獅子の騎士が現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
39,前日譚の終わり・伝説の幕に手を触れて
噂が流れた。最高の騎士と渾名されるウリエンス国の王子が、ブリテン島は元より、大陸のローマ帝国からも見て取れるほどに巨大な化け物と相討って死んだという――そんな噂だ。
何せ王子が城を発ち化け物の討伐に出て以来、彼の姿を見た者がいないのである。顧問魔術師や傭兵が生きていると証言しても、実際に姿を見せない以上は信憑性が薄い。人々は嘆き王子の死を悼んだ。
だが、その噂はすぐに払拭される事となる。王子が国母たるモルガンと共に姿を見せたのだ。私は生きている、生きてウリエンスを継ぐ。故にウリエンスの民よ、不安に思う事はない――と。
人民は安堵した。我らの英雄は健在だ。我らの繁栄はまだまだ続くのだ。憂う事など何もない、あんな化け物をも打ち取る御方が王となった暁には、ブリテンは一つに纏まり侵略者を打ち払って下さる。
人々は英雄を讃えた。自分達の未来は明るいと、そう信じて。
† † † † † † † †
血が冷たくなる絶望。
虚無に等しい悔悟の孤独。
此の世で一人きりになったような寂寥に、心が乾いた。
ガイアの怪物。人類に対する絶対的な殺害権利を有する人類悪。『比較』の理を持ちし第四の獣――よりにもよってそんなものを愛息に押し付けた、花の魔女。幾度殺しても殺し足りぬ売女。
いつかこの罪を贖わせる。絶対に赦さぬ。
だが今は、あの忌まわしい女の事など意識になかった。
覚醒していなかったとはいえ、人類悪の幼体などという危険物を、いつまでも愛息の傍に置かせる妖姫ではない。妖姫は折を見て獣の幼体を刺激し、彼が自発的に愛息の許から立ち去るように謀った。
愛息が獣の所在を気にしているようだったから、駒に堕ちた魔女に獣の所在を誤認させ、虚偽の報告をするようにも謀り、愛息が気に掛けないようにと慎重に働き掛けてきたというのに。嘗ての同胞らを葬送した直後――激戦を終え満身創痍となった状態で、愛息と出くわしてしまう不運に襲われてしまった。せめて万全であれば、まだ手の施しようはあったかもしれない。そう思わせるだけの力を我が子は魅せてくれたのだ。
だからこそ、獣の手で愛息が死んだ瞬間――妖姫は深い絶望に侵された。
『比較』の理の他に、人類の絶対殺害権を有する第四の獣に殺された者は、確実に死に至る事が決定される。これを阻める者は存在しない。アレに殺されてしまった愛息は、蘇生できない。
妖姫モルガンは、愛息の心臓が停止し、死んだ光景を目にしてしまった。
途端に、世界から色が消える。
愛する我が子が死んだ――自身のしてきた事、計画していたもの。野心、希望、その全ての意味が喪失した瞬間だ。
絶望の余り笑い出してしまう。もう何もかもがどうでもよくなった。こんな――こんな世界など要らない。もう何もかもをグシャグシャにして、滅茶苦茶にして、台無しにしてやろうか――
魔が差した。絶望で、神核が淀んだ。軋んで、割れそうで。反転して振り切れるまで、あと数秒と掛かるまい。妖姫は己の変質に抗う気力も湧かず、なるようになれと自暴自棄になり。
愛息を殺した獣が、溜め込んだ魔力を用い愛息を蘇生したのを見て目に光を戻した。
――ガイアの怪物に殺された人間は絶対に死ぬ。
だがこの理を、とうの怪物のみが無視できた。
奇跡だ。モルガンは愛息が生き返った瞬間に我に返る。
そして瞬時の判断で獣に念を送り『生命性転の大釜』を愛息の許へ運ぶように命じた。
不死に近い治癒能力を与える宝具だ、これで愛息は助かる。
そう、安堵して。
――しかし事はそう上手くいかなかった。
惜しむらくはその怪物が愛息の手で
単純に出力が足りない。完成形に近い獣の理を、弱体化した獣では取り除けなかった。獣の『人間を殺したという結果』が、覚醒寸前まで成長していた獣の力として愛息の身体を蝕み、その獣が愛息の一撃で著しく弱体化してしまったが故に呪詛を取り払えなかったのである。
必然、宝具『生命性転の大釜』を以てしても治癒は叶わず。絶対殺害権を中和し、辛うじて生きている状態を維持するのが限界であり。外部から下手に干渉すると、絶妙のバランスで成立してしまった状態を崩し愛息を死に至らしめる危険性が大きくなってしまった。
すなわち、愛息は『致命傷を負い瀕死となった体』が常態と化してしまったのである。愛息の戦士としての未来が断たれてしまった瞬間でもあった。だが――それは別に良いのだ。
