私という人間の弱点は結構多いと自覚している。
まず、数学が苦手だ。天敵と言っても差支えがないほどに数学が苦手だ。あの外国語のような訳の分からない公式を多種多様に用いて、一つの問題に取り組まなければならないなんてものは無理だ。お手上げなのですぐにでも机の上からプリントを取り払ってほしい。要らないと思うんだけどね、あんな複雑で日常のどのあたりで使えば良いのか皆目見当のつかないものなんて。残念なことにできる人からしてみれば、私の不平不満はできない人のひがみ、負け犬の遠吠えでしかないのだ。
次に陰でこそこそとしている人が苦手だ。小声で悪口なのか、他愛のない話をしているのかは読唇術もそれ相応の技術もない私には判別不可能である。陰でこそこそしている人の存在は仕方ないと思って諦めている。だけど、私の見えないところでしてもらいたい。気になって気になって取り組んでいるものに集中することができないのだ。もしかしたら私のことに関して言っているのではないかと考えるだけで涙が浮かんでくる。私のメンタルはガラスよりも繊細なのだ。
最後に、左右背後からの攻撃が苦手だ。しっかりと授業を聞いている時に、後ろの席の人に背中を触られようものなら悲鳴をあげて飛び上がってしまうほどだ。そんなことになれば周囲からクスクスと失笑が起こって顔を赤くして小さくなってしまう。
「おはよう、
「うひゃぁあ!?」
背後から抱き着かれた。突然のハグに変な声をあげてしまった。
「相変わらず良い反応ね。何度も味わっているのに初々しいんだから」
背中に重さと確かな弾力を感じる。こんな嫌がらせをするのは楯無しかいない。
「とても重いんですけど……退いていただけません?」
その言葉がスイッチだったのか、すらりとした腕が私の胸へと伸びてくる。とても嫌な予感がする。私は居慌てて不埒な動きを見せる腕を掴んだ。
「後はそのセクハラも止めてくれると助かります。女の子同士であってもやって良いことと、やってはいけないことがありますから」
「えー」
「えー、じゃないでしょう。仮にも全学生のお手本となるべき生徒会長様が、このような間の抜けた姿を晒すことがあって良いとでも?」
「ふうん。そこらへんは大丈夫よ。だってこの場にいる全員、私達のやり取りなんて見慣れているんだからね」
ね、の部分でウインクしたような気がするが、相手が背中に張り付いているので確認のしようがない。そろそろ退いてほしいのだが、楯無は一向に腰に回した腕を離すことをしない。
「それにね、生徒会長であるこの更識楯無が何も考えずにこのような行動にでると思っているのかな?」
「……え?」
「うん。その一文字だけで十分に何を考えているのか分かるわよ。だけど残念ね。私のこの行動は刀子ちゃんの胸の谷間よりも深い意味を持っているんだから」
「貴女のその例えで私がとても傷つきました」
「大変ね」
私の心の痛みを一蹴されてしまった。だけど私が腕の力を抜いている隙をついて、楯無は腕を引っ込めてようやくと言った様子で背中から離れてくれた。女の子とはいえ人一人を乗せれば重いものは重いのである。羽のように軽い訳などあるはずがない。
私は効果がないと分かりながら、重いです、重かったです、重すぎでしたと言いながら楯無へと向き直った。私の言葉を聞いても楯無はケロリとした顔でいた。私が馬鹿みたいだ。
「それで何の用だと思っちゃう?」
「知りませんが。とりあえず、お金は貸しませんので水道水でも飲んでいてくださいね」
「あ、心配しなくても良いわよ。お金に困るような生活してないから」
羨ましい限りである。少しだけ資金援助してほしい。
「今日はね、刀子ちゃんに素敵なアルバイトを持ってきたって訳なのよ。自給ゼロ円の簡単なお仕事」
「それはアルバイトではなくてボランティアですね」
「そうなのよ、虚ちゃんも同じことを言ってたわ。まぁ、そこは別に論点でも何でもないから置いておくけどね。本題は刀子ちゃんにボランティアに参加してほしいっていうことなんだけど。炊き出しもお茶もでるから参加して損はないから安心してね」
「食い意地を張ったつもりなどは一度もありませんよ」
私はどちらかと言えば小食なのだ。定食の普通盛りを完食するので精一杯なので、仮に炊き出しがでるのだとしたら断ることにしよう。そもそも参加するなんて言ってない。
「そう言うと思って炊き出しは準備していないから大丈夫。凄いでしょ」
