――篠ノ之束は、拍子抜けしていた。所詮は烏合の技術者が組んだプログラム。電脳世界の防壁など束の顔を見るなり道を開けていた。
外部からのアクセス権限でできることなどたかが知れている。しかし、そこに天才の二文字が加わることで不可能は可能へと変化するのだ。軌道修正は今からでは間に合わない。液体燃料を用いたICBMの軌道修正は早期段階で行われ、以降は不慮の事故が起きないようにと祈るばかりだ。だから束はICBM内のシステムにアクセスして起動しないように弄ってやろうかとキーボードを叩き――難癖のパスワードを前にして手を止めた。
二重三重というような生易しい防御プログラムではない。二十三十とそこから先だけが段違いに数が多かった。それを組んだのが誰なのかすぐに想像できる。
「…………ふーん」
だがやはり、所詮は秀才の域を出ない天才だ。束の手にかかれば困窮極めたプログラムの防衛網などあっという間に紐解かれる。そして勝ち誇った笑みで最後のパスワードを前にして……
篠ノ之束の笑みが凍りついた。
それは、言うなれば答えのない暗証番号。入力に失敗しても、仮に万が一成功したとしても束の敗北は決定していた。そこに至るまで踏みにじられた霧島の叡智など、その布石でしかない。必ずそこに至り、束はメッセージに目を通すと信じ切っていたからこそ仕組めたキラートラップ。
此処に来て――敗北を喫した。脳天を殴られたような錯覚、目眩、呼吸が辛い。パスワードの入力画面が束の言葉を待っていた。
最後のそれだけは外部からのアクセスであろうと、入力されれば必ず霧島にメッセージが届くようにプログラミングされている。だからこそ余計に入力が躊躇われていた。
最低な男だと、心底本気でそう思う。なぜ同じ国に生まれて、なぜ同じ世界で生きているのかすら嫌悪するほどに心をかき乱してくれる。八つ裂きにしても足りないくらいだ。
例え、世界が危機に陥ったとしても束はその言葉を入力する気にはなれなかった。腹立たしいことに、臓物が煮えくり返ることに、五臓六腑に溶かした鉄を流し込む苦渋の果てに。
篠ノ之束は、たった一度の敗北を飲んだ。
『PASSWORD:_』
「…………最っ、低」
その暗号は分かる。理解できる、言葉として。だが頭が理解出来なかった。一文字も入力するわけにはいかない。
今まで殺してしまいたいと思っていた、今はそれ以上の心境だ。
吐いて捨てた言葉は掛け値なしに向けた憎悪だった。
『アイシテイル』
その一言だけは、どうしても入力できない。するわけにいかない。誰が愛するものか。嘘でも何でも、それだけは絶対に。
「……もしもし、ちーちゃん? うん、私だよ。ごめんねー。今回ばかりはアイツに勝てなかった……ううん、勝つわけにはいかなかったよ」
既にICBMは衛星軌道へ到達した。あとは覚醒するまでの間、漂うだけだ。
「でも代わりに、あれがなんなのか分かったよ。考える事は下衆の極みだけどね」
せめてもの慰み程度にウイルスでも流し込んでやろうかと思った。しかしそうするまでもなく中身は支離滅裂だ、手の施しようがないほどに。何を思ってそんなデータを組んだのかすら分からないが、所詮は狂人の類だ。何をしでかしてもおかしくはない。
「驚いちゃったなぁ……人間、手段を選ばないとああも平然と世界を敵に出来ちゃうんだから。束さんもビックリだよー」
『――――』
受話器の向こうは黙りこくっていた。ただただ無言を貫き通している。
「だから、ごめんね。ちーちゃん。世界の命運はいっくん達次第。私にできるのはここまで。後は祈るくらいしか出来ないよ」
『そうか』
短くそれだけを告げて、千冬は通話を切った。
モニターを睨みながら変わらない劣勢に、テーブルを叩きつける。
「一夏! 霧島に近づけ! そこにいるバカに私の声が聞こえるくらい接近しろ!」
『でも、千冬姉!』
「いいから行けっ! どうしても言いたいことがある!」
『……分かった!』
