雨に濡れる糸矢と出会したのは、本当に偶々だった。
偶々、あの日両親は共に仕事で家にいなかったのだ。
それは即ち、椅子に座っているだけでは料理が出てこない事を意味する。
だから、冷たい雨が降りしきる中で態々カレーの材料を買いに出かけたのだ。
別にカップ麺でも何でも食べれば良かったけど、大して料理も出来ない癖にカレーを作りたい気分だった。そして、その帰りに事は起こった。
『糸矢。おい、糸矢しっかりしろよ』
『……あなた、は』
何度でも言うが、田んぼの畦道を傘も差さずにふらふらと歩く糸矢が視界に入ったのは、完全に運が良かったからだ。
運命と言っても良い。
兎に角「あの日」はツイていたのだ。
彼女を見付けられたのも。
弱い自分に踏ん切りを付けられたのも。
経緯はどうあれ、「あの日」自分がやりたいと思った事を僕はやって一歩踏み出す事が出来たんだ。
その結果として「酷い目」に遭ったけど、それでも自分を裏切るよりはずっと良い。
『あ、明日も居たいならいればいいよ。どうせ土曜日だろ?日曜朝なら困るかもしれないけど……』
『─────え!?』
一歩目を踏み出せたあの日を、僕は絶対に忘れない。
僕と糸矢は友達だ。流されるまま過ごしていた下らない人生で、初めて出来た最高の友達だから──どうか笑って欲しい。
『ねぇ……ねぇ!しっかりしてよ!お願いだから……!』
僕はヒーローになれなかった。
「最後までやりきる」事も出来なかった。
落伍者の、大馬鹿者だ。
それでも君が──准が笑えるなら、後悔なんてするもんか。
「はぁ……」
暴風と雨の礫が滅茶苦茶に打ち付ける窓を見て、まだ少し湿り気を残す服に着替えた私と彼は2人して溜め息を吐いた。
彼が用意しれてくれたパジャマは着心地が良かったけど、やはり普段着ている服の方がしっくりくるのだ。
そして午後6時位から振りだした雨は止む事を知らず、それどころか益々激しさを増している。
予報ではこんなんじゃなかったのに。
「これじゃ、帰るのは無理そうだな……」
「そうね……」
何とも言えない、複雑な表情をする彼の言葉に私も重々しく頷いた。
足元に注意だとか、最早そういう次元の話ではないのだ。
洪水、冠水、土砂崩れ。
治水工事が御世辞にも進んでいるとは言えないこの村では、それら全てが容易に起こり得る。
「──でも、帰る」
「え」
一体、彼は何を驚いているのだろう。
帰宅した途端父と遭遇する可能性は否めないが上手くやれば気付かれずに済むだろうし、万が一私が死んだって悲しむ人は誰もいない。
それどころか死んだ方が色々とスッキリするのかもしれないのに。
序でに言えば、彼にとっても今日の一件は迷惑でしかない筈なのに。
──と言うか、これ以上彼の言葉には甘えたくないのだ。
「いや……危ないじゃん。止むまでは待ってなよ」
「嫌よ、行く」
「何でさ、警報まで出てるのに」
「何でも良いよ、兎に角帰る」
そうだ、甘えてはいけない。
絶対に、何があっても、それだけはダメだ。
恩に背いてでもこの家から離れなければならないと、全身が警鐘を鳴らしている。
「……今日は、ありがとう。本当に助かったわ」
「いや、急にどうしたんだよ。何かおかしいぞ糸矢……」
困惑する彼の言葉は、正鵠を射ていた。
彼と話せば話す程、私は徐々におかしくなっていくのだ。
揺れる心が、会話もせずに逃げ出してしまいそうな体がその証明。
「……確かに、おかしいのかも」
「だったら──」
「でも、おかしいままが自然なの。この村ではそれが良い事なの」
今まで私はずっと1人だった。
誰も私の心には踏み入ってこないし、私も誰かの心を荒らさない。
それがあるべき姿だったのだ。
だが、それがもし崩れたら──私はどうなる?
