つん、とした匂いがした。
潮の匂い。すぐに分かった。磯臭いとも言われるが、武仁はこの匂いが、嫌いではなかった。
村に入る前、後藤が武仁と義勇の方に向き直った。宿で後藤と冨岡義勇と合流して、2刻(約4時間)は経った。太陽は西へ傾きつつある。
「こっから村の中だ。とりあえず、その刀は隠しておけよ。面倒は御免だからよ」
「隊士達が2人、先行していた話は聞いている。既に消息を絶ったとも」
「俺を誰だと思ってんだい。隠の、後藤だぜ。村の連中との、顔つなぎくらいはできるようにしてらぁ」
大怪我を負って、隊士にはなれなかった男。だが、自分が隊士であるのと同じだけの時間を、隠として生きてきた。事後処理部隊などと言われているが、鬼殺隊士が縦横に動き回れるのは、隠の支援があるからだ、と武仁は思っていた。流石に、抜かりない。
義勇に、視線を送った。出発してからずっと、一言も口を利いていない。日輪刀は背中に隠したのか、手元は空いている。
3人でまとまって、村中に入った。村人らしい、何人かとすれ違う。時折武仁達を一瞥するだけで、ほとんどは顔を下に向けていた。
「活気がないな。山村に比べると、海際の方が賑やかなものだと思うが」
「疫病だ、何だと、村の連中がばたばたと倒れてるんだ。浮かび上がる気分にゃあならねえと思うぜ。これから連れていくところを見れば、猶更よ」
「村長のところか?」
「いいや。ここの村長も、病でやられちまったらしい」
後藤が首だけ振り向くと、通りの奥にある建物を指さした。かなり大掛かりな、木造の建物である。
「いつもは、干した魚だ何だを、保管しておくための倉庫だ。でも今は、病にかかった人を寝かしておくために使っているのさ」
「そうか、良かった。医者は無事なのだな」
「まあ、無事と言えば、無事なんだがなあ」
肩を竦めた後藤が、扉を軽く叩いた。僅かに空けられた隙間から、首だけが出てくる。眼元以外は布で隠している男だった。
「おう、後藤か」
「遅くなりましたね、先生」
「一緒にいるそいつらは何だ。このところの病人にしては、顔色は悪くない」
「助けを呼んでくるって、言ったでしょう。こいつらは、この村で起こっている疫病を調べに来たんですよ」
先生、と呼ばれた男の視線が、武仁と義勇を行き来した。布の隙間の眼元には、深い皴が刻まれている。髪の毛も、見えるものの半分が白かった。
「俺たちも一度、中に入っても良いです?」
「奥までは入ってくるな。それと口と鼻くらいは、布で覆わせろ」
それ以上話すことなどない、とばかりに言い捨て、医者の顔は引っ込んだ。
その指示に従い、布で口元を覆い隠して、扉をくぐった。まず、饐えた臭いが、布の上からでも武仁の鼻をついた。
十数人ほどの村人だろう。並んで寝かされ、その周りを何人もの人間が、ばたばたと動き回っていた。その中には、黒子姿の隠も混じっている。
医者も、武仁たちには目もくれず、今は村人ひとりの手首に指を当てていた。脈を測っているのだろう。
看病の様子を見ていると、ある違和感に武仁は気づいた。
「症状が、それぞれ違うようだが」
「ああ。流石に気づいたな」
「氷嚢を使っている者もいれば、毛布を何枚も被っている者もいる。これが、この村の疫病なのか?」
「これは病などではない」
医者が、声だけをこちらに向けてきた。
「高熱、寒気、震え、全身の麻痺、小傷の腐敗、血が混じった糞尿が止まらないというもの。誰ひとりとして、同じ症状はない。夜毎に新たな患者が担ぎ込まれてきて、同じ数だけ、死んでいく。こんな病など、私は聞いたことがない」
「これだけの人数を、貴方ひとりで。この村に、他に医者はいないのか?」
「村長すら倒れた疫病の噂で、お上ですら見て見ぬふりをしている。今、この村にそんなものがいると思うのなら、お前の頭も病だ」
再びの吐き捨てるような言葉。だが、看病をする村人への指示は、的確そのものだった。
か細い呻き声が絶えず上がっている。ここに寝かされている者たちは、まだ死んでいないのだ、と武仁は思った。
「行こう、武仁」
「義勇」
「俺たちが、ここにいる意味はない」
言うなり、義勇は羽織を翻して、外に出ていった。
「その小僧の言う通りだ。野次馬するだけなら、出ていけ」
武仁は義勇が出ていった扉、後藤と視線を送って、医者に向き直った。
「一晩。それだけ、待ってもらいたい」
「ほう、一晩か。治療もできぬお前らが、何かやってくれるというわけか」
「わからない。だが、全力は尽くす」
疫病とされているものは、恐らく、鬼の血鬼術によるものと思えた。だから、鬼の頸を飛ばせば、いくらかは症状を和らげることができるかもしれない。
