獅子の騎士が現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
やはりリアルはクソ。はっきりわかんだね(吐血)
ブリテン島の歴史は、西暦410年を境に曖昧となった。
ローマ帝国の弱体化に端を発した『ゲルマン民族の大移動』が原因である。
それによりブリテン島に駐屯していたローマ軍は大陸へ撤退。ブリテン人は完全なローマ化を果たしておらず、ローマ側の記録が途絶えた事で文字による記録を残す行為を彼らは止めてしまったのだ。
故に歴史は曖昧だ。神代最後の、神秘の介在する余地が生まれたのはこれが原因である。人理や歴史による観測が酷く困難な時代に突入した事で、神代は辛うじて生きながらえていたと言えよう。
だからこそ当時の風俗を知る為には、その地に残された伝承や遺跡を見るしかない。
多くがこじつけや推測、劇作家の捏造、歪曲、誇張されたフィクションであると見做された。その一つこそが――いや、その一つ
そして、半年――半年だ。
その間一度も眠らず、食事等の生態活動を除き、不眠不休でヴァイオリンとそれを弾く弓だけを持ち続けたユーウェインの技量は、遙か未来の演者に匹敵するまでになっていた……訳がないが。とりあえず人前で演奏しても恥ずかしくないとモルガンが判定する域には達した。
彼は音楽の神に愛されている訳ではない。才能としては並である。彼の持つ桁外れの体力と忍耐力、人の域を超えた持続的な集中力がなければ今の域には届いていなかっただろう。
音楽に関しては凡人に過ぎない彼の成長は、非常に遅々としたものだった。しかしそれで充分である。妖魔シーレーンが求めるのは自身の満足――妖魔の起源がギリシャの精霊であるセイレーンなのであれば、彼の妖魔もまた卓越した歌手なのだ。いまさら人の音楽に期待してはいまい。
年季だけで言うなら二千年に近い歴史を持つ幻想種に並ぶ者など、人の中には存在せず、故に妖魔が人に期待するのは『新しさ』であろうとモルガンは予測していた。そしてその予想は正鵠を射ている。
妖姫はシーレーンの心理を正確に分析してのけたのだ。
幻想に生きる種は、じきに人理の定着を以て星の表層より立ち去らねばならなくなる。星の内海に去るのは覆せぬ定め――故に妖魔は人の世界と訣別する前に、最後の思い出を求めているのだろう。
人の身にも理解の叶う心理であるはずだ。生まれ故郷ならぬ元の世界を、意に沿わぬまま離れさせられ、異世界に旅立つのを強要されるとなれば……その郷愁と寂寥は計り知れないものになる。
寧ろ妖魔……否、セイレーンは潔い精霊であると言えよう。意地でも表層に齧りつき、ありとあらゆる手を講じて居残ろうとするのではなく、大人しく世界の変遷を受け入れる姿勢は称賛されるべきだ。
らしくもなく未来視の力を酷使し、偏頭痛に悩まされてまでヴァイオリンを創り出したのは、何も息子可愛さだけが理由ではなかった。妖魔と称されるまでに落魄れてしまったセイレーンを悼み、微かな共感を以て彼女の最後の望みを叶えてやろうと思ったのである。
人の生む最新の音楽を聞きたい――そのささやかな願い程度は聞き届けてやろう。人ではないモルガンだからこその、人ならざる者への慈悲だった。尤もモルガンの言う最新は、千年以上先のものだが。
(どうあれ人の作るものである事に相違なし。文句はなかろう? あっても聞かんが)
余りに遠くを視すぎた代償か、割れたように痛む眼を凝らし舞台『フォールの聖石』の上に立つ愛息を見る。
小高い丘の上に建設された城外の構造物に屋根はなく、なだらかな斜面が広がるばかり。周囲には群衆がおり、中にはドルイドの詩人もいた。
妖魔と王子の音楽合戦を目にしようと集まったのだ。
ユーウェインの城であるフォーローザ城の城壁の上にも庶民や騎士が集っている。モルガンはさりげに魔術で風を操り音を運ぶ準備をした。計画になかったとはいえ折角の催し、関心は高まるほど良い。
(聞かせてやるがよい、イヴァン。送別の
