オーバーロード~狼(以下略)~その他まとめ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ バハルス帝都・皇宮晩餐の間 /*/
百の燭台が放つ金の灯が、鏡のような大理石の床に映り込む。
バハルス帝国の威信を示す晩餐会の夜、
その中央に置かれた紅のワインと黄金の果実が、異国の香りを放っていた。
「本日の特別献上品、竜王国よりお持ちいただいた〈ドラグ・ルージュ〉と〈赤陽リンゴのコンポート〉――」
魔導国大使ジョンの声が響き、場の視線が一点に集まる。
アウレリア姫が立ち上がった。
漆黒の髪が滝のように肩を滑り落ち、燭光を受けて青紫の艶を返す。
その黒は、夜竜の鱗のように深く、静謐で――
肌の白さを際立たせ、どこか現実離れした美しさを醸していた。
魔導国のメイドたちが仕上げた装いは完璧だった。
淡い銀糸のドレスに、竜の翼を象った髪飾り。
立ち居振る舞いは一つの芸術のようで、貴族たちは思わず息をのむ。
(……失敗は、できない。ここで契約を結ばねば、国は立ち行かない)
(民の畑を守るために、私は笑わなければ――)
緊張を押し殺し、アウレリアは微笑んだ。
その笑みには、覚悟と哀しみが同居していた。
「陛下、そして帝国の皆さま。
このワインと果実は、かつて焼け野原となった竜王国南麓の畑で再び実ったものです。
魔導国のご助力のもと、大地が息を吹き返しました。
どうか、この一口に、再生の味を感じてくださいませ」
給仕たちが動き、グラスと皿が一斉に並ぶ。
赤い液体が注がれ、甘やかな香りが広間を満たした。
ジルクニフ皇帝は静かに杯を傾ける。
その視線は、姫の美貌と自信の裏に潜む緊張を見抜いていた。
「……ふむ。見事な香りだ。
竜王国の民は、かくも誇り高き果実を生み出すか」
彼は軽く笑みを浮かべた。
「陛下のように気高く、美しく、そして強い味わいですな」
その軽口に貴族たちが笑い、場が和む。
リンゴのコンポートが供されると、温かな蜜の香が立ち上り、
白い皿の上で琥珀色の果実がとろりと光る。
「こちらは兵士たちの保存食としても使われています。
長く持ち、栄養もあり、贈り物としても人気で――」
とアウレリアが説明すると、ジョンが軽く補足を入れた。
「帝国の冬季備蓄にも最適でしょう。保存性も味も、魔導国が保証いたします」
ジルクニフは再びスプーンを口に運び、
わずかに瞳を細めた。
「……温かくも芯がある味だ。まるで竜王国そのもののようだな。
よかろう。この取引、帝国は受け入れる。竜王国の復興に、我が国も協力しよう」
アウレリアの胸がわずかに震えた。
握りしめた手の内で、爪が肌を掻く。
(――やった。これで、民を飢えさせずに済む)
安堵の吐息を漏らしながら、彼女は深く頭を下げた。
その瞬間、漆黒の髪がさらりと流れ落ち、燭光を吸い込んだ。
その光景に、帝国の貴族たちは再び息をのむ。
美の背後にある覚悟を知らぬまま、
ただ“夜そのものが微笑んだ”かのように――
誰もが、竜王国の黒髪の姫に魅入られていた。
/*/ 帝都アーウィンタール・皇宮執務室 夜 /*/
晩餐会の喧噪がようやく遠のいた夜。
バハルス帝国皇帝――ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、執務机に残った書類へ手を伸ばすでもなく、静かにワインのグラスを揺らしていた。
金糸のカーテン越しに見える帝都の灯は、戦争の影を引きずるこの国の現実を淡く照らしている。
だが、今宵は少しばかり違った。
――久方ぶりに、興味を引かれる人物を見た。
アウレリア・オーリウクルス。
竜王国の王妹にして、魔導国の庇護を受け、外交特使としてこの帝都を訪れた女。
その名は外交文書の上で何度か見たことがあったが、実際に対面するのは初めてだった。
ジルクニフはグラスを回しながら、薄く笑う。
晩餐の席での彼女の振る舞い――完璧ではなかったが、恐ろしく洗練されていた。
地方貴族の娘のような無知もなく、王族特有の傲慢さもない。
緊張の気配を押し殺し、言葉の一つひとつを丁寧に編み上げる。
その姿は、まるで誰かに“訓練された”かのようだった。
――いや、訓練されたのだろう。魔導国の手によって。
艶やかに波打つ漆黒の髪。
あの深い黒は、夜の闇よりも澄んでいて、光を受けるたびに銀糸のようなきらめきを返す。
瞳は深い紫――まるで葡萄酒を溶かしたような色合いだ。
魔導国のメイドたちが手を尽くし、磨き上げた姿。
それは生身の人間というより、外交の舞台で踊る“宝石”に近い。
「……同じ竜王国の女でも、ずいぶん違うものだ」
独り言のように呟く。
脳裏に浮かぶのは、彼が心底嫌っている名――