だがそれは、市井の人間に語るようなものでもなかった。鬼が原因などと語ったところで、妄言としか思われないだろう。
「君はどうする、後藤」
「俺は、ここで他の奴らと一緒に、手伝いでもしてるさ」
「そうか。私は夜まで、村の中を歩き回っていようと思う」
まず、地形地物を把握するところから始める。それが、武仁のやり方だった。鬼との戦闘で生死の境目に立った時、そんな些細なことが、命を生の側へ引き寄せることもある。
「日暮れ前に、また来る」
外では、義勇が待っていた。
「俺は周辺を見回ってくるが、君はどうする、冨岡隊士」
「何も。夜にならなければ、鬼は出てこない」
「なら、一緒に来るか? ただ歩くだけの、散歩にしかならないかもしれんがな」
義勇はしばらく無表情のまま、そして、不意に頷いた。
村の北側は入り江の港になっていて、周辺は人が通る道以外、森に囲まれている。海際を中心にして、環状に拓かれた村だった。
作りは単純である。ただ、地形差があまりない。高所から見下ろすような待ち構え方は、できそうになかった。だが、そもそも広い村ではないので、鬼殺隊士が2人もいれば、十分に対応できるだろう。
鬼の気配や痕跡。鬼の存在を感じさせるもの。そういう類のものは、何もなかった。
そもそも、人が喰われている訳ではないのだ。疫病が広まっている村という情報と、自分が見ている現状は、変わりがない。柱を動かせない、と語っていた御屋形様の考えも頷ける。
武仁は指笛で、那津を呼び出した。変わりないとは言え、何もしないわけにはいかない。
「蝶屋敷へ向かい、胡蝶しのぶを連れて来るんだ。村の奇病は極めて重篤な状況。村医者が治療に当たっているが、芳しくない。鬼殺隊として、しのぶの知見を借りたい。御屋形様の許可は、後で私が責任をもって取る」
那津は一声鳴き、南へ飛び立って行った。既に蝶屋敷の場所は知っているのだろう、と思った。
同時に、本部へ義勇の鎹鴉を飛ばすこともできた。だが、もし自分達に万が一のことがあれば、義勇の鴉を使うしかないのだ。本部への報告は、後回しにするしかない。
「蝶屋敷とは、何だ?」
「冨岡隊士は、聞いていないのか。花柱胡蝶カナエの館が、鬼殺隊の治療所となっている。私も、自分の眼で見たわけではない。だが花柱の妹の胡蝶しのぶは、鬼殺隊士でありながら、医術に秀でている」
「胡蝶姉妹」
義勇はぼそりと、呟いた。興味がない訳ではないらしい、と武仁は思った。首が微かに上下していた。
「もうすぐ日が暮れる。そうしたら、私と君は、分かれて行動しようと思うが。上級の隊士として、何か意見はあるか?」
義勇はまた、黙って頷いた。
「この村に潜む鬼を見つけて、頸を斬るぞ。冨岡隊士」
「隊士じゃない」
「何だって?」
思わず言い返した。だが、義勇の表情は淡々としていて、顔からは何の意図も読み取れない。隊士じゃない。何が言いたいのか、武仁は唐突に理解できた。
「わかった、義勇。これでいいか?」
こくり、と頷く。冨岡隊士、という呼び方を止めて欲しかったらしい。
ただの口下手ではない。ただ、内心と実際の発言とに、微妙な不一致がある。この男との会話に必要なのは、機知というよりも忍耐力だろう。丸一日対して、武仁はそう思っていた。
義勇の後ろ姿が、角を曲がっていく。それから、武仁は足を倉庫へ向けた。
表で後藤が待っていた。
「俺に、何かできる事はあるか?」
「いや。夜が明けるまで、ここで待て」
「やっぱりよ、鬼がいるってことか?」
「恐らくは」
武仁は帯革から爆竹と煙玉を幾つか外した。きょとんとしている後藤に、押し付ける。
「念のため、預けておくものだ。もしここに鬼が現れれば、迷わず使え。音でも煙でも、異常があれば、私達ならすぐに感づける」
「おう、ありがとよ」
後藤は爆竹や煙玉をしげしげと見まわして、懐にしまい込んだ。
「あと、村人が不用意に家の外に出ないよう、眼を光らせておいてくれるか。これは、隠何人かでいい」
「分かった。そいつは俺の方でやっておくぜ。気の利く奴らが、何人かいる」
「頼む。出来れば、今晩には片を付ける」
武仁は軽く会釈して、身を翻した。
海へ向かうのだ。村回りは、そこから始めると、決めていた。山歩きがほとんどだったからだろうか。海というものに、不思議な魅力を感じるのだ。
もしこれが任務でなければ、とふと思った。海岸の岩に腰かけて、竹笛を吹く。どんな音が流れ出るだろうか。
束の間そんな想像をして、すぐに止めた。
日が沈んで、1刻(約2時間)程か。走りながら見上げた月の角度で、そう読んだ。