舞台の上に在りて、礼服を纏い北東を見遣る黒太子。
昨日一日の休みを挟んだだけの彼は、すっかり体の一部にまで馴染んだ擦弦楽器を手に妖魔の襲来を待ち構えている。超人的な肉体と不変の精神を有していても、精神的疲弊を感じてはいるが、ある程度疲れているお蔭で無駄に力んでいなかった。
半年もの間、他の事は何もせずにヴァイオリンの練習だけをして、
彼の精神と肉体は、常人の尺度で図れるものではないだろう。肉体はともかく精神は、不変の祝福ありきと言えるものではない。半年間眠らず修練に時を費やす――言葉にすると浮薄だが、幾ら異形の価値観を心の核にしていても只人に真似できる所業でないのは確かだった。
やがて、約束の刻限が訪れた。
大衆とユーウェインが見守る中、舞台から離れた位置に漆黒の渦が巻き起こる。
霊体が仮初の肉の像を象るための魔力だ。実体化した妖魔の姿に人々は慄いた。
下半身は魚。半人半魚。
黒ずんだ亜麻色の髪は千々に乱れ、腐り落ちているかの如き緑の肌を襤褸の
それが八体もいる。ざわめく群衆と、無意識に身構える騎士達を制するように、ユーウェインはよく通る声で朗々と語り掛けた。
「よくぞ来たな、招かれざる客人」
悍しく、邪悪な風体の妖魔に一切怖じる気配もなく。かといって敵意を見せるでも、群衆のように醜悪な容貌に貌を歪ませることもなく。彼は厳粛なる面持ちと声音を保ったまま告げた。
「自ら妖魔を称する者ら。貴様らの侵した二つの罪をここに糾弾しよう。
一つ。自身らの要求に応じねば、我が国に狂気を振りまくと脅した事。
一つ。半年という期間を設け、人々に不安を与え無闇に人心を乱した事。
以上二つの罪を以て罰を与える。粛々と刑に服するがいい。
執行者はこの私だ。そして下す罰は我が楽の音を傾聴する事。
先に述べた罪二つ、この儀を以て不問とする」
ざわめきが起こった。前代未聞の処罰であるからだ。前者の罪は処刑は免れない。後者の罪は軽くて追放、重ければやはり死罪が妥当であるのに、罰が王子の演奏を聴く事とは如何なる了見か。
国の鼎の軽重を問われかねない裁きであろう。だが誰も口を挟まない。ただ事の決着を見届けようとする。その後、彼らが王子の沙汰をどのように吹聴するかは、全てが済んだ時に決まるだろう。
八体の妖魔は、不気味なほど静かだった。身を寄せ合い、一定の距離を保って王子の沙汰を聞き届けるや、姿勢を正してユーウェインの奏でる楽の音を拝聴する構えを見せる。
それに頷き、ユーウェインは群衆に向け語り掛けた。
「聞くがいい我が騎士、我が領民達。そして今日という記念すべき日を吟じる好機に巡り会えたドルイド達よ。新たなる祭事が開闢する瞬間を目に焼き付け、そして耳にするのだ。我こそが文化の拓き手、そしてお前達がこの大地を盛り上げる音の担い手――万民よ、唄うべし。騎士よ、奏でるべし。病める時も、健やかなる時も、楽の音は常にお前達の胸にある!」
白皙の美貌の王子が、
宝具『尽きぬ荷車の盾』の理を解き明かし、花の魔女が独自に改良して蔵としての完成形に仕上げた一品だ。城の宝物庫に安置された荷車盾と、担い手であるユーウェインの間にある空間を接続し、盾を持ち歩かずとも物品を収納、取り出せるようにしたのである。
王子が取り出した擦弦楽器は、洗練されたフォルム、優美さを形にしたかのようだった。どよめく群衆を尻目に擦弦楽器を弾く弓を右手で持ち、両足を肩幅に開く。右足のつま先をやや外側に開いた。
左肩甲骨の下の部分と左顎の間に楽器を軽く挟んで構え、最後に左手をヴァイオリンのネックという部分に添えて演奏の姿勢とする。弦に弓を軽く当て、ユーウェインは細く、長く息を吸い込んだ。
そして、歴史を刻む楽の音が――この舞台に齎された。
† † † † † † † †
奏でられる旋律は、二千年の歴史を有する幻想種の胸に深く突き刺さった。
ああ、と呻く声。ああ、と嘆く声。ああ――ああ! 言葉が見つからない。