いや、よくはないが、生きていてくれるならそれでいい。
獣の行使した権限も、時間さえ掛ければなんとかなる。
モルガンは愛息の許に転移し、彼を攫うようにして城へ連れ帰った。魔女やホムンクルスの事など眼中にもない。力を使い果たした獣の存在も目に入らなかった。
とにもかくにも、この瀕死の体で固定されてしまった我が子を介抱せねばならない。
「イヴァン……妾のイヴァンよ。早く目覚めて、妾に声を聞かせよ……」
震えながら、眠り続ける愛息に縋り、妖姫は自身が誕生して以来初となる涙を流した。
ユーウェインが意識を失ってより
解っていたことではある。ガイアの怪物に一度は殺されたのだ、肉体こそ辛うじて生態活動を行えてはいるが、瀕死のまま固定されている。簡単に目を覚ます事はないと……解ってはいた。
死んだように眠る我が子を、どのようにして目覚めさせるか。
腹立たしい事にユーウェインが死んだなどと噂する愚民共を黙らせる為に、愛息の身体を鈍らせない為の運動として、彼の身体を魔術で動かし健在であると見せ掛けたりもした。ユーウェインの事業が途絶えぬように、モルガンが彼の代行として働きもしている。全ては愛息が目を覚ますと信じての事。目を覚ました愛息が、滞った事業に悩むことがないように取り計らったまでだ。ユーウェインの為だ――モルガンにはそれしかない。
敬愛していた父王と訣別して以来、モルガンにとって重要な存在は自分自身と愛息だけとなった。幻想の終焉に位置づけられしこの時代、価値ある神代の結末は己と愛息だけであると定めているのだ。
故にモルガンの行動原理は只管に愛である。神の愛だ。一個人にのみ耽溺した妖精の愛が妖姫たるモルガンの全てであり、愛する我が子の為だけに己の野心すらも焚べているのである。
である以上、その愛息が目を覚まさない事実は彼女を恐慌させていた。彼の体が鈍らないようにケアし、付きっきりで介護する様は聖母の如く――愛息に害悪の因果を運んだ魔女を遠ざけること悪魔の如し。モルガンは我が子が眠り続ける歳月を経るごとに、計画を修正し続け。
二年が経った今日――モルガンはメイン・プランの棄却を決定した。
いつか我が子が目覚めるのは絶対であるにしても、今ユーウェインの目的の一つにして、モルガン自身の個人的な憂さ晴らしも密かに兼ねていた計画が、破綻した事を悟ってしまったのだ。
そのメイン・プランとは、ユーウェインの望んだままの計画。モルガンの憂さ晴らしは、父王ウーサーの『最善』を、己の策定した『最善』が上回る事。モルガンの鬱憤を晴らすのはついででしかないが、このメイン・プランこそがユーウェインの夢を最短で果たす道程だった。
それが不可能となったのだ。ユーウェイン自身が著しく弱体化してしまったというのもあるが、二年も浪費してしまったのが痛い。故に、モルガンはすんなりと諦めて、
「イヴァン……」
我が子は必ず目を覚ます。モルガンはそう信じている。もしも目を覚まさなければ、その時はきっと――モルガンは狂気の底に堕ちてしまうだろう。
我が子。我が最高傑作。唯一無二の愛を注いで――此の世でたった一人、無垢なまでの敬愛と親愛を捧げてくれた人間。ユーウェインの居ない世界に、価値はない。
モルガンは眠る愛し子の頬を撫でようと手を伸ばした。思えば、我が子の肉体を現在のものへと改造した時以来、一度も我が子に触れた事がなかった。愛を込めて撫でたら、きっとユーウェインも吃驚して飛び起きるかもしれない。そんな妄想に突き動かされて、そして。
妖姫の白い指は、愛息に触れる事はなかった。妖姫に最愛の存在へ触れる資格が無い事を暗喩するように――ユーウェインが、ふと瞼を開いたのである。
「ん……」
静電気に弾かれたように、モルガンは愛息に伸ばしていた手を引いた。
琥珀の瞳――以前討伐した邪神インデフの因子に取り込まれた、花の魔女の魔術の影響で魔眼化した瞳。視ようとしたものを視る選別の魔眼が、寝台のすぐ傍に立つモルガンを視る。
唇が開き、声を発そうとする。だが掠れた呼気が漏れるだけで、ユーウェインは言葉を紡ぐことが出来なかった。混乱したように体を動かそうとする我が子を前に、モルガンは眼を潤ませる。
目覚めた――目を、覚ましてくれた。永遠に眠り続けるのではないかと恐怖に駆られていたこの二年間、やっと意識を取り戻した我が子に感極まる。ユーウェインは喘ぐように呻いた。思うように動かない肉体に戸惑いを隠し切れない。焦ったような視線で母に訴える。