最初から準備などしていないのだろう。さも準備するつもりではいたという意思を見せなくても構わない。
「凄くはないですよ」
「それは残念。でね、話を戻すけど」
脱線するように仕組んだ人の言うことだろうか。
「ボランティアの内容はとても簡単。世界で一人しか現れていない男子生徒のIS指導、およびISの生みの親である天才が造り上げたISを持つ妹ちゃんの指導。可能であればペアでの戦闘もある程度できるようになれば良いかしら」
「とても手間も時間もかかる簡単じゃないボランティアじゃないですか」
最初と言っていることが違うと言えば、てへっと舌をちらりと出して謝罪していくる。私がキレやすい子供だったら手をあげていたことだろう。もしも、私が切れやすい人物であったのならば、彼女は巧みなものでそれ相応の態度に切り替えて接してくるはずだ。更識楯無という人物は中々に上手な人物だ。
絶対に勝つことはできない。楯無は私の目の前に立っているというのに煙のようにゆらゆらと掴むことができない。これからも口で勝つことはできないかもしれない。
「ちなみにボランティアの開始時間は放課後。場所は第三アリーナだからよろしくね」
そう言った楯無は私が断る旨を伝える暇もなく教室から出ていった。もう二・三分で授業が始まって、私の後ろの席に戻ってこなければいけないというのに。
始業のチャイムが鳴ってから後ろを振り返ると、そこには誰も座っていない机しかなかった。
後で知ったことだが、楯無は生徒会室に逃げ込んで授業をサボタージュしたらしい。
結局、放課後までに楯無を捕まえて、私はやりませんから、絶対に絶対にやりませんからと言うことはできなかった。遠目に見つけ出すことは何度もあったが私の声が通る距離ではなかったし、例え射程範囲に捉えることができたとしても、背を向けられていたので話をすることはできなかった。正面に回り込む前に全力疾走で逃げられてしまうからだ。
正面から向かい合わないと言いたいことも言えない私の性分が悔やまれる。そして私のそんな性格をきちんと把握して、うまい具合に逃げ果せる楯無が凄いと素直に褒めたい。
しかし褒めるのは一時のものでしかない。それが終われば、人の話も聞かないで役目を強要してきた楯無への怒りだ。
ずんずんと廊下を歩いて第三アリーナへと向かう……なんてことはできるはずもなく、しずしずと廊下を進んで第三アリーナへと向かう。
こうなれば、楯無の指定した時間と場所で直接面と向かってやらないと伝えるしか手はない。
楯無は男子生徒のIS指導と言ったが、それはきっとあの男子生徒しか存在いないだろう。何故ならこの学園にいる男子生徒は織斑一夏という名前の子しか存在しないからだ。楯無が彼にISの指導をしていることは風の噂で聞いていたが、私にまで役目がやってくるとは思わなかった。もしかして、役目を押し付けてとんずらする算段があるのでは一瞬思ったが、考えてみれば楯無は自分の役目はきっちりと果たす人間だったので杞憂だった。
どうやって断ろうかと考えを巡らせる。悲しいかな、私の頭の中には面と向かって言葉も着飾らずに直球で断る事しか思いつかない。駄目な子だと思った。
駄目な子であってもきちんと第三アリーナにたどり着くことができたようだ。私は駄目な子じゃないみたいだった。
ピットを抜けると目的の人物は広いアリーナの中央で仁王立ちしていた。パタパタと扇子で自身に風を送っていた。
私は小走りになって中央へと急ぐ。楯無の正面へと回り込んで怒っているという顔を見せる。
「楯無さん」
ズイッと顔を全面に押し出せば、楯無は身を引いて扇子で口元を隠した。
「来てくれたの、刀子ちゃん。それじゃあ、早速訓練をお願いしちゃおうかな」
どうやら楯無の中では私が快諾したものとして扱われているようだ。とても困ったものだ。
「そのことですが。申し訳ないですが、辞退させていただきます」
「え……えー?」
何故か『空気を読んでほしい』と書かれた扇子を見せられた。空気は吸うものであって決して読み物ではないというのに、いつから空気の概念が変わったのだろう。
「えー? じゃありません。私にもやりたいことなどがあるのですから」
「やりたいことって乙女ゲーやるだけなんでしょ」
「一度も手を出したことはありませんが」
「じゃあ、イケメンがいっぱい並んだ写真集を見つめてニヤニヤするとか?」
「写真集などという無駄な買い物はしない主義なので」
「じゃあじゃあ、テレビや漫画に出てくるキャラを掛け算しているとか?」
