神様でなくなった日/神様になった日(完結) 作:ファルメール
「ほら、そこは辺ACが三角形ADCの外接円の直径になるんだ」
「あ、本当だ。そうか……」
ラーメン屋を立て直したり、麻雀大会に出て優勝したりと、ひながやって来てからというもの陽太の周りでは破天荒な事ばかりが起こって、退屈しているヒマなど一秒たりとも無い。
しかし、忘れてはいけない事が一つ。
陽太は高校生、つまり学生。
そして今は高校三年生、受験生である。
学生の本分は勉強であり、夏休みは受験勉強の大切な詰め込み時期だ。
ただでさえ志望校である伊座並と同じ大学の合格判定は厳しいと言うのに、遊び呆けていて良い訳がない。
……と、いうツッコミをあろう事かヤクザである正義がしてきて、彼が家庭教師として勉強を見ると言い出したのである。
最初は、仕事柄そんな事がおじさんに出来るのだろうかという疑問を隠そうともしなかった陽太であったが、しかし実際に勉強を見てもらう段になると、すぐにそんな考えは頭の中から飛んだ。
正義の教え方は、懇切丁寧でかつ分かり易く、今まで苦手だった数学の分野がすらすらと頭の中に入ってくるようだった。
3時間ばかり勉強して、時子の持ってきてくれた菓子とコーヒーで小休止していた時だった。
「……あの……聞いて良いですか、おじさん」
「なんで俺が、ヤクザになったかって? 結構勉強出来るのに」
「えっ……」
どうしてそれを、と陽太が聞き返すよりも、
「ひなちゃんみたいに全知の力なんて必要ねぇよ。顔にそれが聞きたいって書いてあるからな」
ぐいっとコーヒーをあおると、正義は「はぁ」と大きな息を吐いた。
「昔取った杵柄ってヤツかな……今でこそこんな俺だがよ。昔は、弁護士志望だったんだぜ」
「ええっ?」
自分が知る叔父の人物像と、弁護士という職業イメージとがまるで合致せず、陽太は「嘘だぁ」とでも言いたげな表情をあからさまにする。これは予想出来た反応であったので、正義はくっくっと喉を鳴らした。
「本当だよ。東大法学部にストレートで入って、3年の時に、司法試験に合格したんだ。弁護士になる事は俺の子供の頃からの夢でな。話し合う事で、人を助ける仕事を素晴らしいと思って、絶対そうなれるように、毎日勉強していた」
すっと、正義の目が細められる。これはもう戻れない過去へ、想いを馳せる仕草だ。
「……当時、俺は犬を飼っていたんだ。大学に入った祝いに、俺の親父……つまり陽太、お前のお爺さんに買って貰ったんだ。銀次と名付けてな。真っ白なポメラニアンだった。俺も、兄貴も、弟のように可愛がっていたんだ」
「……ポメラニアン」
陽太は昔、犬を飼いたいと父親に言って、その時は強く反対されて却下された事を思い出した。あの時、大地は理由をはっきりとは口にしなかったが……
「あれはもう20年前の夏の日。俺達が外食で、揃って家を空けていた時の事だった。家に帰ったら、銀次は殺されていたんだよ。それもただ殺されていた訳じゃない。何度も蹴り飛ばされた後、手足を切断されて踏み潰されて惨殺されていたんだ」
正義は一切の感情を排したように無表情で、棒読みのような口調でそう言ったが、陽太は胸焼けするような感覚がして苦い唾を呑んだ。
「最初は物盗りの仕業だと思ったが、家が荒らされたりはしていなかった。下手人は、ただ銀次を殺す為だけに殺したんだ。それを楽しむ為だけにな」
「……酷い」
「……あぁ。その後、別件でパクられた事で、犯人が分かったんだ。政治家のどら息子だった。強姦未遂の現行犯で逮捕されてな。当然、俺達はそいつを訴えたが……未成年であった事と、そいつの親があちこちに手を回したのもあって、結局は罰金だけで済まされる事になったんだ」
「……それは……」
今でも、時折耳にする問題だ。犯罪者のプライバシーは被害者よりも大事に扱われ、未成年だからという理由だけで重い処分を求める被害者側が、加害者以上に責められる。
正義の時もまさにそうだった。
ゲーム感覚で人の家族を奪っておいて、この国の法律は寛大にも端金を払うだけでそいつを許してしまう。
納得出来ずにもっと重い刑を求めれば、それを訴える自分達は悪人以上に悪人扱い。
「……挙げ句の果てには、そいつはこう言い腐ったのさ。『たかが犬だろう』ってな」
吐き捨てるように正義は言い放った。僅かな間だけ、怒気が漏れる。
だが、すぐにその気配も消えた。
「まぁ……それからだな。他人が作った法律が、くそくらえだと思うようになったのは」
「……だからおじさんは、弁護士にならずに、ヤクザに」
「あァ。結局、俺はそのどら息子に復讐したりはしなかった。ここは日本だからな。日本の法律でそう決まっているなら、その法律がそう裁きを下したなら、それは仕方無い。それなら俺はこの国の中にもう一つ、俺の国を創ろうと思ったんだ。俺の価値観が支配する国を。だから俺はヤクザになったのさ。日本の法律が通用しない、俺のシマが欲しかったからな」
「……」
初めて聞く叔父の昔話に、陽太は圧倒されたように瞬きも忘れて聞き入っていた。
そんな甥を見て、呵々っと正義は肩を揺らす。
「……まぁそうして、気が付いたらこの通り国と堅気に寄生して食ってるダニ一匹出来上がりと、そういう訳さ」
語り終えた正義は、陽太に向き直った。
「陽太。お前は俺が異常者だと思うか?」
「え、それは……」
陽太は言葉に詰まった。
確かに、まともだとは到底言えないだろう。どんな理由があっても、どう言い繕ってもヤクザである正義が悪である事に変わりはない。
でも、もし大地や時子、空が誰かに面白半分で殺されてしまったらと、想像する。その時、自分はどうするのだろう。
その相手に復讐しようとするのだろうか。それともそれはせずに、家族を偲んで生きるのだろうか。
自分には分からない。ただ、きっとその後の人生が歪んでしまう事は確かだろうと思った。
正義は、少なくとも陽太がよく考えているのは分かったので満足そうに頷く。
「まぁ……そうなんだろうな。死んだ奴が生き返る事はない。まして人間でなく動物だからな。忘れようとするのが正常なんだろうと、理解は出来る。だが、勝手な理屈で家族を奪われて、その奪われた恨みも、家族が居た事も忘れて……いや、忘れようとして、忘れたフリをして生きていくのが健常者だと言うなら俺は異常者で沢山だ。それを認める社会に泣き寝入りする殆どの人間が大人なら、俺はガキのままで良い。そう思っているだけだ」
「……」
「だがよぉ、陽太。お前にもあながち他人事ではないかも知れねぇぜ?」
「え?」
ここで、陽太はとぼけた反応を見せる。察しの悪い甥に、正義は苦笑した。
「ひなちゃんだよ」
「!」
「あの子のあの力……それが何なのかは分からないが……でも、このまま何も起こらないって事だけは無いだろう。それは断言出来るぜ。いつかは何かが起こる。それが一時間後なのかそれとも一年後かは、分からねぇがな」
「……」
「俺の時みたいに……世の中ってのは、勝手にでっち上げた理屈で、こっちの大切なものをいとも簡単に奪っていく。だから……今から考えておくんだな。選択を迫られたその時に。戦うか、それとも降参するか。二つに一つ、どちらを選ぶのかを、な」