「っ……あぁ……妾の、イヴァン……」
「は……え……」
「フフフ……ははうえ、か? 目覚めたばかりなのに、妾を呼ばうとは愛い奴よ」
感動、安堵。渦を巻き、心の天井を撃ち抜く強い想い。
抱きしめたい、と思った。この子を。
しかし、そこで思い至る。――そういえば、一度も抱きしめてやった事がない、と。そもそも抱きしめるとは……どうやるのだったか。もどかしい思いに気が立って、モルガンは頭を振る。
何を下らぬ想いに駆られているのか。そんな凡俗な振る舞いを己は許せぬ。今はそんなもので懊悩するよりも、するべきことがあるだろう。
「か
「……リハビリが必要だな。鈍らぬようにケアだけはしておいてやったのだ、感謝するがよい」
「………?」
寝台の上で藻掻くユーウェインに、モルガンは心を鎮める。
生きていてくれた。目を覚ましてくれた。二年も待たせるとはなんと親不孝な子供だろう。介護で散々手間を掛けさせてくれた、仕事の代行もさせるなど親を労る気持ちはないのか。
――駆け巡る情動の全てを抑え込み、常の沈着とした優雅なる貴婦人としてモルガンは我が子を見下ろした。
「イヴァンよ、落ち着いて聞け」
「………」
「そなたは一度、死んだ。キャスパリーグ――人類悪の獣に殺されたのだ。ダナンと自らを称した旧神の複合体を討った後にな。それは覚えておろう?」
「………」
言われて思い出したのか、ユーウェインは微かに頷こうとしたらしい。巨神ダナンが滅んだ直後に、己が何と対峙したのかを克明に想起しているようで、僅かばかり緊張したようだ。
人類悪の獣。その響きに不吉なものを覚えたらしい。……今更だ。
もっと早く教えてやるべきだった……そんな安っぽい後悔が過ぎる。だが最善は、愛息が知る事なく別れる事だったのだ。モルガンが事前に獣に関する知識を授ける事はなかっただろう。
関わること自体が災厄の兆しである。遠ざけるのがベストだったと今でも思う。
「アレがなんであったかは、もはやどうでもよい。キャスパリーグは妾が追放した。二度と人間社会に関わらずに済むようにな」
「――!」
「がなるでない。アレも望んでおった事よ。無害な獣でいたいと訴えたのは奴なのだ。案ずるなよ、いずれ一度だけそなたも会えようさ。それまではアレの事は忘れよ。よいな」
人類悪について、教える事はない……と今更言う気はなかった。
後日改めて教示しよう。だがその前に伝える事がある。
「獣の事は後回しだ。二つ、そなたは知らねばならん事がある。心して聞くがよい」
モルガンは言葉を練る。出来る限り衝撃を受けないように配慮しようとして……やめた。
無駄な気遣いだ。この程度も受け止められずしてどうする。これより我が子が往くのは王の道、艱難辛苦を乗り越えねばならぬのだから、些末な問題だと笑って流せる度量を持たねばならない。
王を育てるのだ。むしろ、呵責なく現実を突きつけよう。
「まず一つ。そなたは今も半死人である」
人類悪から受けた傷のせいで、肉体は完治せず、宝具『生命性転の大釜』を手放せば死に至るほどの重体である。致命傷を負ったままの今が常態であり、日輪のない刻限では最長五分かそこらが全力戦闘の限界時間となった。聖者の数字が機能する時間帯はその三倍の時間だ。
つまり戦場に立つ者として落第に等しい体力しか持ち得ない。ユーウェインが出張れるのは強敵を打ち破るラストアタック、あるいは自衛の時ぐらいなもの。そして人類悪の理を、とうの人類悪が弱めているとはいえ、『生命性転の大釜』で肉体を維持する状態は微妙なバランスの上で成り立っている、他者からの回復・強化などを受けてもならない。
これより先は常に対魔力で魔術の類いは全て弾かねばならず、戦闘時も味方からの後押しは受け付けられなくなった。
戦士として……いや、騎士か。
騎士としてのユーウェインは死んだに等しい。
そう伝えるも、ユーウェインは然程衝撃を受けた様子ではなかった。
「……イヴァン? そなたの研鑽が……無為となったのだぞ? 剣の鍛錬はそなたの好むものであったはずだ。何も思うことはないのか」
「わた、し……は……」
早くも言葉を紡ぎ始めたユーウェインに、モルガンは目を見開く。
暫くはリハビリに専念しなければ、健常に振る舞えもしないはずなのに、驚くべき回復力――いや、それはない。ではなぜ話せる?
