俺に懐いた猫女が最高の狙撃手だった。   作:じぇのたみ

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気の遠くなるような昔の話

「おい千晃、今日は仕込み手伝う約束だろう」

「忘れてないって! 今着替えてるんだって!」

 

 階下からの声に倍の声量で返事をした。

 目覚めてすぐ時計を確認。俺は約束の時刻がまだ先であることを確認しながら、休日であるというのに慌ただしく着替えをしていた。

 唯一の保護者であるところの母親が突然姿を消してしばらくした頃、金が尽きた俺は役所に突撃した。それは、小五の夏のことだった。

 されるがままに親戚筋の辰尾と名乗る洋食屋のオーナーのおっさんに引き取られ、店の二階を自室として宛がわれて、もう二年近くは経つだろうか。

 電気も水もガスもあり、何より飯が旨い。

 以前とは段違いに快適な生活には大満足である……のだが。

 

「分かってるなら早く降りて来い!」

「朝っぱらから人使い荒いんだよ……」

 

 聞こえないようにぼやきながら、厨房に向かう。

 新しい親代わりはどうもとことん不器用なようで、俺はそれに振り回される日々を送っている。

 

「おっさん、おはようございます」

「おはよう。それとおっさんはやめろ、俺はまだ三十五だ」

 

 戯れ言を鼻で笑って流し、エプロンと使い捨ての帽子を手早く着け、入念に手を洗う。

 ここまでの工程を一つでも忘れていたら、とんでもない威力のデコピンを食らう羽目になる。

 飲食業における衛生管理の重要性はこの二年できっちり叩き込まれているので、そこに口答えをするつもりは流石になかった。

 キャベツ、玉ねぎ、ニンジン、その他諸々。黙々とそれらをスライサーで均一に切り刻む。ただ無心でそうしていると、意識を野太い声が占領した。

 

「その……あ~……どうだ、中学校生活は。もう二学期だが……友達は、出来たか?」

 

 口ごもりつつ、しかし単刀直入に、彼は俺の心に土足で踏み込んできた。言いづらそうにしている辺り、この男の性格が伝わるというものだ。

 

「いや、一人も」

「……そうか」

 

 多少不快ではあるが、彼の物言いは粗暴でありながら、大体の場合その内容は俺を思いやっているものなのだ、と二年かけて受け入れた俺は、嘘偽りなく、努めて平淡に返事を返した。

 辰尾に引き取られるまでの十一年と数ヶ月で、俺は人を信用することの愚かさを嫌というほど態度で、言葉で、終いには拳で叩き込まれた。

 あの地獄の日々から解放されても、俺の怒りや憎しみ、疑心暗鬼といった負の感情で構成された俺の心は、朝田以外の侵入を激しく拒み続けている。

 

「あっ……」

 

 肩に手を置かれ、その熱で一気に現実へと引き戻される。

 スライサーの上の野菜はいつの間にか限界まで薄くなっていた。

 後少しでも手を動かし続けていたら、鋼鉄の刃で削られた指から激しく出血する羽目になっただろう。

 

「後は俺がやる。お前はもう行っていいぞ」

 

 俺の千切りの方がスライサーより上等だからな、と事も無げに言い放つ。

 その言葉に甘えることにして、俺は厨房から出て普段着に着替える。

 

「あぁそうだ、千晃、郵便局であれ送って貰えると助かるんだが。大事なもんなんだ」

 

 太い指の指す方向を見ると、慎ましやかな色合いの封筒が机の上に置かれていた。持ってみると見た目よりもずっしりとしていて、大事なものという言葉に信憑性が増したような気がした。

 

「俺なんかにやらせていいのか?」

 

 重要な用事を俺のような野良犬に任せるつもりか、という意味の問いに、彼は何を言っているのか分からないとでも言いたげに首をかしげたので、曖昧に手を振りながら二階に引っ込み、そのままベッドの上に転がり込んで、枕元の使い込まれた携帯ゲーム機を起動した。

 昔は休日は日がな一日図書館に籠ることも多かったが、ここ二年はおっさんから小遣いが貰え、仕込みを手伝うようになってからはその額が増えているので、ある程度自由になる金が持てるようになった。