ドラウディロン・オーリウクルス。竜王国女王にして、アウレリアの姉。
彼女の幼い外見を思い出した瞬間、ジルクニフは露骨に眉をひそめた。
「若作り婆め……」と小さく吐き捨てる。
あの“子供の姿”はどうにも我慢ならない。
永遠の若さを誇るつもりか、あるいは民を欺くつもりか。
いずれにせよ、自らの老いも本性も隠して、外見を飾り立てる女など、虫唾が走る。
そういう虚飾をまとった存在は、信用に値しない――それが彼の持論だった。
「見た目を偽る女に、誠実な政治など出来はせん」
吐息混じりに呟くと、赤い液体がグラスの内側を伝い落ちた。
それに比べ、アウレリアは――どうだ。
彼女は己の立場を隠さず、弱さを誤魔化さず、ただ現実を受け入れて立っていた。
その姿勢に、ジルクニフは一瞬、好ましさを覚えた。
政治的に飾り立てられた外交官であっても、根底に誇りを持つ女。
そういう人間は、利用価値がある。
「……あれなら、話が通じるかもしれんな」
問題は、その背後にある影だ。
魔導国大使――ジョン。
柔らかな笑みの裏に、何を考えているのか一切見えぬ男。
帝国の諜報員を何人か差し向けても、誰一人、まともに帰ってこなかった。
“魔導国の仮面外交官”と呼ばれる所以である。
アウレリアの言葉の節々にも、ジョンの匂いがあった。
理知的で、計算され、時に挑発的ですらある。
まるで舞台の台詞のように整った語り口。
それでも、彼女自身の本音が見え隠れした瞬間があった。
――国を立て直したい。国民を飢えさせたくない。
その焦燥を、彼は見逃さなかった。
「あの女は、飾りでは終わらぬな」
ジルクニフはグラスを口に運び、赤い液体を舌の上で転がした。
竜王国産のワイン――アウレリアが売り込みに持参したものだ。
豊潤な香り、だがどこか粗い。熟成が浅い。
まるで彼女自身のように、若く、そしてこれから伸びる。
「悪くない。……姉ほど嫌いにはなれそうにないな」
独白は苦笑とともに漏れた。
彼女がどれほど理想を抱いていようと、結局は魔導国の掌の上。
だが、手駒として扱うには惜しいほどの光を持つ。
――ならば、どう使うか。
ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの思考は、静かに回転を始める。
竜王国を完全に魔導国に与えるわけにはいかない。
かといって敵に回すには分が悪い。
ならば、アウレリアを“楔”にする。
魔導国と竜王国の間に、帝国が介在する構図を作るのだ。
グラスを傾ける。
赤い液体が燭光に揺れ、帝国の黒鷲の紋章を血のように染めた。
「アウレリア・オーリウクルス……。外見を誤魔化さぬだけでも、多少は信用してやる。だが――」
唇に笑みを浮かべ、低く囁いた。
「俺が女を信じる時は、すでに手札にしている時だけだ」
窓の外では、帝都の鐘が静かに鳴り響く。
ジルクニフの瞳は赤く光り、その奥で冷たい策謀の焔が静かに燃えていた。
/*/ 帝都アーウィンタール・皇宮執務室 深夜 /*/
帝都の灯がほとんど消え、人々が眠りにつく頃。
皇帝執務室には、まだ微かな蝋燭の光が揺らめいていた。
机の上には、飲みかけのワインと数枚の外交報告書。
その背後に控えていたのは、皇帝の最も信頼する秘書官――ロウネ・ヴァミリネンである。
ロウネは長身の青年で、金糸を混ぜた淡い栗色の髪をきっちりと撫でつけ、無駄な動作ひとつない。
彼の存在は、まるで夜の執務室の一部であるかのように静かだった。
「……アウレリア・オーリウクルス。なかなかの女だ」
ジルクニフは書類をぱらぱらとめくりながら、ワインを傾けた。
「竜王国の再建に魔導国の援助を受けながら、帝国に商談を持ちかける。――したたかだ」
ロウネは軽く眼鏡を押し上げ、落ち着いた声で答える。
「姉君、ドラウディロン陛下が政治の場に直接出られぬ以上、実務を担うのは彼女しかおりません。
竜王国の生存を賭けた行動かと」
「生存、ね」
ジルクニフは短く笑った。
「生き延びるために、魔導国に膝を屈した。……だが、それで終わるような女ではないだろう」
ロウネの瞳が一瞬、わずかに揺れる。
「お気づきでしたか」
「晩餐の間で見たよ。
ワインを注ぐ時の手、言葉を選ぶ時の間、あれは訓練だけではない。
“生きたい”という意志だ。……自分の国をまだ諦めていない女の目だった」
ジルクニフの声は穏やかだが、その奥底には観察者としての鋭さがあった。
「それに比べ、姉のドラウディロンは――あの“若作り婆”ではな。
子供の外見に隠れて、民の現実すら見ようとせん」
「陛下は外見を偽る者を嫌われますから」
「当然だ。虚飾に生きる女が、国を導けるわけがない」
