「最近、ちょっと肌寒くなってきたな」
日課の買い物から帰宅した途端、俺は室内の暖気にほっと息を吐いた。
紅葉の敷かれた商店街には木枯らしが吹き始めていて、先日までの暑さは無いものだったかのように消え去っていた。
「むしろ今まで半袖でいられた方がおかしいのよ。おかえり、千晃くん」
彼女は俺が帰ってくるなり、それまで読んでいた本を閉じて、ぱたぱたと玄関に走ってきた。
昨日まで着ていなかったライトブラウンのカーディガンが目を引く。
決して派手ではないが、彼女の落ち着いた雰囲気にはよく合っている。
「ねぇ、今日の晩御飯はなぁに?」
「サンマ焼こうか。今日はかなり安かったんだよ」
「そっか……もう九月も終わるものね」
「おう。サンマの旬だ」
そして、第二回、BoBの開催も迫っている。
その事実を前にしながら、俺はそれでも身が入らずにいた。先日の一件の後、一度もGGOにログインすらしていないほどだ。
朝田と過ごすこの日々は幸福で満たされているはずなのに、最後のピースが欠けているような気がして、不思議とただ虚しかった。
いつものように食事を終え、ゆったりとした時間を過ごす。
朝田はあれ以来大きな発作を起こしていない。
穏やかで平和な日々。何も問題なんてないはずなのに、胸中にあるしこりは消えないでいた。
まるで泥の中で呼吸をしているような閉塞感が、四六時中付き纏うのだ。
どうしたら開放されるのか、と考え始めたところで、疑問が浮かぶ。
なんで幸せに暮らせているはずなのに、こんなにも息苦しいのだろうか。
突如。普段は沈黙を保っているスマホが震え出し、それを盾に不快な思考から逃げ出した。
ゼクからのメールだ。仕事はしばらく休むと伝えたはずなのだが。
『俺の部屋でサシの話がしたい。問題なければ連絡くれ』
ゼクの部屋とは勿論GGO内部の物だろう。
時間は持て余しているくらいだ、軽く話すくらいなら日付が変わることすらないだろう。
朝田に一言告げて、俺はアミュスフィアに積もった埃を払い、電源ボタンに指を伸ばした。
前回の起動から、一ヶ月が経過していた。
「久しぶりであるなー、ゼク」
俺はそう言いながら、珍しく神妙な面持ちで琥珀色のグラスを傾けるゼクシードに軽く手を降った。
公式にそう言われた訳ではないが、GGOプレイヤーの間では、SBCグロッケンは、二層構造ということにされている。
落書きだらけでゴミと砂塵の吹き溜まる、スラムに片足突っ込んだ、繁華街の下層。
オレンジの街灯が、鏡のように磨かれた黒の道を常に照らす、居住区の上層。
居住区にプレイヤーが住むには相当の量のクレジットが要求されるので、態々ここの部屋を買おうという奇特な人間は少なかった。
何せ、街のそこら中に自身のアイテムを安全に保管するための個人倉庫へのアクセス端末が配置されているので、レアアイテムの保管のセキュリティも問題はない。
家具を置いてオシャレなGGOライフ?
GGOにおいてオシャレとは銃をカスタムすることだ。
そういう事情があるので、部屋を買う利点はもう密談をする程度しかないのだ。それだって、メールでいい気がするのだけれども。
「おう、久しぶり。まぁなんだ、とりあえず死んでなくて良かったよ」
「縁起でもない事言わんで欲しいのである」
「この業界じゃあ珍しい話でもねぇだろ。ダチが一ヶ月音信不通で仕事を休んでるのを心配するのは変か? お?」
ゼクシードから伝わってくる静かな怒りは、俺を思ってのものだろう。
外出用のの顔文字仮面と都市迷彩マントを外し、目を合わせる。
視界にいるのは、何時ものおちゃらけた三枚目ではない。
俺を真剣に心配して、怒っている友人だ。
「ごめん」
頭を下げる。ちょっと間を置いて、わしゃわしゃっと頭を掻く様な音が聞こえた。
「……いや、まぁ……なんかこっちこそわりぃな、お前にもお前の都合があるん、だろうし。ほら、頭上げろって」
その歯切れの悪さは不器用な思いやりの証左で、それがなんだか嬉しかった。
「それで? 何があったんだ? 一ヶ月ログインサボるってのは、ログイン代の三千円ドブに捨てるどころか、俺達プロの稼ぎのことも考えると何万もドブに捨ててんだぞ」
流石に環境までは変わってねぇけど、と言ったところで彼の発言は終わり、会話のターンは俺に回った。
