7日目の夜を迎える前に、3人で合流した。
この夜を生き延びれば、最終選別は終わりである。しかし昨日から
この数日で接触できた数は、およそ8人である。そのうち何人が、今も生きているのか。その他の志願者は、影も見えない。
「今のうちに麓に向かうこともできる。夜が明ければ、それで終わりだ」
朱雀が一度だけ確かめるように言った。武仁は、首を横に振った。
「まだ、取り残されている人間がいるかもしれない。見るだけは見ておこう」
「私も賛成。それにこの3人なら、大抵の鬼とは戦えると思う」
最後の夜は、3人で藤襲山を回った。寝泊りしていた拠点にも手分けして、目を通す。いくつか寝泊りした痕跡はあったが、誰もいなかった。
だが夜明けの一刻ほど前、山の方から轟音が響き渡った。
「なに、今の音?」
「考えるな、
朱雀を先頭に、武仁、芭澄と続けて走り出す。
闇に呼吸音がいくつも交わった。朱雀と芭澄は、全集中の呼吸をそれぞれで応用して走っているようだ。武仁は呼吸を深めつつ、山を駆けのぼった。山走りは慣れたものだ。
「確か、この先は崖だったはずだ」
7日も経っていれば、大抵の地形は見慣れている。この先は背丈5つほどの岩壁で、簡単に登り降りできるような場所ではなかった。
唐突に、朱雀が急加速し、そのまま姿を消した。
全集中 炎の呼吸・肆ノ型 盛炎のうねり
赤い日輪刀が何かを切り払うような動きをした。朱雀は蹲っている人影の前で、庇うように立っている。
声を交わしている暇はなかった。武仁はうずくまっていた人影を背負い、走り出した。背後では2度、3度と朱雀が日輪刀を振るっている。そこに、呼吸を整えた芭澄が、低い姿勢で突っ込んでいく。
もう背後を、振り返る余裕はなかった。激しい戦闘の気配だけが、色濃く伝わってくる。
背中にいるのは、自分と同年代の少年である。言葉ではなく、うめき声をあげていた。全身を痛めているようだった。
あの崖から、飛び降りたのかもしれない、と武仁は思った。もしそうなら、息があるのが不思議なほどだ。
近くの拠点のひとつに、少年と共に駆けこんだ。地面に横たえ、全身を観察する。まだ息はあるが、危険な状態だった。
とりあえず、出血点を布で抑えていく。曲がった骨には添え木を当て、外れた肩は力ずくではめた。一通り手当を終えた頃、朱雀と芭澄も駆け戻ってきた。
2人とも、激しい息をついている。
「とんでもない鬼だ。見上げる程の大きさで、手を次々と伸ばしてくる。掴まれれば、まず命はない」
「狩ったのか?」
「いいや。逃げるだけで精いっぱいだ。芭澄がいなければ、俺も今頃どうなっていたかわからない」
「あの様子じゃあ、相当人を食っている。私たちに、対処できる相手じゃない」
「ここは、俺が引き付ける」
そう言った朱雀の顔には、ある種の覚悟が満ちていた。
「その子は武仁が背負え。芭澄は、武仁を守れ。2人で下山するんだ。これは、年長者として指示している」
そのまま立ち上がって行こうとする朱雀の袖を、武仁は掴んだ。
「待ってくれ、朱雀」
「止めるな。俺はあの鬼を倒す。奴は、鱗滝という育手の子供を殺している、と言っていた。このまま奴を放っておけば、確実に誰かが死ぬことになる。俺がこの手で、奴の頸をとる」
「だがお前が、死ぬかもしれない。夜明けまであと一刻なのに、ここで友人を失えば、俺は一生後悔する。そんな後悔を、俺にさせないでくれ。やってみなければわからない、なんて言い方はするな。俺たちは鬼ではない。2度目はないんだ」
何か言おうとした朱雀が、口ごもった。
朱雀の顔を突然満たしたものを、武仁はぬぐいたかった。ある種の狂気、と言ってもいいのかもしれない。あの鬼とはここで刺し違えても構わない。そういう顔を、朱雀はしていた。
「ではどうする。奴はこっちに来ているぞ。どこかで、追跡は断つ必要がある。放っておけば、他の志願者と一緒になって襲われるかもしれない」
「俺に考えがある。皆で、朝を迎えたい」
そう言い、武仁は半紙を広げた。
隙間もなく書き込んだ、藤襲山の地図である。
風が、背後から吹き付けてきた。
山道上に、武仁はひとりで立った。日輪刀は佩かず、左手で握りしめていた。
足元には、布袋が転がっている。最終選別で、血を吸わせてきた布が何枚も入っていた。鬼に嗅ぎつけられないように埋めていたのを、掘り起こしたのだ。
風下に向かって、血の匂いが流れていく。これで、鬼を引き寄せられるかもしれない。そういう使い方も、選別の最中に思いついたことのひとつだ。少なくとも、朱雀や芭澄の匂いを嗅ぎつけられる心配は、これでなくなった。
武仁は、心気を研ぎ澄ませた。鬼を待っていた。それも異形の鬼だ。だが、絶対に生き残らなければならない。
夜明けまで、あと半刻ほどだろう。東の方から、空は白み始めている。朝日が射すまでは、まだかかる。朝日さえ射しこめば、どんな鬼でも手出しはできないのだ。
最初に、地面が揺れたのを感じた。次には、酷い臭いがただよってくる。まるで腐った肉と肥溜めの臭いを、足したような臭いだった。
「何だぁ。お前も、鱗滝のところのガキじゃないなぁ」
