「■!■!」
耳障りなノイズが聞こえて、閉じかけていた瞼を開く。
開けた視界はそのすべてがぼやけていて、目に映るものは輪郭すらも不鮮明な影だけだ。
その中の一つ、自分に覆いかぶさるような影が、何かを叫んでいた。
何を叫んでいるのかは分からない。耳に入る声はくぐもっていて、聞こえてくるのは何の意味も見いだせないただの音だ。
折角気持ちよく眠ろうとしていたところなのに、こんな風にうるさくされてはたまったものではない。
「■!…………、■……!」
影はしつこく耳障りな音を垂れ流すばかりか、今度は身体までもを揺さぶり始める。がくがくと激しく身体が揺れるのを感じながら、しかし意識は順調に下へ下へと沈んでいくようだった。
視界はその縁から黒く覆われはじめ、騒がしかった音も遠のいていく。だんだんと感覚も鈍っていき、最早揺すられているのかも定かではなくなった。
すべてが空気に溶けていくような、そんな感覚。ようやく、ぐっすりと眠れそうだ。
そうして、今度こそ瞳を閉じようとして。
ふと、頬に何かが落ちてきたのを感じた。
ぽたり、ぽたりと垂れてくるそれは温かくて、冷え切った身体に染み渡っていく。
熱が伝わってきた。その熱を、温かさを、自分は知っている。
想いが伝わってきた。その想いを、感情を、自分は知っている。
■のことを、自分は確かに知っている。
意識が暗い水底から浮かび上がっていく。視界にかかった靄が晴れ、音声がクリアになっていく。
そうして──
「──!」
ベッドから跳ね起きるようにして、Wは目を覚ました。
今のは、一体何だったのだろうか。彼女はそっと自分の頬をなぞる。指先に伝わってくるのは、当然乾いた感触だ。
恐らくは夢のはずだ。前後の記憶は多少混乱しているとはいえ、あんな場面にはまったく覚えがない。
だというのに、あれは……
「っ」
思い返そうとした途端、頭にノイズのように鋭い痛みが走って、Wは顔をしかめる。
……何も思い出せない。温かさも、感情も、そしてあの影のことも。確かに、あの夢の中では知っていたのに。
そこまで考えてから、彼女は頭を振って気持ちを切り替える。夢は所詮夢だ。振り返るようなものではない。……たとえ、それが夢に思えないようなものだとしても。
取りあえず辺りを見渡してみると、視界に飛び込んできたのは飾り気のない壁に特徴の無いサイドテーブル、それに自分が横たわっている簡素なベッドだ。
ベッドは簡素なものとはいえ、白い清潔なシーツが敷かれている。壁も床も調度品も、没個性ながら全てが小奇麗に整っていると感じられた。
このような上等な場所には心当たりがない。少なくとも、Wのような傭兵には縁のない場所だ。
「ここは──」
では一体、ここはどこなのか。そんな心の声が漏れ出たところに、突然返事が降ってきた。
「船」
「船……?」
オウム返しにその言葉を口にしながら、Wは声の聞こえた方を向く。
部屋の入口からこちらに顔を覗かせているその人物──イネスは、いつも通りの澄ました顔をしていた。
見知ったその顔を見て、Wは頭に浮かんだ素直な疑問を口にする。
「……なんであたしたちは、まだ生きてるの?」
今回の仕事は、とある輸送部隊を護衛するものだった。
いつもの如くヘドリーがどこからか取ってきた仕事ではあったものの、イネスを含めた二人のどこか普段と違う様子にきな臭いものを感じていたWは、仕事にあたっては念入りに準備をしていた。
その甲斐あって、前段階では部隊以外の傭兵を囮に包囲を突破することに成功。三手に分かれての移動と合流により、無事に輸送部隊に接触することもできた。
複数の囮を含む輸送部隊の規模には多少驚いたものの、仕事の内容自体に変わりはない。予定では、いくつかのフェーズを経て三日後に目的地に到着、引継ぎをして任務を終えるはずだった。
襲撃があったのは3日目のことだ。と言っても、日時は重要ではない。恐らく敵は初めから部隊のことを捕捉していた。襲撃がそのタイミングになったのは、傭兵部隊の疲労と情報の精査、護衛側の増援、様々な要素が絡み合った結果だと言えるだろう。
ともあれ、襲撃はなされた。そして、それは極めて効果的なものだった。Wとイネスが率いていた部隊は一瞬のうちに散り散りになり、Wが見つけることができたのはイネスのことだけ。おまけにそれなりの傷まで負う始末だ。
