「ひっ…!」
小さな悲鳴を上げて十輪寺は飛び起きた。テントは女である十輪寺に配慮して1人用のため、その悲鳴を聞き取ったものはいない。彼女は慌てて外していた腕時計に手をかけて時刻を確認する。2:24。いつも夢を見る時刻帯だ。肩で軽く息をしながら時計を握り締める。
どうするべきか。十輪寺の頭の中はそれで埋め尽くされていた。これは独りで抱えていい案件ではない、すぐにでも報告すべきだろう。握り締めていた手をそっと開く。白くなった手に血色が戻っていく。それを確認してしばしののち、十輪寺は寝袋から身を引きずるように這い出てテントのドアに手をかけた。
エンヤ婆を交えての旅路だったため、一行は今夜見張りを1人立てて交代制にしていた。テントから十輪寺が出ると、焚火に当たる承太郎が寝ずの番でそこにいた。胡乱げに承太郎は彼女を見やる。
「交代にはまだちと早いぜ。」
「……」
十輪寺は彼を見、その対角に寝かされたエンヤを見、そろりそろりと承太郎の隣に向かう。その間エンヤから視線を外すことができなかった。その様子を承太郎は訝しむが、聡い彼はすぐに気が付いた。
「…何を見た?」
淡々と彼は訊くがその表情はわずかに曇っている。十輪寺は声を小さく、絞り出すようにしてとつとつと語りだした。
「あのお婆さんが、次の刺客に殺されます。肉の芽を埋め込まれて…」
「肉の芽?…妙だな。あの婆さんには植わってないぜ。」
「よくわかりませんが、もしかしたら体内に埋め込まれてるのかも…。でもそれだと波紋を流した時に対処できてるはず…」
十輪寺の言葉に承太郎はいよいよ眉をゆがめて答える。
「敵は後から肉の芽を持ってきて植えられるってことだろうな。…他に分かったことは?」
「場所はおそらくカラチ。時刻は太陽が上に昇っている頃だから昼前でしょう。私たちは馬車で移動している。お婆さんの発言からして情報は得られなかった。…次の刺客ははねっ毛で黒髪の男、顔を見れば一発で分かります。」
「…詳細だな。」
「慣れてるので。」
十輪寺はその時になってやっとエンヤから目を離し承太郎に弱弱しく笑いかけた。それに不満そうな顔を返しながら承太郎は答える。
「…全員の意見をまとめる必要があるな。だが時間的に起こすには早すぎる。テメーも休んどけ。見張りは慎重にやっておく。」
有無を言わさぬその発言を聞いて、静かに返事をして彼女はテントに戻った。
眠気が再び襲ってくることはなかった。
***
「……拙いことになったな。」
早朝、焚火の跡を前に囲んで一堂は会した。話を聞いたジョセフは顎に手を当て考え込む。十輪寺の予知夢では、街に入った後情報を得る間もなく刺客にエンヤを殺される。敵対し、こちらを憎悪している相手とはいえ生かして捕らえた以上斯様な最期をとげさせる訳にもいかない。だが、情報を得るためにはカラチに出てテレビを入手し動かさなければならない。万が一のために小型発電機はモビー・ディックに積載している。だがテレビは考えてもみなかった。発電量で念写をあがなえるだけの時間を稼げるかも未知数だ。
「俺は街の中に入らなければいいと思うね。ユイがテレビ買って街の外まで運んでくれればいい。そうすれば婆さんと刺客が鉢合うこともない。」
ポルナレフがいつになく真剣な顔をして件の老婆に目をやりながら言った。一番憎まれている彼として思うところはあるのだろうが、彼は善の人だ。エンヤを死なせるのは嫌なのだろう。
「確かにそれが最善な気もするが…どのみちこのままこの老婆を抱えたままというわけにもいかない。どこかで見切りをつける必要が出ます。」
冷徹に切り返すのは花京院。老婆のほうに視線はやるがポルナレフに比べて情はない。同じ、と前置きして承太郎も続く。
「この婆さんはおそらく『知りすぎてる』んだろうぜ。それに想定が正しいなら敵は何らかの方法で肉の芽を植えられる。波紋があるとはいえそもそも街に入るのすら避けたほうがいい。」
