オーバーロード~狼(以下略)~その他まとめ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/ スレイン法国・訓練場 /*/
白い石畳が朝の光を反射していた。
広大な訓練場の中央、砂を踏み締める音が響く。
ジョンは腕を組み、木剣を構えるイビルアイを眺めていた。
周囲では訓練中の聖騎士たちがちらちらと視線を送ってくる。
吸血鬼――イビルアイはその存在だけで注目を集めてしまうが、
今の彼女は気配を抑え、まるで人間の少女のように見えた。
「そう言えば、ジョン様。」
振り向いたイビルアイが、兜の奥からじろりと睨む。
「貴方、最近やたらと“隊長”と私を絡ませようとしているが……何を企んでいる?」
ジョンはあっさりと肩をすくめた。
「ああ、隊長が“十三英雄”のファンだって言うからさ。」
「……ファン?」
「リグリットに聞いたんだ。お前も十三英雄の一人なんだろ?」
イビルアイの眉がぴくりと動く。
「……あいつめ。余計なことを……」
ジョンは悪戯っぽく笑いながら続けた。
「あとは、隊長も十三、四の少年だろ。
同い年くらいの子と絡ませてやると、嬉しいかなと思ってな。」
一瞬の沈黙。
その後、兜の奥から低く呟くような声が漏れた。
「……私を子ども扱いするな。
これでも二百六十年以上生きている神祖だぞ。」
ジョンは両手を上げて笑う。
「悪い悪い。だがな、人は見た目で判断するもんだ。
隊長から見れば、お前は同世代に見えるんだよ。」
イビルアイはふっと息を吐き、木剣の切っ先を地面に突いた。
「……まったく。貴方という人は、時々本気で腹が立つ。」
「よく言われる。」
ジョンは飄々と笑い、空を見上げた。
雲ひとつない訓練場に、からりとした風が吹き抜ける。
その横顔を見つめながら、イビルアイは小さく呟いた。
「……だが、不思議と嫌いにはなれん。」
「だろ?」
「調子に乗るな。」
ジョンの笑い声と、イビルアイのため息が交錯し、
訓練場には少しだけ柔らかな空気が流れた。
/*/ スレイン法国・訓練場 午後 /*/
午後の陽光が石畳を焼き、空気が少し揺らめいていた。
ジョンとイビルアイは訓練を終え、汗を拭きながら休憩中。
周囲の聖騎士たちは距離を取りつつも、ちらちらと二人の様子を見ている。
理由は単純――イビルアイが珍しく、仮面を外していたからだ。
赤色の瞳がきらりと光り、彼女は何気ない口調で尋ねた。
「ところで、あの隊長――外見は青年だが、あれは魔法の品か?」
ジョンはカップの水を飲み干し、無造作に答える。
「外見を変えるアイテムを使ってるらしいな。
本来はもっと若いんだが、隊長なのに子どもの姿だと色々あるんだろ。」
「ふーん……」
イビルアイは顎に手を当て、じっと隊長の方を見やる。
――若き天才戦士。整った顔立ち。少し硬い表情。
彼女の視線に気づいた隊長が、眉をひそめる。
「……なんですか、イビルアイさん?」
「おい、隊長。ちょっとそのアイテム、貸せ。」
「は?」
「いいから。ほら。」
隊長は困惑したように肩をすくめた。
「これ、本来は貸し出し禁止なんですけどね……。
――絶対に、変なことに使わないでくださいよ?」
「ふふん、分かっている。」
イビルアイは受け取った指輪をじっと見つめ、
口元を歪めて、妖しく笑った。
(これを使えば……私も、ルプスレギナのようなスタイルの美女に……!
