冒険者には一時の油断も驕りも許されない。下に向かえば向かうほど、それを強く実感する事が出来る。上層までならばソロ攻略の日帰りも現実的な範囲ではあるものの、中層に行けば数の暴力を。下層に行けば地形の劣悪さを。深層に行けば5分の休憩すら危険だという事を理解した。
今更理解しても、もう遅い
人数の大切さを理解した。入念な準備が必要な事を理解した。それを行っても尚破滅の未来がある事を、白骨死体を目の当たりにして理解する。
もう、見慣れてしまったが
安らげる場所などダンジョンには無い。冒険者がダンジョンを探索する冒険者である限り、休めるなどという希望は砕かれる為に存在している様なもの。今までが順調だった訳では無いが、それでも何とかなっていたという驕りが希望を抱かせるのだ。自分は所詮、冒険者になって半年の半人前に過ぎない未熟者だと理解させられる。
冒険者が本当の意味で休めるのは、ダンジョンから地上に帰還した時だけ。
もう、安らぎの未来はない
ダンジョンのイレギュラーは、絶望は、突如として冒険者を襲う。……いや違うか。施しはあった筈だ。カサンドラさんの予知夢。あの時の
いや違う。それを言うならば僕が最初からリューさんを信じて引き戻していれば。
違う。それ以前の問題として、ジャガーノートを呼び出すためのスイッチ。連動している故に痛みの錯覚を起こすダンジョンの破壊を避けるために、あの
もしも汚名を被れば、もしも仲間の信頼を落としてでも、もしも罪の意識を芽生えさせたとしても。
もしも───もしも、僕がリリ達を仲間に引き入れてなければ、こんな未来は無かったのではないか。
負の連鎖とは、よく言ったものである。
これだけの膨大な“もしも”を考えさせる程に、ダンジョンは残酷だった。
目の前の人を救えず、仲間を守れず、名誉は堕ちて憧憬は消えた。
それでも尽きない英雄願望は───ただの、道具と化す。自分を確立する為の概念で、敵を倒す為の言い訳で、もう……叶わない、ただの願いとして残った。
───1度目は、妖精の命だった。
なんて事はない。連続する深層の脅威に押され、それによって生まれた一瞬の隙。あまりにも都合が良すぎる……否、悪すぎるモンスターの生産が、リュー・リオンのよろけた先で行われた。腹を切り裂かれ、半身が別れることこそなかったものの、いっそ別れてくれた方が痛みを感じずに死ねたのではないかと思う。
華奢な身体は血に濡れて、腑が飛び出る。あまりにも傷口がデカく、圧迫して止められない血。痙攣と吐血を繰り返す妖精の目が死にかける度に生き残れとポーションを掛け、何度も苦痛を与えた。やがてなけなしの腐りかけた回復薬が尽きる頃には、リューの瞳は死を悟った様に穏やかになる。繰り返される激痛に慣れたリューは、微かな精神力を以ってベルの身体を癒す。
そして伝える。己の様な復讐鬼にならないよう、
「貴方はもう、冒険者だ」
「……!」
死を覚悟しろ。それが己であれ、誰かであれ、冒険者ならば避けて通れない道だから。そう言わんばかりの言葉に、ベルは言葉を詰まらせる。
「良いんです。私は貴方に、教えられた。正義を───英雄の輝きを」
確かに、リューはここで尽きるのだろう。それでも教えられて、救われた。闘技場で死なずに抜け切れただけで、ベルから言葉を与えられただけで、もう充分なのだと。
「貴方は至れる。だから今は、生きる事を優先しなさい」
その言葉を最後に垂れ落ちる腕。閉じる目。全身から力は抜け落ち、血が零れ落ちて行く。
そんな光景を見ている───暇など無くて、今まで話せる時間があったのが奇跡だったかの様にモンスターは襲ってくる。最初の攻撃が背後からでは無く視界内の前方だったのは
「ファイアボルト!」
白い炎雷は放たれ、多くのモンスターが巻き込まれる。が、やはり深層モンスターはしぶとい。一点集中じゃなかったのも理由の一つだろうが、倒れていても消滅しないモンスターが幾匹か存在した。
体力と精神力の消耗。休息時間があったとは言え、万全ではない状態でのスキル発動はやはり身体に負担が掛かる。ベルはフラつく脚で立って歩き、ヘスティア・ナイフを倒れているモンスターの魔石に突き刺す。