唯一のマシな点としては、敵が護送対象の方に向かわなかったことだろうか。だがそれも任務のことを考えればマシというだけで、この状況に関しては何の助けにもならない。
通信も何らかの手段で妨害されている以上、Wはここから自力でどうにかするしかなかった。イネスを叩き起こしたのもそれが理由だ。戦力は多いに越したことはない。彼女の冷静な部分は、確かにそう言っていた。冷静でない部分については……イネスを起こす彼女の声色が、それを物語っているのかもしれない。
イネスが目を覚ましてから早々に敵の襲撃があったものの、一芝居打つことでそれらを殲滅した彼女たちは、ヘドリーの部隊との合流を目指して西に向かっていた。
アーツを用いての索敵の結果は、あまり芳しいものではない。敵は周囲に展開しつつあり、見つからずに逃げ切ることは難しい状況に追い込まれつつある。加えて、イネスははっきりと口にはしなかったが、その敵というのは恐らく軍事委員会の直轄だ。ただの傭兵とはモノが違う。
戦いが避けられそうにないというのに、イネスはおろかWでも相手取るのは厳しそうな敵。彼女たちにとっての唯一の生き残る道は、何とかして敵に見つかる前にヘドリーと合流することのみだった。
……だが、現実はそう甘いものではない。彼女たちの行く先は、既に敵によって塞がれていた。どうにか活路を見出そうとイネスがアーツを使っている間、物陰に隠れて様子を窺っていたWは、投降しようとした傭兵の首が飛ぶのを目の当たりにする。
見事な剣捌きだ。Wは不思議と素直にそう思った。見える限り、目の前の廃墟の中にいるのは数人だろうか。剣の腕、身のこなし、それに醸し出す雰囲気。これまで様々な場所で戦ってきた以上、見ただけで何となくその敵の強さというものはわかる。
その鍛えられた感覚が言っていた。あれには勝てないと。万全の状態ならまだしも、負傷したWとイネスとではまず勝ち目はない。
そこまで理解した上で、Wは源石榴弾をその腕に抱える。イネスからは意味もなく死にに行くのはやめろと言われたが、彼女はそれを鼻で笑った。
サルカズは戦うために生きている。そう言って見せて、嫌悪感を滲ませるイネスの顔を拝んでから、Wは物陰を飛び出して一直線に敵の元へと向かう。
……戦うために生きている。前の自分は、本気でそう思っていたのかもしれない。こちらに気付いて遅まきながら動き始める敵の姿を目で追いながら、彼女はそんなことを考える。
ああは言ったものの、正直なところ、何のために生きているのかなんてWにもわからなかった。ただ一つ確かなのは、こんなところで死ぬためではないということだ。まだ、本当に楽しいこともやりたいことも見つかっていないのに、死ぬわけにはいかない。
そうして、生き残るためには戦うしかないのだ。
投げつけた源石榴弾が炸裂し、敵を一瞬で火の中へと呑み込む。ざまーみろ、そう思ったのも束の間、Wは一人取りこぼしがいたことに気付いた。その敵は通信機に何やら報告をしながら、抜け目なくこちらを見つめている。
この時点で、生き残れる可能性というのは限りなく低いものとなった。それでも、彼女は平静を装い続ける。
相手は自らの絶対的優位を確信しているのか態度に余裕が現れていた。しかし、油断はない様で、背後に隠れて機会を窺っていたイネスまでもが炙りだされる。
そうして二人を目の前に、敵は寛大にも生き残る方策を示してくれた。すなわち、ヘドリーの首を取ってくれば、彼女たちのことは部隊に迎え入れると。
なるほど、それは素晴らしい提案だとWは思った。
素晴らしく下らない、クソみたいな提案だと。
生き残りたいことは確かだし、提案を飲めば生き残れる可能性はそれなりにあった。けれども、こんな奴らの言いなりになったところで、何かが見つかるわけも、埋まるわけもないということは間違いない。信じられないと言った表情で床に倒れ伏す敵の姿を見下ろしながら、Wは内心でそう吐き捨てる。
既に限界は近かった。傷が悪化しているのか、意識が熱に浮かされたかのように朦朧としている。生き残れる数少ない可能性は、ついさっきここで斬り捨てている。
すぐに、向こうから増援がやってくるのが見えた。数は20近くいるだろうか。先ほど倒した敵と同等か、それ以上に鍛えられた兵士たちがこちらへと向かってくる。