ふふふ、完璧な変身だ。これでジョン様の視線を――)
意気揚々と指輪をはめる。
瞬間、金色の魔光が彼女を包み込んだ。
風が巻き、布がはためき、周囲の兵士たちが思わず目を覆う。
そして――光が消えた。
そこに立っていたのは、確かにイビルアイ。
しかし――
スレンダーな金髪美女の姿。
腰のくびれこそ美しいが、ルプスレギナどころか、
さらに線が細く、華奢すぎるほどの体つきだった。
ジョンが盛大に噴き出した。
「ぶはっ……! あっははは! な、なんだその繊細美人っぷり!」
隊長も目を丸くして言葉を失う。
イビルアイは自分の腕を見下ろし、
次いで胸元をちらりと確認し――硬直した。
「……な、なんでだぁぁぁぁーーー!!!」
訓練場中に響く悲鳴。
隊員たちがざわつき、空を飛ぶ鳥まで逃げ出す。
ジョンは涙を拭きながら、肩を震わせた。
「はっはっはっ! いや、似合ってるよ! どっちかっていうと高貴な美人系だな!」
「黙れぇぇぇぇ!!」
イビルアイの杖が地を叩き、砂塵が舞う。
その後、指輪はすぐに返却された――が、
それ以来、スレイン法国の訓練場では一つの逸話が語られるようになった。
『金髪の細身美人が突如現れ、絶叫しながら消えた午後』――
後に“イビルアイの黒歴史”と呼ばれる事件である。
/*/ スレイン法国・訓練場 午後 /*/
夕陽が差し込み、石畳の上で風が金色の砂塵を舞い上げていた。
イビルアイは項垂れたまま、砂の上にしゃがみ込んでいる。
その足元には、さっきまで彼女が嵌めていた外見変化の指輪。
スレンダー美女に変化した直後の絶叫は、まだ周囲の訓練兵たちの耳に残っていた。
ジョンは口元を押さえながら、笑いを堪えて近づく。
「……あー、悪い悪い。いや、マジで似合ってたって。芸術的な意味で。」
「うるさい。」
イビルアイは砂をすくって投げつけた。
小石がジョンの足元にぱらぱらと落ちる。
「私はもっとこう……ルプスレギナのような、ああいう……!」
「グラマラスな感じか?」
「そうだ!」
ジョンは肩をすくめ、指輪を拾い上げて光にかざした。
「なるほどな。こいつは“現在の姿を基に、大人の姿を計算して投影する”タイプの魔導具だ。
だから、元の体格が細身なら、投影後も細身になる。
構造的にそういう仕様なんだろう。」
イビルアイは仮面を小突きながら低く唸った。
「つまり、私のこの華奢な身体が原因か……」
「まあ、泣くな。」
ジョンは笑いながら片手を上げた。
「代わりに良いもん教えてやる。第四位階魔法に
自分の姿を自由に変えられる魔法だ。俺もよく使う。」
「……自分で使えるのか?」
「ああ。戦闘時に変身したり、潜入任務で姿を偽装したりな。
たとえば……こうだ。」
ジョンの体が淡く光に包まれ、
次の瞬間、彼はすらりとした女性の姿に変わっていた。
長い黒髪、艶やかな唇、冷たい美貌。
その変化を見て、周囲の訓練兵たちがざわつく。
「ほら、どうだ?」
ジョンは軽く髪をかき上げ、妙に艶っぽい声で言った。
「これが“本物のポリモルフ”だ。」
イビルアイは沈黙。
しばらく彼を凝視したまま、やがて呟いた。
「……似合ってるのが腹立つ。」
「ははっ、ありがと。」
光がほどけ、ジョンは元の姿に戻った。
「お前も習得すればいい。自分の理想を形にできるぞ。
……まあ、使いすぎると“どっちが本当の自分か”分からなくなるけどな。」
イビルアイは少し考え込んでから、ゆっくりと立ち上がった。
「……教えてくれ。私も使えるようにしたい。」
ジョンは笑って頷いた。
「よし、じゃあ明日から特訓だ。
“理想の美女になるための魔法講座”――だな。」
「そのタイトルで呼ぶなぁ!」
訓練場に再び笑いが響き、
夕陽の中で二人の影が長く伸びていった。
/*/ スレイン法国・訓練場 夕刻 /*/
訓練場の片隅に、何やら神妙な気配が漂っていた。
砂の上に魔法陣が刻まれ、その中心でイビルアイが両手を胸の前に組み、
静かに詠唱を始めている。
「――第四位階魔法、
淡い光が彼女の身体を包み、形がゆっくりと変わっていく。
肩のライン、腰の曲線、髪の色、肌の質感――
光が収まった時、そこに立っていたのは――
「……おぉ……?」
ジョンは目を丸くした。
そこには、金髪に紅い瞳を宿した長身の美女。