深層だから安心は出来ないが、先程出現したばかりだ。この場所だけならば
まだふわふわとした、現実を認識できていない感覚はあるが、染み付いたダンジョンに対する知識がそれを理解させる。
ベルはおぼつかない脚でリューの近くへ寄り、動かないその身体を見下ろす。視界の上から血が垂れる。呆然と手を頭に伸ばすが、どこにも傷跡がない。続いて視線を落とし、服を見る。血塗れだ。殆どのモンスターは返り血を浴びない様に倒した。
つまりこれら全ては、先程抱えた時に掛かったリューの血。
「───っ!?」
ゾクリ、と。悪寒と共に身体が震える。呆然とした思考はハッキリと戻り、働いた五感が鉄の臭いを認識させた。夥しいまでの溢れた血を視覚。単なる水とは思えない滑りを含んだ赤色の触覚。
ベルは脚の力を無くした様に膝を着き、息を荒げてリューの首に手を当てる。続いて顔へと移り、そして手に触れる。
「ぁ───」
冷たい。冷えている。柔らかな感触と凍える様な冷たさ。
冷えているならば、暖めなければ。血流の流れを良くして、心臓を稼働させねば。
身体が冷えるというのはそれだけ危険な事。早く。早く暖めよう。そう決意したベルは鎧を素早く脱ぎ捨て、インナーだけの姿となってリューを抱きしめる。焦りが大量の汗を呼び、蒸気した肌は熱い───故に尚更感じる、リューの冷たさ。
三十秒、一分、二分───規定ギリギリ。全く動かないリューの身体を、ソッと地面に置く。ガラス細工を扱う様な、大事な人形を扱うかの様な、そんな優しく。そして残酷な意識と共に。
ああ、リュー・リオンという
「ァア────」
頭では分かっていた。叫び出せば、付近のモンスターは躊躇も遠慮もなくやってくるだろうと。叫び出したい衝動を、慟哭を。ベルは自身の手で首を絞める事により抑え込む。
嗚咽を垂れ、涙を流し、それでも叫ぶ事を許さない理性。
目の前で死ぬ。託す様に語られる意思。触れた過去。確かに感じた、絆。“大切な人”と思えるだけの紡ぎを得た人物の死はあまりにも大きかった。どれだけ理性が抑えようとも、暴れる感情は最善を許さない。
“復讐心”。確かに浮かぶ、「あいつさえいなければ」という想い。得てしてそれを抱く者の末路は滅びと決まっている。優しい少年だと分かっているから、せめてもの敵討ちをしようと試みる少年だと分かっているから、リューは逃げろと伝えた。
ただ一つ、予想外な事があったとすれば。リュー・リオンの考える“ベル・クラネルにとってのリューという存在”と、その事実の差異が大きかった事。ベルがあまりにも短い期間に力を付けた事。
そして何より───それを為せるだけの力を、少年が身につけていた事。
ベルとジャガーノートは相対し、ベルは
意思を貫き通した確かな冒険者と言って異論はない。冒険者となればいずれ体験するだろう事が少年に起こり、それを乗り越えたという冒険譚として紡がれるだろう。心に傷を負いながらも、それを乗り越える未来を想って。
だが
2度目は、ファミリアの命だった。
ダンジョンの
カシマ・桜花。かつて中層で一悶着あったが、今では遠征に付き添う、ファミリアの団長。曰く、彼はヴェルフを庇い死んだ。ベルは直接見ていないし、そもそも遺体すらなかった。焼き尽くされたのだ。
次いで命が。次いでダフネが。次いでリリが。次いで春姫が。次いで───最後まで残ったヴェルフとアイシャの内、ヴェルフが死んだ。
直接見たわけでもないのに詳細を知っているのは、何も推測というわけではない。伝えられたのだ。その場を逃げたアイシャに。
18階層で全てを伝えられた時、ベルは呆然と目を見開いた。罵倒の限りを尽くされると覚悟していたアイシャは、ベルが背に負う妖精の姿を見て項垂れる。
「アンタの仲間が命を張ってまで助けようとした相手は死亡……報われないね、こりゃ」
仲間が死ぬ事には覚えがある。慣れたくない感性。でも経験は多少の慣れを強要する。そして何より、ベルの感情を良く理解できる。
だからせめて、例え
「……ごめんなさい」
なぜアンタが謝るのか。謝るのは自分だ。一番レベルが高い自分が背負わずに誰が背負えばよかったのか。所詮自分は逃げ出した。