「…ならば…この老婆を説得する、というのも視野に入れるか。」
ジョセフが言うのに十輪寺が待ったをかけた。
「この人はいまわの際でもDIOを信じ切っていました。話す気がさらさらないといったように。だから、それは危険かもしれません。」
それに、と十輪寺はうつむいて言った。
「…散々予知を変えてきた私が言うのはおかしいですが、予知と乖離した場合どうなるのかが予想付かないんです。敵と別のところで鉢合わせしたらこちらに危険が及ぶ可能性も。」
その言葉に全員一瞬沈黙する。それに対し、だが……と続けたのはジョセフだった。
「花京院の言った通りじゃ…いずれ、この婆さんを解放する必要がある。しかしスタンドの性質から言って財団に預けるのもなかなかにまずい。一般人が対処できるラインを超えとる。」
彼は再び手を顔にやって真剣に悩みだした。
「かといってこのまま見殺しにするのはいかん。…十輪寺、君は波紋による暗示は使えるか?」
「…持って1時間、それも表層的なものです。根底に信仰心や復讐心があるのであれば、どうにかできるものではないかと…」
「では、その1時間で決着をつけて情報を引き出すというのは?先手を打たれる前に情報を得てしまえばこの老婆が殺される可能性も低くなるはず。だって敵の目的は情報漏洩を防ぐことなのですから。」
花京院の言葉にポルナレフがそうだ、と加勢する。
「ジョースターさんも波紋が使えるんだろ?こう、2人で相乗効果的に何とかできねぇのかな…。ユイの力を底上げする感じで。」
「ううむ…わし自身は人間相手に経験ないんじゃよね…だが呼吸を合わせれば何とかなるか…?」
十輪寺とジョセフが顔を見合わせた。十輪寺は「ジョースターさんに従います」という。この場で最も年長で意見をまとめることに長けているのは紛れもなく彼だ。皆もジョセフの決定を待つ。
ジョセフが下した判断は、賭けに出るほうだった。
「今、これから婆さんを説得する。波紋で精神安定をさせながら、な。それで駄目なら即気絶させて念写にしよう。…街に入るのは十輪寺とわし。婆さんは街の外に置いていく。…これでいいかな?」
***
「では、ジョースターさん。呼吸は私に合わせてください。」
十輪寺の言葉に過去の友を一瞬思い浮かべつつ、ジョセフはそれを表には出さずにうなずいた。あの時も人命がかかっていた。…波紋を使うときは、いつもそうだった。
呼吸を整えていく。2人が集中しているのを他の3人は固唾をのんで見守った。十輪寺がうなずいて老婆に手を伸ばすのと同時にジョセフも老婆に触れた。ぱちぱちと僅かな閃光がほとばしった。そののち。
エンヤがゆっくりと目を覚ます。ぼんやりとした目つき。殺気は感じない。ポルナレフと花京院を目に映してもそれは変わらない。
成功か、とジョセフを十輪寺に目をやるが彼女は老婆をじっと見据えて集中している。何が何でも抑え込む気でいるのだろう、その緑の目はどこまでも真剣だ。
彼女は呼吸を乱さない。そう判断して、ジョセフが質問を切り出した。
「…単刀直入に言うぞ、婆さん。DIOのスタンドの正体を教えてほしい。さもなくば、あんたは刺客に殺される。」
エンヤは沈黙する。その目が、順々に一行を捉えていき……ややあって光を取り戻した後、くっくっくと笑い出した。
「…このエンヤが憎きジョースターにそれを明かすと思うてか?ん?」
老婆は歯を剥き出して不気味に笑った。
「わしとDIO様は、信頼しあっておる。…DIO様がこのわしを殺す?そんなこと、あるはずがない。」
静かに、だが確信しているように老婆は言葉を吐いた。霧の街では全く見せなかった聡明さと老獪さが垣間見える。――波紋が効いているのだ。これがおそらくこの老婆の冷静な時の態度なのであろう。
「そもそもどこのどいつが殺しに来るというのじゃ?それを何故貴様らが確信し、こうしてまじないごとを介してまで尋問してるというのだね?ええ?」
余裕綽々。そのうえ逆にこちらの意図を読み透かそうとまでしている。思わずポルナレフが前に出た。
