ソイツが極東に現れたのは季節はずれの嵐の夜だった。
夕方に降りだした雨は、夜半になる頃にはバケツをひっくり返したような物に変わっていた。それだけでも嫌なのに、さらに横に殴りつけるような強風まで吹いている。風に流され飛ばされていく草やら葉っぱやらを目で追いながら、「参ったなァ」などと見張りの兵達は口々に言っていた。
この、『見張りの兵』というのは外部居住区の周囲をぐるりと囲む壁――アラガミ防壁の門番のことで、無論、フェンリルの職員ではあるがゴッドイーターではない。浅いグレーの制服にヘルメットを被り、肩からアサルトライフルを提げている。
まず最初にソイツに気が付いたのは中年の職員のほうだった。雨風で遮られた視界の先、恐らく1メートルほど先に、何か黒い物がフラフラと近付いてきていた。眉を寄せ、首を伸ばしてソレを見る。避難を求めてやって来た難民か? ――「あ!」っと、叫んだ。難民なんかじゃない。難民の方が遥かにマシだ。
ソレはアラガミだった。
「おい!」中年の職員は年若い職員に振向いた。「いますぐアナグラに報告しろ!」
「は、ハイ!」
それで漸く、彼も事の重大さに気付いたらしい。慌てて無線を手にした。
それを横に見ながら中年職員は、アサルトライフルを素早く構えるとアラガミの足元目掛けて掃射した。アラガミ相手に通常の武器による攻撃は聞かないと分かってはいるが威嚇程度にはなる。もっとも、それも長くは保たないだろうが……とにかく、この壁を越えさせるわけにはいかない。
「すぐに神機使いをこっちに寄越してくれるそうです!」
無線を切った成年職員が、中年職員同様にライフルを撃つ。
休みなく乱射される弾がアラガミの足元の地面を削った。しかし、アラガミはお構いなしにこっちへ向かって進んでくる。
「クソッ!」
弾切れになりそうな事に気付き毒づきながらマガジンを差し替えた。
ほんの一瞬目を離しただけなのに、その隙にアラガミは眼前まで迫って来ていた。その異様な姿に、2人は息を呑んだ。
全身真っ黒のソイツには顔がなかった。正しくは、目や鼻、口などの、顔を構成するパーツがないのだ。つまり、まったくののっぺらぼう――無貌のアラガミがそこにはいた。
「ひっ」っと成年職員が息が詰まったような音を漏らした。無理もない、長年、フェンリルに勤めている自分でもこんな奴は初めて見たのだから……
「邪魔だ、下がってろ」
ふと、風に紛れて頭上でそのような声がした。言われるがままに1、2歩下がるのと同時に影が降って来た。
影は神機の切っ先がアラガミの爪先を斬り飛ばした。更に返す刀でアラガミの銅を横薙ぎに斬り払おうとして、しかし、アラガミは後ろに跳び難を逃れた。
「ちっ」と舌打ちしながら神機を肩に担ぎなおしたソーマ・シックザールは改めてアラガミを観察した。見た事のない奴だ。だが、やる事はいつもと変わらない。
ソーマは、泥を撥ね上げ、泥濘るむ地面を蹴り素早くアラガミの懐へ飛び込むと股下から斬りあげた。しかし刃は身体の中間で食い込み止まった。真っ黒い身体の真ん中、ほの青く光る剥き出しのコアを破壊するまでには到らなかった。
アラガミの身体の横、だらりと下がった腕――腕というよりも触腕といったほうが適当だ。一体なにを捕食したのかこのアラガミはなんだか冒涜的なまでに不気味なデザインだ――が僅かにうごめくのが目の端に見えたので、ソーマは食い込んだ神機をムリヤリ引き抜きバックステップで距離を取った。それとほぼ同時に、さっきまで自分がいた場所に太く鋭い棘が生えた。成る程? 避けるのが少しでも遅かったら串刺しになっていたわけだ?
