青山石子が緑川駿の頬を打ったその日から、二人は言葉を交わす事がなくなっていた。
「本当はおれがお前に仕返しをするつもりだったけど。もういいや」
緑川は──自ら集めた群衆の中、女性から平手打ちを食らうという状況に叩き落され、しっかりと因果応報の味を食らわされていた。
自分の目の前に現れた白髪の小柄な隊員がそう吐き捨て、眼前から去っていた。
──迅さんみたいになりたいんだ。
自分の事をヒーローだと言ってくれた人に対して、吐いた言葉を思い出す。
あの一発。
トリオンで換装した戦闘体の姿では、痛みなんてほとんどなかった。
それでも。
あの一撃は、緑川の内側にまで、黒くにじむ後悔の色を行き渡らせていた。
怒って当然だ。
あんな事。迅のようになりたいと思っている人間がやっていいことじゃない。
自分もまた。
迅のような存在に成れたんじゃないか──そう思っていたのに。
「よ」
そんな中。
変わらない声をかけてくれる人間というのは、──即物的かもしれないけど、ちょっとした救いになる。
米屋陽介が、緑川に声をかける。
「──事情は聞かねぇさ」
「...」
「ま。──謝るんなら、さっさと謝った方が身の為だとだけは言っておくぜ」
そう米屋が声をかけて。
緑川は俯いた顔を、上げた。
「うん」
そう言って。
「謝る」
許してもらえるかどうかなんて解らない。
それでも。
こんな時──自分の憧れが逃げる事をするのだろうか。
明日。
学校が終わったら、すぐに本部のオペレーター室に行こう。
明日出勤しているかどうかなんて解らない。来ていなかったら、毎日でも通おう。きっとうわさも流れているんだろう。周りから冷たい目で見られるかもしれない。でもしょうがない。それでも──謝りたい。
そう決意を固め、明日を迎え。
警報が鳴り響いた。
──夥しい程の『門』が、空を覆い。
──濁流のような軍勢が空に振り落ちる。
かつてあった侵攻が、姿と規模を変え──三門市に再び襲い掛かっていた。
※
劈くような報告が上がっていく。
新型のトリオン兵が四散し暴れ、
市民の避難誘導に当たっていたC級隊員の多くが誘拐され、
人型近界民により各部隊が壊滅していっている様を。
「──マップ南方! 東隊の小荒井隊員が緊急脱出! 新型によりB級早川隊が壊滅!」
「新型のデータ分析急いで!」
「忍田本部長より通告! A級部隊により新型の対応をしつつB級は合流し市民の防護を行う! ルートを表示して!」
本部オペレーター室もまた、データの解析と情報処理に奔走していた。
その中には。
青山石子の姿もあった。
「....」
恐怖が襲い掛かる。
震えているのが、自分でも理解できる。
──でも。
それでも、キーを叩く手は止まることは無い。
──これを選んだのは、自分だから。
※
「くそ....!」
腹部に襲い掛かる衝撃。
自身が仕掛けた攻撃よりも遥かに速く、そして重厚な拳撃が緑川の身体を打った。
眼前には、頭部に耳のような機関を持った、一つ目のトリオン兵。
三メートルほどの大きさで、長い腕を持った人型の姿。
彼等は速く、そして堅固だった。
今までのトリオン兵とは比較にならないスピードを持ちつつ、その両腕はトリガーの攻撃を一切通さない。
「なんで、こんなのが.....!」
何故か。
何故か、だ。
緑川の心中には、不安がどす黒い渦となって巻き上がっていた。
今ここで、こうして新型に足が止められているこの状況に、不安が沸き上がっている。
不安と共に、焦りが発生していく。
「──そこをどけ!」
不安と焦りに、表情筋に大いなる緊張を走らせながら。
緑川は──その新型に向け、走り出した。
その不安の正体は、ある種の予知みたいなものであった。
報告が、トリガーを通して緑川に伝わる。
──黒トリガーを持った人型近界民が、ボーダー本部に襲撃をかけていると。
「....」
攻撃を掻い潜り。
新型の弱点である目を斬り裂き、なんとか一体を倒した緑川の耳に。
届いたその報告。
そこから連想されるのは。
──本部オペレーター室。そこにいる、青山石子。
「──草壁隊、緑川! すぐに本部に増援へ向かいます!」
叫ぶようにそう言って、
緑川は走り出した。
トリガーには、緊急脱出という機能がある。
それは戦闘用の換装体が破壊された瞬間に、換装する前の生身の肉体を本部へと避難させる機能。
それは。
B級以上の正隊員にしか存在しない。
つまり。
ないのだ。
青山には、緊急脱出が。
「緑川」
その時。
自分の憧れの声が響いた。
「迅さん!」
その声が。
自分の内側の不安を吹き飛ばしてくれると。
そう信じていた。
なのに。
「行くな」
その声は。
やけに冷たくて
「え...」
「....」
それ以上の言葉も、無くて
「なんで....!」
「後悔するぞ」
なんで。
なんでだ。
あの時みたいに。「もう大丈夫だ」って言葉をかけてくれないんだ。
不安なんて一瞬で消してくれる笑顔と、飄げた声音で。言葉をかけてくれないんだ。
「.....!」
その意味を理解しながらも。
それでも緑川の足は止まらない。
だって。
まだ謝れていないのに。
あの時の自分を顧みて、本当になりたかった自分の姿も、まだ見せてあげれていないのに。
嫌だ。
絶対に、絶対に──助けなければいけないんだ。
※
壁を破壊し現れたのは、長い黒髪と、同色の角を生やした男であった。
黒いトリオンを身に纏い、下劣な笑みを浮かべて──こちらを見据えていた。
「おーおーいるじゃねぇか、能無しのネズミ共」
それを見た瞬間。
青山石子は、恐怖に身を竦めてしまった。
自分を取り巻いていた日常を破壊する非日常。
その象徴のような男であった。
殺戮を己の欲求として、災害を振りまく邪悪。
──ああ、でも。
自分は部屋の端にいた。
避難路に一番近い場所にいる。
自分は、真っ先に避難することが出来る位置に
恐怖に震える本能が自らを立たせ。
見えた光景。
自分よりも年下の女の子。
怯えて、腰が砕けて。
その女の子の肩を持って、必死に避難路に逃げようとしている先輩。
「そうだった」
恐怖に震える足先に叱咤を入れる。
──でも。青山さんは、ここに残っているじゃん
そうだ。
自分がここに残っている意味。それは何だったのか。
──戦いが怖くても、弱虫でも。虚勢を張ったって、それでも。
「私は──『日常』を守りたかったんだ」
──それでも。日常に住まう人たちの為にありたかったんだ。
とても軽い足取りだった。
それは、たくさんのブレードが飛んできている場所。
ステップを踏むように。
彼女は、踏み出した。
そっか。
多分迅さんは、あの時に見えていたんだ。
きっと。この瞬間を。
私を──ヒーローだって。そう言った時に。
この結末を。
だからあんな表情をしていたんだ。
なら。
私の存在が──きっと何らかの運命を変えたんだろうって。そう信じても、いいんだよね?