ここまでなのだろうか。こんなところで、自分は死ぬのだろうか。
……それは、嫌だ。
そう思ったのを最後に、Wの意識は暗闇に沈んでいった。
と、ここまでが彼女の覚えていた限りのことだ。あの最後の状況を鑑みるに、どう考えても生き残れる目はなさそうに思えたのだが、何をどうしたのか彼女もイネスもまだ生きている。
それゆえに出てきたのがなぜ自分たちが生きているのかという疑問だったのだが、果たしてその答えはイネスの口から占めされた。
「私たちは救出されてここに連れてこられたの。あなたが寝ている間にね」
合間合間に添えられたムカつく語句を除きながら情報を纏めると、今Wたちがいるのは船であり、それは輸送部隊の本隊で、護送対象であったものらしい。そうして、その本隊が救出にやってきてくれたことによって彼女たちは命拾いし、治療を受けて収容され、今に至るというわけだ。
言ってしまえば、護送対象に護送されているような何とも締まらない状態なわけだが、命あっての物種だ。人間、生きてさえいれば何でもできる。Wはふと、いつだか聞いたその言葉を思い出した。
「……ヘドリーは?」
「……雇用主……いや、ここの主と交渉中」
「無事なのね。まあ、彼に何かあったらあんたが大人しくしてるわけないけど」
イネスの様子を見て薄々気付いてはいたが、どうやらヘドリーは無事らしい。元々の配置も本隊に近かったのが良かったのだろうか。あの敵が言うには部隊の8割は死んだという話だったが、幸運な2割に3人とも入ることができたようだ。
それにイネスへの意趣返しも成功したようで、彼女は舌打ちと共にWのことを睨みつけてくる。
「……起きるなり生意気ね」
「あたしがしおらしかったら気持ち悪いでしょ?」
肩を竦めながら返すと、返事の代わりに盛大なため息が返ってきた。
そんなやり取りを経て、Wは改めて実感する。
自分たちは、生き残ることができたのだと。
イネスが言うには、この船には化け物が揃っているという。それが彼女が部屋で大人しくしていた理由らしいが、Wにとってそれは理由にならなかった。もう目は覚めているのにベッドの上で大人しくしているなんて、無理な相談だ。そういうわけで、Wは背後からのお小言を聞き流しながら、この「船」の探索を始めた。
イネスから船と言われた時は何を言っているのかと思ったが、こうして歩き回って見ると確かに形は船だ。それにしては大きすぎるが、とWは思う。
冷たい、金属質の長大な廊下。カツカツと足音を鳴らしながらそこを歩いていた彼女は、ふと立ち止まって振り返った。
後ろには誰もいない。視界に入ってくるのは今し方歩いてきた廊下だけで、ここにいるのは彼女ただ一人だ。
少し探ってみても、誰かが隠れている気配は感じられない。それで、彼女は再び前を向き直って歩き始める。
だが、直ぐにそれはまた聴こえてきた。
彼女の鳴らす足音に、折り重なるような足音。まるで誰かが隣に並んで歩いているような、そんな音が、確かに。
幻聴……なのだろう。歩いているのは自分1人しかいないのに別の足音が聞こえると言うのは、幻聴だと言う他ない。
けれども、Wにはそれがとても懐かしい物のように思えた。
いつだったか、こんな風にこの廊下を誰かと並んで歩いたことがある様な気がするのだ。
自分でも、おかしなことを言っていることはわかる。この廊下はおろか、この船のことなんてこれまで知らなかったし、歩いたことなどあるわけが無い。頭の中を隅々まで探し回っても、そんな記憶は存在していなかった。
それなのに、胸の内からは思い出が溢れてくる。
この場所を探るようにして歩いたこと、重い足を引き摺るようにして歩いたこと、喜びで飛び跳ねるようにして歩いたこと。
そうして、そんな時にはいつも隣に──
「──あ、あの!」
「──え?」
突如として、一緒に連れ立っていたはずの足音が消える。暖かい光に満たされていた廊下が、無機質な白色灯に照らされた薄暗く冷たいものに変わる。
思い出は去り、Wは現実に引き戻された。これまで通り、独りきりの現実に。
「大丈夫……ですか?」
そんな呆然と立ち尽くした彼女の耳に、声が聞こえてくる。半ば反射的に声のありかに目をやれば、それは随分と下の方からのものだった。
