さて、どうしたものか。
厠から例の部屋に戻る最中、凛は思考を巡らせる。
もちろん、件の心を閉ざした少女のことである。凛自信、先程しのぶ達に講釈したのはあくまでも前世で学んだ書物からの流用であり、実際にそうなった人と出会ったことはないのでなんとも言えない。
だがどちらにせよ、彼女をこのままの状態にしておくのは論外。せっかく蝶屋敷にいるのだから、心をしっかり治して、健やかに育ってほしいものである。そんな心は三十代の男であることから来る擁護心。前世で教師をしていただけに、生徒を思うのに似た思いがあるのかも知れない。
何にせよ、ゆっくりとしたケアが彼女には必要だ。
急がず、焦らず、じっくりと彼女のひび割れた精神を繋ぎ止めていくのだ。
荒療治など以ての外…
「ぴゃぁぁぁあああっ!?」
蝶屋敷に、絹を引き裂くかのような悲鳴が響き渡った。
劈くようなその声に、凛は思わず走り出していた。廊下だろうが構いやしない。なにか異常事態がこの蝶屋敷で起きているのだ。急がねば取り返しのつかないことになりかねない。
そして悲鳴の方角。それは凛が先程までいた縁側の部屋…つまり例の少女がいる部屋だ。
何があった!?
まさか賊が入り込んだのか!?
焦り、そして逸る気持ちをできるだけ抑えながら、凛はその部屋と廊下を隔てる襖を、スパーンと勢いよく開いた。
「フフフ…わが愛娘、凛ではないか。しばらくぶりだな。」
「父…上…?」
そこに居たのは父である譲治郎。
なぜ父がここにいるのか。
「フフフ…よもや蝶屋敷に差し入れをしに来たところで愛娘と鉢合わせとは…私もよくよく運が良いな。しかし…」
そう言って譲治郎は自身の視線を落とす。
「この程度の辛さで音を上げるとは…私が求める『麻婆の極致』に至れる同志など、そうそう作れたものではないな。」
彼の視線の先、
そこにはうつ伏せで倒れた件の少女。
倒れた先にはレンゲが転がっており、その中には、凛にとってトラウマ物の赤々とした『アレ』がこびり付いていた。
これらのロジックから導き出される解は、たったひとつ。たったひとつの
譲治郎はこの子に『アレ』を食べさせた。
「ち、父上?」
「フフフ…何かな?愛娘よ。」
「その手に持っているのは?」
凛が指摘する譲治郎の手。そこにはやや窪んだ直径六寸程の皿。嫌な予感とトラウマの匂いと、そして『アレ』の香りがプンプンする。
「私の作った新作だよ。蝶屋敷の皆に食べてもらおうとお裾分けに来たのだ。」
「で、この子に食べさせたんですか?」
「察しがいいな。玄関に誰もいなかったからこちらに回った。そこにこの娘がいたのだ。」
譲治郎曰く、
勝手は失礼とわかっていたが、上がらせてもらった。そこにいたのが例の少女。屋敷の者かと思い、声を掛けども微動だにしない。どうしたものかと困っていた折、少女のお腹が可愛らしく鳴ったのだ。おそらくは『コレ』の匂いに我慢できず、腹の虫が催促したのだろう。この匂いに空腹を示したと言う事は、同志となりうる素質を秘めている。そう判断して一口食べさせたのだという。
「やはりまだ改良が必要か。『麻』と『辣』の極致…その道は長く険しいな。」
「クロウ。」
麻婆への飽くなき探究心が留まらぬ父を他所に、凜は自身の鎹鴉を呼び出す。程なくして現れた彼は、現場の惨状を見て、一瞬で察する。
『…アー、マタカヨ。』
「うん、また。と言うことでよろしく。」
冷酷に、そして淡々とクロウに言伝を頼む。その眼はどこまでも虚ろで、そして冷たかった。
「どうしました!?さっきの悲鳴は!?」
遅れて駆けつけてきたのはアオイだった。そして部屋の惨状を見て、その顔色を見る見るうちに青く染めていく。
傍から見れば殺人現場である為、彼女が驚くのも意味はない。
『蝶屋敷殺人事件〜麻婆は死の香り〜』
