”大丈夫。まだなんとかなるよ”
”アマリリス……なんで、君が?”
柔らかな声とともに現れたのはアマリリスだった。
けれど彼女の精神はまつろわぬ女媧に捧げられ消えたはず。
疑問と戸惑いを悟ったようにアマリリスは淡い笑みを浮かべた。
”きっとね、これまで歩みは間違いじゃなかったんだと思う。うぅん……それどころか色んな可能性のなかで、私たちが
”正解って……”
”何言ってるのさ。僕たちは負けて女媧の贄にされちゃったじゃないか。世界だってもうダメになった、なにが正解だっていうのさ”
僕の突き放した物言いにアマリリスは気分を害した様子もなく、しずかにほほ笑んでいた。ちゃんと温度のある笑みだった。
”私たちは確かにまつろわぬ女媧に取り込まれた……だけどそれは死んだって事じゃないの”
”だって女媧は捧げものを貪るだけ”
”まつろわぬ女媧はもともと陰の相しか持たないから、陽と完全を秘める”私達”を決して殺せないの”
女媧はぼくたちを核に組み込み、世を創世した。だからこそ絶対に失ってはならない要素なのだ。
”それにアキは女媧に捧げたって言ったけど、わたしたちは本当のところで総てを捧げきってはいないわ?”
”だからわたしたちはまだ終わってない。だからこうして2人とも意識を保っていられてる”
”捧げきっていない? ……でも僕たちは女媧に約束して、その結果呑み込まれたじゃないか”
アマリリスは頷いた。
”うん。確かに女媧に呑み込まれたのも真実”
”だけどね、アキが本当は──
思い出した。
僕は彼女があの牢で
"僕が、すべてをキミにささげるから、キミは大丈夫"と。……それは僕らが一つになる要因にもなったけれど。
アマリリスは僕の思考を汲み取ったようにうなずいた。
”あなたがわたしに捧げてくれたから、私もあなたへ捧げることができた。まつろわぬ女媧へ捧げないですんだ”
”思い出して、わたしたちが捧げたのは決して女媧のためじゃない。わたしたちが捧げたのは本来わたしたち自身のため”
それはそうだ、何より助けたいと思ったのはアマリリスなのだから。女媧なんかのためじゃない。
”不完全なまつろわぬ女媧が贄をすべて貪るには身体と心から捧げたいって思わなくちゃダメなの。でもわたしたちが捧げものをしたとき、全然別の方向を向いていた”
”だから女媧はね、わたしたちの捧げものを横からかすめ取ることはできても、本当の意味で喰らうことはできなかったの。……だからわたしもアキも、髪の毛一本、女媧には渡していないんだよ?”
”髪の毛の一本も?”
”ええ、アキも知ってるでしょ?”
記憶の中に心当たりがあった。
スミスと会話していたジョーという博士が語っていた第三の方法。アマリリスを止める最後の方法──彼女自身が総てを捧げたいと願ったときにあると。
そしてアマリリスは”すべてを捧げるもの”から”すべてを捧げられるもの”へと転化するとき、捧げてきたものをすべて取り返せるのだと。
僕は驚いてアマリリスを見やった
”わたしの総ては今まで誰かの願いを叶えた分だって取り戻せる”
”そして私は願います”
”私はあなたを願います”
”──だからわたしのすべてはあなたのもの”
”──あなたのすべてはわたしのもの”
”だって願いを叶えるだけの人形だったわたしに、すべてを捧げてくれたのはあなただけだったから。嬉しいって感情を本当の意味で識ることができたから……だから……”
”ちがう……ちがうよ! 僕は君が人間だって思っていた、それに殺そうとだってしたじゃないか! 僕はダメなんだ、君にそんなに想ってもらう資格なんてない……凡人で役に立たなくて……それしか出来なくて、もっと素晴らしい人間ならって……!”
