オーバーロード~狼(以下略)~その他まとめ 作:ぶーく・ぶくぶく
/*/魔導国、カルネ=ダーシュ街道沿い/*/
ある日を境に、冒険者や商人の間で奇妙な噂が広まった。
曰く――
「森の中を白と緑の衣をまとった少女が、歌いながら風より速く駆け抜けた」
「空を飛ぶ竜便の影を追いかけて、丘を越えていった」
「夜明け前、狼のような獣と並んで走り抜けていった」
「野盗が追いかけたが、見失った。むしろ彼女のほうが野盗を追い抜いていった」
──その名を知る者は少ない。
だが、皆が口をそろえてこう言う。
「まるで“風の精霊”そのものだった」と。
彼女の衣装は一度見たら忘れられない。
白と緑を基調に、滑らかな光沢を放つ“デカダン・スタイル”の戦闘舞踏服。
上流貴族の舞踏会でも見劣りしない華やかさを持ちながら、冒険者用の防具を凌ぐ防御と柔軟性を備える――そんな矛盾を纏った服。
足元は、魔導国製の《自己再生ソール》搭載のランニングブーツ。
どんな岩場でも、泥の上でも沈まず、摩耗すれば即座に形を戻す。
まさに“走るための装備”だ。
そして、彼女――ネム・エモットの走りは、まさしく伝説になりつつあった。
冒険者たちの報告書には、こう書かれている。
「あの子は風の精霊に愛されている」
「歌声を追っていたら、気づけば十キロ離れていた」
「一瞬、足が光った。あれは〈気功加速〉か、あるいは何か別の……」
リ・エスティーゼ王国南部では、彼女を“森を駆ける歌姫”。
バハルス帝国では“緑の閃光”。
そして、魔導国では――“陛下の庭に咲いた風の花”と呼ばれていた。
もっとも、当の本人はそんな呼び名を知らず、今日も歌を口ずさみながら野を駆ける。
時に狼の眷属と、時に風脈飛空艇の影を追いながら。
走る理由を問われても、彼女はただ笑って答えるだけだ。
「だって、楽しいから!」
その声は、どこまでも澄んでいた。
ネム・エモットの足跡は、まだ止まらない。
エ・ランテルを中心に、半径二百キロの地平を、まるで新しい季節の訪れのように駆け抜けていく――。
/*/ナザリック地下大墳墓 第9階層・モモンガの執務室/*/
朝の報告を終えたあと、いつもなら静まり返るはずの執務室に、珍しくため息が響いた。
「……また、ネムちゃんの目撃情報が増えているようですね」
モモンガは報告書を閉じ、骸骨の額に手を当てる。
その横で、ジョンが肩を竦めた。
「そりゃあ目立つだろ。白と緑のデカダン舞踏服で、歌いながら馬より速く走ってんだから。噂にならない方がおかしい」
「ですが……人間ですからね。あの子、どこまで行ってしまうのか分からない。野盗や魔獣に遭遇したらどうするんです」
「大丈夫だって。あいつ、走るのに夢中で野盗の方が逃げるぞ」
「はぁ……」
モモンガは深くため息を吐くと、静かに手を組んだ。
「……ハンゾウを一人、つけましょう」
ジョンは思わず顔を上げた。
「……おいおい、ハンゾウってお前、レベル八十だろ!? 流石にやりすぎだって」
「ですが、ジョンさん。ネムちゃんはせいぜいレベル十台です。イビルアイのように七十近くあるわけでもありません。
人間の身であれだけの速度を出せるなら、いずれ何か“見つかる”可能性がある」
「いや、それは分かるけどさ。八十レベルの暗殺忍者が付き添うの、バランスおかしいって!」
ジョンが苦笑いする横で、ぐりもあが資料を整えながら呟く。
「……確かに、ネムさんが急に振り向いたら、ハンゾウがびっくりして消えそうですね」
モモンガは少し考え、頷いた。
「では……こうしましょう。ハンゾウの代わりに、空からバイアクヘーを護衛につけます。上空監視なら直接干渉はしません」
「バイアクヘーか。あれなら目立たねぇな」
「それと、シャドウ・デーモンを一体。影の中に潜ませて、常にネムちゃんの周囲十メートル以内に配置しておく。
これなら直接護衛ではなく、“見守り”の形になります」
ジョンはしばらく考え、やがて苦笑した。
「……まぁ、それならいいか。空と影の二重護衛って、ちょっと過保護だけど」
「過保護でいいんです。――あの子は、まだ人間ですから」
静かな声だった。
モモンガの黒衣の袖口が、わずかに震える。
ジョンはその仕草を見て、からかうように言った。
「……完全に“お父さん”だな」
「なっ……!? そ、そんなつもりでは!」
「あるだろ。心配性の親そのものだよ。走り回る娘の安全確認で、空から怪物つけて影から悪魔差し向けるとか」
「……ぅぐ……」
モモンガは言葉に詰まり、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
ジョンはにやにやしながら、湯気の立つ珈琲を差し出した。
「ま、いいんじゃねぇの。ネムも悪い気はしねぇさ。どっかで転んでも、誰かが影から手ぇ貸してくれる。それだけで人は強くなる」
「……そうですね」
モモンガは珈琲を受け取り、ゆっくりと頷いた。
「せめて、あの子が笑って走れるようにしておきましょう。――魔導国の“希望”の象徴ですからね」
その言葉に、ジョンは穏やかに笑った。
「了解。じゃあ、空の護衛は俺が調整しとく。バイアクヘーの視野角広げて、風脈データと同期させとくわ」
「お願いします。……まったく、父親業も楽ではないですね」
「親バカ業だろ?」
「ぐぅ……!」
執務室に、穏やかな笑い声がこだました。
その夜、ネム・エモットの上空を、一体の青白い影が静かに滑空していた。
そして地面には、影のように黒く、静かな護衛――シャドウ・デーモンが寄り添っていた。
彼女が風と歌に笑う限り、その二つの影は決して離れなかった。