「おかしい事を受け入れろって?それが帰る理由にはならないだろ」
「それだけじゃない」
「何が──」
「私と関わったら、あなたはきっと酷い目に遭う。何にも悪くないのに、殴られたり蹴られたりするの。それは、何て言うか──嫌」
決して嘘は言っていない。
如何なる形であれ私に手を貸すと言う事は、この村の総意に背く事だ。
彼が暴力を振るわれているのは見たくない。
恩がどうとかではなくて、1人の人間としてそう思う。
だけど、それが思っている事の全てでもないのだ。
(嘘──嘘嘘嘘。嘘ばっかり)
本当は此処にずっといたい。
美味しいカレーを沢山食べたい
彼ともっと他愛の無い話をしたい。
でも──怖い。
怖いのだ。
そう、私はどうしようもない臆病者だった。
『心の底から尊敬するよ。僕は絶対にそんな事出来ない。臆病者で、卑怯者で、我が身可愛さにやるべき事を避けている僕とは違うって、そう思うんだ』
私はそんな上等な人間じゃない。
自分の事しか考えられない、抵抗する事すら諦めた愚か者の臆病者だ。
そんな私を尊敬すると、彼は言う。
それを聞いて私は何を思った。
────「喜んだ」のだ。
致命的な齟齬があるのに。
私は尊敬に値しない人間なのに。
人生で初めての賛美に私はどうしようもない程浮かれてしまったのだ。
そして彼はその事実に気付いていない。
するとどうなる。
────また褒められる。
あぁ、なんて甘美な響きなのだろう。
だってそれは麻薬だ。
このままでは1度摂取したら抜け出せない、言葉の麻薬が私に浴びせられてしまうのだ。
そしたらもう、彼無しでは生きていけなくなる。
彼を村八分に巻き込む羽目になる。
(ごめんなさい──本当に、ごめんなさい)
だから逃げる。
これ以上彼に迷惑をかける訳にも、自分自身を見失う訳にもいかない。
──よもや自分がこんなに「チョロい」人間だとは思いもしなかった。
ちょっと優しくされたらこれだ。
きっとそれだけ他人の温もりに飢えていたのだろうが、これでは誰にとってもロクな事にならないだろう。
泣いているような、笑っているよな何とも言えない表情をする彼に背を向け、1歩踏み出して────
「うわっ!?」
「──!?」
ブツン、と糸が切れるような音と共に視界が真っ黒に染まった。
途端に緊張の糸も切れる。
当然だ。
相手の顔も見えないのに喧嘩なんてしてられない。
取り敢えず手探りで近くの壁に手を着きつつ、状況を確認する。
「停電?」
「あーうん、そうみたい。ちょっと待って、ブレーカー入れ直してみる」
ペタペタ、と全く以て何一つ見えない暗闇の中で少年の足音が離れていく。
この天候と唐突さからして、恐らく電線が切れてしまったのだろう。
彼はブレーカーを入れ直すと言っていたが、そう上手くはいかない筈だ。
「はぁぁ……」
つい先程まで光の下で醸し出されていた緊張感が消え、思わず壁に背を預けてしまう。
こうなってしまうと──いや、別にこうならなくても確定事項だが、家に戻った所で酔っ払った父がまた暴れるだけだろうから「帰る」とも言ってはいられない。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
「あぁぁぁぁ……」
だが、誰も聞く者がいないとすれば情けない声が漏れてしまうのも致し方無い事だった。
そうでもしないと、訳の分からない感情で頭がおかしくなりそうだったのだ。
