世界は狭いようで広い。飛行機で世界一周なんて一年もかけることなく達成することができてしまう程度の狭さである。しかし、一か国のそれぞれの地域をじっくりと見て回るとすれば一年あっても足りないほどの広さがある。
そして地域ごとに出会う人も様々だ。その人からしてみればおかしく見えるような人もいれば。、馬鹿みたいに真面目に見えるような人もいる。もっと細かく見ようとすればどの人も全く同じということを当てはめることはできなくなる。
おかしなことかもしれないが、もしかしたらその中には普通では想像できないような特別な人間が潜んでいるかもしれない。
たとえるなら現代に蘇りし勇者。
たとえるなら前代未聞の大量殺人犯。
たとえるなら遥か先の時代からやってきた未来人。
たとえるなら人間に擬態している化け物。
探せばもしかしたらいるかもしれない。
悪魔の証明と同じでいままで見なかったからいないと断定することはできない。ただ、見つけられないだけなのかもしれないからだ。
そう世界には多くの神秘が隠されているかもしれないのだ。
そんなことはともかくとして、日本のとある県のとある地域にある一人の女性がいる。彼女は成人を既に迎え職について日々を仕事に生きている。
仕事についている人間にありがちなのはやはりというべきか愚痴である。これはどんなに仕事が楽しいと感じている人でも一つや二つはあるものだ。
女性は仕事を心底楽しいとは思っていないので仕事の愚痴はいっぱいある。特に人と関わる仕事に従事しているものだから愚痴はそこらの事務作業よりも多いかもしれない。あくまで予想ではあるが。
「アイツは読解能力も漢字から物事を連想する能力も持ち合わせていないのか、って話ですよ!」
教員室に入るなり大声で愚痴を零す女性。
名前を
好きなものはコーヒーゼリーと国語(実力は問わない)。嫌いなものは理系男女カップル。理由は大学時代の友達がそういうカップルで惚気話の合間に科学的な話を延々と聞かされて嫌になったからである。
和茶美は自分のデスクに戻る。直前に使用した教材をデスク上の木製の棚に仕舞い込むと、引き出しからコーヒーゼリーを取り出して食べる。とても幸せそうな顔をした。彼女の幸せは基本的にコーヒーゼリーありきで成り立っているのだ。
「う~ん。おいひい」
プラスチック製のスプーンでコーヒーゼリーを掬い取って口の中に入れる。ひんやりとしていてとても苦い。それが癖になる。
そんな小さな幸せをゆっくり味わう和茶美の背後に忍び寄る影。日が当たらない部屋だけど迫りくるのが影だ。
影は和茶美の真後ろの立つと右腕を天へと突きだす。腕の先端部分、手と呼ばれる物を掴んだりできる人間の便利な箇所には長方形の平べったいものが握られていた。
影は長方形の物体にはありがちな鋭い角を下にして腕を振り下ろす。腕は空気を切り裂き、視認するのが困難なスピードで和茶美の頭頂部へと落下していった。
一部の人間にしかたどり着けないような腕捌きから放たれた攻撃。普通の人間なら頭頂部からの痛みが全身に広がった時になってようやく叩かれたと気がつくことだろう。
しかしながら和茶美は違う。
彼女はスプーンを加えたまま背後へと振り返り相手の攻撃を逸らそうとして、そのまま叩かれる。
「んぅ~~うっ!?」
頭頂部に振り下ろされた角の直撃を受けて蹲る和茶美。彼女の敗因は背後へと振り返ったことだった。振り返る暇があったら頭を守れば良かったのだ。取るべき選択を間違えた彼女に罰を与えるかのようにスプーンはへし折れ、持っていたコーヒーゼリーは叩かれた衝撃で宙を舞い、ゴミ箱へと綺麗に落ちていった。
「私のコーヒーゼリー!?」
「そっちじゃないだろうが!」
リアクションを間違えてしまい、もう一度角で叩かれる。今の世の中なら相談すれば勝てることだろう。