 そうして人生で初めて懐に余裕が生まれるようになってからは、前々から興味のあったゲームで遊ぶことが増えた。

 どうも朝田は本さえあればいいというスタンスらしいが、俺の関心は実際に自分の手で動かせるゲームの方に寄っていった。

 勿論本だからこその楽しみがあることも分かっているし、実際のところ、俺の本棚には隙間なく古本が敷き詰められている。

 

「まぁ、それはそれ、これはこれってやつなんだよな」

 

 俺は既に数年後発売されると噂のVRゲーム機のために貯金を始めていた。発売日はまだまだ未定のままだろうが、そう遠い話でもあるまい。

 絶対に発売日に買う。これは最早誓いだった。

 ちょっと休憩を挟もうとゲーム機をスリープモードにし、時計を確認すると、針は昼過ぎを告げていた。

 郵便局は日が暮れる前に閉まる。次に没頭から帰ってきたらもう閉まっていた……なんてことになれば、辰尾のおっさんから大目玉を食らってしまう。

 ランチタイムが終わったとはいえ、まだまだ客が多い時間帯だ。邪魔にならないように、そっと店を出なければならない。

 行ってきますとも言えないので、店の扉を開ける際に封筒を厨房からも見えるように掲げながら扉を開けた。

 チリンと鈴が鳴り、おっさんの視線がこちらに向けられる。封筒を視認したであろうタイミングで、すぐにまた慌ただしく手を動かす。

 それを確認した俺は、さっさと郵便局に向かって足を進め始めた。

 

「昼と夜はこれが面倒なんだよなぁ」

 

 一度、何故おっさんの家ではなく店の二階に俺を住まわせたのか聞いたことがある。その時は、

 

「俺の家は狭いし、本来客を入れるスペースだった二階の出番が全くないので丁度よかった」

 

 などと言っていたが、おそらくあれは何か隠している。そういった表情の機微を見抜くことが出来ることだけが、俺の取り柄と言ってもいい。

 閑話休題。俺が用事を聞いて後回しにしても怒声が飛んで来なかったことからも分かるように、俺の家兼おっさんの店から郵便局まではそう遠くはない。

 帰りやすい夕方まで何をして過ごすか、ということの方が、俺にとってはよほど重要だった。

 郵便局の自動ドアをくぐると、太陽よりも白い癖にどこか昏さを孕む蛍光灯の光が、淀んだ空気の中働く人達を照らしていた。

 正直なところ、俺はこの古びていて威圧的な雰囲気を全力で押し出しているこの場所が苦手だ。少なくとも好んで居たい場所ではない。ささっと封筒の発送を済ませ、削れた神経を休ませるために、椅子に深く腰掛け、背を丸め、両手で顔を覆うような姿勢を取った。

 その瞬間。

 

「千晃くん、疲れてるの? 大丈夫?」

 

 唐突に隣から、滑らかで透明なウィスパーボイスが聞こえてきて、俺は椅子から飛び上がりかけた。

 

「……朝田、人に声を掛ける時はもう少し驚かせないようにやるんだぞ」

「ごめんなさい。でも、千晃くんにしかしないし」

 

 普段より声のトーンをいくらか落としながら、いたずらそうに笑う彼女のほっぺたをむにっとつまんでやったが、何が面白いのかにまにまとした笑みを崩さない。

 この朝田詩乃という少女とは、図書室で意気投合して以来はぐれ者同士、親交を深めてきたのだ。

 元々上下関係を好まない悪戯好きな質だったようで、敬語と先輩呼びはあっという間に取れた。

 

「で、朝田はこんなところで何してるんだ。本を読む場所としては悪趣味だぞ」

「ん」

 

 朝田は指を栞代わりにした読みかけの本で、窓口のある方向を指した。そこには朝田の母が、覚束無い様子で何かの手続きを行っている姿が見えた。

 何をやっているのかまでは流石に分からない、というより知ったことではないが、とにかく朝田は母の付き添いで来ているのだろう。

 

「窓口での手続きとか、色々あるみたいで……まだ手をつけてない本を持ってきたんだけどね、半分読み終わっちゃったわ」

「それはまた……長いな」

「まぁね。でも分かってたことだし……それに、千晃くんも来たし」

 

