「クヒ…クヒヒ…!」
水面斬りは確かに入った。
その剣閃の軌道は頸を跳ねたはず。
にも拘わらず、目の前にいる異形は、相も変わらぬ嫌らしい笑みを浮かべて健在だった。
そして錆兎の手には、およそ刀身半ばで折れた日輪刀。恐らくは、普通の鬼と一線を画する頸の強固さに加えて、錆兎の日輪刀が一週間の選別の中で、数多の鬼を斬った事によって刃が摩耗していた。
「残念だったなぁ~?」
刀身半ばで、物の見事に折れた日輪刀。
唖然とする錆兎。
渾身の一撃を難なく耐えて心を折り、さらに唯一の武器たる日輪刀を折ることで戦闘を不可能にする。
無力感と絶望に打ち拉がれる様を、手鬼は満足げに眺めて嫌らしい笑みを浮かべていた。
「鱗滝ぃ~!また一人、お前の弟子があの世へ旅立つぞぉ~!じっくり、じっくり手足を1本ずつもいで、苦しみながら逝かせてやんよぉ!」
諦めるな、男なら!
そう常々自身と相方に言い聞かせてきた錆兎。
しかしこの状況を男だからと打破できると考えられるほど、盲目的なものではない。
(鱗滝さん、義勇、真菰…)
巨大な腕が、少しずつ迫り来る。
それは正に命の距離。捕まれば最期、残虐無惨に命を絶たれる。
もう、為す術はない。
(凛…済まない。)
そっと、目を閉じる。
死が迫る最中で、錆兎の視界に数多の映像のようなものが一挙して流れ出す。
走馬灯
幼き日に死した両親
そんな自身を拾い、厳しくも優しく育ててくれた鱗滝
ほぼ同期の弟弟子にして、無二の友である義勇
妹弟子で、自身達を慕ってくれる真菰
そして、この藤襲山で出会った新たな友である凛
まるでこの世との別れを惜しむかの如く、そして刻み込むかのように。
済まない…皆。
「諦めるな!錆兎!男なら!」
全集中 水の呼吸 捌ノ型 滝壷
張り上げる声が、自身を走馬灯から引きずり出す。
目を開いてみれば、紫の着物が視界を支配した。
「義勇…?」
「諦めるな…!俺達は、必ず生きて帰るんだ…鱗滝さん達の下に!」
ゴロリと転がる太い腕。
一閃されたそれは、縦への破壊力が強い滝壷によって、見事なまでの断面だった。
「惨めったらしく逃げても良い!男なら生きることを諦めるな!生きて帰るという約束を守れ!」
「…ははっ!お前に男の何たるかを説法されるとはな。」
立ち上がる錆兎。
その目には最早諦観の色はない。ただただ生き残る。それだけの決意が滲んでいた。
「ほぉ?貧弱に気絶してたお前が俺の腕を斬り落とすとは、正直驚きだよ。」
「不意を突かれただけだ。2度も同じ枷は踏まない。」
「いいねぇ…その反抗的な目。へし折り甲斐がある。」
手鬼にとって義勇が起きた程度など、それ程脅威ではないということなのか、未だ声色には余裕が伺える。
「宍色の餓鬼を殺ってから、じっくりと料理してやろうと思ってたが…抗う中で追い詰めるのもまた一興。」
奴にとっては殺すことはあくまでも結果であり、その過程をどうするか、どう愉しむか…それが大事らしい。
「先達の仇、ここで討つ!」
「やってみろ餓鬼ィィィ!!」
どうやら2人を相手取るにあたって、質より量を取ったらしい。
太い腕をバラして、普通の人間と変わらない腕を、雨霰と言わんばかりに伸ばしてくる。
咄嗟に飛び退く錆兎。
しかし義勇は日輪刀を下段に構えたまま動かない。しかも閉眼しているときた。
(義勇っ!?)