――ユーウェインが適応しているのだ。
意のままにならぬ体、掠れる声。それらの程度から、どのようにすれば動けるのか、話せるのかを割り出している。自身の肉体を知悉する剣聖の術理が、彼に超常的な適応力を発揮させているのだ。
だがそれはモルガンにすら理解の及ばぬ領域。瞠目する母に、子は言う。
「――私はそれでもよいと思い、キャスパリーグを
「イヴァン……」
「それに剣の鍛錬は次の段階に進みましたよ。
言って、ユーウェインは不意に視線を窓に向けた。
「母上……
「っ……」
彼はどうやら、自身が昏睡するであろう事すらも把握していたらしい。
我が子がどれほどの進化を遂げたのか、空恐ろしくなると共に、頼もしさを覚えつつ、モルガンは苦笑する。流石の我が子でも眠っていた歳月は想定外であろう。
「もう一つの伝えるべき事というのが、それだ。イヴァン、落ち着いて聞け。そなたは二年も眠りに落ちていたのだ」
「―――」
目を見開いて視線を向けてきたユーウェインに、モルガンは肩を竦めた。
体を震えさせ、拳を強く握り、瞑目する王の卵。妖姫の最高傑作という作品の域を超え、母の腕の中から巣立った大英雄。神代の最後に立つべき幻想の王は、自身に掛けられた枷の重さに悔しがった。
「悔やんでおるのか? 獣如きを救うために身を差し出した事を」
「いいえ。微塵も。獣であれ、キャスパリーグは私の友だった。奴を救う事は人類に災禍を招かぬことにもなる。悔やむ気はありません。ただ……私は悔しい。長くても7日かそこら眠るだけだろうと見立てた己の節穴さが呪わしくて仕方がない。……二年、二年です。それでは、私は……」
「うん。そなたの想いは叶わなくなった。リーリウムらを巻き込まぬ道は、そなたの甘い見立てで閉ざされたのだ」
「っ……」
敢えて言うと、ユーウェインは歯を食いしばった。ギシリと歯が鳴る。だが誰が彼を責められようか。友情のために剣を振るいはしたが、それは人類全体を救う大偉業でもあったのである。
もしあのままユーウェインが自身を犠牲にしなかったら、獣は完全となり、人理が崩壊するほどの特異点と化していたのは想像に難くなかった。だからこれは、あの状況では最善の結末であったのだ。
モルガンはユーウェインに言う。彼の悔恨も何も、今は気にしている場合ではない。
「……だが、よくぞ今この時に目覚めてくれた。お蔭で面倒な事にならなかったよ」
「……何がでしょう」
「二年。二年だぞ? 妾のイヴァンよ、そなたは今、
「………!」
「
だから、よくぞ目覚めてくれた。
モルガンがそう言うと、ユーウェインは更に酷く震える。
彼の中で渦を巻く情念は、殆どが悔しさに起因するものだろう。二年も眠ってしまった不甲斐なさ、時の流れに置き去りにされ突如王位を継ぐ事になった情けなさ。もっとできる事はあったはずなのに、もっとやるべき事があったというのに――ユーウェインは悔しくて堪らない。
モルガンは不意に、俯いて震える我が子をどうしても抱きしめてやりたい衝動に駆られた。無意識に伸ばした両腕を――我に返った妖姫は引っ込める。代わりにモルガン・ル・フェイは激励した。
愛する子供が、大人になって、
「気張れよ、イヴァン。そなたは――王に、なるのだ」
偉大なるブリテン王、ウーサーを超える王に。
そうしてこそ、はじめて、モルガンが我が子を抱ける日が来るはずなのだ。
何か書こうと思ってましたが忘れてしまいました(痴呆)