1937年10月9日から北方海軍工廠にて新八八艦隊の艦船と超大型戦艦が起工した。そして超大型戦艦については既に軍令部と海軍艦政本部の間で長い話し合いは終わっており、主砲は第一号計画より一回り大きい、45口径51cm三連装砲塔に決定となった。そして少し遅れて呉海軍工廠と三菱重工業長崎造船所と横須賀海軍工廠が同日に超大型戦艦、超大型装甲空母を起工した。
空計画の正規空母3隻については一番艦は川崎重工業神戸造船所で二番艦は横須賀海軍工廠そして三番艦は三菱重工業長崎造船所にて起工をした。
年は明けての1938年、正月早々から良き出来事として零戦の欠点であった防弾性の弱さなどを改良した零式改型艦上戦闘機略して零戦改が出来たのである。
時は経ち1939年5月に急計画の艦船が全てなんの事故もなく進水式を行なった。そして天皇陛下より命名が行われ巡洋戦艦は一番艦から紀伊、土佐、駿河、出雲、薩摩、摂津、甲斐、越後の名前となった。
兵装は主砲として35.6cm45口径連装砲塔4基を備え、副砲として50口径13cm連装砲塔を4基を備えるものとなっており、速力は33ktである。
軽空母は一番艦から風越、空木、雪倉、浮嶽、雲取、景鶴、鷲羽、愛鷹と命名された。命名条件として空に関する名前が入る山として通常の空母の命名と違う形となった。
艦載機の数は常用52機、補用8機の合計60機を搭載可能な軽空母となった。速力は35ktである。
海軍内では急計画の艦船全ての進水が終わったこともあり少し落ち着きの時が来たと思われた、しかし1939年9月1日にドイツはポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発した。これにより政府は第終計画の要たる超大型戦艦が就役予定の1941年12月後半にアメリカ侵攻を御前会議にて決定を行なった。これにより政府は海軍にあらゆる計画の繰り上げを要求し、12月後半のアメリカ侵攻までに間に合わせるようにした。
海軍は急遽、空母増大計画及び“マル臨計画”をたて千歳型水上機母艦、高速給油艦高崎型、潜水母艦大鯨、大型客船橿原丸と出雲丸、あるぜんちな丸、ドイツの客船シャルンホスト、新田丸級貨客船と16隻の中型空母の建造を開始した。
そして第一号計画の呉海軍工廠にて建造の超大型戦艦が1940年1月9日に進水、同年1月20日に三菱重工業長崎造船所の超大型戦艦も進水した。そして天皇陛下より一番艦大和、二番艦武蔵と名付けられた。この時日本はビック7の長門型を超える世界で一番の超弩級戦艦を2隻作り上げた。
兵装は主砲45口径46cm3連装砲塔3基を備え、60口径15.5cm3連装砲塔4基を備えるものとなっている。しかしこれは海軍にとっては前座の出来事であった。
2月26日には高高度戦闘などを目的とした局地戦闘機震電が完成した。この結果を聞き、海軍内ではマル臨計画の中型空母16隻から11隻に変更することに決定し、資材などを戦闘機開発や駆逐艦や巡洋艦の近代化改修などに使われた。
7月6日には⓪計画の超大型装甲空母が進水を行なった。飛行甲板には装甲を貼っており、なおかつ世界初の斜め飛行甲板となっており着艦機が艦橋や停止・待機機と衝突する事故は回避できるようになり、着艦作業と発艦作業とが干渉しなくなる他、着艦のやり直しも出来るようになった。艦載機の数は常用95機、補用18機の合計113機を搭載可能になった。そして天皇陛下は空母としては異例の旧国名を名付けた。その名前は信濃である。
そして8月8日、対米構想の中心の要となっている第終計画の超大型戦艦が進水した。
兵装は主砲45口径51cm三連装砲塔4基、50口径20.3cm三装砲2基、40口径12.7cm連装高角砲23基、12cm30連装噴進砲11基、25mm3連装機銃65基、25mm単装機銃8基となっており、排水量は7万トン越えである。そして速度は30ktである。
天皇陛下は世界で一番の超弩級戦艦を計画名と旧国名からあやかり
“超弩級戦艦尾張”
と名付けられた。
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