獅子の騎士が現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
不意に目が覚める。
見渡すと、平野の中心に居た。粒の大きな雪が降っている。
嫌に寒い。中天に燦々と照る日輪に、分厚い雲が半ば以上食い潰して、濃い影を地上に落としているからだろう。まるで一枚の絵画に自分という黒点が堕ちたように、くっきりと影が――
……記憶の前後があやふやだ。自分という存在が酷く覚束ない。
自分はどこで何をしていて、これから何をしようとしていたのだろう。思い出せなかった。それで、現状を把握する。自分はどうやら、
これでも魔術の腕はブリテン島でも屈指のものだという自負がある。どんなに油断していて、不意を突かれたとしても、並大抵の人魔に遅れを取る事はない。であれば自ずと下手人の候補は絞れる。
現在のブリテンで自分をどうこうできる存在は数少ない。双子であるマーリン、その弟子であったモルガンが候補の筆頭だが、前者は自分を襲う理由がないしその手の内も知悉している。マーリンから不意を打たれても対処してのける自信はあった。であれば、必然として自分を襲ったのは――
「――――」
意識を失う寸前、視えたのは自身を討ち、喰らい、力を取り戻そうとする堕ちたる女神の姿。妖精という旧神にまで零落し、嘗ての栄華を取り戻さんと希求する、嘗ては善であった邪悪の者。
名はエリウ。アイルランドの戦いと豊穣の女神にして魔術にも長けた、アイルランド島の古き名『エリン』の語源となった偉大な神性。なるほど……と白い女は頷いた。アレなら確かに能うだろうと。
しかも邪神に堕ちた女神の背後には、
だが辛くも逃げ延びた。ヴォーティガーンは眠りにつき、妖精エリウは弱った白い女を探して彷徨っている。自分は逃げている内に力尽き、意識を失った……というのが現状であるようだ。
こうしてはいられない。エリウの追撃があれば、太刀打ちできる状態ではないだろう。見つかる前に移動する必要がある。ではどこに逃げるべきか。湖の貴婦人達に匿ってもらうか? 腹立たしいがマーリンを頼るか? どちらかしか選択肢がない事に、味方の少なさに笑ってしまう。
「あ、あれ……?」
きょろきょろ、きょろきょろ……と、視線を左右に彷徨わせる。
瞼の上から目を揉んだ。自分に魔術を掛け、肉体を精査した。どこかに異常があるのかと。だが問題は見られない。
そんな事よりも、
「み、
悲鳴が漏れる。二つの眼球――肉眼は景色の輪郭に実像を結ばせている。視覚は正常だ。だがそうではない、そうではないのだ。
女の視覚が余りに
だがそれができない。
確かに千里眼が
まるで浅く狭い井戸の中に落とされ、視界に暗幕を落とされたかのようだ。女は足元がぐらつき、世界で一人きりになったような未知の感覚に恐慌した。知らない心が全身に波及し、がたがたと体が震え、かちかちと歯が鳴る。何、何これ、と譫言のように呟く。なんなんだ、これは。
(お、落ち着け……落ち着くんだ。ボクは本調子じゃない。魔術の精度は落ちて……ないね。よし……)
試しに高速神言を唱えて杖を振り光弾を生む。それは紛れもなく通常の技量だ。劣化はない。
(魔力量は半分以下……上限を削られてる。完全に復旧させるには十年単位で見ないと。けど、なんだろう……?
正体不明の異物感。喩えるなら自分の体にもう一人の自分がいるかの様だ。
それは酷く無機的で、虫のような目で自分を見詰めている。嫌悪感に鳥肌が立った。
(……ボクだ。ボクが、もう一人いる。なんで……? ……ぁ、そうか)
女は、腐っても最高位の魔術師だ。熟考すると己の状態に察しがついた。
(ボクの人格が切り分けられてるんだ。人と……夢魔のボクに、分けられて。一つのキャンパスに敷居を入れて、紫色を赤色と青色に分離させている。という事は……ボクは今、人間なのかな……?)