露出を抑えた漆黒のドレスが完璧に体のラインを強調している。
まさに“理想像”と言っていいほどの完成度。
イビルアイは満足そうに鏡を覗き込み、
自らの髪を指で弄びながら小さく呟いた。
「ふふ……ようやく……出来た……!」
「やるじゃねぇか。」
ジョンが笑いながら手を叩く。
「金髪赤眼、しかもグラマラス系。完全に“十三英雄モード”だな。」
「最初は難しかったんだぞ。」
イビルアイは腰に手を当てて胸を張る。
「最初の頃は、腕が伸びすぎたり、脚がやたら長くなったり……
それに、顔が……どうしても似合わなかった。」
ジョンは吹き出した。
「そりゃ、あのときの“スレンダー美人”バージョンから考えりゃ上出来だ。
魔力の流れが安定すりゃ、理想の姿も自在だろ。」
「ふふ、見ろ。」
イビルアイが指先を鳴らすと、再び光が走り、
髪が少し短くなり、瞳が琥珀色に変化する。
もう一度鳴らすと、今度は褐色の肌に変わり、
さらに次は、妖艶な微笑を湛えた吸血姫のような姿に。
「すげぇな。ファッションショーかよ。」
「練習中だ。理想の“わたし”を模索している。」
イビルアイはそう言いながら、ゆるりと髪をかき上げた。
「人は見た目で判断すると言ったのはお前だろう?
ならば、理想の見た目を持つ者こそ、他者を制す。」
「おう、理屈は立派だが、なんか怖ぇな。」
イビルアイはにやりと笑う。
「ジョン様、教えてくれて感謝している。
この魔法、思っていたよりも……気分がいいな。」
「だろ? 自分の理想を形にできるってのは、強いんだよ。」
ジョンは腕を組み、目を細めた。
「ただし、やりすぎると戻りたくなくなる。
“仮初の理想”に飲まれる奴もいるからな。」
「ふふ、心配無用。」
イビルアイは赤い瞳を細め、妖艶に微笑んだ。
「私は、理想も現実も自分の一部として受け入れる。
この姿も、あの姿も、すべて“私”だ。」
「そうか……」
ジョンは苦笑しながら頷く。
「じゃあまあ、せいぜいその“理想の私”で隊長に会ってやれよ。」
その言葉に、イビルアイの頬がわずかに赤くなる。
「……別に、そういう意図でやっているわけではない。」
「はいはい。」
ジョンの軽口を無視して、イビルアイは再び詠唱した。
金髪が光を受けて煌めき、紅い瞳が強く燃える。
その姿はもはや、十三英雄の伝説に名を刻んだ吸血姫そのものだった。
――理想の“自分”を纏いながら、彼女は微かに笑う。
その笑みには、かつて人間であった頃の誇りと、
今を生きる力強さが、確かに宿っていた。
/*/ スレイン法国・訓練場 夕暮れ /*/
夕陽が訓練場の石畳を橙に染めていた。
風が吹くたび、砂が舞い上がり、遠くで鐘の音が響く。
その中で、イビルアイは静かに立っていた。
長い金髪が光を受けて揺れ、紅の瞳が夕陽を映して燃える。
見慣れた吸血鬼の小柄な姿ではない。
――自己変身魔法で創り上げた、彼女の“理想の姿”だった。
「隊長。」
その声は、いつもより落ち着いていて、少しだけ大人びていた。
呼ばれた少年は小走りにやってきて、ふと足を止める。
「……え?」
その場の空気が変わる。
夕陽の逆光の中、イビルアイの髪が金の滝のように揺れた。
長い睫毛の影が頬に落ち、微笑む唇は、
どこか妖しく、それでいて優しげだった。
隊長は一瞬、何が起きたのか分からず、
まるで時が止まったように見惚れていた。
「ど、どうしたんですか、その姿……」
イビルアイは少しだけ口角を上げた。
「自己変身魔法。《ポリモルフ・セルフ》。
……どう、似合う?」
「……っ!」
言葉が喉で止まった。
彼女の姿はまさしく伝説の“十三英雄”そのもの。
けれど、目の前にいるのはあの吸血鬼――
普段は気丈で、皮肉屋で、滅多に笑わないイビルアイだ。
それが今、柔らかく微笑んでいる。
その光景に、少年の頬は真っ赤に染まった。
「そ、そんなに見ないでくれ。」
イビルアイが少し視線を逸らした。
だが、隊長の目は離れない。
頬を掻きながら、しどろもどろに言葉を探している。
「……き、綺麗です。すごく。」
その一言に、イビルアイの心臓が跳ねた。
胸の奥で、忘れていた何かがきゅっと締め付けられる。
自分が何をしているのか、ようやく気づいた。
(私は……この姿で、彼に見てほしかったのか……?)