よもや避けないなどとは思うまい。
だが義勇から感じる気配は、不思議と落ち着いていた。
例えるなら、穏やかな水面のような、静かで、平静としたもの。
(この一週間…俺はアイツの…暁葉の剣技を水の呼吸に応用できるか試していた。最初に出会ったときの剣舞…その中の2つを。)
伍と漆ノ型
残月と無想覇斬
居合抜刀による素早い反撃の一撃と、間合いに入った相手を一閃する一撃。
その二つが、相手の動きに合わせて柔軟に対応できる水の呼吸に組み込みやすいと感じたのだ。
(間合いに入った相手を須く『凪』ぎ、斬り伏せる)
ヒュゥゥゥゥ…
目の前の鬼が、兄弟子達の仇というのは、何となく動かなかった身体でも耳に入った。
その怒りたるや、錆兎に引けも取らぬほど、腸は煮えくり返っている。
なのに、頭の中は透き通り、不思議と落ち着いていた。手鬼の腕が、まるで水の中で藻搔いて見えるほどに遅く感じた。
「死ぃぃぃねぇぇぇっ!!」
「義勇~っ!!」
迫り来る十は超える数多の腕。
今から飛び退いても間に合わない。
万事休すか。
そう錆兎は顔を顰める。
しかし
「全集中
水の呼吸
拾壱ノ型
凪」
瞬間、
眼前にまで迫ってきていた手鬼の腕は、見えない壁か何かに阻まれたかのように切り飛ばされた。
人外の皮膚色をしたそれらは、物の見事にバラバラになり、血飛沫を撒き散らしながらそこらかしこに飛び散ったのだ。
「な、なんだ…?お前、何をした…?」
完全に勝ったと確信していた手鬼でさえ狼狽え、何をされたのか、何が起こったのかが理解できずに居た。
「凪いだ。それだけだ。」
(あの一瞬で…?何という高速の斬撃…!)
錆兎も手鬼と同じくして義勇の凪に呆気に取られる。
今の今までその片鱗すら見せなかった新たな水の型。それをこの一週間で物にしたというのか。
(流石…流石義勇だ…!)
義勇の素養に驚きながらも、錆兎は心の奥がまるで打ち震えるかのように躍っていた。
この一週間でここまでの急成長。感嘆と共に、こちらも負けるまいとする思いが湧き上がってくる。
そして出来たのは、手鬼の大きな隙。
かなりの質量を先程の手に回したようで、再生がかなり遅い。更に義勇の凪が衝撃的な物なのは奴も同じだったようで、視線がこちらから外れている。
(呼吸を整えろ…!乱すな…!鱗滝さんの教えを思い出せ…!)
水の呼吸はその名の如く、水のように柔軟に、あらゆる状況下で対応できるものだ。
それだけに常に平静を保ち、呼吸を乱さず、常々水面の如く穏やかでなければその真価を発揮できない。
「全集中 水の呼吸 壱ノ型…」
「馬鹿かぁ!さっき通用しなかったのをもう忘れたのかぁ!」
効かない
そう確信した手鬼は攻勢に切り替える。義勇の凪によって切り払われた手を回復させながら、先ずは錆兎を仕留めんとする。
だが今の錆兎に焦りはない。
先程まで怒りで燃え狂っていた心は、穏やかに…しかし確かに静かな怒りの炎を灯している。
『明鏡止水…水の呼吸を極める先はそこにある。』
師である鱗滝は言っていた。
雑念を取り去った先にある、ただ1つの思考。澄み切った心。それこそが明鏡止水。
錆兎の意識はただ1つ。
目の前の鬼の首を断つ。
唯それだけが身体を突き動かしていた。
不思議と刀を握る手にいつも以上の力が籠もる。
それは確かな感触で、そして勝利への確信。
「水面斬り」
折れた刀身。
にも関わらず、強い手応えでもなく、だが確かな感触と共に腕を振り切れた。
その一閃は流麗の一語に尽きる。
刹那
水面斬りの一閃、その剣閃の軌跡を追うように、旋風が周囲を薙いだ。
「あ…れ…?」
気の抜けた声だ。
振り切られた日輪刀と共に宙を舞う鬼の頸。
何が起きたのか、何をされたのかを理解できないままに、切り口からサラサラと灰へと姿を変えていく。
「おれ…しぬのか…?
くらい…さむい…にいちゃん…どこだよぉ……て…つないでくれよ……」
目が消えゆく僅かな暇に、手鬼はその異様な目に大きな涙を浮かべながらその体躯を灰と変えて散っていった。
(しょうがねぇなぁ…ほれ繋ぐどー)
そんな幻聴とも取れる声に包まれながら。