織斑千冬は教師としてIS学園に赴任した。それは特に切望していた職業ではなかったが、千冬には養うべき弟がいるのでアレは好いだこれは駄目だと選り好みしてなどいられなかった。
ISを教えることには抵抗はなかった。千冬の頭の中には相応の知識があったし、経験だって世界最強と謳われるほどのものを持っていた。
そう考えるとIS学園は自分にあった職場かもしれないと、千冬は教頭先生の後ろ姿を見つめながら思った。たとえ今は合わない職場だったとして、慣れてくれば自然と職場に自分を合わせることができるだろう。人間は適応する生き物だから簡単なはずだ。
苦節二十数年の生き様が楽観的な想いを千冬の胸に抱かせる。親に見捨てられ弟を守るように生きてきた私にこれ以上恐いモノはない。全てを斬り伏せて進むのみ。
そう思っていたのは朝方のこと。
夕方、千冬は教頭先生にある場所を訪れるように言われて、IS学園内にある一年生学園寮を訪れていた。新任早々に学生寮の一つを任せられてしまったのだ。千冬としては自宅から毎日通いたかったので、学生寮の管理責任者補佐に任命されたのは重大な問題だった。千冬は本人には自覚はないがブラコンだったので、これは手痛い。
断れればよかったのだが、生憎千冬は教師歴一日目のド新人なので逆らうという行為は自分の首を絞めるのとなんら変わりがなかった。人生は思い通りにはいかない。どこかで自分が折れるしかないのだ。
千冬は重い足取りで学生寮に入る。中は掃除が行き届いているようで陰湿なイメージはなかった。きっと管理責任者が上手くやっているか、業者の人間がせっせと働いているのだろうと千冬は思った。そしてできれば後者であってほしいとも思った。
玄関は左右には下駄箱があり、正面にはプラスチック製の寮の案内板がある。ところどころによく分からない幾何学模様が描かれていて案内にはなっていなかった。生徒の悪戯書きだろう。
案内板の横に管理人室のプレートが下げられた扉があった。目的地はずいぶんと近かった。
千冬は嫌々ながらスリッパに履き替えて、嫌々ながら扉をノックした。「はーい」と間延びした返事が扉越しに聞こえてくる。
千冬はピタリと止まった。どこかで聞いたことのある声だったからだ。とても身近な声だと千冬は思った。今日もさんざん聞いた気がする。分かっていることは教頭先生の声ではないということだけだ。
「誰……だったか」
「え? 私ですけど」
気がついたら目の前の扉が開いていて中から女性が顔を覗かせていた。
千冬は女性の顔を見て止まった。視線の合わせた相手がとても強面で思考が真っ白になってしまったわけではない。こう見えても世界最強の女だ。ちょっとやそっとの強面など物ともしない。
千冬の止まった思考が回転し始めると、さきほど聞き覚えがあると思った声の持ち主を思い出した。
それは自分自身の声そのものだった。感情の起伏や話し方の違いがあるものの根本が全く同じなのだ。
「どうかしましたか?」
千冬の視線の先の相手が小首を傾げる。その顔は千冬にそっくりだった。
世の中には自分と同じ顔の人間が三人いるというが、こうも近くにそっくりな人物がいるものか。事実は小説より奇なりとはこのことか、と千冬は納得することにして出されたお茶を飲んだ。
ちらりと目の前に座って微笑んでいる女性を見た。
千冬は自分と全く同じ顔の存在にまだ驚きから脱することができてないが、九夏はまるで千冬のことをはじめから知っていたかのように平常心でいた。
「テレビでよく見ていましたが、まさかここまでそっくりだとは思いませんでした」
千冬は有名人でテレビにはよく取り上げられていたのだから、九夏が知っているのは当然の話だった。混乱していたせいで自分の認知度を忘れてしまっていたのだ。
「あ、ああ。こちらも驚いている」
「同じ顔の人間が目の前にいますから無理はないですよね」
びっくりですよね、と呟きながらお茶を飲む九夏。とても余裕そうに見えてしまうのは千冬の気のせいなのかもしれない。お茶請け菓子をパクパク食べている姿が驚いているようには見えないけどきっと気のせいだ。
あまりにのんきな九夏の動きに、段々と真面目に驚いているのが馬鹿らしくなり千冬もようやく平静を取り戻した。これでも世界最強の称号を持つ女だ。
「ところで真下信さん」
「九夏でけっこうですよ」
「じゃあ九夏さん」
「こちらの方が年下なので呼び捨てでも構いませんよ」
「じゃあ九夏と呼ばせてもらう」
「はい、千冬さん」
「もしかして親戚の方か何かか?」
「うーん。親戚といいますか……なんといいますか」
言いよどむ九夏。右斜め下を眺めて「私の業じゃないんですけどね」と呟いた。
嫌な予感がする。千冬は自身の右手に力が籠るのを感じる。
これは不味い。次に九夏が何を話すかによって私が取るべき行動が変わる。