非情にも和茶美の頭を二度叩いたのは黒髪と鋭い目が特徴的な女性だ。
名前は織斑千冬。世界的に有名な女性で和茶美の後輩だ。平気で頭を叩いていたが後輩なのだ。
「マジパネェくらい超絶鬼痛いっす」
こんなリアクションを取る和茶美は教師である。それも現国の教師だ。そして好きなものは国語なのだ。
「なんで急に叩くんですか? おかげでコーヒーゼリーが家出しちゃったんですけど!」
「お前が人の弟の悪口を言うからだろ。それとコーヒーゼリーについては知らん」
千冬が当然だろ、と腕を組む。弟想いのお姉さんだ。その弟に向けて死ねとか馬鹿とか平気で言っている事実が存在していないかのようだ。人間というのは都合の悪い時は記憶喪失になる傾向があるので彼女もそれなのだろう。
真っ逆さまにゴミ箱へ落ちていったコーヒーゼリーを惜しむ和茶美に憐みを込めた視線を向ける千冬。いくら好物だとしても異常なまでに心を傾けてしまうその中毒症状を可哀想に思ってのことだった。そういう千冬はブラコンが危険領域一歩手前まで来ているのだが、彼女はそれを自覚していないので関係なかった。
「くぅ~ん。私の心のオアシスが~。夢と希望と明日と将来がぁ~」
「無駄に重いな」
「加害者は所詮心無いことしか言えないんですよ。こーゆーのは被害者にしか、経験者にしか分からないんです。心臓がきゅーって、お腹もきゅーってなるものなんですって」
「心臓に関しては病気だ。腹に関しては……よっぽど腹減ってたんだな」
和茶美の熱のこもった抗議を、冷静にぶった切っていく千冬。昔に学んだ剣道が生きていた。
「心無い言葉。まるで人間じゃないみたいですね。ああ、そもそも人間じゃありませんでした。人里に紛れ込んだ血も涙もない鬼でした。クソですね」
「ほう……ほうほうほーう。それが今世最後の言葉か。ずいぶんと立派じゃあないか」
さきほど和茶美を襲った長方形の平べったいモノ、通称出席簿を投げ捨てて拳を振り上げる千冬。飛んでいった出席簿は他の先生に命中したのだが、和茶美にも千冬にも見えていなかった。
「あ、あはは。その程度の暴力でどうにかできるほど私は脆くありませんって言いませんでしたか」
一般教師なら素足で逃げ出してしまうほどの殺気を受けても和茶美はゴミ箱から目をそらさずにいた。別に血走った目の千冬と視線を合わせられないわけではない。ただ顔を合わせる勇気がないだけなのだ。
「よーし。じゃあこっちを向いてみようか」
「嫌です。今の私はコーヒーゼリーに哀悼の意を捧げるのにいっぱいいっぱいだから」
「逃げの一手だな」
「そんな挑発には乗りませーん。分かったらしっかり構えなさい!」
しっかりと売り言葉を買った和茶美が千冬の顔を見る。しかし名残惜しげに視線はゴミ箱を盗み見ている。
「幾ら世界最強と言えど私には勝てませんよ。この私の身体は元カレに散々ぱら開発されていますから」
「えっ!?」
部屋の中が騒めく。和茶美の堂々たるカミングアウトのせいで。
言った本人は周囲の反応に逆に困惑していた。どうしてこんなことでおかしな反応をされなければならないのかと。もしかして私はおかしな日本語の使い方をしてしまったのだろうかと。
都京和茶美は自分の言った内容を吟味して再度困惑した。別段私はおかしなことを言っていないと。じゃあなんでこんな不穏な空気が流れているのかと。
和茶美は全く気がついていないのだ。一般的に『身体は元カレに開発された』という一文は大っぴらに言うべき言葉ではないということを。世間一般では健全な中学生や高校生に説明できないような意味を持つことを分かっていなかったのだ。
しかしそれはしょうがない。和茶美が当時付き合っていた彼氏が開発という言葉を誤用してしまったのが原因だからだ。
和茶美。俺がお前の身体を徹底的に開発してやる。
あ、あの真貴くん。かかかか開発って何をするんですか?