その事実に気づいた瞬間、イビルアイの顔まで真っ赤になった。
紅い瞳が泳ぎ、唇が震える。
「ば、ばか! な、何を言ってる! ただの実験だ!」
「えっ!? い、いや、その……そのつもりで言ったわけじゃ……!」
隊長も慌てふためき、耳まで真っ赤になる。
二人の視線が交錯し、すぐに逸れる。
言葉を交わすたび、距離が近づき、また離れる。
そのたびに、胸の鼓動が速くなる。
石畳に、二人の影が長く伸びた。
風が吹き抜け、金の髪が少年の頬をかすめる。
その瞬間、互いに息を呑んだ。
夕陽が沈む頃――
イビルアイは静かに魔法を解き、元の姿に戻った。
紅い瞳だけが、まだほんのりと揺らめいていた。
「……見なかったことにしろ。」
「……はい。」
それでも、二人の耳の先は、いつまでも赤いままだった。
――スレイン法国の訓練場。
吸血姫と少年隊長の初々しい一幕は、
その日の夕陽とともに、誰にも知られず静かに染み込んでいった。
/*/ エ・ランテル・黄金の輝き亭 二階 蒼の薔薇の私室 /*/
陽が傾き、窓から柔らかな光が差し込む。
蒼の薔薇のメンバーが集まる部屋に、扉が静かに開いた。
「ただいま戻った。」
その声に、皆が振り返る。
だが――そこに立っていた人物を見て、全員が一瞬、固まった。
金髪が陽光を受けて揺れ、紅の瞳が鮮やかに輝く。
黒を基調とした上品なドレスに、長いマント。
姿勢は堂々とし、歩みはしなやか。
まるで貴族の令嬢か、あるいは伝説の英雄のようだった。
最初に声を上げたのは、ガガーランだった。
「……誰だお前!? って、声はイビルアイか!? はぁ!? どしたその姿ぁ!!?」
ティナがぱちぱちと瞬きをし、ティアが小声で「幻覚魔法?」と呟く。
ラキュースは微笑を浮かべながら立ち上がった。
「イビルアイ……まさか、あなたが自己変身魔法を?」
「ふふふ、驚いたか?」
イビルアイは紅い瞳をきらりと光らせ、優雅に髪をかき上げる。
「
「ほう……理想ねぇ。」
ガガーランがにやりと笑う。
「たしかに、こりゃ見違えたな。普通に美人じゃねぇか!」
ティナも頬杖をついて頷く。
「うんうん、艶っぽいし、なんか雰囲気ある。
ねえ、ティア、これで街歩いたら間違いなくナンパされるよね?」
「……される。」
ティアがこくりと頷く。
イビルアイは、鼻を鳴らして満足げに腕を組んだ。
「そうだろう、そうだろう。いやぁ、この“優雅さ”と“知性美”がだな――」
ラキュースがそこでふっと笑みを深め、わざとらしく首を傾げた。
「ねえ、イビルアイ。」
「ん?」
「恋でもしたの?」
「ぶふぉっ!?」
盛大にむせた。
まるで噴水のように紅茶を吹き出しかけ、慌てて口を押さえるイビルアイ。
耳まで真っ赤になり、紅の瞳が泳ぐ。
「な、なな、なにを言っている!? そんなわけが――」
「おやおや~?」
ガガーランが肘でラキュースを突きながらにやにやする。
「顔真っ赤だぞ? あの冷血の吸血姫がよぉ、恋ぃ? 恋かぁ~?」
「……ふふふ。」
ティナとティアが声を揃えて小さく笑う。
「イビルアイが……恋……。」
「ば、ばかを言うなっ!」
イビルアイは慌てて振り返り、手をばたつかせる。
「これは訓練の一環だ! 変身魔法の習熟度を――」
「で、どんな相手なんだい?」
ラキュースが穏やかに微笑む。
「年上? 年下? まさか……少年?」
「ぐふっ!!」
再びむせた。今度は咳き込みながらテーブルに突っ伏す。