 そういうと朝田は本と瞼を閉じて、俺の肩に寄り掛かってきた。

 カウンターの向こうから聞こえる紙の摩擦と、ボリュームの抑えられた職員の話し声だけが響く空間で、朝田の安らかな呼吸の音がやけに耳に残る。

 平穏。静寂。それらの残滓をかき集めて、彼女はなんとか生きている。

 その儚さが、無性に不安だった。

 

「なぁ朝田、お前、学校でうまくやれてるか?」

「藪から棒に何よ」

「いや、その……心配になって」

「バカね、千晃くん。私がそんなにひ弱に見える?」

 

 向き直り、俺の目を見てそう強気に言ってのける朝田だったが、強がりであることは簡単に分かった。

 朝田がこうした直接的なスキンシップを取るようになったのは、俺が小学校を卒業してからのことだ。

 朝田のガス抜きに付き合ってくれる友人は、俺の知る限りいない。

 同じ学校にいた頃は毎日のように一緒にいたけれど、今となっては週末に会えるかどうか、というところだ。心労は積もるばかりのはずだ。

 

「何かあったらうちに来るんだぞ。話くらいならいくらでも聞くから」

 

 頭をわしゃわしゃと撫でる。一見朝田の表情に変化はなかったが、耳の先が何故だか赤くなっていた。

 

「お父さんがいたら……こんな感じだったのかな」

 

 それは、遠い喧騒にすら掻き消されそうなほどの小さな声。

 

「お父さんよりお兄さんがいいんだけど」

「……! もうっ! 独り言聞くなんてサイテーなんだからねっ!」

 

 朝田がそっぽを向くのと同時に手を離そうとしたが、彼女の手がしっかりと頭を撫でていた腕を掴んでいた。

 今度はさっきとは反対に、髪型を直すように優しく撫でていく。

 どうも満足そうなので、そのまま手を動かし続ける。

 

「千晃くんこそ、辰尾さんとはうまくいってるの?」

「……分からない」

「分からないって、いいか悪いかも?」

「うん。俺、普通の親子を知らないから、どういうのが正しいのか分からないんだ」

 

 俺の発言に、朝田は何も言わなかった。

 朝田も、真っ当な家族がどんなものかなんて分かりっこないだろう。だからこそ、俺達は仲を深めることが出来たのだから。

 

「まぁ、探り探りやっていくよ。少なくとも理不尽に殴られたり、飯が食えなかったり、電気と水道が止められたりはしてないんだ。今までよりはマシさ」

「それは比較対象が悪過ぎるでしょ……」

 

 溜め息をつく朝田。肩をすくめる俺。

 この子と話していると、凍えた心に血が通うような気持ちにさせられる。

 だが、見知らぬ痩せぎすの男が自動ドアを通って入って来た時、その足音がどこか不穏で、弛緩した空気が一気に引き締まったような気がした。

 気付いたのは俺と……朝田だけだ。

 

「ねぇ、あの人……」

「あぁ」

 

 気取られないように、横目で確認する。

 頬骨の浮いた、不健康そうな顔。ダークグレーで統一された目立たない服。郵便局には似つかわしくない、大型のボストンバッグを片手に持つ姿は確かに不審と言えば不審だったが、そんなことがどうでもよくなるくらいに、眼が異常だった。

 眼球の位置に、真っ暗な穴が空いている。そう錯覚するほどに虚ろな瞳をしていた。

 それを目だと認識出来たのは、黄色く濁った白目が黒目とは対称的に、やけに生々しかったからだ。俺の母親ですら、もう少し綺麗な瞳をしていた。

 男のその不気味さに、脳内で警鐘が鳴り響く。朝田の手を握り、いつでも席を立てるように浅く座る。何故いきなり手を握られたのか理解していないのであろう朝田は顔を赤くして怒っているようだが、説明する気はなかった。

 出入口まではそう遠くない。男がそのまま用事を済ませて出ていくならばそれでいいし、怪しい素振りを見せたら朝田を連れて外まで逃げて、助けを呼べばいい。

 何も起こさずそのまま出ていってくれ──という願いも空しく。

 なおも一生懸命窓口で手続きをしていたらしい朝田の母を、粗暴な手付きで地面に突き飛ばした。

 即座に抗議しようと朝田が立ち上がり、つられて俺もそうした。

 唐突な暴力によってもたらされた、怖いくらいの静けさ。

 それにも臆することなく朝田は男の母への理不尽な振る舞いに抗議すべく声を上げようとしたようだが、ボストンバッグから取り出された物を見た瞬間、ひゅっと喉から音を鳴らし、声が出ることはなかった。