そうだな。まずは体力作りの為にランニングだ。
ランニングですか? あんまり得意じゃないんですけど。
体力がついたら、柔道や合気道、少林寺拳法、システマ、クラブマガ、フルコンタクトカラテ、ムエタイ、サンボ……他は追って考えることにしよう。
は、はい。私の身体を開発してください。
と、このように初恋の相手によって開発=肉体開発(戦闘的)と植えつけられてしまっていたのだ。
「……え?」
周囲の騒めきに対して意味が分かっていないのはもう一人いた。世界最強の称号を持つ彼氏いない歴=年齢の織斑千冬だ。彼女は早期にブラコンを拗らせてしまい、さらに家庭事情のせいで学生時代も今も男と付き合うことをしてこなかった。更に元々本人の性格が社交的ではなく、またそれをなんとかできるかもしれない友人も社交のしゃの字も知らないような極度の社会不適合者だったために男なんて弟以外の接点はない。もっと言えば彼女はISの世界大会で一位を取るほどの女傑であり、男からしてみれば手を出しにくいものだった。まるで取り巻く全てが男を寄せ付けさせない。こうなると男女間における生々しい保健体育の話も縁がなく知識は今日日中学生にも劣る。
故に理解できていないのだ織斑千冬は。
片や間違った知識を持ち。
片や無知。
悪い意味で互角の勝負だった。
知識面では勝負がつかないしそもそも勝負してないので、これから二人は盛大な殴り合いを行う。コーヒーゼリーの恨みと単純な悪口に対して腹が立ったから。これほど分かりやすい動機はない。
だが和茶美も千冬も拳を交えることはなかった。次の授業を知らせる鐘が鳴ったからだ。
今にも血で血を洗う喧嘩をおっぱじめようとした二人も教師という肩書きを持ち、ある程度真面目に取り組んでいることもあり予鈴を聞いて素直に喧嘩を中断した。まだ始まってない喧嘩だった。
時間も経ち所も変わって一年一組の教室。
現国の授業も許容範囲ないの無事で終わり生徒たちが次の授業に向けての準備を始めている中で、現国教師・都京和茶美はいまだ教壇の上にいた。今日予定していた範囲は時間内に終えることができたし、黒板は既にチョークの粉を万遍なく塗りたくったような綺麗なものへと変貌していたので黒板を消す必要はない。
では何故いたところで喜ばれない教師が教室にいるかというと、複数の生徒に取り囲まれて逃げ出すことができなくなっているからだ。
これから因縁つけられてボコボコにされる……なんてことはもちろんない。教師に手を挙げた瞬間に退学させられてしまうことを生徒たちはよく分かっているのだ。
ちなみに教師に対してラッキースケベをした場合、処分は被害者教師に任されている。まぁしかし大体はお咎めなしになるのだ。後ろ盾が怖いから。
和茶美は自身を取り囲む生徒たちをぐるりと見渡して溜息を吐き出した。先日も似たような経験をしたのだが、それと全く同じ顔ぶれに囲まれていた。
同じようなことを経験していくと自然と顔ぶれだけで用件も大体検討がつく。見当がつくから逃げ出したくなった。逃げたら追っかけられるからできないが。
「現国の先生なんですからどうにかしてください」
金髪巻き毛の生徒――セシリア・オルコットが教卓を両手で叩いて抗議してくる。これは脅しではないかと思っていいものだろうと、和茶美は警察沙汰にすることを考えた。所詮は知らない他人なのだ。
「そうよ。アイツの鈍感さはきっと国語の授業を怠ったからに違いないわ。小学校中学校の国語の先生が悪いなら連帯責任で高校の先生も悪いんだから」
ツーサイドアップの生徒――凰鈴音が理不尽を押し付けてくる。これは脅しではないかと思っていいものだろうと、和茶美は警察沙汰にすることを考えた。というかどうして二組の生徒が授業終わりすぐに一組に駆けつけているのかが気になっていた。
「武道は礼に始まって礼に終わる。それはまず学校の授業をきちんと教えてからだ。つまり一夏が礼を欠いているのは先生のせいに他なりません」
ポニーテールの生徒――篠ノ之箒が意味の分からないことを言ってくる。これはまず彼女に対して現国の補習をしなければいけないと、和茶美は自分の余暇の時間を削ることを考えた。礼云々いう彼女が寮内で木刀を振り回し器物損壊を、教室で真剣を振り回し殺人未遂及び銃刀法違反をしていることが引っかかるが治外法権なIS学園ではよくあることなのでツッコむのはやめた。直接被害もないし。