「掛け算? キャラクターを掛け算するって何ですか? 新しい勉強法ですか?」
「ごめんね、おねーさんが悪かった。もうこんな傷つく話は止めよう」
「はぁ、そうしてください?」
何故か涙目になっている楯無に私は理由が分からず首を傾げる。知らない内に酷いことでも言ってしまったのだろうかと心配になるが、振り返ってみてもおかしなことを言った覚えはなかった。仮に言っていたとしても楯無相手ならば気にする必要はないかも。
「とりあえず、今日の生徒を紹介しましょうか。おーい、一夏くん」
今日の生徒って明日も明後日も生徒の顔は変わらないだろう。そう思った私は焦って逃げ出そうとした。ここで相手と顔を合わせたら、断ることが至難になってしまう。
くるりと反転して、いそいそとピットに向かおうとするが、楯無から逃げることはかなわず、抱き着かれて動けなくなってしまった。
どうやら此処に足を踏み入れた時点で私の敗北は決定していたようだ。見事に罠に嵌ったのだ。
「何ですか、楯無先輩?」
ゆっくりと空からやってきたのは、並よりは整った顔をした男子生徒の織斑一夏だった。額に汗を浮かべているのを見ると、私がやってくるまでに結構な扱きを受けていたようだ。
「うふふ、聞いて驚いちゃ駄目よ。今日は一夏くんの事を影から応援していた織斑一夏ファンクラブ会長の
一人で手を打ち鳴らす楯無。
私の事をチラチラと見ながらも呆れた表情を楯無に向ける一夏。
嘘八百を並びたてられ、思わず平手打ちをしてしまった私。振るった右手は簡単に掴まれて固い握手を交わす羽目になってしまった。
「さて、刀子ちゃんの嘘は置いておくとして」
「楯無さんのねつ造なんですけど」
「今日は一夏くんを影から応援する――」
「手元に持ったままじゃないですか」
「えー?」
「えー? じゃないと何度言えば気が済みますか?」
「さぁ? とにかく。今日は一夏くんの為に外部から講師の方をお招きしました」
「思いっきり内部の人間なんですが」
「だ、そうよ」
「知っていることでしょう」
先ほどから全く話が進まない。私が横から口を出すのがいけないのか? それともいちいちふざける楯無がいけないのか?
「早速だけど、二人にはISで試合をしてもらうわよ」
「え? ISで試合って。楯無先輩が手合せしてくれるんじゃないんですか?」
どうやらいつもは楯無と試合をしているらしい。一夏が驚きの声をあげた。ちょっとだけ傷ついた。
「だって幾ら二年生だって言っても量産機じゃ不公平じゃないですか」
とても失礼なことを言われている。きっと私は怒っても文句は言われない。だってそれほど一夏はいやな奴なのだから。
「あー、気を使ってくれるのはありがたいですが……」
これ以上、彼を野放しにしていたら私の心は傷だらけにされてしまう。早急に介入して黙らせなければならない。
「私も専用機を持っていますから、下手な気の遣い方はしなくていいですよ」
ポケットから飾りっ気のない菱形のペンダントを取り出して見せる。一夏がびっくりする。
「ええ、下手な気遣いなど無用の長物なんですよ」
私と一夏は試合をすることになった。
一夏がエネルギーを補給しに行って戻ってきた後、私はISを装着して一夏と向き合う。
「えっと、刀子先輩。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる一夏。中々礼儀正しいようで何よりだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私も一礼して武器を構える。
身の丈を軽々と超える巨大な片刃の剣『
鬼斬丸は名前の通り打鉄を土台に改造された私の専用機だ。打鉄の持つ武器を全て取っ払い、無駄な部分も排除して、代わりに背部に巨大なスラスターをつけたISで、色々と制限のかかる使い勝手の悪い専用機である。
「では、行きましょうか」
そう言って五秒静止してから動き出す。相手の虚を突くように瞬時加速で瞬く間に接近した。大型スラスターでの瞬時加速は並のそれよりも速く、瞬く間に懐に飛び込むことができる。
「はい!」
振り上げた惨殺刀のミネが火を噴く。刀の背はスラスターになっていて斬撃のスピードと威力を底上げしてくれる。その一撃は並の者では受け止めることもかなわず、逃げるか受け流すかしか手がない。