九夏は意を決したように面を上げた。
「母が同じ人です」
千冬は頭が真っ白になる。何を言われたのかまったく理解できなかった。どう反応すればいいのかも全く分からなかった。そもそも自分がどのような状態で座っているのかも忘れていた。とにかく脳みそが働くことを拒否していた。もう発射寸前でとどまっている拳を、想いのままに突き出しても文句は言われないのでないかという位に思考を放棄していた。
真下信九夏は母親が同一人物だと言う。それはつまり千冬とその弟の一夏を見捨てて行方をくらました人物ということになる。九夏は千冬よりも歳が下で一夏よりは上だ。寮の管理責任者として働いてることからおそらくは成人しているだろう。
九夏は一夏が生まれるよりも早くに生まれている。つまりお腹に子供を宿しながら、素知らぬ顔で幼い千冬を育て自分の夫と笑い合って生活していたことになる。駄目な母親だとは思っていた千冬だが、よもやここまで社会に背くような倫理観のない母親だったとは。
父はなんという女に惹かれてしまったのだろう。あんな娘息子を平気で家に残していなくなった女をどうして愛することができたのだろう。ああ、父親も同じように平気で子供を家に置き去りにするような人間だったからこそ母親と一緒になれたんだな。類は友を呼ぶって言うのだから。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ……いや、大三部だ」
「大丈夫じゃないみたいですね」
「ショックが大きすぎる。見捨てられた時のショックを平気で上回っていった」
「はぁ、大変なんですね」
一言みたいに言う九夏。
母親の血で繋がった家族の一言に頭を抱えてテーブルに突っ伏す千冬。衝撃の余韻が延々と頭の中で波打って平常心をかき乱す。この寄せては引くを繰り返す波を止めるには、母親の存在が必要不可欠だ。顔面を形が変わるまで殴って殴って殴り倒して、マウントポジションで更に殴りつける。拳が返り血で染まりきるころには落ち着きを取り戻せるだろう。
「よし、母親を殴り飛ばそう」
それが全てを万事解決に導く。千冬はそう信じていた。過去でも未来でもなく現代のどこかで生活している母親を蚊のように叩き潰せば、全ての次元が安定するはず。行動あるのみだ。
「殴るんですか?」
「ああ。これは殴らずにはいられない」
「母はとても凄い人ですよ」
「凄ければ凄いほど殴りがいがある」
「褒められないチャレンジ精神ですね。でも母は今行方不明なので早々見つけられませんよ」
行方不明。どこにいて何をしているのか分からない。今までの人生を弟と、母親を見つけ出して殺害一歩手前まで追い詰めることに捧げてきて、後者の方は一歩も進展がなかった今日この頃。千冬の心を萎えさせるには十分な言葉だった。
「千冬姉、九夏姉」
「織斑先生、真下信先生と呼べ」
「え? 私は何も教えてませんよ」
遠くから走ってやってくる一夏に千冬が溜息を吐きながら注意をする。職場で姉と呼ばれるのはどうにも抵抗があるのだ。自身の築いてきた尊敬の念が壊れて変に親しみを持たれてしまうがとても嫌だった。
隣でぽやぽやと微笑みながら寮の花々に水をやる九夏は、姉と呼ばれることが嬉しいようで進んで訂正を入れることはしない。そのせいで一夏がいつまでたっても姉と呼んでくるのだ。
それにしても、と千冬は思う。まさか一夏があまり抵抗せずに九夏のことを受けれるとは。それどころか家事ができてとても優しい千冬姉がいるみたいと言う始末。それじゃあ私が家事ができなくて優しくないみたいじゃないか。私だってある程度は洗濯物が畳めるようになったし、味付けはともかく包丁で食材を切れるようになったんだぞ。
九夏は外見は千冬と瓜二つなのに家事能力がずば抜けて高かった。それは千冬が夜な夜な枕に顔を埋めて泣き出してしまうほどに腕前に雲泥の差があったのだ。
千冬がその壊滅的な家事能力を披露した時に、九夏は可哀想な物を見る目で明後日の方向を見て「弟さんが頑張ってくれているからですね」と笑っていたのを覚えている。情けなさを通り越して苛立ったので頭を引っ叩いて周りに怒られたことも覚えている。
それから恥を忍んで家事全般を教えてもらいどうにかサル以上人並未満までレベルアップしたのだ。
だというのに一夏はまったくと言って良いほどに千冬の進歩を気にも留めてくれなかった。そんな大々的なレベルアップをなかったことにするかのように現れた九夏のせいだ。
どうして九夏の方が好かれるのか千冬には理解できなかった。
「千冬お姉さん。どうかしましたか」
千冬を心配するように声をかける九夏に「なんでもない」と頭に手をやって応える千冬。ナルシストを気取っているわけではないが、九夏の頭は撫でやすいし、撫でられて目を細めて嬉しそうに受け入れる顔は好きだ。
弟もいいけど妹も悪くない気がする。