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びょうびょうと吹き付ける風の音に目を開けると、眼前は白一色だった。
この場所はいつ来ても雪に塗れている。
薄着の体に容赦なく叩き付ける雪の中を進んでいくと突然、白以外の色が目に飛び込んできた。赤。何かが激しい火柱を上げて燃えている……。ぷんと漂って来た胸の悪くなる臭いと、ばちばちという肉の爆ぜる音に、聖奈は、ああこれはいつもの夢なのかと確信した。3メートルほど先で景気良く燃えているのは人間なのだった。
この夢とは7歳の頃からだから、もう10年程の付き合いになるだろうか(まったくもって嬉しくないが)。最初の頃こそ叫んで跳び起きていたが、この頃になるともう見飽きたものだ。それでも聖奈がこの夢に惹き付けられて止まないのは、この夢が、彼の父親に関連する唯一の記憶であるからだった。
槙嶋聖奈には物心付いた時から両親がいなかった。
寂れた小さな家に叔母と2人きりで生活していた。
そしてこの叔母の言うことには母親は聖奈を生んだあと、産後の肥立ちが悪く死んでしまったという。だから、聖奈は当然の如く母親の顔を知らない。そして父親は、聖奈が7つの時に消息を絶った。それきりだ。それで、聖奈は叔母と2人きりで暮らしている。
どさっと雪の上に物が倒れる音がした(そうだ、ここはまだ夢の中だった)。
雪の上にうつ伏せに倒れてもなお、炎は衰えず、降り続ける雪が炎に飲み込まれていく。それを少し眺めてから、次に聖奈は視線を横に動かした。凍りついた表情の子供がいる。薄汚れて粗末な服を着たその子供は幼い頃の自分である。
要するにこの雪と炎の夢は、槙嶋聖奈の実体験に基づくものであった。
そして先に言ったように『父親に関連する唯一の記憶』でもあった。
と、言っても聖奈自身、詳細に覚えている訳ではない。覚えていたらこんな胸糞悪い夢に頼ってまで父親のことを探ろうとはしない。それで、この夢が、本当にいつも通りならば、そろそろあの燃えている奴が起き上がるはずだ。そして、余りの恐怖に固まる自分の前までくると、燃える手で顔面の右半分を掴むのだった(だが、熱くない。夢だからだろうか)。
「――っ!!」
ハッと目を覚ました聖奈は起き上がった。全身にじっとりと不快な汗をかいていた。濡れる前髪に指を突っ込むと、雨に濡れたようだった。床に降りると、幼い頃から使っている粗末な木製のベッドは大きく軋んだ。とにかく物のない時代だからしかたがないとはいえ、もっといいベッドで寝たいと、時々思う。
シャワーでも浴びたい所だが、ちと面倒だったので、床に落ちていたタオルで適当に汗を拭き取ってから、聖奈は着替えた。洗いざらしのモスグリーンのタンクトップに、黒地に緑チェックの裾の擦り切れたスラックス。これに黒のブレザーを羽織って、長い前髪をサングラスで上げれば、全くいつも通りの『通学スタイル』の出来上がりである。
顔を洗いにいった洗面所の鏡に映った自分の顔を、聖奈はじっと眺めてみた――まァ、自分に見惚れる高尚な趣味はないのだけれど。それでもなかなか整った顔立ち、といっても差し支えはないだろう。実際、学校ではなかなか人気が有ったらしい。少年の荒々しさと、少女の可憐さを併せ持つ、しかし、だからといって中性的というわけではなくどちらかというと粗野な感じのする顔立ちだった。要するに魅力的な顔ということだ。いやはや。
居間に行くと叔母はいなかった。朝早くから何処かへ出掛けているらしい。それならそれで好都合だ。こんな日にまでうるさく口出しされるのは御免だった。
聖奈は机の上の袋からパンを一枚取りだして立ったまま食べた。そして、食べ終わると荷物を持って家を出た。
もう、暫らくは帰る事もないだろう家をじっと見てからくるりと背を向けた。建物が密集する外部居住区の狭い通路を歩いて向かうのは、中央に高くそびえるフェンリル極東支部――通称アナグラ。
アナグラは、非力な人類の盾となり剣となるべき神喰いの餓狼たちの巣穴である。いまや説明するべくもないが、この世界は死にかけだった。ほんの20数年前にこの地球上に突如現れた『アラガミ』と呼ばれる生命体に文明も人も喰い尽されてしまった。だが、殆ど謎のこの敵に対して反旗を翻したのはやはり人間だった。アラガミに対抗しうる技術を開発・所持する『フェンリル』は、元は生物工学、生物化学に特化した、穀物メジャー資本の一企業に過ぎなかったにも関わらず今では『人類の保護と科学技術の復興』を掲げて活動する団体であり、事実上の世界の盟主でもあった(なんとも御立派な事だ)。
そのフェンリルが開発した生体兵器『神機』を駆るものが、『神機使い』とよばれる背に氷狼のエンブレムを背負った神殺しの者であり、聖奈の父親も、その神機使い――だったらしい。そして、聖奈がいまから飛び込む世界でもある。
聖奈は、スラックスのポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙切れを出した。それは、外部居住区にいる者に送られてくるフェンリルからの召集令状、神機の適合試験への招待状だった。慢性的に人不足のアナグラは定期的に神機使いの召集を行っているようだが、それでも物になるのは少ないらしい。任務中の殉職というのもあるが、適合試験に失敗する、つまり、試験中の死亡というのがあるようだ。
聖奈は礼状を無造作にポケットに突っ込む。
アナグラは、いまや目の前にあった。
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