「はぁ……」
彼が眠り続ける聖神沼津病院は、海に程近い場所に存在している。
故に病院から1歩を足を踏み出せば、鴎達の能天気そうな鳴き声と磯の匂いをたっぷりと含んだ海風が私を打った。
古来農民や漁民が植えたとされる松林によって直接見る事は出来ないが、きっと彼の病室からならばさぞ美しい海原を見物出来ただろう。
「……見に行って、みようかな」
気分が沈んだら海を見る。
普段の私ならサッサと帰ってしまうのだろうが、今日は「そういう」気分だった。
きっと、きっと私は疲れているのだろう。
兎に角何でも良いから、この沈んだ気持ちを変えたかった。
「今日も、何も無しか」
幾重にも重なる松の海原を進む中で、手帳を開いて今日の日付に✕印を付ける。
これで4年と2ヶ月12日間、私の日課が継続した事になるのだ。
いや、継続「してしまった」と言うべきか。
だってそれだけ長い間、彼は目覚めなかったという事なのだから。
「あなたは、私を助けてくれたのにね……」
私は無力だった。
「あの日」から幾度となく無力を嘆いて、嘆き続けて、それでも何も変わらなかった。
背だけ伸びて、髪だけ伸びて、それで一体何になる。
「私、変われてないよね……」
「心の在り方が人を変える」と、彼は言っていたのだ。
そんな今の私を見たら彼はなんて言うだろう。
悲しむだろうか。蔑むだろうか。
──いや、もうそれでも構いやしないのだ。
「あなたの声が、聞きたいよ──」
今はもう思い出の中、幸せだった「あの日」だけが愚かな私を突き動かしている。
救いも無い、苦しいだけの現実に私で私に足掻く力を与えてくれている。
心なんて、とっくの昔に折れているのだ。
それでもまだ、ほんの僅かでも可能性が残っているなら私は諦めたくなかった。
「──あ」
パチリ、と目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは「彼」のさして大きくもない背中と、ポタポタ水を滴らせる後頭部だった。
どうやら「彼」は私を背負って、何処かへ移動しているらしい。
もっとも人を担いでいるからか、その歩みは遅々たるモノだったが。
相変わらず雨は激しく私を打ちつけるけど、代わりに彼の体温が体にじわじわと染み込んだ。
「……あの」
「起きたんだ。歩ける?」
何か言わなければ。
そう思って口を開いた瞬間、何時間か前にも聞いたつっけんどんな彼の言葉が飛び込んできた。
「……無理かも」
「ならもうちょっと我慢して」
無愛想なのは普段と変わらない。
だからこそ、彼が何を考えているのか私には分からない。
彼は私の味方じゃない。
本人がそう言ったのだから、そうなのだろう。
だったら私を助ける理由なんて何処にも無い筈だ。
「なんで、私を助けてくれるの」
「それは──」
以前にも同じ質問をした。
またはぐらかされるのだろうか。
でも、私にはこれ位しか出来る事がない。
だって他人の思いなんて私に読める訳が無いし、直接言葉にされなければ何も分からないから。
理由の有無も関係無しに醜い罵倒ばかり浴びせる村の人達の態度から、私はそれを学んだのだ。
彼らは、心底私を憎んでいた。
「言わなきゃダメか、それ」
「教えて」
でも彼は違う。
何が違うのか、何故違うのか。
全く分からないけれど、兎に角違うのだ。
だから知りたい。
彼がどんな言葉を返してくるのか、それが気になって仕方がない。
「どうしても?」
「どうしても。嫌なら降ろして」
背負われている分際で、何て不遜な物言いなのだろう。
こんな恩知らず、捨ててしまった方が彼にとっては健全だろう。
だけどこのモヤモヤを抱えたままなのは、何故だか嫌だった。
他の誰に何をされたって「仕方ない」で済ましていたのに。
だが───
「いくら何でも、格好悪すぎるかなって」
「なに、それ」
「分からないでいてくれた方が、僕としては助かる」
全く意味が分からない。
予想外の返答に、思わず閉口してしまった。
しかし、私の困惑を知ってか知らずか同じく閉口した彼は、それ以上一言も喋る事なく黙々と歩き続けた。
一歩一歩、地面をしっかりと踏みしめて進む「彼」の背中で私はただぼんやりと揺られていた。
「……んぅ」
ざあざあと、シャワーヘッドから放出された温水が私に降りかかった。
傷だらけの体を流れ落ちた水は、私のモヤモヤまでは洗い落とさず排水溝に吸い込まれていく。
結局、あれよあれよと言う間に私は「彼」の家に連れ込まれていた。
