胃の中が空っぽになっても、止まることのない吐き気。
食あたりということで、医務室でもらった胃薬も何の役にも立っていない。
『北上さん』が居なくなって、一人ぼっちになった部屋は、もう夏に差し掛かろうというのにも関わらず、ひどく肌寒かった。
ベッドに横たわりながら、時折枕元の洗面器と向かい合うのを繰り返す無為な時間が過ぎていく。
いくら口をゆすいでも、口内に纏わり続けるカレーの味。
人としての尊厳を、最低限の矜持を粉々に打ち砕くこの環境に私は打ちのめされてしまっていた。
もしもあの仕打ちが、強大な悪意によるものであれば私は発奮できたかもしれない。
でも現実は違ったのだ。
あのカレーには何の悪意も込められてはいなかった。
むしろ愛情さえ込められてさえいた。
常識が違う。
倫理観が違う。
生きている世界が違う。
ひたすらに効率を突き詰めた者たちが生きる場所。
それがサーバーというものだと痛烈に思い知らされた。
悪いのは、恨むべきなのはブレインじゃない。
費用対効果を他の何よりも重視し、ブレインたちをこんな風に育てあげた軍の方針そのものだ。
でもどうしようもなく情けないことに、今の私には軍に立てつく度胸なんてものはない。
出撃できなければ北上さんを探しに行くことができないのだから。
日が経つほどにさだに絶望的になる北上さんの生存確率。
ブレインズシステムが都度弾き出す演算結果は、すでに万に一つを切っていた。
それに今の私に残された時間はあとどれだけだというのだろう。
本土侵略を許してしまっているこの状況下、既に物量で敵に負けている現在、軍はより質を重視する方針、つまりブレインズシステムのレベルアップに舵を切っていくはずだ。
優秀であればあるほどに、解体される運命は近づき、かといって愚物と見なされるとリセットされて使い潰しのアームズに逆戻り。
手を抜くことも、力を入れすぎることも許されない。今の私をとりまく状況は、生存という観点においてはどう考えても詰んでいた。
北上さんと再び会うまでに生き延びる自信がない。
『北上さん』を見殺しにできるほど非情になれない。
ましてやあんなおぞましいことを平然と受け入れられるほど私は狂い切れない。
ぱきん、と。
私の中で、何かが折れる音がした。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もう、私は……」
◇
「やっと起きた。聞いたよー。お腹壊したんだって?」
微睡の向こう側から、酷く懐かしい声がした。
「気分はどう大丈夫?」
「────きた、か……み、さん?」
「本日ヒトゴーマルマルより着任した北上だよ。よろしくね、大井」
電気を消してカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中でもはっきりとわかるほど、雪のように白く透き通り、きめ細やかな肌。そして慈愛に満ち溢れた眼差しに、仄かに薄紅色を呈する艶めかしい唇の膨らみ。
あぁ、私の女神様は今日もきれいだ。
「呼び捨ても新鮮で素敵! でも私はいつもみたいに、大井っちって呼んでくれる方が好きです」
「そっか。前の子はそう呼んでたんだね。じゃあ『大井っち』こんな感じ?」
「いつもと違うアクセントも胸が昂ぶりますね。でも大井っちって、いつものアクセントが私は一番好きですよ」
「もーおー、こだわるねー。大井っち。こんな感じが好きなの?」
うん、この響きが一番しっくりくる。
北上さんにこう呼ばれると、私は無限の活力をもらえたような気分になれる。