──心残りなんて幾らでもあるけど。
──ごめんねお姉ちゃん。一人だけ残しちゃって、本当に、本当にごめん。
──ああ、そして緑川君
「あ...」
謝りたかった。
あの時。あんな風にしちゃって。
君だって中学生で。年相応の生意気な男の子で。──そんな当たり前のことを、当然のように忘れていた。
痛みと、瀉血。同時にぼやけた視界。
幻覚だろうか。
小柄な男の子の姿が見える。
──ごめんね。
吐き出した言葉は血を吐く声で掻き消える。
でも。
それでも。
伝わって。
声になって。
どんなにくぐもったこえでもいい。醜い表情でもいい。お願い。お願いだから
※
「ごめんね」
それが最後の言葉だった。
緑川駿が見た、最後の彼女の声。
器官が血で満たされて、壊れた蓄音機みたいな不気味な音色
残されたのは──上体を貫かれて、冷たい肉塊となった姿だけ。
「.....」
自然と。
自身の愛用のトリガーを諸手に握っていた。
「──あああああああああああああ!!!!!」
その場を離れ、避難路へと向かう。
殺す。
殺してやる。
映像が見える。襲撃してきたのは黒トリガ──―優れたトリオン能力を持つ人間が、自らの命をかけて生成する、強力なトリガーを持った近界民。
自分一人で勝てるはずもない。
それでも走る。
確信があったきがしたのだ。
自分にはそれができるはずだって。
あの人をあんな目に合わせた人間に報いがないわけがないんだって。
その報いの刃が、自分が振るうはずだって。疑うべくもないんだって。
思わざるを得なかった。
「お。鬱陶しい猿がまた一匹きやがったな」
そう思っていたのに。
その敵に対して──指一本すら触れる事叶わず、自らの体内を食い破る刃によって、あっけなく。
緊急脱出のアナウンスが響き。
眼前には、天井があった。
「....」
生きている。
あの人は、死んでしまったのに。
「う...」
周りを見る。
静かだ。
下の階からは、ずっと戦いの音が聞こえてくるのに。
静かだ。
静かだった。
暫くして。
風間隊と諏訪隊、そして忍田本部長の手により──黒トリガーを使用する近界民が仕留められたとの報告が上がった。
「は....はは」
もう。
何も言えることは無かった
ただ。
ただただ
ひたすら、無力だった。
・ ・ ・
その後。
第二次大規模侵攻は、終結した。
市民の死傷者はゼロ。
C級隊員が幾らか攫われ、そして
──ボーダー通信室所属のオペレーター及び技術員複数名の死亡という結果を残して。
「迅さん」
そして。
緑川は一人の男と相対していた。
「.....や、駿」
迅悠一と。
「──迅さんは、あの時。オレに”行くな。後悔するぞ”って言ってたよね」
「ああ」
「──視えてたんだよね」
「ああ」
「その上で、助けられなかったんだよね」
「....」
黙らないでくれ。
頼むから。
助けられなかった、という不可能系の結びなら。納得できる。もう助ける方法なんてなくって、だから彼女が死んだんだって。
ねえ。
迅さん。
──もしかしてだけど。
──助けられなかった、じゃなくて。助けなかった、なの?
そうしなければ
助けられない人が出来てしまうから。
天秤を掲げて、価値を置いて。
冷たい論理で以て──あの人を助けなかったのか、と。
「オレを助けてくれた時も.....! オレがボーダーで戦力になるって、そう解っていたからなの.....!?」
何も言わない。
迅悠一は、何も。
「答えろ......迅悠一!」
緑川駿は、叫んだ。
零れる涙を必死に瞼の裏側に押し込めて。
「おれは何も言わないよ」
迅は
「....ごめんな」
ただそう言った。
ここで何かを言ってしまうのは。
いい訳になる。
しょうがない、なんて迅には言えない。
しょうがなくなんかない。
その事を──迅は知っているから。
迅は屋上から去る。
ただ一人。
緑川だけを残して
「あぁ....」
迅悠一みたいになりたかった。
なりたかったんだ。
でももう理解できた。
そんなこと不可能だ。
出来ないし、出来ちゃいけない。
何かを信じる事も。
もう出来ない。
緑川駿はもうヒーローになれない。
ただ、それだけのお話だった。