だとすると、今の女は人間の精神を持ち、当たり前の情動を持つという事。
なんのためにそんな状態にさせられたのか、女には分からなかった。こちらの錯乱、精神的な隙を生み出すためにエリウが魔術を用いたのだろうか。だとするなら非効率的だが、妖精とはえてして効率を軽んじるところがある。やってもおかしくはないと思える相手であった。
だが効率は悪くとも効果は覿面だ。女は自嘲した。聡明な頭脳を持つ彼女は自らの感じている心の動き、その正体を把握してしまったからだ。自らを責め苛むものが恐怖に類した何かであるのだと。
「……はは」
乾いた笑い。自分しか視えない世界。広漠とした視界。織物でしかなく、一つの舞台でしかなかった世界のエキストラに貶められた今、女は笑ってしまって。可笑しくなくても、どうしようもない時にも笑ってしまうのが人間なのだと彼女は真に理解させられた。
これが人間が……総ての人間が見て、向き合っている世界なのか。だとしたら、なんて心細さ。世界に一人きりで存在する事の、なんと恐ろしい事。女は一向に収まらない不安を抑え、考える。
(マーリン……には、頼りたくない)
非効率的だ。だが、アレには頼りたくなかった。笑われるだろう――喩えそれが中身のない、人間のふりをしての素振りでしか無くても、アレに笑われるのは嫌だった。
自分を襲ったエリウは、女が弱り果てている事を知っているはずだ。なら生半可な相手には頼れないのは明白。ならマーリンの他に頼れるとするなら、モルガン――
(――モルガンは論外だね。殺され……て、しまう……? 殺され……死?)
死。
それを思い浮かべた瞬間、女の震えは更に酷くなった。
なぜ。どうして。泣き叫びたくなるこの情動は――なんなのだ。
恐怖の更に底にあるもの。これは、これは――
女は――誓って誰にも想起させられず、己の心が描かせた想像として――ひとりの青年の姿を思い描き、無意識に呟いた。歯をかちかちと鳴らしながら。
「ゆ、ユーウェインくん……そ、そうだ、ユーウェインくんなら……!」
彼を頼ろう。彼なら守ってくれる。そうだ、そうに違いない。彼はともするとエリウよりも強大だったかもしれない旧き神格を滅ぼしている。第三者の助力ありきとはいえ討伐の実績があった。
それに、彼は当時よりも強くなっている。エリウが襲ってきても、自分が援護すれば返り討ちにしてしまうだろう。助けを求めても決して邪険にはされまい。こちらにも後ろめたい事はなかった。
彼は今どこにいるのだろう。視ようとして……視えない眼の不便さに舌打ちした。千里眼は使えないのだった……仕方ない、自分の脚で探すしかないだろう。女は呪文を唱えて空間転移しようとし、
「………!」
できなかった。
魔術回路の破損が深刻で、一部の魔術の行使が能わなくなっている。
夢魔としての能力を併せて魔術を行使し、物質世界と精神世界の輪郭をあやふやにして、別地点に跳ぶ事もできなかった。それどころか、夢魔としての力のほとんどが制限されている。
喩えるなら、夢魔の己は手足をもがれ、目隠しをされているようなもの。意識を保ち口と鼻が利くだけの存在になっているのだ。感情エネルギーの摂取しかできない……つまり、生命活動しか行えない。
どうやら本当に自分の脚で歩き、人を探さなくてはならないようだ。この、自分以外視えない世界で。――途方に暮れそうになる自分を叱咤して、女は歩き出す。歩き出したのだ。
「……なに? これ……なんなんだ……」
ひたすら歩き、平野を抜け、森を越え、夜が来た。脚が痛い。歩き疲れた。お腹も減った。喉が渇いた。無我夢中で、幸運にも見つけられた泉で水を飲んで、魚をとって、焼いて食べた。
不味い。食べ物とは、こんなにも不味いものだったか。
今までそんな事気にもならなかった。今までは必ず食べないといけなかったわけではないのに。これでは体まで純粋な人間になってしまったかのようではないか。それに、食事は、もっと美味しいはず。
ユーウェインのご飯は、美味しかった。思い出すと――涎が口の中に湧く。
