寮の部屋には据え置きの電話はない。学生一人一人の部屋に電話を置く贅沢さまでは許容できないのは当然として、携帯電話等の普及率が固定電話の必要性を論じなくなったことが理由として挙げられる。今の時代は高校生になっての携帯電話の所有は遅すぎるとさえ言われる。普及年齢層の低年齢化もあり、携帯電話はもっていて当たり前のものとなった。故に、学生の住処に固定電話を置くことの意味のなさから、固定電話は置かれない。学生寮の受付の隣にポツンと置かれたモノが一つ。後は管理人室に一台置かれているかどうかだろう。
室内に着信音が鳴る。ベッドに投げ置かれた黒色の携帯電話のディスプレイが光り輝き、持ち主に電話を知らせ続けていた。初期設定のまま設定変更がされていない味気のない着信音が無音の室内を飛び回り、持ち主に対し何時までも着信を知らせていた。
数十秒も続く着信音。部屋の主の不在を物語っているかと思えば、その部屋には一人居た。日本人らしい黒髪を長すぎない程度に伸ばした少年がベッド脇に腰を下ろしていた。携帯電話が喚くのに気がついていないのか、顔を俯けて黙り込んでいた。時折、着信音に混じって深い溜息のようなモノが聞こえてくるだけで、少年は一言も発さずにただ時間の経過を享受していた。
しぶとく成り続けていた着信音がピタリと止まる。ディスプレイの発光も消えると室内は静寂を取り戻した。しかし、その中を少年が荒々しく動き出す。大人しかったのではなく、大人しくしていたのであろう少年は携帯電話に飛びつくと、巧みな指捌きで着信履歴を確認する。そこから相手に電話をかける。
四コールほど音を鳴らすと携帯電話を畳み、消灯時間を過ぎた廊下へと出る。廊下は暗く、光源と言えるものは遠くに見える非常口の明かりのみ。少年は足音を立てないように廊下を駆け、非常口へと向かう。既に誰もが寝静まっていなければならない時間帯だ。正面玄関は施錠されている。それだけなら開錠すればいいが、玄関までの道中に誰かに出会わないとは限らない。
少年は非常口から外へと出る。冬が近づきつつある屋外は冷え切っていた。身体を一度震わせると、少年は寮から離れて学園内の第一アリーナへと足を運んだ。
学園内の施設は全て施錠をされていて、たとえ学生であっても夜中は利用できない。部活動の時間もとっくに過ぎているのだ。
しかし、第一アリーナの扉は施錠されていない。扉を押せば簡単に開いてしまう。少年が周囲を確認して、誰もいないのを確認すると扉を開けた。
「こら。もう寝てなきゃいけない時間よ」
背中に言葉が投げかけられる。やんちゃな子供を叱りつけるような声音に少年の心臓が早鐘を打つ。バレてしまった。ひやりとしたものを感じつつ、少年はゆっくりと背後を向いた。場合によっては荒事も考えなければならない。向き直る間に過ぎった最悪の考えは、相手の顔を確認したことで霧散していった。
「ふふふ。そんなに慌てなくても大丈夫よ、一夏くん」
暗闇の中で学園指定の白い制服が浮かび上がる。扇子で口元を隠してクスクスと笑うのは学園で生徒会長を務め、少年こと織斑一夏が師と仰ぐ人物だった。
「か、刀奈……先輩」
更識刀奈。学園内では家の事情により更識楯無という名前を使っているのだが、いつしか信頼して本名である刀奈という名前を告げて以来、二人きりの時に一夏はその名前を口にしている。一夏にとっても頼れる先輩である。
「ボクもいますよ」
刀奈の背後から声の主がひょっこりと顔を出す。真っ赤に染め上げた髪が炎を連想させる元気一杯な少女はべーっと舌を突き出してから、ケラリと笑って刀奈の後ろからできてきた。
「村重も居るのか」
「それにしても、どうして二人がここに?」
声をかけられた時の焦りが引くと、冷静な思考が戻って来る。一夏は自分と同じように学生寮を抜け出した二人に聞く。もしかしたら見られて、今から連れ戻されるのかもしれない。
「用事は一夏くんと同じかしら?」
「きちんと言えば、一夏くんが呼び出されたように、ボクたちも呼び出されたのですよ」
刀奈と村重がポケットから携帯電話を取り出すと、着信履歴を突きつけた。確認してみると、一夏へとかかってきた電話番号と同じ数字が表示されていた。仲間だと分かり、一夏はホッとした。