”そんな事言わないでよ。あなたの答えは逃げだったかもしれない、投げやりだったかもしれない……でもね、その言葉をくれたのはあなただけで、最後までわたしに寄り添ってくれたのはあなただけで”
”だからそれがわたしだけの真実”
アマリリスは僕の手を取った。僕とおなじ速度でながれる命の鼓動を感じた。
両手を繋いだまま、僕たちは眼下にひろがる世界を見下ろした。
偽りの月と太陽が空にあって、まつろわぬ女媧が不動の君主として世界に在った──でも、僕たちは生きたい。
まだ死んでいないというのなら、全力で抗って自由に生きたい。
囚われたまま終わってしまう”生”になんの意味があるんだ。
”大丈夫、逆転の一手はあるよ”
”まつろわぬ女媧は万物を生み出す"究極の一"ともいえる完全な存在になってしまった”
”でも、だからこそ、抜け出すことのできない法則にはまってしまった”
”女媧の到った──究極の一とはつまり太極。この世のすべて”
ゆえに、
でも足りない。創世神たる女媧を倒し切るにはまだ足りない。
”だからもう一手”
”全てを捧げるわたし《陰》は──全てを捧げられたわたし《陽》”
”そしてアキにも表と裏があるんだよ”
そっか、そうだったんだ。
僕は誰でもないから。だから。
”誰でもない僕《陰》は──誰にでもなれる僕《陽》”
誰にでもないあなた《陰》が仮面をかぶって。
全てを捧げられた私《陰》があなたに捧げられて。
まつろわぬ女媧によって合わさったからわたしたちは二つの要素が組み合わさって──”すべてを偽る者”になった。
”だからこそ、アキはスミスを演じることができて、一時とはいえ神にも抗えた”
”うん、負けちゃったけどね”
”陰の私たちだったから敗北は必定だったの”
陰があれば陽もある。敗北があれば勝利もある。
”陰が陽となるとき、わたしたちはすべてを
”──完全という
”ただの言葉遊びかもしれない”
”でもね、きっと私達ならできる。今まで苦しんできたもの、最後くらいハッピーエンドで終わらなくちゃ!”
”……でも僕らは陰のままで、此処から出る手立てもないんだよ?”
”大丈夫、両方ともいっぺんに解決する方法はちゃんとあるから”
”……ねぇ、憶えてない? 女媧って
”それに今の女媧は陰と陽を内包する万物を生み出せる存在”
”なら、
”生まれる前の、胎内にいるわたしたちは陰の極みにいるようなものだから、ちょと小突くだけでも変化は起きるよ!”
”そして生を受ける事によって──陽へと転化できる!”
だから──わたしを受け入れて。わたしが死んでからずっとアキはわたしを拒絶していた。
それはきっと、わたしが死んでしまったせいで、死んだって事実を認めたくなかったから。
ああ、そうだ。僕はずっとアマリリスを拒絶していた。
そんなことをすれば心は壊れてしまっただろうから。事実として受け止めただけで、受けいれてなんて、今この瞬間も否定し続けていた。
弱い自分を守るため、事実を事実だと認めなかった。
”でも、それは同時にわたしを生かすことでもあったの。アキの中で眠っていたわたしはアキに死んだと認識されたら、死を定義されてしまうから”
”だけど、もうその必要はないんだね”
”だって、君は、生きてる……!”
”うん……そしてあなたがわたしを受け入れて、わたしたちは陰の極点にたどり着く。そして陰陽の転化は起きて新生する”
”わたしたちは"究極の一"から生まれるにふさわしい"調和する二"になれる”
うなずいた。
もう迷うことはしなかった。いつもそばにいた迷いも、恐怖も、戸惑いも、どこかへ去っていた。
視覚や聴覚、五感のすべてが失われていく。
神経や五感が消えていく感覚は、まつろわぬ女媧に身体のパーツを取られたときの感覚に少しだけ似ていた。けれど、それとはまったく非なるもの。願い願われた想いが、手をつたって、僕らという円環を駆け巡ってまばゆく輝いた。
もう誰にも邪魔はさせない。
僕は不器用にほほ笑んで、アマリリスが仄かに応えた。
──ひとつになろう。
──うん……あなたが望むならわたしは……。
──ひとつになって。
──うん……きみが望むならぼくは……。
僕たちは白に包まれていた。お互いがどこにいるのか見えも聞こえもしなかったけれど、感じることはできた。僕らのなかの1番やわらかい場所をむき出しにして、僕たちは重なりあった。心が触れ合う。
