「今日は良い猫日和だねぇ。大井っち」
「ちょ、ちょっと、出撃が近いかもしれないのに縁起でもないですよ。上に聞かれたら不味いですって。北上さん」
思わず寝ころびたくなるような柔らかな日差しに包まれた日のことを『猫日和』と、彼女はいつもそう呼んでいた。前世紀では社会問題と呼ばれるほどあちこちに居たらしい野良猫も、食糧難な世の中では見かけることはごく稀だ。だからレアものと会える貴重な日は欠かさず北上さんここに通い、機嫌のよい彼女の横顔を拝むべく、私もそれに付いていくようになっていた。
「やっぱりこの堤防が一番気持ち良いよね」
白猫の頭から背中にかけてを撫で続ける北上さんからは、今日のおひさまの比じゃないくらいに暖かな声が発せられる。
女神さまに撫でて頂けるなんて、下等生物の癖になんて羨ましい奴め。前世で一体どんな得を積んだらお前みたいになれるというの。
お前なんか間抜け顔の癖に。どうして北上さんはこんな不細工を構いたがるのだろう。
「あっ、逃げた。ほらそんな怖い顔しているから」
ふ、雑魚ね。私の眼光に気付いた不貞者はノソノソと堤防から歩き去る。ロマンチックな空間を二人占めできることに思わず顔が綻びそうになるけれども、私は敢えて真顔を保ったまま北上さんに話しかける。
「鹿屋基地撤退に続いて、あの佐世保の第一から第四艦隊までもが壊滅的損害。そう聞いたばかりではこんな顔にもなりますよ」
海外拠点はほぼ全滅、防衛線を何度も後退を重ねた末に遂に南から本土も落とされ始めた。規模、練度ともに国内有数の舞鶴と呉に加え、関東防衛の要である最古の鎮守府、横須賀ですらも強硬作戦の要請が近いうちに来る見込みだと、秘書艦の叢雲からこっそり教えてもらっていた。
「あー、なんかアレな感じだなぁー。そう、切羽詰まっているのは確かに感じるよね。最近あたしにも妙な兵器を試せだとか上が五月蠅いし」
「妙な兵器?」
「なんていうかロマンと真逆なロマン兵器ってやつ? まぁ、でも断ったよ。スーパー北上さまと言えば酸素魚雷だからね」
彼女がそう言ってローファーの爪先で小気味良い半回転をすれば、水面の煌めきにも負けないほどに艶やかな濡羽色を主張するおさげと、健康的な太腿の魅力を際立たせつつも貞淑さを守る軍服のスカートが、潮風と一つになったかのようにふわりと可憐に空を舞う。蠱惑的な唇の隙間から除く犬歯も、逆光で表情がよく見えないからこそ、一際目立って見えた。
青葉をこの場に連れて来ていればこのベストショットを未来永劫留めておけたのに、そうしなかった私は判断を誤ったかもしれない。
そんな下らない妄想をしていた私だが、北上さんの珍しく甘い声色によって一気に現実へと引き戻される。
「ねぇ、大井っち。いや、○○」
肩の高さに両手を突き出して思いっきり間延びをした彼女は、背中越しに語りかける。
「なんですか□□?」
互いに口にするのは他の誰も知らない秘密の名前。
姓しか名乗ることを許されない艦装適合者の私たちが、誓いと共に名づけ合った愛の結晶。
「次も猫を見に来ようね」
「えぇ必ず。約束ですよ」
堤防に腰かけた彼女に小指を伸ばして、舌先の代わりに私たちは固く絡めあった。
────無情にも出撃を告げるサイレンが鳴り響く、猫日和な空の下で。
◇
それは今まで見たどんな景色よりも、紅い空と紅い海だった。
九州防衛のため過去最大級の戦力を用意したはずだった日本軍は、その3倍をも超える戦力の深海棲艦の物量を前に成す術もなく叩き潰されていた。
私の所属する艦隊も既に自前の装備はほぼ尽きた。
水面に漂う元同胞の装備を拝借しながら遊撃とは名ばかりのあてのない敗走を続けていた。
危ない、そう叫ぼうとするがまた声を発することができなかった。
私の一つ前を駆け抜けていたはずの木曽は、頭にポンと紅い華を咲かせた。
せめて躯だけでも連れて帰りたい。
仇にありったけの弾丸を見舞いたい。
そんな私の心の叫びに反して、仇とは違う敵に淡々と砲撃を見舞い続ける私の躰。
どこまでも効率的に、機械的に、私たちは撤退を続けていく。