「わ、大井っち、ちょっとスキンシップ激しくない?」
「うふふ、いつも通りですよ。北上さーん」
「なんかもう元気そうだね。ご飯食べれそうなら食堂行く?」
「はいっ!」
心が砕け散った直後の絶妙なタイミングで、再び私の前に『北上さん』が現れた。
本気で彼女が北上さんだなんてことは思っていない。
でもそう思い込まなければ。
盲目的な愛に狂わなければ。
もう私は二度と立ち上がれないだろうという確信があった。
こうして私はまだ穢れを知らない無垢な少女のことを。北上さんとして精一杯愛することに決めた。
そして弱い私のことを受け入れてくれるだけの優しさを、幸か不幸か彼女は持ち合わせており、そんな私の在り方を良しとした。
だから遠い日の北上さんとの約束を心の奥底にしまい込み、隣にずっと居てくれる北上さんに依存するのは必然だった。
つらいことの全てを忘れられる、愛で上書き保存できる、とてもとても幸福な時間だった。
◇
幸せな時間は、決して永遠のものではなかった。
「大井っちって、もしかして辛いの苦手? なんか酷い顔色してるよ?」
また新たに一人がブレインズシステムへと組み込まれた日に私は再び、揺り戻しを受ける。
今日のお昼は、例のカレーライスだった。
匂いだけで胃酸が喉元まで既に込み上げてきている状態だ。
ご飯はともかくルーを口にできるはずなんてない。
つまりのところ私はまだサーバーの常識に染まり切れていなかった。
「────私、香辛料の香りがするとなんか気分が悪くなっちゃうみたいで」
「もしかしてこの前吐いちゃったのを思い出した?」
「いえ、そうじゃない。そうじゃないんですけど」
震える右手を北上さんに伸ばす。
「私の勝手だって、ただのわがままだってのはわかっています。でもどうか、どうかお願いだから私と一緒に保健室に来てくれませんか?」
「もぉーしょーがないな大井っちは」
ふわりと両手で彼女は包み込んで、いつもの軽い調子で言った。
「いいよ、でも今度パフェ奢ってね」
「えぇもちろん。いちごパフェとチョコレートパフェを半分こずつしましょう」
「いーねー。約束だからね」
私がカレーを食べたくない気持ち以上に、北上さんにはあのカレーを口にして欲しくなかった。
北上さんがみんなが夢中になるほどのカレーよりも、私のわがままを優先してくれたことが嬉しかった。
そして保健室から胃薬をもらって、自室へと戻ると、北上さんから思いもよらない言葉が掛けられた。
「大井っちってさ、外の世界を知っているんだよね?」
いつものようにベッドの上に腰かけた北上さんの後ろから首を回す様に抱き着いていると、急にそんなことを彼女は言いだした。
「外? 急に改まってどうしたんですか?」
回した腕を緩めようとすると、逆に北上さんはぎゅっと掴んで離さない。
「最初はさ、前の子と混同しているのかなとかと思って、システムの記憶を辿ってみたんだよ。でも実際はそうじゃなかった」
北上さんは自らの背中へ私の体を引き寄せるように私の腕を引っ張った。
「鎮守府から脱走してきて入れ替わったのか、なにかシステムのバグなのか、私には全然理由はわからないけれど、アームズとしての記憶、あるんでしょ?」
「────ちゃんと隠してきたはずなんだけどなぁ。どうしてそう思ったんですか?」
「うん、隠せてると思うよ。少なくともみんなは気付いていないけど、私はちゃんと大井っちのこといつも見てたから」
なんで、そんなことを言うんですか?
なんで、そんなことを言えちゃうんですか?