「嫁がああも鈍いのはやはり訓練をこなしていないからだ。訓練を上手く行うには良き教官が必要だ。だから今すぐもっと良いのと後退しろ」
銀髪眼帯ロリ軍人――ラウラ・ボーデヴィッヒにリコールされそうになった。和茶美は精進しますからどうかそれだけはと懇願する以外に道は残されていなかった。
「え、あー。みんなそんなに先生を責めなくても。すみません都京先生。でもボクたちも一夏の鈍感さは国語力が原因じゃないかと思うんですよ」
元守ってあげたくなる系男子と思わせておいて男装女子――シャルロット・デュノアが闇金みたいな手口を使ってきた。これはもう彼女が計算高いあざとい女だと思うべきかと和茶美は真剣に悩んだ。
集まった五人の訴えの本質はたった一つ。
織斑一夏に恋をしましたが、どんなに好意を伝えても(遠回り)どんなにボディタッチをしても(暴力)どんなに手料理を振る舞おうとも(約一名問題外)鈍感すぎて何も発展しない。これはきっと一夏の国語力が低すぎるからだ。一体現国の先生は何をやってきたんだ。
というものだ。
乙女の恋心を尽く無下にしていく一夏に対する怒りが週一で爆発してはおそらく原因である現国教師に向いている。織斑一夏を含めた一年一組の生徒たちの現国を担当してまだ半年も経っていない和茶美には一切の責任はないはずなのにだ。
しかしながら、一夏の国語能力の低さに対する不満を持っているのは何もこの五人だけではない。
「あのですね。私だって織斑の読解力や文章表現力、漢字から意味などを理解する力が低いことに苛々してるんですよ。何ですか、全然分かりませんって。作者の気持ちなんて作者にしか分からないって? 分かるような問題出してるんですから分かれって話ですよ。文章のあちことにちりばめたヒントを文字としてか認識してないで真面目に考えなさいって! 貴女たちも高校生になったんですからバラくらいは漢字で書きなさい。薔薇って、薔薇ってね」
せっかく綺麗にした黒板に『薔薇』を書いていく和茶美にどこからか感嘆の声が上がる。
「先生! 薔薇の話はけっこうですから」
シャルが止めに入る。誰かが止めに入らなければ和茶美は黒板を『薔薇』で染め上げてしまうことだろう。そうなると消すのが大変なのだ。
「とにかく、一夏さんの国語力を上げていただきたいのです。それも迅速に寝て起きたらアラ不思議くらいの早さで」
一日で底上げするように要求してくるセシリア。寝て起きたらの主語はきっと彼女なので、和茶美に寝ることを許さないのだろう。さすがイギリスの令嬢としか言えなかった。
和茶美としては眠る時間を削られるのは大変不本意なのでこの訴えを受け入れて問題に取り組む気はなかった。おそらく他の教師に土下座して頼み込んでも受け入れられない。だって、眠いしサービス残業扱いだし。和茶美もサービス残業はお断りだ。
「私にいい考えがあります」
サービス残業回避のための奇策を打ち出す和茶美。この台詞は大体失敗を意味しているのだが、今の彼女には関係なかった。
「幸いなことに織斑の身内が学園内にいますから、そっちに丸投げしちゃいましょう。身内の恥は身内が雪ぐべきなのですから」
ブラコンに全てを託す。提案者を含めた六人はすぐに無理だと悟った。あの体罰至上主義者の千冬では荷が勝ちすぎていると。教員免許を持っていないISだけの女に何ができるのかと。そしてブラコンな姉に劣らないシスコンな弟に彼女を差し向ければシスコンが増すだけで終わりだと思った。
「よし、私たちで何とかしよう」
「そうですわ。わたくしのエレガントなコーチングで」
「仕方ないわね。面倒をかけるんだから」
「嫁の教育をするのは務めだな」
「ラウラ……なんか問題だよ」
五人は決心する。織斑一夏国語力底上げ特別個人レッスンを。誰もがマンツーマンで教えること。あわよくばそのイベントを使って心の距離を縮めることを。仲間意識? そんなものは一切ない。
晴れて五人の拘束を逃れた和茶美はそそくさと教室を後にする。巻き込まれず済んだことを喜んでコーヒーゼリーで自身を祝うことにしたのだった。
「きっと無理でしょうね」
あの色に酔って互いを蹴落とすことしか考えてない五人の相手をする一夏を。和茶美はプルプルした食感と口内に広がる苦さを堪能しながらも憐れに思った。後日巻き込まれることも知らずに。