とりあえず職員を壁の中へ避難させた。
雨は激しくなる一方だった。全身を雨粒に叩かせながらソーマは神機の柄を強く握った。考えた。
現状、目の前のアラガミに果して自分が勝てるのか? と言えば、恐らく無理だろう。単純に力でねじ伏せるような事は可能だろうが、なにせ未知の敵だ――要するに情報がない(出る時にヒバリに可能な限りのデータを取るよう言ったがこの雨では無理だろう)。
アラガミは動かない。ふと、ソーマは、アラガミが極東支部の方を見ているのに気が付いた。目がないのに見えるのか? いや、そんなことはどうでもいいか。
次の瞬間、金属の擦れるような不快な音が響いた。
「くっ…!」
思いがけず怯み、耳を塞ぐ。これはヤツの咆哮らしいと気が付いた。空気がビリビリと振動している。
バサと羽ばたくような音に顔を向けるとヤツが飛び上がっていた。背中からは蝙蝠の羽根に似た漆黒の翼が突きだして、薄い皮膜に網のように細い血管が走っている。
「逃がすか…っ!」
今、ヤツをここで討ち漏らせば、後々厄介なことになる。
ソーマは神機をむしろ投げつけるようにして空中のアラガミへと叩きつけたが、すんでの所で当たらなかった。空ぶった神機の切っ先がぬかるんだ地面に突き刺さる。
アラガミはもう一度、極東支部の方を眺めたがすぐに向きを変え飛び去っていった。
気が付くと雨は上がり、周囲は不気味なほど静まり返っていた。
嵐がアレを連れてきたのか、それともアレが嵐を連れてきたのか…――
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夜半にそんな事があったことなど、先日の喧嘩の罰で懲罰房入りを命じられていた槙嶋聖奈は当然知る由もなかったが、妙な胸騒ぎがして粗雑なベッドの上で飛び起きた。それはちょうどソーマ・シックザールが例のアラガミと対峙したときだった。
全身に水を被ったように汗をかいているのに、にもかかわらず体の底からゾッと冷えていた。
ドアの上辺に空いている明り取りの窓から見えた通路は真っ暗で、まだ真夜中だとわかった。
もういちど寝ようと横になり毛布を被りなおそうとして、ふと、何か甲高い悲鳴のようなものが微かに聞こえてきた。
「う…」
瞬間、頭が激しく痛みだし呼吸が乱れた。痛みに喘ぎながらもがく様にベッドの上から床に落ちる。その音に、外にいたツバキが飛び込んできた。
「どうした!?」
ツバキは汗みずくの聖奈を抱き起こす。体が死人のように冷えている。ベッドから毛布を取り、聖奈の体に巻き付けると、ズボンのポケットから端末を取り出しすぐさま医者を呼びつけた。
ツバキは聖奈の頬をぴしゃぴしゃと何度か軽く叩く。聖奈の目がツバキを見る。刺激に反応はしているようだった。ツバキは内心ホッとした。
「喋れるか?」
「ウス」
と、返事はするもののやはり息苦しそうだ。
「今、医者を呼んだ」
「別にそんなんイイッスよ…」
「馬鹿者、良いわけあるか」
「こんなん、いつものことッスから」
そう、頭痛自体はいつものことなのだ。いつも見る“例の夢”の副作用に過ぎない。ただし、今日のような強烈な痛みは初めてだったが…。しかし聖奈は頭痛なんかよりもツバキに抱きかかえられているという状況の方が気になった。コメカミの付近に彼女の豊かな胸がある(以前コウタが「すげーよな」と評していたが確かに「すげー」)。同年代に比べて異性に興味のない聖奈でも、これにはちょっと困った。
「あの、もう平気ッスから…その…」
まさか、「胸が当たってる」などとはさすがの聖奈でも指摘するのは気恥ずかしい。ツバキ本人は気が付いていないようだし……
それに本当に頭痛が治まってきた。さっきまでの痛みが噓のように引いている。
そうこうしている内に呼びだされた軍医がやってきた。
「本当に大丈夫」と言ってベッドに戻ろうとする聖奈を、ツバキは半ば無理やり引き摺り出して軍医のオオグルマに引き渡した。
「いいから診てもらえ」
「ハァ」
「明日からの任務に支障が出たら困るだろう」
「ハァ」
ということは、謹慎は3日で解除か。思ったよりも短くて済んだな――。
オオグルマの後を少し遅れてついて行きながら聖奈は窓の外を見た。
季節外れの嵐はすっかり立ち去っていた。
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ここまでの閲覧ありがとうざいます。話の展開はもうちょっと早くても良いですか?
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もうちょっと早くても良い
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今くらいでちょうど良い
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もっとじっくりやってほしい