村の北側だった。微かな血の臭いと、何かが激しく動く気配。走りながら、鳥肌が立っていることに、武仁は気づいた。
鬼がいる。それと戦っている者もいる。そして、血が流れている。
家と家の間を駆けた。経路は頭の中で、しっかりと描けている。角を2度曲がり、塀に両手を掛け、飛び越えた。
海岸に程近い、村道の真ん中に、冨岡義勇が佇立している。その周囲には黒い塊が幾つも散乱していた。
両断された鬼の体。分身を作る血鬼術だろう、とそれで見当がついた。そして、大人程のどす黒い影が、道の奥の方に見えた。
武仁は日輪刀の柄に手を掛けた。その時には、義勇も動いていた。青い刃が、地を這うように突き進み、武仁の視界を追い抜いた。
全集中 水の呼吸・肆ノ型 打ち潮
青い光。縦横に動き、影に吸い込まれていく。太刀筋は見惚れる程で、しかも鬼の体が3つに切り裂かれた。それを武仁は、月明かりで何とか見て取った。
鬼を斬った義勇はすぐにその場を離れ、隣に飛び退ってくる。
肩に、人を担いでいた。浅い呼吸をしている娘。武仁は娘を受け取ると、その場を離れ、近くの小道に横たえた。
服の上から見回したが、重い怪我は見えない。背に、黒光りする棘が何本も刺さっている。そこから、血が流れ出ていた。
棘は抜かず、慎重に周りを布で押さえ、細く縒った紐で縛り上げた。だが、血は止まらなかった。布が少しずつ、ぬめりを帯びていく。
思い当たるものはある。師匠との旅の最中、血が止まらなくなる病というものを、武仁は何度か見たことがあった。もし、この娘が同じ状態にあるのなら、棘が刺さった傷どころか、壁にぶつけた痣ですら致命傷となりかねない。
その時、不意に獣のような唸り声が降ってきた。頭上。見上げるよりも早く、武仁は爆竹を頭上へ投げると、娘を抱え上げて小道から飛び出した。背中に爆風が打ちつけてくるが、何とか体勢は崩さなかった。
慎重に娘を下ろし、振り向くと、さっきまで自分が立っていた場所で黒い塊がのたうち、転げまわっていた。
そいつが、立ち上がった。まるで雲丹のように、全身に棘が生えている鬼。ぞわり、と思わず鳥肌が立ちそうになった。
顔も棘まみれだが、眼や口があることは、何となく見て取れる。白濁した涎が、だらだらと口の端から垂れていた。
武仁は刀に、手を掛けた。この鬼がどれほどの強さかは分からない。だが、この娘を巻き込まないように戦う。爆竹や煙玉を使った派手な立ち回りは、控えた方がいい。
思念は、唐突に断たれた。狂った叫声をまき散らしながら、鬼が向かってくる。伸びてくる腕。身を低くして躱し、鬼の胴を日輪刀で薙いだ。刃が、火花を散らした。
鬼の姿が離れた。手応えはない。何か極めて硬いものに斬りつけた感触だけが、武仁の掌には残っていた。
鬼の棘一本一本が、硬いのだろう。並みの刃では、文字通り歯が立たない。全集中の呼吸の技で、頸を斬るしかない。
再びの、叫び。元々が人間だったものの声とは思えない。だが、その叫びの中に、ある言葉が混じった。稀血。はっきりと聞こえた。
鬼が姿勢を低くした。来る。同時に、武仁も日輪刀を横に構えた。呼吸は、既に整っている。その時、別の呼吸音も入り混じった。動き出した鬼の頭上から、青い光が降ってくるなり、鬼を幾度も貫いた。
全集中 水の呼吸・参ノ型 流流舞い
光が消えた時、鬼の体は内側から裂けたかのように、いくつにも散らばっていた。
「遅くなった。こいつらは、斬ったところから分身する。少し、手間取った」
義勇の姿が、傍らにあった。表情や息に、一糸の乱れもない。日輪刀の抜けるような青い刃だけが、鮮やかだった。
「分身する鬼か」
「胴の辺りを半分に斬ると、間をおいて2体に増える。頸を斬るか、全身を細かく斬る必要がある」
「この鬼の力は、それだけではないと思う。この棘が刺さると、件の病に冒されるようだ。この娘は、血が止まらなくなっている。本体の頸を飛ばさなければ、この戦いは終わらないぞ」
「一度、下がったほうがいい」
「そうだな。この娘を抱えたまま戦うのは至難だ。あの鬼は、この娘を稀血と言っていた。匂いを辿って、どこまでも追ってくる」
「俺が、鬼の相手をする」
武仁は刀を鞘に納め、娘を抱え上げた。警戒と鬼への対応は義勇に任せたほうがいい。技量が自分とは比べ物にならない事は、よく分かった。
散乱した鬼の死骸は、動くことはなかった。鬼の気配もない。それを確認してから、義勇に先行して、歩き出した。
背後。不意に、皮袋でも破れたような乾いた破裂音が立った。同時に何かが、背中に突き立った。痛みは大したものではない。
何が起きたのか。そう思うよりも先に、視界がぐらついた。
まだまだ夜は明けない