「僕は、大丈夫です」
何処がだ。一切の笑顔もなしに、能面晒して。せめて責任くらいは取らせろ。───言えなかった。喉の奥から出掛けた言葉は、引っかかって表れない。ただ息が溢れる。
少年の英雄願望を知っているからだろうか。助けようとする純真な意思を知っているからだろうか。
違う。ただ、甘えてしまった。冒険者歴半年の新米も良いところな冒険者。その急成長を見せる彼が責任を負うというその言葉に。
大切な人を間近で殺され、大切な仲間を知らない間に殺され。どれだけの重荷が背負うかもわからないのに。一度背負おうとした意思は、他ならないベルの言質を得る事であまりにも軽くなってしまった。
アイシャは力抜けて地面に座り、クシャリと自分の髪をむしり取るかのように掴む。
「クソったれ……」
ベルが居ない間、春姫を守るのは他ならない自分の役目だ。例え安堵できる
階層主がなんだ。イレギュラーがなんだ。結局は勝てなかった自分の責任。
───それをその場にいなかった少年に背負わせるなど、冒険者歴半年の少年に背負わせるなど、自分自身に嫌悪を抱いてしょうがない。
あまり時間を置いては腐敗してしまうから、豊穣の女主人の従業員……。彼女と近しい人たちには申し訳ないと思いながら、ベルはその遺体を埋める。彼女から聞かされた、かつてのリューの仲間達が「死んだなら墓はここが良い」と告げたその場所に、アストレア・ファミリア最後の団員を。
木々の木漏れ日が差し込む水晶の森。景色を楽しむ余裕などないが、それでも反射される光は、人に祝福を与えているかのような美しさがあった。いつか、
土を掘り、土を被せ、その上にリューが持っていた小太刀を突き刺す。ああ、死者を弔ったのだと実感した。ベルは小太刀の柄から手を離さず、腕が震え出す。18階層は
「ァ───」
慟哭が、突き刺した。
「ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛─────ッッ!!!!」
木々を揺らし、水面を揺らし、水晶に反響させる叫び。
「リリ、ヴェルフ、春姫さん、命さん───っ」
己のファミリアの仲間達を。
「桜花さん、千草さん───っ」
ヘスティアの、ある意味では同盟者の神の眷属達を。
「ダフネさん、カサンドラさん───っ」
「リューさん───ッ!」
───己を、英雄に至れると言ってくれた美しき
慟哭。悲鳴。喪失感。怒り、怒り、怒り。自分がちゃんとしていれば、自分が全てをわかっていれば、自分がもっと強ければ。
自分が……自分が。自分が、自分が、自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が自分が───……。
「……ごめんなさい」
許してくれと乞うつもりはない。恨めしいなら取り憑いてくれたっていい。
ただ、この罪悪感を決して離さないように。
「ごめんなさい」
謝り続けた。
「ごめん、なさい……っ」
無意識の内に柄を離していたのか。いや、無意識にでも正気を失うまいと体が理解していたのか。その手は刃を握りしめて、血を滴らせていた。
謝り続けたその果てに、ベルは虚無の顔を晒す。英雄のような勇ましさの欠片もない。
笑え。
「───」
あの英雄のように笑え。始まりの英雄の様に。喜劇を齎した道化のように。悲劇を塗り替えるほどの喜劇を、英雄譚を紡ぐ為に。リュー・リオンの告げた意思を、無駄にしないように。
「───」
……ああ。水面下に映るそれは、
「……は」
とても歪な、自分への
「ベル・クラネル」
肩が跳ね上がる。ベルは目元を拭い、背後に振り返る。水色の髪に眼鏡。次いで視界に大きく映る、白いローブ。
アスフィの姿を認知したベルは、その視線の先にある物を理解し、顔を俯かせる。
「ごめ───」
「事の顛末は【
「……」
ああ、いつのまにか時間が経っていたんだ。どれだけ叫んでいたのか、どれだけ嘆いていたのか、どれだけ蹲っていたのか。アイシャがいた方向へ力なく視線を向けると、アスフィは語り始める。
「私とリオンは人造迷宮の攻略に行っていました」