僕は彼女で彼女は僕で、僕たちは思考すら共有していた。
アマリリスの想いが伝わってくる。スミスへの感謝と喪失感、僕への信愛と愛情、彼女自身の決意と安堵……それに──
──ああ……。アマリリスの口から法悦の声と、一日千秋を焦がれた願いが叶ったに等しい想いが零れた。
わたしは……誰かに望まれたものを与えるだけ。
そう望まれたから。
そう造られたから。
私が私の意志で、決して欲することも、願うことも、出来なかった……けれど。
──
だから──
どうか勝利を。
──うん。アマリリス……君が望むなら僕は……。
──さぁ、
──僕らは産まれた。
海に飛びこんだような衝撃とともに時の濁流へふたたび引きずり込まれていくのが分かった。
外は宇宙だった。
当然だ、僕らの母体はまつろわぬ女媧で、女媧は宇宙にただよう月そのものだったから。
新生した僕たちの前へあらゆる生命が活動を停止する劣悪な環境が牙をむいた。真空の奪手が僕の身体から酸素を、皮膚を、血液を掠奪しようとする。
”大丈夫、わたしたちは神性を備えてる。だから
脳内にアマリリスの声が響き、その途端、劣悪な外界からの影響を受け付けなくなった。
まるで物流法則を超越した振る舞いをみせるこの体のデタラメさに舌を巻いた。
けれど僕は驚嘆も、歓喜も投げ捨てて、地球だったものへ向かった。
なぜなら──。
後ろを振り向かなくてもわかった。
宇宙の無音状態でさえものともせず叫声を届かせるまつろわぬ女媧が僕らに迫っていた。
”まだ距離はある! でもすぐに追いつかれるっ!”
僕は足場のない宇宙を蹴って、なりふり構わず疾走した。足場がない上に無重力状態で凄まじくやりにくい。まるでスキップをしているか、飛び立つことのできないブサイクな鳥のように情けなかった。
でも、それでも。
早く。速く。夙く。
あの暗い牢の温度を覚えている。こんな宇宙の温度よりずっと寒かった! 僕はもうあそこになんて戻りたくない……ましてやアマリリスも一緒なんて……だから……!
「もう捕まってなんて、やるもんかァ──ッ!!!」
僕の咆哮は無音の空間には響かない。だれも聞き届けることはない、
たったひとりを除いて。
”──そう。それでいい”
”──あなたは何者へなりたいかだけを願うだけでいい。そしてわたしは願いを捧げて、叶える力を与えるの”
僕が足掻くすぐうしろで、アマリリスは祈りを捧げた。敬虔な信徒のように、オラトリオを唱する修道女のように。
僕が全能者へと至ったと同時に、アマリリスもまた神の眷属としての本来の姿をとり戻していた。
その神は強大な存在でありながら、万民のために奉仕を定められ、用意された供物であった。ゆえにその神は万民の願いを見聞きし、神へ願いを捧げる人形を現世に送り込んだ。
ただ誤算があるとすれば、神話のなかの神が現世に現れればまつろわぬ性を宿す。
その法則は神に作られた人形も例外ではなく、ゆがめられてしまったのだ。その人形が人の願いを叶えてしまうのはまつろわぬ性で歪み、ベースとなった神に引っ張られたがゆえの副産物でしかなかった。
これがアマリリスの神髄。
──
"神の子"の神性を勝ち取りし我らは、全能者として新生しここに完成した!
我が宿星に従い、而して我はいと高き神へ、愛するもの願いを我が意とともに知らしめそう!
万民と神の供物にして我が祖たるジズよ! 我らが父なる主よ! あなたがたの子たるアマリリスが希う!
──我らに何人も縛れられぬ翼を授けたまえ!
ケープを翻して三対六枚の羽根が広がった。
なによりも美しく、薄く、そして神聖な緋色の羽根が僕の背に閃いた。きっと二対はアマリリスが願った神々から贈られたもので……最後の一対はアマリリス自身のもの。
僕はもう走るのはやめていた。
大きく踏み込んで羽ばたく鳥のようにジャンプした。意志と呼応するように羽根から力が溢れだして推力が跳ね上がった。
”──行こうアキ! 調和する二つの意思は究極の一つの力にだって勝てるよ!”
”──そうだアマリリス。二つは四つへ、四つは八つへ……そしていつかは無限へと! 僕たちはどこまでも紡いでいけるんだ!”
「と…………飛べぇぇぇぇぇぇえええ!!!!!!!!!! 」
あの時。
囚われていた僕らは鳥かごを打ち払って、宇宙を疾走する一条の星になった。