一夏は武装甲板の沈黙をラウラと鈴音に任せ、箒と共に霧島に接近する。白刃を一閃、剣戟を鳴らしながら鍔迫り合いに持ち込む。愚策ではあるが、これが最も近い。
「聞こえるか、霧島!」
『…………』
「返事はいい、聞こえているだろう! お前は確かに最高の技術者だよ、それは認めてやる! だが、お前は……!」
腹の底から、本気で吐き出す千冬の怒りだった。
「私が知る限り、最低の男だッ! 世界一最低の、霧島深崎だ!」
『それは、喜ばしいことだ。彼女と真逆の道を選んだ私に贈られる最高の賛辞ですよ、千冬さん』
一夏の短い悲鳴。加えて箒、鈴音、ラウラの四人を相手にしても尚一歩も引くことのない実力は退くことすら叶わない火事場の馬鹿力か。否、そうではない。そうまでして、漸く霧島は束に届くのだ。
僅か数秒で終わる勝敗に生涯の全てを注いで、何もかも犠牲にして利用して。やっと人の域の秀才は、人の枠で測れない天才の足元に届く。
「こんな……こんな、馬鹿げた事のためにお前は……!」
けたたましい機銃の掃射音。鼓膜をつんざく大砲の轟音、耳鳴りがするほどのミサイルの爆発音、戦場の不協和音がモニターの向こうから嫌というほど聞こえてくる。ろくに声も届かない。
「お前は、束を救いたいと思っているのか」
絞り出すような千冬の声は、震えていた。
――戦況は一夏達の劣勢のまま膠着していた。それは霧島だけでなく編成された艦隊を含めて水上要塞モービー・ディック号の持つ莫大な火力を目の前にして。どれほどISが世界最強の名を欲しいままにしても所詮それは人間の扱う兵器だ。どれほどの機動力・攻撃力・防御力を持っていたとしても限界は存在する。
霧島はそれら全てを用意して専用機四機を前にやっと互角の勝負に持ち込んだ。
「くそ、まるで修羅だな……」
「腕の数からして阿修羅でしょ」
箒に鈴音は呆れた言葉を返す。言葉遊びなどしてる状況でもない。
沈黙させた武装甲板で四人と一人は睨み合う。集中砲火は今のところ止んでいるが、包囲網の中にいるのには変わりない。
上空に飛べば最大仰角で主砲とミサイル。海に逃げれば艦隊の砲撃。そして今、鯨の背中には武装甲板の群れ。自分達から胃の中に飛び込んだものだ。
シールドエネルギーの残量はまだ半分ほど残っている。霧島の攻撃は確かに強烈ではあるが、長く攻撃を続けられない。完全近接仕様である以上、接近さえさせなければエネルギーの減少も怖くなかった。他の攻撃に関しても当たれば確かに痛いが、そうそう当たることはない。
(……残り、二十分程度ですか)
制限時間まで持ちこたえれば、自分の勝利だ。とうとう束は最後のパスワードを入力しなかった事に、些か寂しさを覚えながら霧島は青空を見上げる。
果たして、自分が生きていられるかどうか。
突如として霧島が膝を着いた。兜の隙間から胸部装甲に血が滴る。
「霧島さん……!?」
『……少々、無理をしすぎましたか』
OAシステムを今までに無いほど連発し過ぎた。耐Gスーツを着込んでいるがそれでもこの頻度は今までにない。内臓が圧迫され、血液の流れがおかしくなっても無理はなかった。現に霧島の視界は霞んでいる。呼吸を整え、納刀。
徒手空拳のまま黒武者は徹底抗戦の意思を見せた。
ならば、戦法を変えるだけだ。
「もう止めてくれ! 俺たちはただ友達を助けたいだけなんだ!」
『彼女達を助けに行くのなら、構いません。ですが私は全てのISを破壊すると決めた』
「どうしてそんなことを」
『さて、何故でしょうね……そんなことをしても世界は変えられないというのに……』
もしかしたら、という希望があった。もしかすれば、という願望があったのかもしれない。そうすればその先に、ひと握りの幸せがあったのだろうと、夢想した。
結局はそんな物、何処にも有りはしなかったというのに。
『残り二十分を切りましたよ?』
グレイファントムの起動まで。
依頼屋の鎮圧にはまだ二時間以上の余裕がある。一夏達のタイムリミットはそれだ。
「……く、そぉぉぉっ!!」
遮二無二構わず、白式を走らせる。霧島を倒す以外に無い。