「……」
「闇派閥の残党を見つけた彼女は、脇目も振らずに追いかけました。……私の声も届かない様子で」
「アスフィさんは───」
「いいえ。私の責任です。あの場で私が彼女を引き止められていれば、きっとこんな事態にはならなかった。貴方達は闇派閥の陰謀に巻き込まれる事なく、遠征を終えたファミリアとして地上へと戻れたでしょう」
「たらればを言ったらキリが無いッ!」
───予想外の咆哮。ベルの叫びに、アスフィは目を見開き後ずさる。
「アスフィさんがリューさんを引き止められていれば!? それ以外にも道はある! 僕がリューさんを守れるだけの知識と力を蓄えていれば! 信じていれば! 見抜けていれば! そもそも、アストレア・ファミリアが壊滅していなければ!」
復讐を糧に動いたリューが、その残党を認知して黙って居られるはずがない。そもそも復讐心を抱かなければ。つまり、ただ“正義”として悪を滅する為に、アストレア・ファミリアが成立していればなんの問題もなかった。
ベルがたらればを思うのは、責任転嫁の為じゃ無い。ただの戒めだ。
「事実としてあるのはっ、僕の目の前でリューさんが死んだ事に他ならない! この罪悪感は僕が抱くべきものだ!」
「───しかし、そのままでは貴方がっ」
壊れますよ。そう続くだろう言葉は、木々の破壊音に掻き消された。ゴクリと息を飲むアスフィを傍目に、ベルは歯軋りし、言葉を溢す。
「託されたんだ……僕は冒険者だって。英雄へ至れる素質があるんだって。だからっ!」
リューが遺した『冒険者』の意味を理解したアスフィは、目を閉じて唇を噛む。「それを否定することは許さない」という少年の眼光に、アスフィは表情を整えて言葉を紡いだ。
「……わかりました。ただ、一つだけ言わせて下さい。謝るのは私です」
「っ……!」
「リオンの件ではなく、貴方に」
「……?」
「神威に逆らうだけの意思を、私は持てませんでした」
ベルの困惑をよそに謝罪するアスフィは、近づく事を許さない程の嫌悪を放っていた。決してベルに向けられた嫌悪じゃ無い。その言葉に宿した嫌悪。
一体誰に向けられた言葉なのだろう。その言葉の意味を、地上に戻って理解する。
───3度目は、血筋だった。
「ベル君!」
主神、ヘスティアの声。ホームに戻って来た。強化種のモス・ヒュージに関してはリリの手紙で知らされているだろうが、この悲観の声はリリ達の死も知らされていると悟る。
「ただいま、神様」
「……っ」
ヘスティアの顔は強ばる。当然だろう。今のベルは無表情。あまりにも痛々しく、重苦しい雰囲気。普段ならば浮かべているだろう笑顔を浮かべていない。
顔を俯かせるヘスティアに、ベルは音のない部屋を見渡す。
「二人きりは久し振りですね」
「……そう、だね。部屋だけは広くなって、なんだか落ち着かないや」
これが、ただ仲間達が出掛けてるだけならば、ヘスティアは歓喜の声を上げていただろう。だがそんな気は一ミリたりとも起こらない。ベルの言葉の真意は、仲間の死を深く噛み締める意思。
「ねぇ、ベル君」
「神様は知っていたんですか?」
「……ううん。ボクが下界に降りてきたのは、今から一年前だ。既に暗黒期なんて雰囲気は無くなっていたから、知らなかった。君が───」
要領を得ない、具体的な言葉のない問い。だが今やオラリオ中をざわめかせている情報と、その
「七年前、オラリオを壊滅寸前まで追い込んだ闇派閥の一人。かつてのヘラの眷属の……その血筋とは、知らなかった」
「……僕には、家族がお祖父ちゃんしか居ませんでした。母も父も、会ったことなんて無くて……。お祖父ちゃんからも、どんな人だったのかを教えられた事がありません。……僕が単純に、英雄譚に惹かれたのも理由の一つですけど」
信じて貰えるかは分かりませんが、と。ホームに帰ってくるまでに送られた数々の嫌悪の視線。恐らく例の七年前の暗黒期を見てきただろう人物達の視線を思い出して、そう付け加えるベルに、ヘスティアは苦笑して告げる。
「おいおい、忘れたのかい? ボクは神だぜ? 下界の子供の嘘くらい容易く見破れるさ」
「そう……でしたね」