ジルクニフはグラスの底を見つめた。赤い液面に灯の光が沈む。
「……だが、妹の方は違う。アウレリア・オーリウクルス。あれは使える」
ロウネが眉をわずかに上げた。
「使う、と申されますと?」
「竜王国をまるごと魔導国に飲み込ませるわけにはいかん。
だが、力で抗えば我が帝国も潰れる。
ならば、間に“人の顔”を挟む。アウレリアをその楔にするのだ」
「楔……」
「そうだ。魔導国と竜王国の橋渡し役を、帝国が“支援”する形に見せかける。
実際は、彼女を介して魔導国の意図を探り、時に方向をねじ曲げる。
アウレリアのような純粋なタイプほど、導きやすい」
ロウネは小さくため息をついた。
「彼女は、陛下にとって……駒でございますか?」
「駒というより――香りだ」
ジルクニフは唇の端を上げた。
「竜王国のワインのように、まだ若く、渋みが残る。
だが熟せば、帝国にとって甘美な取引の香りとなるだろう」
「……お見事な比喩です」
ロウネは微かに笑い、机上の報告書をめくる。
「では、接触の段取りを整えましょう。
明日、商務局を通じて〈試験的交易協定〉の草案を送らせます」
「そうしろ。だが、あくまで“帝国の厚意”としてだ」
ジルクニフの声は静かだが、刃のような冷たさを帯びていた。
「魔導国の犬と思われるのは御免だ。あの女には、“帝国は対等な友”と思わせろ」
「承知しました」
ロウネが一礼して去ろうとした時、ジルクニフはふと呼び止めた。
「ロウネ」
「はっ」
「……ドラウディロンの妹は、姉ほど嫌いになれそうにない」
そう言って、彼はまたグラスを傾けた。
「だが好感と信頼は違う。女を信じるのは、手札にした後だけだ――忘れるな」
ロウネは黙って一礼し、静かに扉を閉めた。
残された執務室には、蝋燭の灯だけが揺れている。
その炎の中で、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの瞳は、
帝国の未来を計算する冷たい光を宿していた。
/*/ 皇宮・ロウネ執務室 夜 /*/
深夜。皇宮の奥、一般の者が立ち入ることを許されぬ小部屋。
そこに一人、秘書官 ロウネ・ヴァミリネンが腰を下ろしていた。
長机の上には昨夜の晩餐会での報告書、竜王国の交易資料、そして魔導国の動向に関する諜報メモが広がっている。
静かな夜に、ロウネの筆の音だけが響く。
「アウレリア・オーリウクルス……あの女をどう使うかか」
独り言めいた声に、机上の蝋燭の炎が揺れる。
帝国皇帝ジルクニフは既に一手を示した。
あとは、彼女を「楔」として動かし、帝国に有利な外交の流れを作ること。
ロウネは慎重に文書をめくりながら、思考を整理する。
まず、竜王国の経済。ワインとリンゴが特産品であり、魔導国の援助で復興が進んでいる。
次に、魔導国の立場。あくまで竜王国を支配下に置きつつ、交易の利権を掌握しようとしている。
最後に、アウレリア自身の心理。国を思う焦燥と、まだ幼さを残す誠実さ。
――ここだ。
ロウネはペンを持ち直し、地図上に印をつける。
「交易協定の草案に、帝国の“中立支援”条項を挿入……
魔導国の利害を刺激せず、アウレリアに自主性を持たせる。
ワインとリンゴの販売権を、帝国商人が管理できるように手筈を整える……」
さらに、情報網を活用する計画も頭に浮かぶ。
魔導国がどの商人や役人を通じて介入するかを事前に把握し、アウレリアの商談を密かに調整する。
同時に、帝国の外郭諜報班に指示を出し、魔導国の動きを微細に監視させる。
「彼女が成功すれば、帝国は両国の交易に介入する口実を得る。
失敗すれば……魔導国の監視下に置かれるだけだ」
ロウネは静かに唇を結ぶ。
危険はある。だが、政治は常に危険を含む。皇帝のため、そして帝国のために、最大限のリスク管理を施す必要がある。
文書に朱を入れ、条項を修正する指先は迷いがない。
「……次の段取りは、明日の早朝。アウレリアの護衛役と商務官を通じ、草案を送付させる。
必要に応じて、彼女が接触する商人や貴族の情報も提供する」
ロウネは深く息をつき、机に置かれたワインの残りを一口飲む。
夜の静寂の中で、蝋燭の炎が揺れ、部屋の壁に影を落とす。
その影はまるで、帝国の策謀の輪郭そのもののように、静かに、しかし確実に広がっていた。
「……皇帝陛下の意図も、間違いなく反映させねば」
ロウネは再び文書に目を落とす。
アウレリアが歩む一歩一歩が、帝国の未来を決める。
そして、自らの手でその道筋を整える責任を、秘書官として淡々と受け入れていた。
深夜の静寂の中、蝋燭の炎が赤く揺れる。
帝国の影が、密かに竜王国と魔導国の間に延びる。
その中心に、漆黒の髪を揺らすアウレリア・オーリウクルスの未来が、そっと置かれようとしていた。