『低気圧は集中的な豪雨を近畿、東海地方に齎し多い所では1時間に50mm程度の雨が降るでしょう。また洪水や氾濫の可能性もありますので、水場には決して近寄らないように──』
「こりゃ、今日はダメだな」
「そうね」
「……やっぱさ、泊まってきなよ」
「……いいの?」
「いいよ。親もいないし、バレないでしょ」
降りしきる雨の音と役に立つのか立たないのか分からない、曖昧な事を宣うラジオをBGMにしてぽつぽつと会話を交わす。
「何か、ごめん」
「何が」
「来客用の布団を引っ張り出してきたけど、あんまり寝心地良くないでしょ」
「……別に、そんな事ない」
「黴の臭いとかしない?」
「しない」
「そっか。なら良かった」
それを一言で表すならば、文字通り「馬鹿みたいな」光景である。
何しろリビングのど真ん中で対面させた布団と、間に置いたLEDランタンの細々とした光が今の私達の全てなのだ。
加えて深い理由も無いのに、2人して掛け布団を頭まで被って話をしているとすれば、小説や漫画にありがちな「修学旅行ではしゃいだ挙げ句に夜更かしをする学生」の完成である。
「お菓子食べる?煎餅とかしかないけど」
「いいの?」
「いいよ、今は夜更かしとか悪い事をしたい気分なんだ」
結局何しても電気戻らなかったんだし、と彼は低く呟いた。
不貞腐れているのだ。
ブレーカーとの40分に亘る死闘が何の成果ももたらさなかったとくれば致し方無い事ではあるが、その鬱憤を発散するにしては随分と可愛らしい手法である。
「是が非でも付き合ってもらう……太るかもしれないけど」
「それは……構わないけど」
「え、構わないの?」
「誰も気にしないし……」
口から発する言葉とは対照的に、ふと気になる事があった。
もし父ならばどうするだろうか。
きっと──きっと酒を飲んで私に当たって、それで終わりだ。
あの人は酒と暴力でしか鬱憤を晴らす事が出来ない。
母に至っては帰って来すらしないだろう。
それなら此処にいる方が良い。
2人でお菓子を食べて、夜更かしして、下らない事を喋る方がずっと良い。
「よーし、それなら先ずはポッキーから開けよう。冷蔵庫もダメになったから溶ける前に処理しないとな────」
彼はバリバリと、乱雑に菓子袋を開いていく。
私はそれを眺めているだけ。
ただそれだけなのに────こんなにも不思議だ。
何が、と明確には言えないけどふわふわした、信じられない位浮わついた気分なのだ。
(────あ、そっか)
よく考えれば、誰かとお菓子を一緒に食べるのも初めてだった。
と言うかお菓子なんて全然、食べた事も無い。
勿論駄菓子屋位はあったけど、行った所で門前払いが関の山だ。
それに遊ぶ為のお金なんて、今まで1回たりとも貰えなかった。
初めてだ、こんなの。
「ねぇ」
「何?」
「これ貰っても良い?」
「良いよ。てか許可なんていらないから好きなだけ持ってけよ」
──いや、そこまで言われるとは思わなかったが。
想像以上に寛容な言葉に目を白黒させていると、彼が菓子袋をぐいぐい此方へ押し出してくる。
赤色、黄色、緑色。
色んな種類のお菓子が入った詰め合わせだ。
こんなに色々な物を貰ったのも、初めてだ。
父は私にゲームを買ってくれたが、それはそうしておけば私が静かになるだろうと踏んだからであって、優しさも愛も無い冷たい思惑の産物だった。
それに比べて、たった数百円にも満たないお菓子の詰め合わせの何と温かい事か!