妖魔を称する幻想の女達。彼女らがウリエンスに訪れたのは、実を言うと気紛れである。
最高の騎士と謳われる王子がいる。なんでも、フォモールの堕ちたる神霊を討ち取った気鋭の英雄であるらしい――その噂がまことしやかに囁かれ、ドルイドの詩人も若き英雄の詩を唄った。
耳にした時に過ぎった想いは、切なさ。英雄……この響きの、なんと懐かしい事だろう。
女達の起源を遡ると、ギリシャ神話と題されるテクスチャに辿り着く。嘗てはセイレーンの名で呼ばれ、しかしその名を忘却するまでに零落し、流れに流れた末に神代最後の神秘の島ブリテンへ流れ着いた。武人や戦士ではないが、死に時を逃してしまったのだ。
ギリシャよりローマへ変遷し、そのローマも物理法則という名の人理に覆い尽くされ、セイレーンたる名と姿を保てなくなった。セイレーンは本来四人姉妹だったのに、曖昧になった存在ゆえに姿の実像を増やしてしまったのだ。これは謂わば、セイレーンという幻想が尽きる寸前である事を意味する。
女達は嘆き、悲しんだ。彼女達は、自分が何か――歌声を失った事――を忘れてしまっている。この喪失感の狂おしさたるや、心の臓を抉り出してしまいたくなるほどだ。
大事なものだ。それだけは失いたくなかった。故に、それを探し求める旅路に身を投じて。しかし女達はついぞ失ったものを見つけ出せず、もはや星の表層に残り続ける事もできなくなりつつあった。
だから望んだ。
過去、英雄の時代があった。英雄という名の種族が地上に氾濫していた時代があった。
ギリシャ。ああ、懐かしの故郷。もはや見る事も叶わぬふるさとよ。英雄は無理難題を乗り越えてこそ。そうでなければ、英雄たる資格なし。脅しをかけた自分達を討伐しようとするならそれもいい。要求通りに音楽を奏でるならそれでいい。最後に――聴きたい。自分達が失った
音楽だ。音楽だというのは分かる。だが何を失ったのか、教えて欲しい。しかしそれが思い出せずとも構いはしなかった。どうせ、近く星の内海へ旅立つ身。最後に英雄の音楽を聴いた事実を刻みたい。
それだけだ。それだけでよかった。だのに。
この、熱い想いはなんだ?
はらはらとこぼれ落ちる、この熱い涙はなんだ?
――旋律はどこまでも格調高く、高貴で、優雅で、豊かであった。
風に乗りどこまでも鳴り響く音楽は勇壮で、英雄の戦いを想わせる。聴いた事のない、海神ポセイドンの起こす地震のような――雷神ゼウスの鳴らす雷鳴のような――戦女神アテナの賜わす戦の加護のような。
そんな、どうしようもなく心を湧かせる音楽。血を熱くする音の羅列。
音が手に手をとって踊り、吟じ、伸び伸びとしながら心を鷲掴み、戦の高揚と緊迫感を齎す。群衆はひたすらに圧倒され、魅惑されている。妖魔達は王子の奏でる音の敷布が、まだ粗いと見抜いたが、そんな事など気にもならないほど魅了された。
湧いてくる、焦り。ちりちりと足元から焦げ付き、沸き立つ衝動。
女達は落涙して。いてもたってもいられず、王子の許へ駆け寄っていった。
それに気づいた騎士達が慌てて迎撃しようとする。だが赤毛の傭兵が制止した。行かせてやれよと。アイツらじゃ殿下をどうこうできはしねえよ、と。眼を閉じての演奏のさなか、微かに開かれた琥珀の双眸が妖魔達を見る。だが敵意や害意がないと見切ると再び眼を閉じ、演奏に没頭する。
妖魔は間近で、食い入るように王子を見詰めた。
掘り起こされる記憶。応えたい、応えねば――この楽の音に応じられずにいたのでは自分達の沽券に関わる。必死に女達は自らの起源に思いを馳せ、王子が囁く。間近にいる妖魔だけに聞こえるように。
セイレーン。想いを、吐き出せ。
【あ……ああ……ああああ……!】
セイレーン。そうだ、それが自分達を表す名。
テレース、ライドネー、テルクシオペー、モルペー。四人姉妹の真名。それを思い出した。思い出せた。歓喜して八体の妖魔が沸騰する。輪郭が泡立ち、八体の妖魔が四体にまで数を減じた。