木々の間から現れたのは、醜悪な鬼だった。見上げる程の巨体から、無数の手が生えている。手鬼、と武仁は内心で名付けた。
異形でも頸はあるようで、図体の上に、ちょこんと突き出ていた。
武仁は臭いを堪えながら、その鬼の眼を見返した。
「さっき俺の邪魔をしたガキとも違うなぁ。血の匂いがするから来てみたが、お前ひとりでなんのつもりかなぁ?」
「お前の姿を、一度は見ておきたい、と思った。異形の鬼がいることは、途中でわかっていたから。お前みたいな人間離れした鬼も、いるのだな」
「もう、50人位は喰ってやった。特に、鱗滝のところのガキは全員だ。あいつは本当に馬鹿な奴だよ。いつもいつも、厄徐の面をつけて送り出してくる。それが目印で、弟子の命を奪っているとも知らずになぁ」
「なるほど。やはりお前達は、この世にいてはいけない存在だ」
手鬼がくつくつと籠ったような笑い声をあげた。
武仁も、思わず笑っていた。これほど、悪意で人の命を奪うことに執着した存在に、出会ったことがあるだろうか。しかしこれが、鬼の性なのだろう、とも思った。
人と違って、哀れとは思わなかった。
「お前、何のつもりでここにいるのかはしらないが、鱗滝と同じくらい馬鹿な奴だ。馬鹿さに免じて、俺がばらばらにして喰ってやる。手足を捥がれる感覚を、特別にお前にも味あわせてやる」
「俺は、死なない」
武仁は横へ走り出した。同時に、手が伸びてきて、さっきまで立っていた地面を砕いた。土が頭上から雨のように降り注ぐ。
朱雀と芭澄から、この鬼は手を伸ばして攻撃してくると聞いていた。しかもその手は、地面からも襲ってくる。知ってさえいれば、いくらでも対策の仕方があった。
走った。しかし、緩急はつけていた。この戦いは生き延びることが勝利なのだ。あと半刻は、走り続ける必要がある。
風切り音。反射的に、横に跳んだ。何度も手が背後から迫ってくる。左右に走り分けたり、岩を飛び越えたりして、凌いだ。掠ったり、どこかを掴まれるだけでも、終わりなのだ。
「どこまで逃げるんだ? お前に、逃げる場所なんか無いだろ?」
手鬼が何か言っていたが、耳は貸さなかった。頭の中では、この7日間で調べ上げた藤襲山の地形を繋いだ線だけを、思い浮かべていた。
地面が、不意に揺れた。手が飛び出てくるよりも先に、左に跳んだ。その先、頭上からも手が伸びてきた。日輪刀。武仁は振り返りざまに、手首の辺りから切り落とした。茶色い血が、降り注いでくる。
走った。刀は走りながら納める。岩場を越え、小川を渡り、崖から崖へと飛んでいく。呼吸は、まだ乱れていなかった。
ある速さで走り続けていると、いつの間にか息苦しさを忘れる。さらにそれが続くと、全身が快感に包まれるのだ。呼吸だけは、決して乱さないことだった。
更に、走った。手鬼の動きは遅いが、武仁の動きも遅い。手を躱すために、左右に走り分けているからだ。それに、これは手鬼を撒くことが目的ではない。手鬼を夜明けまで引き付け、藤襲山の下山口へと向かわせないためにやっていることだ。
この鬼が下山する者たちの前に現れれば、戦うしかない。朱雀や芭澄が苦戦した相手である。状況によれば、自分も含めて全滅もあり得た。
走り続けていた。足が、勝手に動いている。空はかなり明るくなっていた。周りもよく見えるようになった。今のところ予定通りだった。
この先で、崖に出る。夜明け直後には霧が沸くので、下は見通せない。
その淵で武仁は立ち止まると、下を軽く見た。思わず足が竦むような高さで、霧は沸いていた。
「鬼ごっこは、これでおしまいだ。さあて、どこから千切ってやろうかなぁ。足か、腕か、いっそ胴体を半分食らって、残った方の中身を吸いだしてやるのもいいな」
手鬼はすぐに、目の前に現れた。どれだけ走り回ろうが、酷い臭いは変わらない。
「今回は鱗滝ところのガキはいなかったが、楽しませてもらった」
「今の俺では、お前に勝てない。だから逃げた。俺の友人は、お前を刺し違えてでも、倒そうとしていた。だが、いずれお前の頸を打つ剣士が、必ず現れる。人間を、甘く見るな」
「へえ。それが最期の言葉でいいのかな?」
「言ったはずだ。俺は、死なない」
身を翻し、武仁は崖から身を投げた。
手鬼が、この崖を飛び降りるかどうか。それは賭けだった。夜明けは近い。全集中の呼吸が使えても、飛び降りれば間違いなく死ぬだろう。
自分は、飛び下りない方に、賭けた。
霧が、敷物のように広がっている。白い色が、目の前いっぱいに迫ってくる。笛。武仁は片手で口に押し当て、吹いた。
高い音が霧の中に吸い込まれると、聞きなれた呼吸音が返ってきた。
「全く、無茶をする男だ」
「本当。見ている方が、おかしくなりそう」
朱雀が霧の中から飛び出してきた。芭澄も続いて現れる。
完璧だった。一刻、藤襲山の中を逃げ回る。最後にこの崖から飛び降りるから、受け止めてくれるよう、頼んだ。これは賭けではなく、ただ信じていた。
生き延びた。そして、勝った。武仁は空中で、伸ばされた2人の手をしっかりと握りしめ、そう思った。
序幕はこれで終わりです。
読んでくださった方々に、感謝します。