そのまま「彼」はテキパキと風呂の準備と私の着替えを調え、抵抗を許さず私を風呂場に放り込んでしまったのだ。
その間一切の言葉を発さず黙したままなのが、不気味な事この上ない。
「本当に、何を考えているの……」
理解不能な行動を繰り返す彼が、なのか。
それとも彼の空気に流されてばかりの私が、なのか。
普通なら躊躇い無く前者だと言える所だが、何故だかそうとは思えない。
──いや、それだけではない。
「カッコ悪いって、何……?」
格好悪いって、何なんだ。
いや、当然言葉の意味は理解しているが、対象が分からないのだ。
一体誰に対して、何に関して格好悪いのだろう。
そもそも何でそんな事が気になるんだろう。
「本当、意味分かんない……」
途方に暮れて天井を見上げれば、LED電球特有の穏やかな光が能天気に私を照らしている。
全く以て、どいつもこいつも何考えてるのか分かりやしない。
結局、そうした所で何の解決にもならないのに、のぼせるギリギリまで私は風呂に浸かっていたのだ。
「──はぁ」
そして今、ぶかぶかの袖に腕を通す。
私が着ているパジャマは、本来彼の物だ。
「まだ着てないから大丈夫」と当人が語る通り、新品特有の何とも言えない匂いが漂っている。
華奢な私には大きすぎて違和感を感じるけど、服は気付かぬ内に部屋干しされてしまって替わりが無いのだから仕方ない。
──いくら私とは言え、女の子の服を躊躇い無く触るなんて彼は変態なのだろうか。
「──?」
そんな事を考えつつ着替えを終えて廊下に出てみれば、何やら香ばしい匂いが漂っている。
そろそろ夕食時である事や、雨の中出歩いたせいで疲労が溜まっていたのだろう。
私は吸い寄せられるようにリビングへと足を進めていた。
「夕飯、食べていくだろ」
「は?」
扉を開けるなり、キッチンで鍋をかき回していた「彼」は相変わらずぶっきらぼうな声で問いかけた。
親の物を使用しているのか、ファンシーな花柄エプロンと服のコントラストがちぐはぐで「彼」に全く似合っていない。
そしてそれを自覚しているのかいないのか、彼は此方を向く事もせずに鋭く鍋を睨んでいる。
「いいの?」
「良いも悪いも無い。作り過ぎたから、今日食ってもらえないと僕が母さんにどやされるんだ」
最初からその気なら、態々聞かなければ良いのに。
そう呟いた私を他所に、「彼」は鍋とのにらめっこを続けている。
他人の家、増してや何を考えているのかも分からない相手の家で、私は何処にも行けずその場に立ち竦むばかりだ。
「あのさ」
「な、何……?」
「そんな所に突っ立ってないで、座りなよ」
至極当たり前の話だった。
本当に何やってるんだろう、私。
「……」
「……」
沈黙が、食卓を支配する。
私と「彼」の間に置かれた皿に盛り付けられている「それ」。白いお米にかけられた茶色の物体は、紛れもなくカレーであった。
「……食べないの?」
「ぇ、あ。その、食べて良いの?」
思わず、「彼」に問いかけてしまった。
私は他人の家でご飯なんて食べた事なかったから、どのタイミングで食べれば良いかすら分からなかったのだ。
だが、普通に考えれば分かるだろう。
食事が配膳されて、皆着席したとなれば後は食べる以外に何があると言うのだ。
それは「彼」にとっても例外ではなく、一瞬呆けた様な顔になった後「なに馬鹿な事言ってるんだコイツは」と言わんばかりの表情で返事を返した。
「さっき言った通り作り過ぎたから、食べて貰えるとありがたいんだけど」
「そう……そう、ね」
ゴクリ、と唾を飲む。
たかだかカレー相手に、私は過剰な程に緊張していた。別に毒が盛ってある訳でもないのに、恐る恐るスプーンを差し入れる。
「────!」
掬いとった一塊を、一気に口に放り込む。カレーらしい辛味と、肉の食感が口の中に広がっていく。
何の変哲も無い、普通のカレーだった。
それどころか野菜の大きさはバラバラで肉もちょっと焦げていたし、世間一般的には下手くその部類に入るだろう。
「美味しい……」
「本当に?」
だが──それが何だ。
その時の私にとっては、一体何年ぶりかも分からない程久々に食べた「誰かの手料理」だったのだ。
言葉だけでは表せない、「温かさ」がじんわりと体に染み込んでいく。
寒さに震えていた、私の心に火が灯る。
「うん、美味しい……」
「やったぜ!」
心からの感想だった。
私も彼も表情が緩み、それに合わせて漂っていた緊張も一気に解れる。
「……ありがとう。久し振りに、こんなに美味しいの食べるかも」