 艶のない黒色をした金属で作られた、人を殺すためだけの武器。本物なんて見たことはないが、男の覚束ない手付きからその重みが伝わってくる。

 拳銃だ。しかも、本物の。

 

「金を出せ! 鞄一杯に詰めろ!」

 

 口から泡を飛ばしながら、次々に要求を喚く。その視線は職員達に釘付けだ。今なら、逃げられる。

 

「行くぞ朝田」

 

 言いながら、握ったままの手を引いて出口に走ろうとした。

 が、しかし、朝田は動こうとはしなかった。

 

「お母さん、置いてけない……!」

「置いていけないつったって……!」

 

 涙目で訴える彼女を見て、下唇を噛む。

 どうする? どうすればいい? 

 朝田を無理矢理引っ張っていくのは無理だ。なら朝田の母親をここまで引っ張るか? それこそ無謀。放心状態で脱力している大人を運ぶなんて俺には出来ない。朝田を置いていくか? 

 

「──それが一番、あり得ないだろ」

 

 加速した思考は、鼓膜の痛みで断ち切られた。

 朝田の足元に軽い音と共に転がってきた金色の筒。血の滲む腹を押さえ、机ごと倒れる局員。

 銃撃があったのだと、ここでやっと理解した。

 なおも金を詰めるよう要求していた男だったが、怯えて動こうとしない局員達に業を煮やしたのか、遂に凶器を、客用スペースに向けた。

 しばらくふらふらとさまよっていた銃口の向きが定まった時──それは朝田の母親に向けられていた。

 それを見た朝田は小柄な体からは想像も出来ない力で俺の手を振り払い、男に向かって駆けた。

 

「お、おいっ!」

 

 止める間もなく、男の銃を握る手、その右手首に思いっきり齧り付く。

 その瞬間、形容しがたい、人とは思えない叫びを上げながら、男は銃を取り落とし、力任せに腕を振り回した。

 

「ぐっ……うぅ……」

 

 その箍の外れた力によって朝田の軽い体はいとも簡単に壁に叩き付けられ、口から苦悶の声と共に白い何かをこぼしたのが見えた。

 あれは、歯だ。

 あいつ朝田に手を出しやがった。

 今この瞬間、自分の中の理性が、猛り狂う怒りの手綱を握ることを放棄したのが分かる。

 

「糞野郎がァァァ!」

 

 衝動のままに、俺は強盗に思いっきり体当たりをした。

 勢いの付き過ぎた体はそのまま男を押し倒し、何度か回転して、ようやく止まる。

 マウントポジションを取られたのは俺の方だ。

 死ぬかもしれない。そう思ったのは、初めてのことだった。

 すぐさまパンチが飛んでくる……俺のその予想に反して、強盗の男はあらゆる激情が混ざった、オニキス色のグロテスクな瞳を忙しなく動かして何かを探していた。

 銃だ。あれこそがこいつの絶対的な優位を保証する、唯一の武器なのだ。

 男に先んじて見つけるべく俺も目に全神経を集中させ……やっとの思いで見つけた瞬間、時間が止まったかのような錯覚に襲われ、俺の呼吸は止まった。

 よりにもよって、朝田の手元にあったのだから。

 時を同じくして、男もそれを見たのだろう。俺など最初からいなかったかのように、朝田の方に猛然と駆け出した。

 拘束から解放された俺は、朝田を守るべく男の背中に飛び付き、羽交い締めにする。

 

「朝田! 速くそれを持って警察に……」

 

 行け、と。最後まで俺の言葉が紡がれることはなかった。

 正確には、銃声で掻き消されたのだ。

 花火のようでいて、それよりもずっと凶暴な音と臭い。

 ワンテンポ遅れて、体に感じたことのない種類の激痛が走った。

 意識が脳内と視界を支配する痛みのスパークに掻き乱され、薄れていく。

 その最中、朝田の信じられないものを見るような表情が、俺の記憶に焼き付く音が聞こえたような気がした。


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