――どうすればいいんだか。
「ふぅん。それでセシリアちゃんがお寿司を奢ってくれたの?」
珍しい、という言葉が漏れ出しそうになるのを更識楯無は扇子で口元を隠すことで抑えた。生徒会長たる者、みだりに感情的に物を言うべきではないと分かっているのだが、幼少の時からの付き合いを持つ虚と本音の前では感情に突き動かされてしまう。
今も、そしてこれからも上に立つ者としての意識を持たなければならないわね。扇子を畳んで不敵な笑みを浮かべた楯無は正面に立つ虚と、その後ろで長テーブルに上体を預けている本音に視線を移す。虚はだらしない姿を見せる妹に非難の目を向けているが、本音は気にする様子もなく「うぇへへへ~」とこれまただらしない笑顔を零していた。
日曜日の朝に出かけて行ったかと思えば、午後には幸せ満開の笑みで戻ってきた。何かあると感じた楯無が問い詰めれば、本音はあっさりと事情を話し出した。
あのセシリア・オルコットが財布を片手に本音を寿司屋へと引っ張って行き、いつもの礼だと言って全額奢ってくれたらしい。事実だとすれば、これほど小説より奇妙なことはない。セシリアの皮を被った何者かが、生徒会の情報を得るためにやっていると考えた方が納得できる。好意的に物を見ているか、懐疑的に物を見ているかの差なのかもしれない。
「お寿司自体は安いだけを売りにしている回転ずしだからあんまりだったけど、せっしーが奢ってくれたんだよー。えへへ~、嬉しいに決まっているよ」
ふにゃふにゃになった本音の頬は餅のようにふっくらとしていた。思わず摘まんでみれば中々の柔らかさで触り心地がよかった。これで餅に負けないくらい伸びれば尚良しなのだが、人間の皮膚は餅ほどには伸びないので残念な気分だった。
痛覚を与えてみてもふにゃふにゃと笑顔を崩さない本音は、幸せ過ぎるという末期症状を抱えているのかもしれない。痛みすらも感じ取れずに、そのままどこかで死んでしまいそうなほどに世の中から乖離している気がしないでもない。
「あのセシリアちゃんが安いとはいえお寿司を奢るとはね。うーん、やっぱり想像できないわ。もしかしたら、ものすごく気分が良かったのかも」
楯無にはやはりセシリアの行動が理解できなかった。彼女の知るセシリアは暴力的で好き勝手な振る舞いの味を多少なりとも知っている要注意人物だ。暴力も暴力という言葉で考えるには些かやり過ぎている。蹴れば机が舞い叩けば椅子に罅が入ると、素手でISと叩けそうな力を持っていたのだが、肉体の強さの割には瞳から除くおかしな感情が楯無の思考に影を落としていた。
何かを探し求めるような、甘えを受け入れてくれる相手を探しているような奇妙な気配に、楯無は常々頭を悩ませる。セシリア・オルコットは探し求める者だ。しかし何を探しているのかが分からない。あの縋るように揺れ動く瞳が気になって仕方がなかった。
そしてその瞳に宿っていた奇妙な感覚は数日で消え去った。楯無が見切るより早く姿を眩ませ、セシリアは今のセシリアになった。
だけど、楯無には理解できないことがもう一つあった。セシリアがやけに本音のことを気にかけていることだ。今回の回転ずしの件といい、以前からの可愛がるかのような言動もそうだ。セシリアはどのような理由かは分からないが、布仏本音のことを好いている。本音もどうして好かれているか分かっていないようだが、本人はまったく理由を気にしていない。気にせずに懐いているのだがら、対暗部用暗部の家に仕える者としての意識は低いと言わざるを得ない。
簪から心が離れている証拠なのかもしれないわね。妹に付き従うはずの本音がここ最近近づくこともなくそっとしているのは、簪が接近を拒絶していることもあるだろうが、一番の理由は本音の心離れだ。必死に近づいても遠ざかってしまう相手に、持っていた想いが枯れてしまったに違いない。代わりに現れた可愛がってくれるセシリアに傾倒してしまうのはしょうがないと言うしかなかった。
「セシリアちゃんにも困ったものね」
「貴族の名門と言われたオルコット家のご令嬢。オルコット社の社長令嬢でもあるわけですが、母親でもある社長が事故で亡くなってから色々と大変だったようです。親戚の間をたらい回しにされ、安定しない生活を送っていたとか」
虚が手元の資料に視線を落として告げる。資料には要注意人物扱いを受けているセシリアの情報が集められた分だけ載っていた。楯無も目を通して見たが、載っている情報はあまり良いものではなかった。人生を転がり落ちてきて、今ようやく崖の下で止まることができたかのような不良少女だ。単純に危険で、もしかすれば生徒に大きな危害を加えかねない。幸いなことに、現状は一度も問題となるような暴力は振るっていないのだが、だからといって警戒を解くことはできない。
「いくらお姉ちゃんでもせっしーを悪く言うのはだーめー」
ぷくっと頬を膨らませて抗議する本音は机をパタパタとブカブカの袖で打ちつけて、より一層不満であることを露わにする。騒ぎ立てるには弱い力だったが、虚が顔をしかめさせるには充分だった。
感情を表に出して色々と言い合える布仏姉妹に、楯無は頭の中で自身の妹の姿を描く。最後に笑顔を見せてくれたのは何時だったか。思い出せなくなっている。記憶が古ぼけてしまうくらい自分自身も妹への関心を失っているのだとしたらゾッとしてしまう。
溜息をつけば、簪への想いも抜け出してしまう気がした。晴れない顔をしてしまっていたことに気がついたのは、布仏姉妹が心配そうな目を向けてきたからだ。更識家当主として従者に心配を寄せられてしまうのは、自分自身の感情のコントロールが出来ていないからだ。親しき仲にも出せる感情と出せない感情がある。友達主従では成りゆかないのが社会というものなのだから、線引きを怠ることは許されない。
されど、簪のことを考えると体面を考える思考が止まってしまう。まだ心配できていることに安堵を浮かべると共に、そんな姿を俯瞰で見つめるもう一人の自分が義務感で接しているのかと後ろ指さしてくる。
楯無は頭の中をクリアにして必要な情報意外を取り払った。思惟があちらこちらに伸びてしまっているから、感情もろくに操れないのだ。ならば、余計なことは考えなければ済む。
「ひとまず、本音には引き続きセシリアちゃんの監視をお願いするわ」
やったー、と喜ぶ本音はのろのろと立ち上がると生徒会室から出て行ってしまった。おそらくセシリアの元へと向かっていったのだろう。
「……もう無理かもね」
器が違い過ぎたのだ。簪よりもセシリアが選ばれた。それが事実なのだ。