶対に」
「しのぶの言う通りだ」
武仁から一歩、踏み出した。笑い声が、やんだ。
「鬼殺隊を、甘く見ない方がいい」
腰に吊っていた塊を、投擲した。白煙。それが、武仁の視界を、一瞬で覆いつくした。
「殺すな、打ち倒せ!」
武仁は叫びつつ、置いてあった盥を人垣に向かって蹴り飛ばした。血臭が鼻をつく。眼前にいた男の首元に、手刀を叩き込んだ。
鬼が何か喚き散らしているが、ほとんど聞こえない。そのせいか、鬼に操られた人間たちの動きは、鈍い。
数を恃みにしようとも、所詮は一般人である。そして、不意を打ったこちらに、分はあった。
戦いは、一方的なものになった。
カナエの動きはやはり凄まじく、群がる人間を日輪刀の鞘で、次々と打ち倒していく。それも、最小限の負傷で済ませている動きだ。しのぶの動きも悪くはないが、自分よりも大柄な人間を相手に回したときは、手こずっているところがある。そこにも、カナエは合いの手を入れていた。
武仁は日輪刀ではなく、体術で打ち倒しつつ、鬼の気配を探った。数えて9人倒した時、立っている人間の気配が消えた。
「くそっ、覚えていやがれ! まだ、街には俺の術にかかった奴がいるんだからな!」
鬼の声。建物の外からだった。
武仁が飛び出した時、鬼は意外な素早さで、木々と暗夜の狭間へと消えていこうとしていた。
このまま逃がせば、あの鬼は街の人間をどれだけ操り、どれほどの混乱を巻き起こすのか。走るしかない。そう思った武仁を、等々に呼吸音が追い越した。
武仁が横へ跳んだ瞬間、カナエの姿が鬼の背後に立ち、日輪刀を抜き放った。
全集中 花の呼吸・肆ノ型 紅花衣
桃色の刃が振るわれる。鬼が振り向く。躱しようがない、必殺の距離だ、と武仁は思った。
言葉にならない断末魔。鬼の頸と体が両断されていた。体だけが林の奥へと走り続け、その途中で、燃え尽きた。
頸はカナエの足元に、転がっている。
「馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!」
喚き散らしているが、斬り落とされた頸の断面から、燃え尽きつつある。
「こんなはずが、ありえない! 俺が、こんなところで、こんな奴らに!」
「可哀そうに」
日輪刀を納めたカナエが、鬼の頸の前で、しゃがみ込んだ。
「その力で大勢を操っても、結局、あなたのために最後まで戦ってくれる人は、誰もいなかったということよ」
「俺は、ひとりでいたくなかっただけなんだ。寂しいのは嫌だ。ひとりは嫌だ」
「大丈夫、私が最後まで、傍にいてあげるから」
「駄目よ、姉さん」
鬼の頸に手を伸ばしたカナエを、しのぶが鋭い声で引き留めた。
「しのぶ」
「頼むよ。血鬼術じゃねえ、俺の頼みを聞いてくれよ。俺はもう、死ぬんだからさあ」
「黙りなさい。あんたに操られていた人も、喰われた人も、そんな泣き言は言わなかったはず。それを今更、自分のお願いを聞いて欲しいなんて、都合が良すぎるわ!」
「ごめんね、しのぶ。でも、最期を迎えた鬼の思いを無碍にすることは、私にはできない」
「姉さん、忘れたの。私たちの父さんも母さんも、そいつと同じ鬼に殺されたのよ? お願いだから、私たちの前で、そんなことしないでよ」
「ごめんなさい、しのぶ。御影さん。でも、これで鬼になった人の心だけでも救われるなら、私はそうしたい」
「任務は終わった。新たな犠牲者もいない。気が済むように、すればいい」
建物の中。人が身じろぎをする気配が伝わってきて、武仁は身を回した。見ていられなかったのか、しのぶも後をついてくる。
「大丈夫か?」
「俺、どうしてこんなところに。それに、腕に傷が」
「動かないで。深い傷じゃないけど、しっかり手当てしないと。別の病気にかかることもあるから」
喋りながら、しのぶの手は目まぐるしく動いていた。傷を針と糸で縫い合わせ、薬を塗った包帯を巻きつける。そこらの村の医者などよりもずっと、処置の手際は良い。
「ここは、街の集会所だ。何か、覚えていることはあるか?」
「日中に畑仕事をしていたことは、何となく。でも、集会所に用事なんてあったかな」
武仁の刃を、身を挺して遮った男だった。一度気を失ったからか、鬼の頸を刎ねたからか、正気を取り戻している。瞳にもはっきりと、意志の光がある。
「あっ、そういえば」
男が何か思い出したように、声を上げた。
「いつのことかはよくわからない。変な生き物と、眼を合わせたんだ。知人に森に連れられてきたとき、見たこともない小さな動物がいてさ。じっと見てたら、頭がぼうっとして」
男の言葉を聞いた瞬間だった。武仁の背中から冷たいものが噴き出るのと同時に、嫌な気配が背後で広がった。
血鬼術・鬼眼の甘言
操られていた男としのぶを残し、外へと飛び出る。
鬼の頸。カナエの腕の中で、灰となって消滅してくところだった。ただその眼元は、こちらを嘲るように、歪んでいた。まるで、一矢報いたとでも言うように、笑っていた。
「どうしたの、御影さん?」
「離れていろ、しのぶ」
立ち上がったカナエが、振り返った。藤色かかった眼。そこに、光はなかった。
次話は悲鳴嶼さん以来の、柱級との勝負です。