こんなに────こんなに嫌な話が世の中にあるだろうか。
いや、あるんだろう。
世界を隅から隅まで見渡せば、こんな話ありふれているんだろう。
私より悲惨な目に遭ってる人だっていっぱい、いっぱいいる筈だ。
だから、私1人が悲劇のヒロインを気取るなんて許されない。
世界で一番不幸な人間を気取るだなんて、許される訳がない。
少なくとも
彼があの日、石で頭を打たれた事件が全てを変えた。
たった1人で全てを変えてしまった。
端的に言ってしまえば、村の人達は「やりすぎた」のだ。
村八分と言うのは村と言う閉じたコミュニティの中で完結するからこそ成り立つ話であって、規模が村を越えてしまえばただの「事件」となる。
──事件になれば村人はどうなるのか。
何もかもが明らかになる。
──明らかになるとどうなるのか。
当然己の行いに対する咎を負う事になるだろう。
今までやりたい放題やってきた癖に、そのツケを支払う段階になって連中はビビり始めたのだ。
そうして、事態の発覚を何よりも恐れた彼らは自然と目に見える形で私に危害を加えるのを止めた。
相変わらず悪意の籠った目線は向けられたし父親は飲んだくれの屑だったけれど、それだけだ。
卑しい淫売の子から、私はただの空気になった。
彼1人と引き換えに、私の地獄は終わりを告げたのだ。
ふざけるな。
ふざけるなよ、本当に。
何が「地獄は終わりを告げた」だ。
何が「あの頃よりはずっとマシになった」だ。
私の地獄はまだ終わってない、終わる訳がない。
ヒーローなんだ。
彼だけが私にとってのヒーローなんだ。
何にも良い所が無い人生に射し込んだたった一筋の光なのに、それを奪われてどうして笑っていられるのか。
彼の顔。
彼の言葉。
彼と一緒に食べたカレー。
彼と一緒に聞いたラジオ。
全部全部、私の記憶に焼き付いている。
あの鮮烈過ぎる一瞬の彩りだけが私の全てになってしまった。
だからもう、私は何処にも行けない。
日の光を成長を阻害された植物は、花を咲かせる事もなければ種子を残す事もない。
ただ萎れて、誰にも気付かれずに枯れていくだけ。
──────本当に、それだけだろうか。
さく、さく、とキメの細かい砂をスニーカーで踏みつける音だけが松林の中に響いている。
「────」
今私が歩いているのは、千本松原────沼津港から田子の浦港までのおよそ10kmに渡って続く防風林だ。
それは正しく松の海原と呼べる程生い茂った樹木であり、あまりそう言った事に詳しくない私からしても林の中にありながら磯の香りを感じると言うのは驚きだった。
「────」
何とも無しに「パンプスとか履いてこなくて良かった」と素朴な感想が湧いて出る。
あの手の靴を履いて此処を歩いたら、砂が入ってしまって直ぐに大変な事になるだろう。
元々ファッションの類いにはあまり興味がなく所謂「お洒落」な靴を履く事も滅多に無かったが、今回は偶々それが良い方向にも働いた訳だ。
どちらかと言えばずぼら寄りな私だけれど、だからこそ面倒は可能な限り避けたい。
「────」
そう。
親元を離れて一人暮らしを始めたものの、結局料理の腕は対して上達しなかった。
米は炊けるし味噌汁位ならどうにか作れる。
だけどそこまで。
「煮る」とか、「炒める」とか、「蒸す」とか一通り試してはみたけどからっきし。
時には食べ物とすら呼べない何かを精製する事だってあった。
本質的にへたっぴなのだ。
「──────あ」
そんな風にとりとめのない事を考えていたら、いつの間にか松の海は終わりを迎えコンクリートで舗装された堤防が目の前に聳えていた。
階段を登って、堤防の上に立つ。
冷たい海風が私の顔を撫で、肩口まで伸ばした髪を巻き上げる。
でも、そんなのはどうでもいい。
「あぁ──────」
そこには、全てがあった。
真っ赤に燃える夕陽、きらきらと煌めく大海原の光、空を揺蕩うカモメの群れ。
何処までも広がる、雄大な命の源が私の目の前に広がっていた。
それは、それは何より──────
「いい眺め」
彼はきっと目覚めない。
明日も、明後日も、ずっとずっとそのままだ。
私も自分を許せそうにない。
いつまでも思い出に囚われたままだろうし、後悔も一生引き摺るだろう。
だけど、こんな人生も捨てたもんじゃない。
4年前とは違って、彼が守ってくれた心があるから。
4年前ではきっと何も感じなかったこの景色を、美しいと感じる事が出来るのだから。
「私、生きるよ」
吹き荒ぶ海風が、何故だかとっても気持ち良かった。