この一ヶ月ログインしなかった理由。それは勿論、朝田の世話を付きっきりで焼いていたからだ。
それが間違いだとは思っていない。が、しかし。何故か胸にしこりがあるのも、また事実なのだ。
果たしてそれを、ネットゲームの知り合いに相談していいものなのだろうか。頭の血が、轟々と音を立てながら加熱していく。
朧気ではあるが、心が少しずつ削れていく感覚がある。
膨れ上がる不安と悩みを吐き出して、誰かにこの苦しみから開放して貰いたくて堪らなかった俺は結局、ネット倫理と恥をかなぐり捨てた。
「その、リアルの話も、めちゃくちゃ混じるんだけど」
「だぁから密談用の個室を用意したんだよ、トレソン君。話したくないなら俺は聞かない。でも、相談くらいには乗れると思うんだがな」
ゼクシードが気取った動きで仮想パネルを操作すると、彼が飲んでいるのと同じ種類であろうドリンクが虚空から量子の粒と共に現れる。琥珀の液体の上に氷の浮かぶそれは、いつも酒場で二人で飲む酒モドキだ。
一息に煽る。いつも通り不味く、ここのところ不安定続きの毎日を過ごす俺には、いつも通りのそれがありがたかった。
肩の力が程良く抜けた今なら、動転せずに語れるだろう。
「じゃあ……話すけど、その前に」
「前に?」
「トレソン君は死ぬほどダサいであるよ」
「やっぱり? 俺もそう思ってたんだよね」
軽口を叩いてから、俺はぽつりぽつりと、慎重に言葉を選びつつ、けれど、嘘だけはつかずに、目の前の友に、今まで隠し続けてきた、俺を取り巻く
朝田詩乃がシノンなのではないか、という仮定だけは隠したが。
「……という訳で……」
「なるほど。お前のそのツラ見るに自分でも話してるうちに理解したみてぇだが、そりゃお前のシスコンっぷりが足ぃ引っ張って空回りしてんだ。分かるかシスコン野郎」
「むぐぅ……」
ぐぅの音も出ない。むぐぅの音が出た。
そんな俺を横目にゼクシードはグラスを置き、指を組んで滔々と語り始めた。それはそれは珍しく、真剣な顔つきだった。
「結局、お前の妹分を守りたいっていう欲求と、自立させたいっていう理性がせめぎ合って、限界まで疲弊したお前は欲求に身を任せることを選んだんだ」
「ゼク、あんまり傷口を抉る様な事は言わんでほしいのである……」
「いや……よく頑張ったよ、お前は」
それまで苛烈でありながら理性的な言葉を機関銃のようにまくし立てていた彼が、急に俺を慰めた。
その相反した行動が俺の頭の中でぐるぐると回るも混ざることは無く、終わらない処理に脳が焼け付く。
何も考えたくない。
だから、次の言葉をただ求めた。同時に喚き散らす様はまるで母から餌を貰うのを待つ雛鳥だ。
正視出来ぬ滑稽さを晒している自覚がありながら、それでも言葉の濁流は止められなかった。
「俺は頑張れちゃねぇよ! ゼクの言った通り俺はやること為す事全部空回りだ! 俺の人生なんて全部中途半端の塊だ! 料理人にもなれねぇ! 筋金入りのプロゲーマーにもなれねぇ! 後輩どころか妹一人も幸せにしてやれねぇ……」
机にもたれ掛かるように俯く。
「俺は屑だ」
「トールよぉ、お前の年頃の時、俺はただ現実から逃げてVRゲームばっかやってたただの引きこもりだったんだぜ? お前は立派にやってるんだよ」
慰撫するような声が、俺の心の昏い炎に油を注いでいく。どうしようもなく喚き散らしたかったが、それだけは朧気に残る理性で押さえつけた。
「いいか。俺はただのプロゲーマーなんだ。お偉い病院の先生でも、人生経験豊富なカウンセラーでもなんでもねぇ。だから、何でもかんでも的確なアドバイスは出来ねぇ」
すうっと息を吸うと、それまでのシリアスな雰囲気は何処へやら、素人のトランペットのような騒がしさで、ゼクシードの怒涛の提案が始まった。
「まず後輩とは縁を切れ! 多分メンヘラの地雷女だろ、知らねぇけど! そんでもって妹分とはもう正式にくっつくか逆に思いっきり突き放せ! んでもって会うな!」
「そ、そんな横暴な……」
流石にそれが正しいとは思わないくらいの理性は残っていた。
「おう。俺はその二人のこと知らねぇからな。まぁ選択肢としてはナシじゃあないだろうが、どうするかはお前が考えろ」
「言われないでもそうする」
「そんで、トール」
彼からすれば、顔も知らぬ他人より、こっちの方がよほど大事なのだろう。一区切りして、一文字一文字を噛みしめるように、口を開いた。