小柄な少女の瞳が、こちらを覗き込んでいる。Wがそう認識したのは、目が合ってから少ししてからのことだ。その無垢な瞳には、ただ純粋にこちらを案ずる想いだけが詰まっていた。
それを見て、ようやく彼女は本当の意味で現実へと立ち戻る。目を閉じ、大きく息を吐いてから、彼女は口を開いた。
「……大丈夫よ。ちょっと……夢を見てただけ」
「夢……もしかして、怖い夢ですか?」
「……いいえ。……幸せな夢よ」
それだけ言って、Wは踵を返して来た道を戻り始める。背後で少女が不思議そうな顔をしているのはわかったが、彼女は振り返らなかった。
あの少女の頭から伸びた長い耳。あれは、サルカズのものではない。サルカズではない種族の、小柄な少女。そんな人物と会う機会など、これまでにあったはずもない。
だというのに、なぜ自分はあの少女に不思議な既視感を抱いているのだろうか。
夢からは醒めたはずだ。Wは今、確かに現実を踏みしめているはずだ。
それなのになぜ──
「なんでまた止まっちゃうの!」
「お、落ち着いて、クロージャ」
「────」
廊下の曲がり角、その向こうから声が聞こえてくる。二人分のその声は何やら話し合っているようだったが、内容などはどうでも良かった。彼女はただ、誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、ふらふらとその声に向かって歩を進めていく。
一歩進むごとに、心臓の音が大きく聞こえてきた。呼吸は浅くなって、脚は竦んで震えるようだった。
けれどもWは歩みを止めない。自分の目で、それを確かめるために。
そうして、廊下の角に差し掛かった彼女は、ゆっくりとその向こう側を覗き込む。次第に開けていく視界に映ったのは工具を手にした黒髪の女と──白い、人影。
「……はぁ。ロドス・アイランドの正式導入は……まだまだ先になりそうね……」
「あ……」
「わっ──あ、あなたは……」
Wはその人のことを知っていた。
きっと、サルカズでこの人の名前を知らない者はいないだろう。Wだって、名前を耳にしたことは何度もあった。
でも、これは違う。この「知っている」は、それとは違う。
「……テレジア…………殿下……?」
「あら?……ここはカズデルではないから、そんなに畏まらなくてもいいのよ。えーっと…………そう、W」
……テレジア。目の前にいる人物は紛れもなく、サルカズの王たるテレジアだ。
……一方、Wはただの傭兵だ。サルカズにありふれた仕事に就いている、ただのサルカズだ。
接点などあるはずがない。謁見できるような身分でもなしに、会ったことなどあるわけがない。
もしかすると、いよいよ自分は本当に狂ってしまったのだろうか。先ほどからの出来事に、Wは自問する。
だって、どう考えてもおかしい。
自分と殿下が、親し気に言葉を交わしたことがあるような気がするだなんて。
「あなたはどうしてここに?」
「……あ……ええと……ヘドリーを探して……」
テレジアがこちらに質問をしていることに気付いて、Wは混乱した頭のまま慌てて言葉を返す。苦し紛れの言い訳のようなその言葉にも、彼女は微笑んで答えた。
「会議も終わったし、ヘドリーならもう臨時病棟に戻っているはずよ。……でも、あなたが居なかったら彼も心配するんじゃないかしら。早く戻ってあげた方がいいわ」
「あ……ええ、そうね……」
それに対して、Wは気の抜けた返事をすることしかできない。そんな様子を不思議に思ったのか、テレジアは再び彼女に問いかける。
「どうしたの、W?何か気になることでもあるのかしら?」
「…………」
気になること。そんなもの、いくらでもあると彼女は思う。
この船にやってきてから、Wはいくつもの疑問を積み重ねてきた。自分はどこにいるのか、自分は何故生きているのか、そんな問いを重ねてきた。
でも、彼女が今、一番疑問に思っているのは……自分自身のことだ。
自分の中にある、存在しない思い出の数々。知らないはずの、知っていることたち。現実に重なるように寄り添う、幻。
彼女のことを満たし、そして苦しめるそれらは、一体何なのだろうか。
もし、自分が狂っているだけなのならばいい。そうならば、どこまでも狂ってしまえばいいから。
でも、もしこれが全て本当だったら?