一度視線を落としたベルは、顔を上げ、ヘスティアの頭に手を伸ばす。優しく手を置かれ、ヘスティアはキョトンと困惑の表情を見せる。撫でるように動かせば、ヘスティアは心地が良さそうに片目を瞑って身を委ねていた。
一息、ベルは安堵の溜め息を溢す。それを見たヘスティアは、ベルの行動の意味を理解した。
「そっか。誰よりも君を怖がっているのは、君自身か」
ヘスティアの頭を撫でるという、ベルに似合わない行動。それは、ヘスティアがベルに対して恐怖を抱くのではないかという確認のため。
自分が何者かがわからない。誰から生まれ、恨みを買っているのだ。知らない“血”が、ベルを苛む。例え自分が直接関与していなくともだ。こんな状況で、エルフを相手にヴェルフはよく飄々としていたと思う。自分より年上の、今は亡き鍛治師は、やはり年上なのだと思わされた。
ヘスティアは慈愛の瞳でベルを見る。普段のおちゃらけた表情を隠す。微かな神威。何百年、何千年と生きる“神”に許された、聖母の様な雰囲気に、ベルはゴクリと息を飲んだ。
ヘスティアの腕は、ベルを背中から包み込む。抱きしめ、耳元で囁いた。
「ベル君、ボクは今から、君には理解出来ない感性を伝える。君にとっては残酷かもしれない、ボクの混じり気のない本心だ」
「……はい」
「ボクは、サポーター君達の死を悲観していない」
ベルが帰ってきた時に悲観の声を上げたのは、仲間を殺されたベルが衝動に走っていないかを危惧しての事だ。
「
「……」
「それでも、寂しさはあるんだ。例え魂が移ったとしても、その子はボクを知らない“他の誰か”だから。ボクの一方的な感情は、相手には伝わらない」
もちろん、下界に降りたのなんてたった一年前の出来事。身近な人ではない他者の死を見ることはあっても、大切な人の死は見た事が
もし、ベルが死んでしまったら。その仮定だけで心が苦しくなるから。
ヘスティアは腕を離し、手を肩に当てて顔を自分の方へと向けさせる。
「ベル君、ボクの為に生きて欲しい。例え百年と続かない命だとしても。君が生き続ける限り、ボクは決して死なないよ」
なんたって、神様だからね。
久しく見ていなかった、満面の笑み。何度も何度も心を折られ、悲観が続いたその先に見た女神の笑みに、ベルはホロリと涙を溢す。
叫ばない。悲鳴はない。ただポツポツと、雨が降る様に。静かな表情で、涙は零れ落ちていく。
後ろ指を指されるだろう。自分の知らない自分の“血”に狂わされるだろう。
それでも神様が自分を必要としてくれた。自分を見失いそうになる中、自分を見つけて抱きしめてくれた。折れて、折れて、折れて。大切な人の身近な死に、仲間の知らない間の死に、知らぬ血筋に、心を折られて。
それでも立ち上がれる二つの意思。
この日、ベル・クラネルはレベル5となった。
「ら、【
何処のファミリアの人だろうか。いや、どうでもいい。助けられたのならそれでいい。何処のファミリアかなんて関係ない。どうせ視線は同じだ。幾度となく嫌悪を注がれるに違いない。
人造迷宮中のモンスターを狩っていく。斬り、突き、レベル5のステイタスを存分に稼働させる。ズレを直す為に、無数のモンスターを倒していく。やがてズレが無くなる頃には───100を優に超える魔石が転がっていた。ダンジョン内ならば強化種を生みかねない愚行だが、ここは
背後にモンスターの気配。ベルは素早く短剣を振り───寸前で止める。
「わ、私でス。ベルさん」
「レイさん……」
以前出会った時とはまるで違う。モンスターの気配に容赦ない、鋭い斬撃。幸いにも寸前で止められたが、ベルの問答無用の攻撃に、
一体少年に何があったのか。だが、そんな疑問を思う暇すらない。水晶から聞こえる激しい音に、レイは慌てて指示をする。
「ベルさん、
「───七、体目……!?」
ベルは、勘づいていた。この作戦に於ける本命の六体。地上に帰った時、噂など気にしない様子で話しかけてきたティオナが、精霊の六円環について聞いてきたことを。
その時ベルは知り得る限りの情報を伝えた。当時は疑問もなく答えたが、人造迷宮の攻略に駆り出され、その敵の内容を知らされ、必死に頭を回して理解した。