「これだけは絶対に後悔しないって保証してやる。お前はGGOに戻ってこい」
それは今までの付き合いからは想像できないほど、重い、重い響きだった。
「その腑抜けたニートみてぇなツラ見て一瞬で分かったぞ。今やりてぇこと、ねぇんだろ? GGOで暴れ回ってた時のお前はな、お前の眼は、もっとギラッギラしてたんだ。未来の絶望なんか知らねぇ、一瞬一秒全てが宝だっていうツラだったんだ」
「やりたい、こと……」
思えば。
俺の人生は朝田に捧げるのだと、そう信じ込んでいた。だから、俺がやりたいことなんて、一度も考えたことも無かった。
けれど、それでは駄目だったのだ。
自分の人生を歩む事を怠ったから、こんな無様を晒している。
「なぁトール。俺達プロゲーマーってのは一見綺羅びやかだが、半分賤業みたいな扱いを受けてる。社会的立場なんてゴミみたいなモンだし、ゲームが消えればおしまいだ。俺達は普通のゲーマーからすりゃ雲の上の存在だが、そうじゃねぇ。クソ不安定な雲の上に立ってるんだよ」
ゼクシードが自嘲気味に話した内容は、確かにプロゲーマーという職業の抱える闇を端的に、しかし確実に表している。
スポンサーの意向で、ゲームの調整で、それどころか、発言一つが炎上すれば、最悪選手生命が断たれる。
存在すら曖昧な雲の床。言い得て妙だと、俺は普段は隠された彼の知性の一端に感嘆した。
けどよ、と、そこから彼は続けた。
「自分の足でしっかり立って、最高の眺めを堪能出来るんだ。雲の上にいる人間だけが見えるもの、お前も散々見て来たろ?」
どのプレイヤーも知らない場所を探索する、自然と口角が上がってしまうような高揚感。
名高い猛者に打ち勝った時の鳥肌が立つほどの全能感。
何より、
俺の人生は灰色だった。
何かに期待することもなく、ただ機械的に朝田を守る事のみを考えていた。
しかし、この荒野で、トーレントとして駆け抜けた思い出は全て、俺の記憶の中で一等色鮮やかに光り輝いている。
結局俺はこの、己の力が全ての荒野が好きだったのだ。
「ゼク。我輩、やるべきことが分かったである」
俺は郵便局での事件以来、色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざっていたのを、朝田への献身という形に変換して執着することで、全てに蓋をしていたのだ。
その蓋を開け放つ。
過去と決別し、未来を選び、掴み、歩む。
そうして初めて、俺の人生の止まっていた針が動き出すのだ。
「お、いつもの調子に戻ったか」
「今日何もかも吐き出して、やっと自分のやるべきことが分かったのである。それに……」
「それに?」
「泥の中より、雲の上の方が居心地が良さそうであるからな」
ゼクシードが首を傾げているが、そんなことがどうでも良くなるくらい、仮想世界の無味無臭の空気が肺腑に染み渡った。
それらが細胞一つ一つに染み込み、全身が作り変えられ、何もかもが素晴らしく好転していくような感覚。
錯覚だろう。それでも、今この瞬間が、どうしようもなく愛おしかった。
「ゼク」
「おう」
四十五度傾き、最敬礼。
「ありがとう」
「おう」
所在無さげに視線を宙にやる彼が柄にもなく照れているのを見て、つい笑みが溢れた。
「うおっ……! やめろやめろ! そのアバターで微笑まれるとホモになりそうだ!」
「そ……そんなに」
「おう。という訳で、そんな顔を生かした仕事がここにだな……」
なんと。俺を呼んだのは、商談込みだったらしい。抜け目ないゼクシードらしいと言えばその通りだが、なんとなく格好の付かない男だ、と思ってしまっても、仕方なくはないだろうか。
「MMOストリームって番組の新コーナー、今週の勝ち組さんの初回ゲスト、反響があれば準レギュラーって話でだな……」
「はぁ……分かった分かった、聞くであるよ」
その後、日がとっぷりと暮れるまで、俺達はひたすらに語りあった。
仕事の話も、
アミュスフィアを外すと、やはり隣で朝田がいつも通り読書に勤しんでいる。
その背中に、落ち着ききった声色で問うた。
「朝田は、狙撃手のシノンなのか?」
振り向く。三日月のような笑みを浮かべて、
「やっと気付いた?」
そう彼女は返した。
灰色の日々の終わり。
大幅改稿でございます。