私はちゃんと貴女のこと見ようとしてさえいなかったのに。
「大井っちだけが何かをいつも怖がっている。死ぬことなのか、死なれることなのか、それとも他のなにかなのか私にはわからないけれども。その何かは別としても、恐怖ってものは普通のブレインは持ちえない感情だってこと知っているから」
この人は私の仮面の裏側を容易く引き剥がしていく。
そして絶対に知られたくなかったことを、とっくに知られていたことにようやく私は気付かされた。
「それに大井っちは、私のこと無理して好きになろうとしてくれているのも知ってるよ。でも────」
彼女は少し私の腕を緩めると、私と向き合うように座りなおす。
そして私と同じように首に腕を回して抱き寄せるとためらいもなく言った。
「私はちゃんと大井っちのこと、好きだよ。多分これがそう言う名前の感情なんだって思う」
北上さんは回した腕はそのままに私の後頭部を撫でつける。
「大井っちが隠していることも含めて好きで居られると思うから」
まるで赤子を慈しむ母親のように。
やわらかく、あたたかな手つきで。
「だから話してよ。大井っちのこと」
「うぅうう……」
「もっと私は知りたいって思うから」
「うわぁあああああああっ……っ!!」
私は泣いた。
サーバーに来てから初めて涙した。
泣いて、泣いて、泣き続けて。
涙と鼻水と涎で、北上さんの制服を思いっきり汚しながら、母親へとすがりつく幼児のようにみっともなく泣き腫らした。
そして泣き止んだあとに私は全てを彼女に話した。
◇
「大井っちは、すっごくがんばったんだね」
添い寝してもらいながら私の突拍子もない話を聞いた後、北上さんはそう言ってくれた。
「頑張ったんです。頑張って来たんです。でもこれからどうしたいのか、どうしたらいいのかわからなくって」
「本当にそうかなー? どうすればいいかはわからないけれど、大井っちがどうしたいのかはわかるよ。つまるところ、大井っちはブレインズシステムをどうにかしたいし、鎮守府の私を探しに行きたいんでしょ?」
「多分そうです。でも探しに行くのはともかく、ブレインズシステムを壊したら日本は負けるかもしれないし」
「壊しても壊さなくても勝てないよ。少なくとも私たちがブレインとして生きていられる間は」
「確かにもっと北に防衛線を映して、システムの改良を重ねてそれでやっと追い付くかどうかなんでしょうね」
「私は不真面目だから、大井っちにだけ言うけどさ。私にとって特にこの国を守るべき理由なんてないんだよね。存在意義ってもののために、サーバーに来る前の私なら殉じることができたかもしれないけど。どうせ死ぬならもっと違う理由がいいな」
遅かれ早かれ私たちは死ぬ。
寿命を迎える前に敵に殺されるか味方に殺されるか。
それはどうしようもなく逃れようのない現実だった。
私たちが手を伸ばして、伸ばして。
足掻いて、足掻き切った上で。
それでようやく選べるのは終わり方の自由だけ。
でも私の理由に北上さんを巻き込むのは未だに躊躇われた。
「────私にもさ、一つだけ理由ならできたよ。さっき話してくれた猫のこと」
「え?」
「私も猫を見に行きたいな。鎮守府の私が好きなら私もきっと好きなはずだから。だから3人で見に行こう。私と大井っちと、鎮守府の私とで」
屈託のない笑顔で彼女は言い切った。
恐怖も躊躇いもない。
そこにあったのはほんの少しの好奇心と反抗心。
そして痛いくらいに感じる私への愛情。
「本当に後悔しないんですね?」
「しないって。大井っちをここに引き留めたり、大井っちを一人で外に出す方がきっと後悔するから」
「それに後悔するなら大井っちと一緒に後悔するほうがいいかな。だって大井っち泣き虫だし」
「泣き虫じゃないですっ!」
「いったぁ! 今のめっちゃ背中腫れたかも。でも気合入った」
「北上さん、行きましょう。外の世界へ。自分たちの足で」
「うん、行こう。どこまでも一緒だよ。大井っち」
こうして私たちは数日後、自分たちの意志で新たな一歩を踏み出した。
あの場所を守る約束をとうに諦めて、ただそこで静かな終わりを迎えるために。
◇
以前より貧弱な躰になったものの、サーバーに来てからトレーニングは欠かさず行っていたし、北上さんも私に付き合ってくれていたから、私たち2人はここのブレインたちの誰よりも運動能力に秀でていた。