ガガーランは笑いすぎて椅子から転げ落ち、ティナとティアも肩を震わせて笑いを堪えている。
「やめろぉぉぉぉ!!!」
「はーっはっはっは! イビルアイ、最高だなお前!」
ガガーランが涙を拭きながら言う。
「その姿で真っ赤になるなよ、色気とギャップで胃が痛ぇ!」
イビルアイは真っ赤な顔で机をどんっと叩き、
「うるさいッ!!!」と叫んだ。
その声は黄金の輝き亭の二階中に響き渡り、
一階の店員が「また蒼の薔薇が騒いでる」と苦笑するほどだった。
――けれど。
笑いの渦の中、ラキュースだけがそっと微笑む。
普段は冷たく孤高な吸血姫が、
“誰かを意識して顔を赤らめた”ということが、
少しだけ、嬉しかったのだ。
その日、黄金の輝き亭は久しぶりに
蒼の薔薇の笑い声で賑やかに包まれた。
/*/ スレイン法国・漆黒聖典 訓練棟控室 /*/
昼下がりの訓練を終え、控室に微妙な沈黙が流れていた。
机の上には磨き込まれた剣、壁には整然と並んだ鎧。
その整然とした空気の中心――隊長が、珍しくため息をついていた。
「……はぁ。」
その一息に、周囲の空気がぴんと張る。
漆黒聖典の面々が、同時に顔を見合わせた。
「隊長が……ため息を?」
クアイエッセが首を傾げる。
その長い黒髪がさらりと揺れた。
「いつもはどんな任務の後でも眉一つ動かさないお方が……」
「疲労か?」
重装のエドガールが腕を組み、真面目に呟く。
「それとも、敵国の動きに懸念が――」
「違うわね。」
柔らかな声がその思考を断ち切った。
声の主は、窓辺でカードを並べていた占星千里。
漆黒聖典の中では異質な存在――異国風の少女で、
今日もなぜかスレインでは見慣れない“制服風の服”を着ている。
「私の占いによると――あれは“恋”よ。」
一瞬、沈黙。
「……こ、恋!?」
エドガールが立ち上がり、机を揺らした。
「た、隊長が!? 我らが冷静沈着なる指揮官が!? いったい誰と!?」
セドランが目を輝かせ、両手を叩いた。
「おお、目出度い! この日が来るとは!
すぐに相手を突き止めねば! どこの令嬢か、あるいは神殿関係の――」
「やめてあげなさいよ。」
占星千里はカードを指でなぞり、微笑んだ。
「こういうのは、そっと見守るものなの。」
「しかし……!」
「駄目です。」
きっぱりとした口調に、場がぴたりと静まる。
占星千里は机の上のカードを一枚裏返した。
描かれているのは“太陽”の象徴――光と新たな始まり。
「ねぇ、見えるでしょ? あの表情。」
窓の外――訓練場の片隅で、隊長が空を見上げていた。
ほんのわずかに、口元が緩んでいる。
「最近、微笑むようになったの。
たぶん、あの笑みは……“思い出している”のよ。」
「誰を……?」
クアイエッセがそっと問う。
占星千里は目を閉じて微笑んだ。
「さぁね。でも、いい顔をしてるわ。
あれは、“誰かに見せたい自分”を思い出してる顔。」
その言葉に、全員が言葉を失う。
重苦しい軍務の空気の中で、
誰もが、久しく見たことのない穏やかな表情だった。
セドランがぽつりと呟く。
「……恋、か。」
エドガールはため息をつき、
「敵国の刺客より厄介だな」と苦笑した。
その隣で、クアイエッセが微かに笑う。
「……でも、悪くないですね。」
夕陽が差し込み、隊長の影が伸びる。
その眼差しの先には、遠く離れた誰かの姿があった。
漆黒聖典の仲間たちは、誰もその名を口にしなかった。
けれど心のどこかで、同じ言葉を思っていた。
――願わくば、その恋が報われますように。