こうして何もできないまま、私はまた姉妹艦の一人を喪った。
球磨も、多摩も、もうここにはいない。
私たちの艦隊は、並走する北上さんだけ。
いや、正しくはそうではない。
そもそも視界の限り確認できる友軍はどこにも残って居なかった。
まさしく四面楚歌という故事そのものな状況。
それでも敵の密度が薄いところを掻い潜るようにして。
時には敵の巨体を盾にするように回り込んで。
武装と負傷さえなければ過去最高とも呼べる動きを私たち二人は繰り出し続けた。
なにせそれが出来なかった次の瞬間には、黄泉の水底に引きずり込まれるだけなのだから。
だが決死の逃避行にも遂に終わりのときが来た。
北上さんが砲口を雷巡チ級に向けたが、弾が出ない。
弾薬が尽きたのか、ジャムったのか理由はわからないが、それはあまりにも致命的な隙だった。
私も進路上の重巡リ級に魚雷を放ったばかりの隙だらけな状態でカバーが間に合わない。
振りかぶった巨大な右腕が、容赦なく北上さんの頭部を打ち付けられた。
北上さんのヘッドギアの残骸が宙に舞う。
あぁあああああっッ!!
決して発することのできない悲鳴が私の脳内に響き渡る。
最悪な結末を予感させた次の瞬間、予想だにしなかった音が戦場に響いた。
「────あたしはスーパー北上さまだよ?」
眉間から血を流しながらも間一髪で致命傷を避け、そのままチ級の懐に潜り込んで顎に直接砲口を押し当ててからのゼロ距離射撃。
絶技とも呼べるクリティカルショットで、頭部を失ったチ級は成す術もなく海へと沈んだ。
どうしてそんなことができるのと、そんな心の中の問いを北上さんはいとも容易く読み取ってこう答えた。
「ブレインズがなくったってね。あたしの体と心が覚えているんだ」
ブレインズとは、かつては艦娘という愛称で親しまれた艦装適合者をさらに上のステージへと押し上げるために作られた戦術システムであるブレインズシステムの略称だ。
その開発コンセプトは最高の頭脳と、最高の肉体を掛け合わせること。
具体的には私たちアームズと呼ばれる徹底的に鍛え抜かれた適合者が、ヘッドギアによる脳波操作によって身体制御権全てをAIに委ねることにより、最高の戦果を叩き出せるというものだ。
さらには過去全ての戦闘経験をAIは蓄積していくため、一人の人間では処理不可能な情報を処理し、敵の行動パターンの記憶化、射撃の補正、回避行動の精密化などのための演算処理結果を、かつての艦娘においてレベルと呼ばれた限界という概念を過去のものにすることができるようになったのだ。
先の攻撃によってヘッドギアが壊れたことにより、強制遠隔制御のくびきから解き放たれた北上さんは、自身の意志と技量だけで敵を撃破して見せたのだ。
これを偉業と言わず何と言おう。
どの鎮守府のアームズも、ブレインズの補助なしでは決して為しえない。
そう感心していると
「大井っち、危ない!」
北上さんは私の右手首をぐいと引き寄せ、庇うように空から降り注ぐ爆弾を迎撃する。
「高角砲ないけど、うまくいった! あたしってば、やっぱり天才?」
すごい、本当に凄すぎる。ただの単装砲で空爆を撃ち落とすなんて。
「でも正攻法じゃ。う~ん、やっぱ難しいよね~」
単装砲では敵の艦載機に当てようにも高度が圧倒的に足りていない。
数発の魚雷と単装砲しか持っていない私たちでは空から身を護る術がないも同然だ。
だから北上さんは状況がさらに悪化する前に、残酷な決断を下した。
「大井っちのブレインズ、よく聞いて。今からあのフラグシップっぽい空母にあたしが突撃をすればきっと他の重巡たちの目を引き付けられるはずだと思う。アレも持ってきているし何とかするよ」
私は拒絶の言葉吐くことも、手を伸ばして引き留めることもできない。
それどころか北上さんの言葉を聞いた直後、私の躰は彼女を背にして再び駆け出してしまっていた。
「さぁて、ギッタギッタにしてあげましょうかね!」
そして北上さんの威勢のいい掛け声と共に一層激しく鳴り響き始めた砲撃音。
ふざけないで。
戻れ、戻れ……戻りなさいよ、一緒に戦わせてよっ!