それに私たちブレインだって元々はアームズになれるだけの身体能力を備えているからこそ適合者と呼ばれるのだ。私たちが丸腰だとしても、ただの軍人の戦闘力とは雲泥の差がある。
そしてそもそもサーバー内の誰もが私たちのような反抗者の存在を想定していない、もしくは大幅に過小評価していたが故に、憲兵たちに気取られず目的の場所へたどり着くのは容易なことだった。
「まぁ、それじゃー大井っち、景気良くやっちゃいましょー」
「はい、北上さん!」
私は『私』の。
北上さんは『北上さん』の。
自分たちのブレインズシステムにバールを振り下ろす。
そしてケーブルから引火させて亡骸を弔った。
さようなら、『私』たち。
これが日本のためにはならないのだとわかっていながらも、私の勝手で貴方達を壊します。
「なんか思ったよりも、こう……あっけないもんだね」
「えぇ。でも、これで肩の荷が一つ降りました」
「行こっか、大井っち」
「────はい」
他の子たちのシステムを壊す余裕はないし、彼女たちの命綱となるものを壊すのは躊躇れたので結局自分たちのシステムだけを壊した後、すぐにサーバーから脱走し、目的地へと向かうことにした。
その目的地は横須賀鎮守府の外れ、敷地の境界近くにある予備の倉庫。
かつて野イチゴ摘みで良く通った場所だから警備の薄い場所は熟知していた。
そもそも敵は海側から来るため、山側の警備がザルなのは当たり前のことだった。
そして私たちは目的である予備の艦装、弾薬、燃料の補給に成功した。
夜まで地上に潜み、月明かりを頼りにして近海を疾走し、あの海へと2人で向かう。
鎮守府からの追撃はなかった。
あったかもしれないのだが、私たちの行動が早かったからなのか、アームズたち
────しかしそもそも、現時点にて、近畿より西側の海は既にアイツらの領域だった。
「電探持ってこれなかったのは、やっぱりきつかったかー」
奇襲を受けなかっただけマシとはいえ、暗闇のせいで深海棲艦と接敵はするまで互いに気付くことができず、遭遇戦が勃発してしまった。
「でもその分魚雷は満載していますから。切り抜けましょう北上さん!」
「よし、一丁まぁ、がんばっちゃいましょうかねぇ!」
ブレインズシステムの補助もなく、アームズ時代ほどの練度もない肉体。
武器はそれなりに充実しているけれども不安要素だらけの実戦だ。
私はともかく、特に北上さんはアームズとしての経験もない。
敵も駆逐イ級が5体のみ。
数は多いけれども、敵は最下級。
これが初戦でよかったとつくづく思う。
でも北上さんの慣れの問題を考えれば、3体いや4体は私が相手取る前提で動いた方が良いだろう。
「北上さんは一番左端の敵を。残りは私が引き付けますので、片付いたら援護射撃をください!」
すかさず左後方にいる北上さんに背中越しで指示を飛ばす。
が、返事はない。
代わりに────砲撃音が一つ鳴り響いていた。
振り返ると月の光を背にして宙に舞う北上さんの上半身。
「────ぇ、あ、あ、ぁっ……!??」
太ももから下しか残って居ない北上さんのもう半分は、あっけなく暗い水底へと沈みこむ。
その向こう側では雷巡チ級が口元を歪めて笑っていた。
「あぁあああああっ!!!」
定まらない狙いのまま、闇雲に単装砲を発砲したが吸い込まれるように敵の頭部へと一直線に砲弾が向かう。
だがヘッドショットとなるギリギリで首を僅かに逸らされ、私の砲撃は薄気味悪い白い仮面を破壊するだけに留まった。
「……タヨ」
私から希望を奪い取った仇敵が、言葉らしきものを口にした。
「────ムカエ、キタ……ヨ。オオ、イッチ」
私を大井っちと呼ぶ人なんて2人しかいない。
怒りよりも、悲しみよりも、驚愕の方が上回ってしまった。
「まさか……○○なの?」
「ソウダヨ。□□」
声質は全然別物だ。
顔だちも逆光で良く見えない。
だけど、だけど。
「嘘だ。そんなことがあるわけないじゃない」
この名前で呼んでくれる存在は世界にたった一人だけ。
あぁ、全てこれは現実なのだ。
嘗ての最愛の人が、もう一人の最愛の人の命を奪うという、ひとかけらの救いもない悲劇。
私はその凶行を止められず、今もまだ敵討ちをするべきなのかどうかすら決断できないでいる。
この世に神様がもし居るのならば。
神様がこんな脚本を書いたというのならば。
どこまでも残虐な貴方こそを、私は殺してしまいたい。
次回最終話「■番目の北上さん」