(ホントに、私って安い人間なのね……)
我ながら呆れてしまう。
こんな腹に収めてしまえばそれっきりのお菓子にゲーム機以上の価値を見出だすなんて、チョロ過ぎにも程がある。
情けない話だが、私はほんの数時間前までこの世界の全てに悲観して人間不信に陥っていたのに、たった1人の男の子に一瞬で絆されてしまったのだ。
所詮は他人の温もりに包まれたい欲求に見て見ぬ振りをしていただけの、
「……ずっと、此処にいたいな」
「へ?」
だからこんな言葉も漏れる。
無意識だけど、出ちゃったんだからしょうがない。
「マ、マジ?」
「……?」
よっぽど他人に飢えていたんだな、と自分の浅ましさに納得しつつチョコ菓子を摘まんでいると、不意に彼が声を発した。
ぶっきらぼうで無愛想な彼らしくもない、どこか上擦って緊張した様子が新鮮だ。
「あ、明日も居たいならいればいいよ。どうせ土曜日だろ?日曜朝なら困るかもしれないけど……」
「─────え!?」
だが、続いて彼が放った言葉は私の動揺を誘うには充分過ぎる程だった。
そんな事を言われてしまったら、その、困る。
とっても、困ってしまう。
「……いいの?」
「いいよ、大歓迎」
「おはよう……」
結局、あれから日付が変わるまで2時間も喋ってしまった。
アニメが面白かっただとか、夜のバラエティ番組は子供騙しなんじゃないかとか、そんな感じの本当に下らない事ばっかり喋ってしまったのだが──
「ん、おはよう」
キッチンで例の似合わないエプロンを着けて卵をかき混ぜる彼が、チラリと此方を見て言葉を返す。
そう、こういう「普段」なら絶対有り得ない返事が返ってくるのだから、何だか気分が上がってしまうのも仕方無いだろう。
席についてしばらくボーッとしていればご飯に味噌汁、スクランブルエッグとウインナーが載った皿がテキパキと配膳される。
『いただきます』
やはりこれも──誰かと一緒にレトルトではない朝食を食べる事もまた、初めての行為だった。
写真か動画でも撮って、いつでも見返せるようにしたいな。
「……豆腐、細切れになってる」
「勘弁してくれ、元々不器用なんだ」
「良いよ、とっても美味しいし」
「マ、マジで……?無理しなくて良いよ?」
「してない」
そうかなぁ、と頭を掻く彼の姿にも何故か強い執着を覚える。
何と言うか──独り占めしたい。
他の誰かに見せたくない。
この思い出は私と彼の2人だけのモノで良い。
そう思ってしまうのだ。
「なに?何か付いてる?」
「ううん、違う……」
おっと、見詰めすぎてしまったか。
だけどそうやって怪訝な顔をする彼も、とっても────
(ん?んん?)
とっても、何だ?
この感情は、一体何なんだろう。
こんなにも胸が熱くなって、こんなにも多幸感に満ちているのにその感情に名前を付けられない。
不思議だ。
とっても不思議で、だけどどうしようもない位堪らない。
もっともっと、浸っていたい。
──そう考えなければ、あんな事にはならなかったかもしれないのに。
この村には、うんざりする位田んぼがある。
東に行けば田んぼ、西に行っても田んぼ、あとそれなりに家とかマンションとか。
学校だって田んぼに囲まれているんだから、流石に毎日見ていれば嫌になる。
「すっげえ晴れてるな、暑いんだけど……」
「そうね……」
────でも、彼がいれば違って見える。
何一つ代わり映えしない、忌々しい土地の景色だって彼と一緒に歩けば風光明媚な歴史的村落へと様変わりだ。
「サッサと回収して帰ろう」
「そうね、私も彼処にはあんまり居たくない」
「自宅なのにな」
「自宅なのにね。可笑しいでしょ?」
何て事は無い。
どうあっても面倒くさい父にバレないようゲーム機を回収して、彼の家で遊ぶだけだ。
ただ──ただちょっと勇気が欲しいから、彼に付いて来てもらっただけ。
一緒に散歩したかったなんて、絶対にそんなんじゃない。
「お昼はどうするの?何か買って戻った方が良いんじゃない?」
「んーカップ麺あるしそれで良いでしょ。メンドいし」
「結構、出不精……だったかしら。そんな感じなのね」
「僕の事を何だと思ってたのさ」
「昨日までは、助けてくれるよく分からない人」
「今日は?」
「友達」
友達──そう、友達だ。
彼は、私の人生で初めての友達なんだ。
友達と一緒で、気分が上がらない人間なんていないだろう。
だから。
だから気付けなかった。
私が気付くべきだったんだ。
その悪意の矛先は私に向いていたから。
本来私が受け止めるべき悪意だったのだから。
「淫売の糸矢はぁ、どっか行っちゃえー!」
突然の罵声に、彼共々振り向く。
見れば10m程離れた所で、恐らく下級生の小さな男子が仁王立ちで声を張り上げていた。
そしてソイツは、まるで野球選手がそうするかのように大きく振りかぶって、「何か」を投げた。
投げてしまったのだ。
「────え」
その「何か」、即ち拳大の石は晴天の空に鮮やかな放物線を描いて────鈍く、致命的な音と共に彼の頭を直撃した。