と題して、後世に語り継がれる可能性が無いわけではない状況に、凜は身震いを禁じ得ないでいた。
「ぅ……。」
そんな中、ピクリ、と件の少女が身を震わせる。どうやら一命を取り留めたらしい(大袈裟)
凛は急ぎ彼女を抱えあげると、その目は薄っすらとながら見開かれていた。しかし、口の周りが辛さでひりついているのか、まるでタラコのように赤く腫れて痛々しい。
「良かった、生きてた。」
「フフフ…娘よ。父の料理を毒物か何かのように言うのは如何かと思うぞ?」
「
瞬間、何かがまるで突風が吹き荒れるかの如き勢いで蝶屋敷へと飛び込んてきた。その矛先は寸分違わず薄ら笑いを浮かべていた譲治郎の顔面に吸い込まれ、彼はまるでボロ雑巾のように吹き飛ばされて壁にめり込んだ。
もうもうと舞い上げられた粉塵。
そこからは割烹着に身を包み、その手に物干し竿を構えた見目麗しい女性の姿。
「母上、お久しゅうございます。」
「久しいですね凛。中々帰ってこないので心配していましたよ。」
其れは伝説に近い元鬼殺隊。
寿退隊してなお、未だ語り継がれる女傑。
その槍捌きは、隊を退いてなお健在。
美しい風貌から、彼女を求めて男女問わずに鬼殺隊に入らんとする若者が居た程だ。
「ち、千代…様?どうしてここに?」
「ふふ…私の主人が粗相をしたと、蒼…いえ、凛の鎹鴉から聞きましてね。急ぎ向かった次第です。」
アオイが震える中、さも当然のように応じる千代。その目は聖母のごとく慈愛に満ちており、彼女の心根がありありと伝わってきている。同性であるアオイすら見惚れてしまうほどに。
しかしクロウもそうだが、どれほど急いで来たのだろうか?
「犠牲者は……凛、その娘ですね?」
「うん。現場の状態と、父上の自白からそうみたい。」
気づいたは良いが、未だぼぉっとしている少女に、千代は膝を付いて視線を合わせる。
「私の主人がご迷惑を掛けてしまったみたいですね。貴女に心よりの謝罪を…。」
「………。」
「主人は私が責任を持って矯正します。後日、改めて本人にも謝罪させますので…。」
「……ぃ……。」
その赤く腫れた唇が、ほんの、ほんの僅か動いた。今まで微動だにしなかった彼女の口が動き、そして言葉を紡いだ。
「ぃた……かった……けど…、おいし……かった…。」
凛と千代は耳を疑った。
あの殺人麻婆をあろう事か『美味しかった』とッ!!そう言ったのだッ!!
おそらくは、彼女が味わった貧困生活。その中での食事は、もはや食事と言い難く、美味いと呼べるものではなかったのだろう。そんな彼女にとって初めてと言える『一応』マトモな料理である殺人麻婆豆腐は、辛さとともに味わう、初めての『美味しい』だった。
「フ…フフ……。ついに我が麻婆を美味いと称する者が現れた…!」
壁に大の字でめり込みながら愉悦の笑みを浮かべる譲治郎。コイツは全然反省していない。
「それでも、痛い目にあった事は事実です。」
立ち上がる千代。
その体からは例の黄金の気が滲み出ており、ゆらりゆらりと譲治郎に歩み寄る。こちらからは死角で見えないが、譲治郎の表情から察するに、千代の顔は相当ヤバイらしい。
「アナタ、今日はミッチリと、嫌と言っても止めないくらいに話をさせてもらいます。」
「や…その…千代…さん?」
「フフフ…あれ程激辛麻婆を作らないように言ったのに…イケないヒトですね?」
「ヒィィ…!」
妻という字には勝てはせぬ。
獅子奮迅の名を欲しいがままにしている隊士である譲治郎。前世を、そして前前世を知る凛は、今の彼を見て、前世の仲間達は何を思うだろうか?
「さぁ。家に帰ってたっぷりと話しましょうか?」
もはや逃げるすべなど無い。首筋を捕まれ、ズルズルと引き摺られて連行される父に、凜は只々心の中で合掌し、置いてきぼりを食らったアオイは、目の前で起こった騒動に付いて行けず、ポカンと口を開けているだけだった。