「さぁ、一夏くん。早く入って」
刀奈は扇子でアリーナの入口を指し示す。口ぶりからするに、二人は建物内まで足を伸ばさないようだ。一夏無言で頷く。再び扉へと手を伸ばす
「ボクたちの指示はこの第一アリーナにやってくる招待状の持たないお客様を止めるだけです」
微妙に蚊帳の外なんですね、と呟くを聞いた一夏は扉に伸ばした手を引っ込めて、道重に向き直った。彼女の顔を覗き込むと漆黒の瞳が揺れ動いた。不安に感じている、と読み取った一夏は道重を引き寄せると鼻腔をくすぐる匂いがふわりと舞った。愛したいと思う少女の身体を抱きしめると、一夏自身の心が落ち着いてくる。このまま胸に抱いていたいと腕に力を込めるが、道重が上目使いに「ありがとうございます」と言えばすんなりと解放してしまった。急速に失われていく熱を惜しみ思わず手を伸ばせば、道重の両手が包み込んでくる。
「帰りをお待ちしてますね」
ニッコリと安心させるような表情を浮かべる道重。僅かなブレを見せていた瞳は今やしっかりと一夏を見つめていた。ボクも一夏も、もう大丈夫だよ。耳元に彼女の言葉が流れ込んできた気がした。
「あらら。見せつけてくれちゃって」
刀奈は赤くなった顔を扇子で隠していた。瞳も恥ずかしさに斜め下に向けられていた。真っ赤に染まる顔を見た一夏は、自分がいかに恥ずかしいことをしたのかを知って思わず二人から顔を逸らした。
「い、行ってきます!」
えも言えぬ空気に気まずくなった一夏は逃げるように第一アリーナへと入った。
顔の火照りを誤魔化す為にフィールドまでの道のりを駆けた。冷えた空気の中を駆けても火照りは取りきれずに目的地へとたどり着いてしまった一夏は、呼び出した相手が真っ赤になっている顔のことを触れてこないことを願った。
「や、お楽しみだったみたいだね」
フィールドへ入るやいなや声がかけられる。世界の全てが楽しいことで満ち溢れている。それを信じて疑わないような底抜けに明るい声音は、暗闇の中へと落とされたアリーナ内でも色褪せることはなかった。
「束さん。寒くないんですか?」
冷気の滞留したフィールド上を、水色のエプロンドレスでクルクルと踊る篠ノ之束を心配する。周囲に防寒具が脱ぎ捨てられた形跡はなく、その身一つでやってきたことが窺える。上着を脱いで貸した方がいいかもしれない。男なら多少の寒さくらいは我慢するべきだ。
一夏がそれとなく上着のボタンに手を被せると、束が踊るのをやめて「気にしなくていいよ」とふらふらとおぼつかない足取りで接近する。前のめりに身体を揺らした束は両腕を広げて一夏に抱き着く。女性らしい胸の大きなふくらみが冷え切った身体に当たり一夏はどきりとする。豊満な胸の柔らかさは一夏の想像を遥かに超えていた。母性を感じさせる心地よい温もりに寒さに凝り固まった身体が弛緩していった。
アリーナの扉を潜って見えなくなった一夏の背中を、仙石村重は暫く幻視していた。彫れたから幻想や幻覚を見ているのだろう。恋心は一途にするだけでなく妄想を強くすると、何かの本に書いてあった。やはりボクは溶岩のように蕩けそうな恋心を持っているみたいだ。冷静に自分の心を分析できるが、果たしてそれが冷静に分析できているのかも判断できなかった。
「村重ちゃんがフラれたら、私もアタックしてみようかしら?」
村重とは違い、周囲をそれとなく注意している刀奈の顔はニヤニヤと他人の恋路をからかいのタネにしようとしていた。人たらしと呼ばれる所以はこの顔にあるのかもしれない、と村重は仲の良い上級生の顔を見る。胡坐をかいてちゃ駄目よ、と目が忠告してくれていたので、村重は浅く首を曲げて「大丈夫です」と舌を出して答えた。クラスメイトというどこにでもある縁から始まった一夏との付き合いは、初めからどこかで意識を向けていた気がする。まるで、ようやく出会えたみたいだった。それは一夏も同じだったようで、事あるごとに行動を共にしていたほどだ。それが彼の幼馴染や、彼に惚れる少女たちからの嫉妬を向けられる原因だった。しかし、嫉妬に縮こまって大切な縁を断ち切る諦めはなかった。かつて一夏に掴まれた腕が熱くなって訴えてくる。あの温もりこそボクが手にしなきゃいけないものだと。
「ボクも一夏も相思相愛ですから」