「ごたごた言ってんじゃねーよ婆さ…」
「ポルナレフ。僕たちでは刺激することになる、下がるんだ。」
エンヤの愛息子を殺した自分たちでは分が悪い。そう説き伏せて花京院はポルナレフを下がらせた。老婆はその様子になおも笑い続ける。
「図星かえ?…なるほど、アヴドゥル並みのまじない師がまだいるらしいの。じゃがその占いは外れるぞえ。DIO様がそんなことをする筈がないのじゃからな。」
かっかっかと声を上げてエンヤは空を見上げた。
「あ~可笑しいわい!目を覚ましてみれば何事か!ジョースターがこうべも垂れず情報をわしにねだってくるとは!落ちたもんじゃのう!」
「…安い挑発には乗らんぞ、婆さん。本当にあんたの命が危ないから言ってるのじゃ。このままでは本当に殺される。情報さえ吐いてくれれば安全なところに逃がそう。」
ジョセフが老婆の顔をのぞき込みながら言うのに、老婆はぎょろりと目を合わせて切り返してきた。
「…わしの思考を乱そうとしているのはお前じゃないな?ジョセフ・ジョースター?」
はっとジョセフが息をのんで十輪寺を見やると、彼女は額に冷や汗を浮かべていた。――彼女は、秘密裏にエンヤをさらに深い暗示にかけようとしていたのだ。エンヤも視線を十輪寺に移す。
「成程、成程…小娘、まじない師はお前かえ。それもただの占いの類ではないと見た。DIO様の為を思って波紋については一通り調べておる。天性の才を持った預言者だな?なれば斯様な結論に至ったのがよおくわかったよ。」
――その言葉は、預言の肯定。だが、老婆は余裕を崩さずにやりと笑ったのだ。
「せいぜい足搔くといい。これから仲間が次々と死んでいく予知に苦しみながらも、どうにもできない自分自身になァ。」
「ジョースターさん、これまでです。情報は取れません。」
十輪寺が唇をかみながら早口に告げた。だがジョセフは諦めなかった。
「このままだと殺されるんじゃぞ!?婆さん!!」
「DIO様は見ておられる。ここまでされて情報を吐かないわしを見ておられる!未来を変えるというのならもっと慎重に事を運ぶべきだったなぁ!!」
高笑いしだす老婆に皆が底知れぬ畏怖を感じかけた瞬間だった。
「だがな、婆さん。あんた、失敗したんだぜ。」
承太郎がポツリと漏らした言葉にエンヤはピタリ、と高笑いをやめた。
「…埒が明かねぇ。やはりハーミットパープルで…」
承太郎が続けようとした時、老婆も今までの老獪さが嘘のように一言をこぼした。
「そうか…わしは、失敗したんじゃもんなぁ…」
皆が老婆に視線を戻した。もしかしたらという期待もあったのかもしれない。だが、その期待は、いともたやすく打ち砕かれた。
「『
ずおと姿を現した霧の髑髏は、実体が無い筈なのにあろうことかジョセフと十輪寺を殴りつけて吹っ飛ばしたのだ。
「がっ…!?」
「何ィ!?」
そして正義はその手で老婆の首をむんずと掴み上げてそのまま宙に向かっていく。老婆の足が見る見る間に地から離れ、上空に浮く。
「クソッ!?逃げる気か!?」
花京院が法皇を伸ばそうとした刹那、あたりにエンヤの声がこだました。
「DIO様ァァァ!!わしはあなた様を信じておりまする!!見ておられますな!!どうか、このエンヤの最期をお許しくだされェェェ!!!」
正義が、老婆の首を、へし折った。
ぼきりとあっけない音が聞こえたとともに天高く居た老婆の体がどさりと落ちてきた。
あまりにも軽い音だった。
『そんな…そんな!!』
狂乱を起こしかける少女の姿を、水晶玉を、ジョセフの視点を介しながら眺めるものが1人。その部屋にはすえた臭いが充満している。地球儀がパキスタンを示して止まり、地図にはチェスのコマ。声はラジオから漏れている。机に散らばったタロットのⅧが不自然に滑り絨毯に落ちた。
「…実に面白い。最期によい働きをしてくれたな、エンヤよ。」
男は立ち上がって書斎を出ていく。明かりもない部屋に再び沈黙が訪れた。