だがそれよりも、体が重い。眼が重い。瞼が不随意に落ちてくる。これは、眠いというもの。睡魔というやつだろう。普通の人間らしく眠くなっている。自分はどんな魔術を掛けられているのか全く分からなかった。何があったのだろうか。訳が分からないまま泉の畔で横たわり、丸くなって目を閉じた。
だが――眠れない。疲れているのに、眠いと感じるのに、眠れないのだ。意識だけは冴えていて、そこで女は再び恐怖した。眠れない恐怖――それは死の予兆。人間は数日間寝なかっただけで死ぬ。今の自分はまるで本当に人間になってしまったかのようで、それが真実なら――
「ね、寝ないと……寝ないと……死ぬ……! ね、寝るんだよ……!」
最初の二日は我慢した。耐えた。だが迫りくるタイムリミットに気が狂いそうで、もはや耐えられないと頭を叩く。杖で叩き、額を地面に打ち付け、気絶してまで寝ようとした。
だが、気絶すらできない。
呪いだと、やっと気づいた。本当に冷静だったらとっくの昔に気づいていたはずのそれに漸く思い当たる。眠れない呪いを掛けられているのだ。眠れないのがこの体では正常なのである。
それに気づいてからは半狂乱状態に陥った。だが理性が働く。――いいや、理性ではない。本能だ。人のそれではなく、夢魔の。
(
女を襲ったのは飢餓である。肉体のそれではなく、精神の。
女は人だった。故に感情は自然と湧く。しかし自分の感情は食べられない。それは自分の尾に食いつく蛇のようなもの。腹は膨れても自傷に等しい。そも夢魔の求める感情エネルギーは他人のものだ。
ふらふらと無意識に人里を求める。人間を求める。だが女は村に立ち寄り人と対峙すると我に返った。食べ物を恵んでくれと頼んで、対価に何を差し出すかと言われた時、渡せるものが何も無く。村の男が情欲に塗れた目で見てくるのに嫌悪感に襲われ――
(あ……)
気づいた。
夢魔の力がほとんどない。眠れない。人の夢に入れない。
なら。
本能の飢餓を満たす為に、感情エネルギーを補給するには――
(い、嫌だ……)
性交渉が必須というわけではない。接吻でも良い。だが、それは嫌だ。
嫌なのだ。潔癖に、そう思う。
見ず知らずの他人に、
しかも、女は村人に名を訊ねられた時、己の名前が思い出せない事にもやっと気づいた。
自己の輪郭が崩れる。夢魔が感情エネルギーを求め、人の己を苛む。
形容し難い精神の飢餓、眠れない体の不調、迫りくる死のタイムリミット。女は走った。走って逃げた。
狂ってしまいそうだった。だが狂えなかった。夢魔の自分が、人の自分が狂いそうになる度に体の主導権を握ろうとしてくる。そして誰彼構わず感情エネルギーを摂ろうとする。それはつまり、誰かに口付けるという事だ。それが嫌で嫌で仕方がなくて、女はひたすらに求めた。
(ユーウェインくん……ユーウェインくん……助けて……助けてっ……)
どこをどう歩き、走り、休んだのか。
解らない。何も分からない。
自分は誰なのかも思い出せない。自分に関係する者と、これまで何をして生きてきたのかは覚えているのに、自分自身の核心を思い出せない。眠れない。満たされない。視えていたはずの物は自分しか視えず、人と夢魔の差異に心が擦り減らされる。
女は泣いた。生まれて初めて、生誕した直後でも泣かなかった名無しの女は泣いた。心細くて、怖くて、恐ろしくて。それは――女という自我があげた産声だった。
そして識る。泣いても、誰も助けてくれないのだと。
だが、だからこそ、渇望する。自分を守ってくれて、支えてくれる存在を。
女は眠れなかった。心は磨り減る一方で――やがて、不眠の呪いは、心を削りながらも、命を蝕みはしないものだと悟った。どうやら肉体的には睡眠を必須とはしないらしいと察し、底知れぬ悪意の残酷さを理解して叫んだ。いっそ殺せよ! なんでボクをこんなにも嬲るんだ! と。
エリウの名を叫び、ボクはここだ! 殺すなら殺してよ! 喰いたいなら食えばいいだろう!? と泣き叫んだ。
「ひっ……!?」
