呪力なしのテロリストが第三勢力として参戦する話 作:あれなん
「心臓や腸や腎臓がそうあるべき形に造られているというのに、心がその遺伝コードから特権的に自由であることなどありえない」
伊藤計劃「虐殺器官」より
その噂はじわりじわりと人々の日常を侵食した。その噂は893板やオカルト板が発端であったことを記憶している。
曰く、右翼が海外からヤバい奴を日本に連れてきた
曰く、フランス外国人部隊出身の暗殺のプロを国が秘密裏に雇ったらしい
曰く、その者はアフリカの紛争地で少年兵を鍛えた経験がある猛者だ
曰く、そいつが通った後は草ひとつ残さず根絶やしになる
一瞬だけその話題で持ちきりになったが、その後凄惨な殺人事件やら爆破事件が起こることもなく、一世を風靡していたインターネット関連会社が証券取引法違反の疑いで強制捜査されるとそのことは人々の頭から忘れ去られていった。
我々が普段目にする情報は他人の手によってあるいは自身の無意識によっていくつものフィルターが掛けられている。
日本で発砲事件があればマスメディアは近隣の人間からその発砲音がどんな乾いた音であったかを聞き、さも恐ろしげに垂れ流し、日本国内では宝くじに当たるよりも低い確率の事柄について心底不安を煽らせる。
日本から飛行機で直行できる国では毎年約1万3000個の心臓を銃弾が機能停止させていることを取り上げもしない。
自身に火の粉がかからないなら問題ないという考え方はある意味正しい。自身の手の届く範囲の平和を確保できているのであれば支障はない。
だから世界の紛争状況や飢饉についてのニュースが流れると嫌なものを見たとばかりに瞬時にチャンネルを変え、流行のグルメやら芸能人の不倫やらを取り扱うエンタメニュースをみて無意識のうちに取捨選択し、自身でフィルターを掛けるのだ。
日々の呑気なエンタメニュースでふやかされ、大脳皮質の皺が少しばかり減ったことが原因なのか、日本がスパイ天国と揶揄されているのは有名な話だ。
その蛞蝓が這うほどゆっくりとした異変に気が付いたのは呪霊に対峙している高専の生徒だった。
「おい、なんか最近呪霊の雰囲気ちがくねぇか?」
禪院真希はその高い身体能力と勘の良さで微妙な違いを感じ取っていた。同じ任務に就いていたパンダや狗巻は首を傾げる。
「…たぶん私の気のせいだから大丈夫だ」
そう言って話を変えた。
人間の負の感情が呪霊となることは呪術師であれば当たり前に知っている。その負の感情にも波があり、それを祓う呪術師にも繁忙期というものは存在する。
特に等級も低い真希は下級の呪霊を祓うことがほとんどだ。もちろん呪霊にも地域差はある。同じ等級であっても人口が多いほど呪霊は意識を持ち狡猾になる。
その下級の呪霊が、ただ真っ直ぐ襲い掛かってくることしかできないはずが、真希の攻撃を避ける動作や周囲の物をうまく利用しようとするような動きをしたのだ。これが3級以上ならその行動も理解できるが、4級でこんな動きをする呪霊は初めてであった。初めは情報の誤りだと思っていたが、全体的に同様の動きをし出すと自身が感じていた違和感が正しかったことを知った。
人々はどの時代においても誰かを褒め、同じ口で誰かを貶してきた。口にできないことであっても、文字にしたためた。
技術が向上するとそれも簡略になり、速さが求められ、メッセージを打ち込み送信すると相手の元に即座に届く。また匿名で自身の意見を投げつけることができる場が生まれると、そこは四六時中文字で溢れかえることになった。
その中には猥雑で愚劣な言葉もあった。口に出さず、匿名となると人々は軽々しくその言葉を排出する。
春を象徴する花が散る頃には呪術師たちははっきりとした異変を感じるようになった。あらかさまに犯罪件数が増えた。それも詐欺などではなく人が人を直接害する事件や殴り合いの喧嘩などである。
それは呪術師同士でもそれは起こり、呪詛師同士に至っては殺し合いに発展し呪術界はその対応に追われた。
呪霊も凶暴さを増し、ツーマンセルで当たらせていた任務をスリーマンセルに変更するなど対策を取らざるを得なかった。
眼鏡のレンズを隔てて碧眼が夏油の姿を捉えた。服からのぞく手首や鎖骨は、握れば軽い音を立てて折れそうなほど細く、日に当たらない生活をしているのか抜けるように白い肌だ。
随分と大人びた話し方をするからだろうか。見た目だけなら中学生にも見えるがはっきりとした年齢は断定できなかった。
肩甲骨あたりまで伸ばされている黒髪は風に弄ばれその顔を隠す。今のように雑踏に立っているとふと目を離した瞬間に人の波に攫われそうだ。
「私は非呪術師を抹殺したいだけであって、呪術師は殺すつもりはないんだ」
深くフードを被った夏油は、信号待ちをしているふりをしながら隣の青年に語りかけた。青年が指定した場所は都内でも人が多い交差点だった。
「……ぼくのこと前みたいにmonkeyとはいわないんだね」
仲間しかいない時にはそう言ったが、この青年の前では猿とは言った覚えがなかった。肌が粟立つ。
「…君の目的は一体なんなんだい?」
「――ぼくはこの世界に、衝撃を与えたい」
そこに能力の有無は関係ないんだよ。
そう言って青年は夏油に微笑んだ。