なけなしの魔力を奮わせろ。衰えた神核を励起せよ。女達はここで終わっても良いと思うまでに奮起して、在りし日の姿を取り戻そうと死力を奮った。醜い姿でこの麗しの貴公子の傍にいられない。
やがて現れたのは、人の体。美しき女の体。おぞましい半人半魚の姿ではなく、逞しき羽根を背中に持つ有翼の美女達。女達は王子の旋律で思い出せた。そうだ――望んだのは新しき音楽。
そして、思い出。
そして――最後に、人と唄いたいという渇望。
怪物として人を惑わし、惨禍を齎すのではなく。河の神の娘として、人の世の到来を祝ぐ精霊の在り方に回帰した。だから――シーレーンならぬセイレーン達は手を繋いで王子を囲んだ。
女達は外を向いている。中心にいる王子を見ない。これ以上見ていては、未練になる。熱い恋に溺れてしまいそうだった。もはや立ち去る身、人に恋する事だけはせず、ただ遺そうと思った。
耳にするのは最高の音楽。だが――最高の音楽に、自分達の歌声が添えられていないのは我慢がならない。矜持にかけて、美しきセイレーン達は伝説に残る魅惑の美声を紡ぐ。人の域を超越した歌声を紡ぐ。
人々が、酔いしれる。ドルイド達が陶然とする。騎士達は血が熱くなる思いに囚われる。
英雄たる王子が奏で、精霊たる美女が歌った。
至高の舞台だった。過去・現在・未来に至るまで、並ぶもののない最上にして至上の音の海が広がっていた。音楽に耐性のない人々は一溜りもなく魅了される。魔術ではない、異能でもない、純然たる音楽として人の心を魅惑した。
どれほどそうしていたのか。ただ沈黙して舞台を見るだけだった人々が、次々と気絶していく。極度の疲労だ。一日に渡って王子は奏で、精霊は歌っていたのだ。
やがて精強な騎士と、意地でも聞き逃すまいとするドルイドだけが聴衆として残る。
演奏が終わる。
楽器の弦が切れたのだ。
唐突に終わりを告げた演奏会に、しかしセイレーン達は惜しまない。
全てを出し尽くした。振り絞った。演奏の終了を以て、騎士とドルイド達が地べたに座り込んでしまうのを尻目に、セイレーン達は無言で王子の方へ向き直った。
「――悪しき妖魔、シーレーン。ここに、確かに討ち取った」
【え………?】
セイレーン達は戸惑う。姉妹は顔を見合わせた。
どういう事だろう、と。彼が何を言っているのか分からない。
「疾く立ち去るが良い、美しき精霊達よ。悪しき怨念に憑かれていた憐れなる者ら。悪しき者は死んだのだ、我が裁きはこれにて完了とする。さあ……訣別の時だ。還るべき処へ還るといい」
【……………!】
セイレーン達は、ユーウェイン王子の言わんとする事を悟る。
本当の姿を思い出したセイレーンは、シーレーンなどという怪物ではないと言っている。妖魔は滅び精霊が残ったのだと。お前達に罪はないのだと。だから、裁きは下されたのだ――と。
女達は落雷を受けたように固まり、そして再び……されど別の心を以て落涙する。
なけなしのプライドを保って、優雅に一礼した。霊体に還っていく。この場より立ち去る。無限の感謝と思慕を胸に。なんとかこの英雄の事を、綺麗な思い出のままに留めようと。だが、
「――さらばだ、セイレーン。お前達の歌は素晴らしかった。私は生涯、お前達の歌声を忘れまい」
向けた背に掛けられた賛辞に、女達は砕かれた。
何を、とは言わない。しかしこのまま何もしないで星の内海に去るのは余りに不義理であると思い至り、女達は決意する。
――セイレーン達は、ブリテン島を巡った。
星の表層に、ぎりぎりまで居座って、人のいるところならばどこにでも現れて歌って回った。
王子を歌った。
その慈悲深さ、寛大さ。
姿を。声を。振る舞いを。
奏でた楽の音を。堕ちた神霊を討ち取った武勇を。
最高の騎士の名を。
歌った。
そして――狂おしき恋歌を最後に歌って――セイレーン達は、惜しむように地上を去ったのだった。
彼女達の齎した楽の音は、人々の心に音楽の素晴らしさを刻み。
その儀を以て、とあるドルイドの詩人はこう結んだ。
『楽の音を地に満たしたるは、精霊の歩んだ軌跡である』