そんな思いを置き去りにして、愛する人の声が遠く離れていく。
「横須賀を、私たちの思い出を守ってよ。○○」
□□の傷つく姿を目にすることができないのは不幸なのか、あるいは幸運なのか。
あまりにも無力な私が今できるのは、ただ耳を澄ませることだけ。
「来世でもきっと会いに行くから────だから猫日和に必ず……」
その言葉を受け取った次の瞬間のこと。
すさまじい轟音と共に痛烈な衝撃波を背中に受ける。
海面を転がるように弾き飛ばされ、バランスを失いかけるがそれは眼前の敵も同様だ。
全力でエンジンをふかし、銃林弾雨の中を走り抜ける。
違う、そうじゃない!
北上さんならもっとうまく敵に当てれた。
北上さんならもっと最小限の動きで避けれた。
傍観者でいるしかできないことが何よりもどかしい。
私はこんなときならどう動けばいいのか、北上さんの隣でずっと見ていた。
北上さんが体を張ってくれたことは決して無駄じゃない。
無駄じゃなかったんだって証明しなくちゃいけないのに、私にはずっと見えている活路を見いだせていないブレインズの愚かさが許せない。
生きなきゃ。
まだ私は死ねない。
なにやっているのよブレインズ。
使いこなせないなら私に躰を返しなさい!
たかが砲弾が胸の真ん中を貫通したぐらいで、足を止めるくらいの覚悟なら。
全て私に委ねさない!
だから、返……カエ────
◇
「返しなさい!! ……いたっ!?」
出撃前に接種を義務付けられている鎮痛剤の効果で、戦闘中は決して感じることがないはずの痛みという概念。
額からじんじん、ヒリヒリと感じるコレは確かに本物だ。
そして回りを見渡せば白いカーテンに区切られた無機質な部屋、下半身を覆う清潔な布団。
ここは見るからにおそらく救護施設なのだろうか。
「いてて、急に飛び起きるなんて、ってどうしたの? え、え?」
「良かった北上さんも無事だったんですね」
あぁ、この慎ましい柔らかさは確かに北上さんだ。
消毒液臭い部屋の中でも確かに胸いっぱいに感じる北上さんの匂いだ。
玉砕してしまったと思ったから。
よかった。本当に良かった。
「まぁね。ちょっと今回はいつも以上にグロかったけど何とか。そういう大井さんはあたしがログアウトした後も大変だったみたいだね。で流石にちょっといい加減離れてくれないかな。駆逐艦みたいでちょっとウザい」
思いっきり突き放されたのでちょっと反省をする。
頭をぐいぐいと胸に押し当て続けたのは盛り過ぎだったかもしれない。
「慣れない悪口も素敵。大井さんって、何でそんなによそよそしいんですか? いつもみたいに大井っちでいいですよ?」
「いつもってどういうこと? ────『大井っち』って変な呼び方自体、あたし初めて聞いたんだけど」
そう真顔で答える○○の顔と声をした誰か。
「────ねぇ、北上さんここっていったいどこ?」
「見てのとおり医務室だけど何言ってるの?」
「いや、そうじゃなくてもっと包括的にこの保健室がある施設の名称って?」
「横須賀サーバーだけど」
私の所属は横須賀鎮守府だ。
横須賀サーバーなんて言葉は初めて聞いた。
ほぼ確信に近い、すごく嫌な予感がする。
「さっきからやっぱり変じゃない? もしかしてお気に入りのアームズ潰したの気にしてる?」
「は?」
「大丈夫だって。あたしもみんなも今回1機堕ちちゃったのは一緒なんだから。あたしたちブレインは気丈じゃないとね」
私の最愛の人を殺した本当の仇が。
私の最愛の人と全く同じ笑顔で。
なんの悪びれもなくそう言ってのけた。