どのような反応を見せるのかと繰り出した一撃を、一夏はぎょっとしながらもすぐに腕を動かして受け止めにはいった。ぎりぎり反応できた感じだった。
失策。私は度胸は認めながらも洞察に疎いと評価した。事実、私の一撃を受けた一夏は受け止めきれずに、肩からバッサリと斬られてしまった。そのダメージたるや想像に難くない。
「くっ!?」
重い一撃に無残に吹き飛ばされてしまった一夏は、瞬時に体勢を立て直して向き直った。
「受け止めようとしたその意気込みはとても評価できます。ですが、受け止められるものと受け止められないものを見極める必要がありますよ」
そう評価を口にして、私は構えを取った。
「うおぉ!」
先手必勝。出始めを潰して私を防ごうとした一夏が瞬時加速で目の前にくる。ブレードを横薙ぎに振るってくるが、私はそれを一歩分後退することで回避して、惨殺刀を振るって攻撃した。
一撃一撃がとてつもなく重い鬼斬刀は相手の体勢を崩すには十分な武器である。命中させれば大きく姿勢を崩せるので相手の精神状態の安定も切り崩すことができるので、心身ともに驚異を与えることができる。一度、体勢を崩せば瞬時加速との併用で一気に勝負を決めることができる鬼斬丸は燃費は頗る悪く短期決戦型のISである。
勝ち方は簡単なもので遠距離からちまちま攻撃をしていればそのうち倒せる。極端なコンセプトは問題だらけだ。そう思うと今回の相手は相性が良い。近距離型が相手なら勝つのは簡単。
相手が近接型であると油断してしまったのだろう。一夏の左腕から荷電粒子の光が見えたと気が付いて慌てて回避行動を取った時には遅く、足に掠って大事なシールド・エネルギーを消費してしまった。
近接型だと思い込んで油断してしまった。これは反省しなくてはいけない。反省して反省して、即刻引導を渡すことにしよう。
「はい!」
瞬時加速を一回。一夏の目の前に現れて惨殺刀を振るう。
一夏も学習したのか、剣を受け止めることはせずに回避に専念し始めた。
避けられるのは当たり前だった。まだスラスターを噴かしての斬撃ではないのだから。
だから、相手のテンポを崩すように、いきなりスラスターを起動して吹き飛ばす。引き飛ばした一夏を瞬時加速で追いかけ、地面めがけて叩き落とした。一夏の手からブレードが離れた。
私は地面に落ちた一夏の近くに着地して、その一挙一動を注意深く観察した。起き抜けに荷電粒子砲を撃ってくるかもしれない。
でも、よくよく考えてみればエネルギーか心許無いのではないだろうか。だって、ダメージを受けているし。
「さてと、降伏してくれると助かります」
私の提案に一夏は立ち上がって左腕を突き出すことで答えた。つまり答えは否ということだ。話を受け入れる気はないようである。男の子だった。
「まだまだ」
「そうですか」
惨殺刀を構えて一夏の目を見る。私の視線に気圧された一夏が半歩後ずさる。おそらく、一夏はその恐れを自覚していない。
私が半歩近づくと、一夏は半歩後ずさる。楯無が「あらあら」と言っているのが聞こえる。
「もう一度だけ言いますよ。降伏してく――」
言葉の途中で、背中に何か重い物が当たって前のめりになった。何かが降ってきたようであった。
私が恐る恐る背後を振り返ると、先ほどまで一夏が手にしていたブレードがあった。
正体を確認するところで限界が来た。
「上からなんて酷いですよ。あんまりにも外道過ぎる手口ですよ!」
その場にペタンと座り込んで私は泣いてしまった。だって、正面以外からの攻撃なんだ。真っ向からの攻撃にしか対応できない私を嘲笑うかのように、卑怯にも上から攻撃してくるなんて最低だ。外道の極みを進んでいる。
恐怖だった。自分の目の届かない所からの攻撃に私は怯えて泣いた。恥も外聞もなくみっともなく泣いた。だって、こんなことになるなんて思いもしなかったからだ。現代人には想像力が足りないというが、私もその一人だった。
急に泣き出した私に、一夏がおろおろしながら近寄ってくるがそれどころではなかった。近寄ってくる一夏から逃げるようにしてアリーナの隅っこに飛んでいく。壁に背中を預けて、右に惨殺丸を突き立てて背後と右側を守る。左側には一夏の持っていたブレードを突き立てて防御した。
もしかしたら上空から攻めてくるかもしれない。私は膝を抱えて座り込み、膝に顔を埋めて腕で頭頂部を防御する。左右背後上空を鉄壁な防護が覆う。
「て、鉄壁の防御ですから! ですから、ですから、攻めてこないでください! お願いしますから絶対に攻撃してこないでください!」