「そりゃ良かった」
「良かったって、随分他人事なのね」
「そりゃそうだろ。僕が何したってのさ」
「カレー、作ったよね」
「いや、まぁそうだけど……」
──しかし何故、彼は妙な所だけ卑屈なのか。
今日にしてもそれ以前にしても、私は事実として彼に助けられているのだ。
それは間違いなく善意から来る行為だと言うのに、頑なにそれを認めようとしない。
「あーうめぇ。やっぱテキトーに作ってもそれなりの味になるカレーは最強だよなぁ」
「そう、なの?」
「そうだよ。知らんのか」
「知らないわよ。料理しないし」
確かに斜に構えた所はあるのだろうが、幸せそうにカレーを頬張る彼を見ればとても鬱屈したモノを抱えている人間とは思えない。
それとも何か、とんでもない二面性を秘めていたりするのだろうか。
折角カレーが美味しくて、和気藹々とした雰囲気にもなって来たのに、心に巣食うモヤモヤが止まらない。
「ねぇ」
「ん?」
──故に、しまったと思うより先に言葉は口から放たれていた。
口と皿を往復させていたスプーンを止め、顔を上げた「彼」はきょとんとした表情で此方を見る。
「え、何さ」
「────」
迂闊な発言への羞恥から、思わず私は視線を逸らした。
しかし1度吐いてしまった言葉は2度と飲み込めないのだ。
そして「何でもない」でお茶を濁した後の気まずさも、経験した事はないが知らない訳でもない。
つまりこうなったら、最後まで言ってしまうしかないのだ。
「……やっぱり、おかしいわ」
「何が?」
「何で、私なんかの為にここまでしてくれるの?」
私が「何」なのか知らない筈がない。
私が「何」をされているのか知らない筈がない。
知っているなら、皆と同じようになる筈だ。
私を助けてくれる事なんて、万が一にも有り得ない。
だって私は醜くて、淫売の子で、生きてちゃいけない筈なのに。
なのに、何故──
「止めてよ」
「え?」
突然、喉から絞り出したような声で「彼」は呻いた。
咄嗟に顔を上げた私とは対照に、今度は「彼」が目線を逸らしている。
しかし、今の言葉の何が彼の琴線に触れたのだろうか。
「その『なんか』って言うの、止めてよ」
「何で────」
「少なくとも僕よりはずっと真っ当なんだから、絶対に止めろよ」
彼にしてはやたらと強く、硬い口調で放たれたその言葉に私の思考が停止する。
穏やかな空気は、一瞬で雲散してしまった。
「なぁ、糸矢は特撮って見てるか?」
「特撮……?」
「日曜朝とかにやってるアレだよ、アレ。仮面ライダーとか見た事無い?」
「無いけど……」
そうか、と心底残念そうな様子で呟いた「彼」は混乱状態に陥った私を無視して、両手を広げた大袈裟な姿勢で語りだした。
「子どもの頃から、特撮のヒーローに憧れてたんだ。
ヒーローは仲間を見捨てない。
ヒーローは最後まで諦めない。
ヒーローは勇気を持って挑み続ける。
テレビの中にしかいない、本物のヒーローになりたかった」
「それなら、今のあなたはヒーローね」
思った言葉がポロリと漏れた。
でも実際間違った事は言っていない筈だ。
彼はケガをした私の手当てをしてくれたし、雨の中を行き倒れているところを助けてくれもした。
これがヒーローを志す者の行いでは無いとすれば、一体何だと言うのだろうか。
もっと誇ったって良い筈なのに、何故か彼の表情は後悔に沈んでいる。
「違う、違うんだよ」
「何が違うの?」
「本当にヒーローなら、そもそも虐めを許さないだろ?」
────ぁ。
そんな意味を持たない吐息だけが、馬鹿みたいに私の口から飛び出した。
なるほど、だからか。
だから「彼」は頑なに自分の行為を認めようとしなかったのだ。
まだ出来る事があるのに、保身を優先して誰かを救った気分になっていると、己を責めているのだ。
「糸矢は殴られても、蹴られてもずっと耐えてるよな」
「う、うん。でも────」
「心の底から尊敬するよ。僕は絶対にそんな事出来ない。臆病者で、卑怯者で、我が身可愛さにやるべき事を避けている僕とは違うって、そう思うんだ」
違う、そんな筈は無い。
私が尊敬されるような事なんて、何1つ無い。
私が耐えるのはそうすれば「早く済む」からであって、それは保身と妥協の末に辿り着いた安易な結論なのだ。
誰かの助けになりたいと思って行動している彼が私以下なんて、そんな事有り得る訳が無いのだ。
「僕は、糸矢みたいな強い人間になりたかったんだ……」
そしてだからこそ、私と彼の間には致命的なまでに異様な齟齬が生じていた。