どこかの森の中だった。がさりと繁みが揺れ、女は短い悲鳴を上げて全力で光弾を放つ。
無意識だった。咄嗟だった。繁みの向こうで、獣の断末魔が聞こえる。
女はそれを確かめず脱兎の如く駆け出し、口ではどう言っても死にたくないという本能に逆らえない事を知った。
それが人間だ。それこそが人間だ。人類のナビゲーターを自称していたかつての己には想像も出来なかった、生の人間の、生の実感である。女はそれに感傷を覚える余裕もなく、ただ視えない人を探し求めた。
気配を捉えた。夢魔の本能がだ。
濃い――感情の匂い。それは、溜め込まれて、排出されていない、発散のされていないもの。夢魔はそれを覚えていた。女はその感覚を覚えていた。それは――それこそは――探し求めていた人の心。
懸命にその残滓を追った。匂いが薄くなる毎に、砂漠の真ん中で放り出された迷子のように怯えて、待って……! 置いていかないで! と譫言のように懇願しながら追い掛けた。
やがて辿り着いたのは、不自然に盛り上がった丘陵に囲まれた盆地の集落。なぜか、矢鱈と騒がしい暴力の気配。魔術で姿を隠して接近する。探し人の気配は心のそれだ、隠しようがない。数百人以上の人間に紛れていながら、その感情の巨大さは遠くからも明らかだった。
「ユー……ウェイン、くん……」
いた。
木組みの宅の中で、悩ましげに思案している彼。
白髪と、琥珀の瞳の、甘いマスクの王子様。
女は迷った。今の自分は汚れている。旅の汚れだ、髪はバサバサで、目元の隈も濃い。体臭だって臭いかもしれなくて、幻滅されてしまうかもしれないと思うと胸が痛んだ。
見られたくない。こんな自分を見せたくない。そう思うのに、ふらふらと、脚が勝手に動く。もはや耐えられないと、女は王子様のもとへ吸い寄せられていった。
「――や、やあ……お困りかな? 王子様……」
なんと声を掛けたものか。迷った末に、発した第一声がそれだった。
彼の目が自分を視るのに、堪らなく恥を覚える。もっと気の利いた台詞はなかったのかと。
「お前……」
だが、彼に見られ、その声を聞き、彼に認識された瞬間に総て塵芥となる。
些事だ。何もかも。彼に見られ、認識された事がなぜか嬉しかった。
胸が高鳴る。
この気持ちはなんなのだろう?
「――またぞろ面倒を運んできたな。仕方のない女だ」
王子様が、女を人と夢魔に分けていた心の境を、一瞬で斬り裂いてしまったからだ。
途端に精神の色が交じる。分離していた人格が統合される。
精神の飢餓が消え、甘い斬撃に芯が痺れた。
苦笑する王子様の貌。何気なく彼が斬ったのは、女の自我を崩壊させる楔である。女は呆然と彼の目を見詰めた。そうして――
「――丁度良い時に来てくれた。知恵を貸してくれ、
と、女の名前を呼んで、思い出させてくれたのだ。
ぁ……と声が漏れる。
胸の真ん中に小さな火が灯り、どんどん火の勢力は強まった。やがて堪え切れない衝動に突き動かされるまま、アンブローズはユーウェインが何かを言っているのも聞かないまま彼の胸の中に飛び込む。
「まあ、お前の持ってきた問題に比べれば大した事はないが……些かばかり面倒な事になっている。助けてくれるなら、俺もお前を助けよう。
「ユーウェインくんっ。ユーウェインくんだ、やっぱりキミじゃないと嫌なんだ――!」
押し付けた唇が感情エネルギーを吸い取る。
満たされる感覚に酔いしれる。
顔を真っ赤にして押しのけられても、最早ユーウェインしか視えていなかった。
この世で視えるものが一つだけなら、それは自分ではなく、ユーウェインだけでいいのだと――人は、そう思ったのである。
「――ボクの真名を教えてあげる。
ボクは、
ガニエダが、ボクの本当の名前なんだ。キミだけは……そう呼んで欲しい」
・ガニエダ
マーリンの妹とも、姉とも言われる伝説上の人物。
ウェールズの伝承、マルジンとグウェンジーズの対話。
ジェフリー・オブ・モンマス著のメルリヌス伝に登場するマーリンの姉だか妹だか。
本作ではアンブローズの真名として使われる。