ガタガタと震え続ける。目を閉じて瞳も外界から守る。いきなり背後から鋭い物を突き付けられるかもしれない。
「あの! 楯無先輩!?」
「あーあ。サイテーよ、一夏くん。市中引き回しの上獄門打ち首して三日三晩さらし首にしなきゃ駄目なんだから♡」
「いつの時代の処刑方法ですか。ハートマークで可愛くしたって内容は残酷極まりないですよ!」
「あら、可愛いだなんて? もしかしておねーさんのこと口説いてるの?」
「違います! そうじゃなくて、刀子先輩が凄いことになってますか!」
「よし、一夏くん。優しく抱きしめてきなさい。それしか手はないわ」
「今の状況を楽しんでいますよね」
「ふふふ、違うけど?」
「思いっきり笑ってるじゃないですか!?」
ああ、誰かが私を嘲笑っている。仕方ないよね、情けないんだもの。穴があったら入りたい。そして入口を封鎖してもう誰とも会わずに余生を過ごしてひっそりと死に逝くんだ。
目の前でごちゃごちゃと何かを言い合う楯無と一夏が見えた。意識が集中しているのか、私の方を見ていない。
これは千載一遇のチャンス。地獄に仏。私は気づかれないようにひっそりとピッドへと向かった。正面以外を向ければ襲われるかもしれないと思い、二人の姿を視界に収めたまま後ずさった。
正面しか見ていないから正確には分からない。けれど感覚的にほんの数歩でピッドに入れる。
だけど、私の目論見は甘かった。
後ろを確認しないで後退したせいで背中に誰かがぶつかった。
「すみません」
背中から申し訳なさそうな声が聞こえてきた。当たり前のことだが女子の声だった。だが、今の私にとって男子であるか女子であるかは関係ない。
問題は一つ。背中を取られてしまっていることだ。
「あれ? 刀子先輩は?」
時間を取られた。後少しのところで一夏が、私の不在に気づいてしまった。
「何をしているのだ、一夏?」
すぐ後ろから聞こえてくる声。親しいのだろうか、一夏と呼んでいる。
「お、箒……と刀子先輩!」
こちらを振り向いた一夏。私の位置がばれてしまった。
そして後ろから殺気のような嫉妬のような、何なのか分からないほど嫌な空気が流れでるのを感じた。
「刀子先輩……だと?」
危険信号が体中に響き渡るのを自覚できた。正面には卑怯にも上空から攻撃を仕掛けた外道こと織斑一夏。そして後方からは心臓を鷲掴みにされたような感覚を抱かせる箒と呼ばれた人物。
もう嫌だ。部屋でもどこでも良いから籠城したい。
でもその為には、私の行く道に立ちふさがる障害を倒さなければならない。いや、倒さないにしても切り抜けなければならない。
涙が止まらないけど、私はくるりと振り返って敵と対峙した。
「な!?」
箒と呼ばれた女子が反応を返した時には、私が彼女の腕を取って背負い投げをしていた。
そして、相手の顔も確認せずにその場から逃げ出した。
私の行動は完全に通り魔だった。
泣きながら二年生寮に帰った私は、誰かに声をかけられないように急いで部屋へと向かった。幸いなことに部活動が行われている時間なので、誰かとばったり出会うことはなかった。
部屋に入るとドアに鍵をかけて、ゆっくりとベッドに腰かけてコテンと寝転んだ。
「うう、何をやっているんでしょう」
安息の地にたどり着いたことによって、私はさきほどの醜態を冷静に思い出すことができた。箒にしたことは完全に私が悪かった。
「ちゃんと断ればよかったんですよ」
一夏のあの言い方に苛立ってしまった結果がこれだ。私が恥をかいて終わる。実は楯無はこれを狙っているのではないかと疑ってしまう。
とにかく、私は嫌なことを忘れる為に立ち上がった。
「もなかでも食べますか」
ベッドの脇に置いた菓子箱を漁った。グシャグシャに潰れて中身が飛び出しているものが一つしかなかった。
私は泣き寝入りした。
「ねえねえ、一夏くん」
「何ですか、楯無先輩」
「うふふ、何で警戒しているのかな?」
「自分の胸に手を当てて考えてみてください」
「何? おねーさんの胸、触りたいの? いやぁん、えっちぃな」
「……」
「こんなに可愛い子が話しかけているんだから、面倒になって口を閉ざすのは止めようか」
「何のようでしたっけ?」
「刀子ちゃん、可愛かったでしょう。特に泣き顔が」
「はい。試合の時に見せた表情が鋭かったので特に……」
「いやー。おねーさんがびっくりするほどに正直者だね」
「一夏。貴様と言う奴は、その腐った性根を叩き直してやる!」