敵はなぞってる。精霊の六円環をなぞり、オラリオを滅ぼそうとしてるのだと。
だからそれを理解して、助けになったと嬉しい感情を抱いて。今、七体目の存在が明かされて動悸が早くなる。自分が伝えたことによる“六”への固定観念。それが“七”への意識を薄れさせてしまったのだと。
ベルは歯を噛み締め、
リン、リン、リィン───
果たして
レベル5のステイタスを存分に使用して、ニーズホッグの攻撃を全回避。避けるたびに磨かれていく平行畜力は、それこそ第一級冒険者に相応しい能力だろう。
ドッと疲れが溜まり、ベルは膝をつく。精神力はギリギリ残した。体力さえあれば問題なく動けるだろう。魔法は使えずともそれを考慮して動けばいい。効率は落ちるが、レベル5一人が離脱するよりは遥かにマシな筈。
ベルはホルスターに仕舞っている残り一つの
身近な死が、より一層死を忌避させる。トラウマ以上に、二度とそれを起こしてなるものかと意思を燃えさせる。
走って、
見覚えのある、青色の柄。自身が目指す憧憬の剣の柄。
ゾクリと、体が震える。あまりにも悪夢の光景が多くて、幾度となく嫌な予感が浮かぶ。
まさか、まさか、まさか。そんな筈はない。
大丈夫、きっと生きてる。のほほんと、ぼんやりと。そんな表情の薄い、それでも時折幼い所を見せる少女の姿を思い浮かべて───しかし、脚を止めない。
足取りはおぼつかない。嫌な予感が頭を痛くする。大丈夫という意識は次第に薄れていき。
やがて、その瞳に少女の姿を映した。
風を纏っている。ベルは安堵の息を溢した。久し振りに心の底から笑みを浮かべる。無事だ、良かった。
「アイズさん!」
心の支えは、もう二つだけ。ひょっとしたら依存しているのかもしれない。これはもう、憧憬以外の何かかもしれない。
そんなことはどうでもいい。ただ彼女が無事だった事に喜ぼう。
「……?」
声が届いていないのだろうか。風を纏ったままピクリとも動かない少女の姿を見つめ、ベルは首を傾げる。背中からでは表情が見えない。回り込んで確認した。
「アイ───」
其処に
「───ひっ」
大量の血を、目から、口から、腹から、足から、腕から流す、能面のアイズ・ヴァレンシュタイン。その死体である。
ベルは小さく悲鳴を溢し、反射的に後ずさる。それでも必死に頭を回して、その答えを探った。
分からない。訳がわからない。死んでる? ならなんで魔法が発動されたままなのか。眠っているのか? そんなはずは無い。幾ら冒険者で、レベル6程のステイタスを有していたとしても、
命という命。肉体全てを燃やし尽くしたかの様な姿。そして、一人でに意思があるかのように動く風。それは崩れてもおかしく無い身体を支え続けている。
「ぁ───」
一つ確信できるのは。
アイズ・ヴァレンシュタインという憧憬が、死に絶えたという事実のみ。
「どう、して……っ!?」
本能は理解する。“それ”は既に生命体では無いと。だが理性は、疑問だけを求める。その本能を認めたく無いから、理性によってそれを認識しようとしない。
しかし、動かないという事実は他ならない視覚で捉えていて───やがて、風は拡散するように消えていく。支えを無くしたボロボロの体は、崩れ落ちていく。咄嗟に身体を滑り込ませてアイズの身体を抱えたベルは、見た目だけでは実感できないボロボロの体を、触れる事で理解する。
関節以外の場所がグニャリと曲がった。悪寒が襲う。鳥肌が立つ。トラウマが蘇る。怪我の度合いで言えば、リュー以上に重傷。
「ぅ」
吐き気が催す。もはや人間の人体じゃない。本当の人形の様に、グニャグニャと全身が曲がりくねる。
喉奥から溢れそうになる胃の中のものを必死に抑えて、涙目になる。
「ぁあ───……っ」
次第に吐き気は嗚咽へと移り変わる。
「……嫌だ」
それは、子供の駄々の様に。
「嫌だ。嫌だ」
感情を吐露して。
「嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だっ」
心は、一つの支えを無くして。
「────ぁぁああ……ッッ」
ポキリと、折れた。