……例えば、さっきテレジアが言っていたあの言葉。
「…………ロドス・アイランドって……」
「あら、聞こえたのね。それは」
「……この船の、名前?」
「……!」
Wは、恐る恐るその"答え"を口にする。瞬間、テレジアの顔が、ほんの一瞬だけ驚愕に染まった。
だが、彼女は次の瞬間には元の柔和な表情に戻り、言葉を続ける。
「よくわかったわね。……ロドス・アイランド。良い名前だと思わない?」
「……ええ」
「やっぱり!じゃあ、頑張って実現させなきゃいけないわね」
実現させなきゃ?喜色を湛えた様子のテレジアの言葉に、Wは引っかかりを覚える。
実現させなきゃということは、それはまだ実現していないということだ。つまり、この船をロドス・アイランドと名付けることは。
「……ねえ、W。そろそろ、あなたのことも教えて」
「……えっ?」
そんな彼女の思考は、テレジアの言葉によって遮られた。
吸い込まれるような紅い瞳が、こちらをじっと見つめている。
「私はテレジア、この船はロドス・アイランド。じゃあ、あなたは?」
「…………W」
「そうじゃないわ。「W」は一人の傭兵の呼び名でしょう?……私は、あなた自身を示すあなたの名前が知りたいの」
「…………」
名前。今の自分はWだ。その前は……名前など持ってはいなかったはずだ。カズデル生まれのサルカズには、珍しいことではない。名前なんて気にするサルカズなんて、ほとんどいないのだ。名前なんてものはただ個人を呼び分けるためのもので、それ以上の意味はない。
……本当に?
「あ……ごめんなさい。もしかしたら──名前を持ってないの?」
「ええ。でも……」
「……?」
「……それが、温かいものだってことは知ってるわ」
「……!」
彼女は覚えている。想いの籠った名前を、幾度となく呼ばれたことを。その度に、温かい気持ちになったことを。
けれども、その名前を、Wは知らない。
……全部こうだ。一番大切なところが、すっぽりと抜け落ちてしまっている。決して埋まることのない穴が、どこまで行ってもつき纏ってくる。
すべてが妄想ならば、こんな苦しみはなかったはずだ。だが、このテレジアとの会話の中で、Wはこの知らない記憶が一部ではあるとはいえ真実だったことを知ってしまった。
Wにはもう、わからなかった。これからもずっと、この幻影と独りで向き合っていかなければならないのだろうか?それとも、いつの日か霞のように掻き消えるものなのだろうか?
あるいは……
「…………殿下。……あの、あたし……」
テレジアになら、サルカズの王になら、これをどうにかできるのだろうか?
「…………いや、何でもないわ」
「……あなたは──」
「テレジア。通信だ」
突然第三者の声が聞こえてきて、Wは後ろを振り向く。
そこには、何か嫌な感じのするフェリーンの医者が立っていた。
「カズデルで動きがあった。ドクターはもう準備に取り掛かっているから、君も急いでくれ」
「……わかった。すぐに行くわ」
フェリーンの言葉にテレジアは頷くと、Wの方に向かって歩いてくる。
「……W。カズデルの運命が決まった後、もしあなたが「W」じゃなくなるときがきたら……その時には、名前を考えましょう?呼んで温かい気持ちになるような、そんな名前を」
その言葉を残して、テレジアは去っていった。フェリーンの医者も、その後に続いて去っていく。
医者からはお小言も言われたが、Wの頭には入ってこなかった。考えていたのはただ、テレジアのことだけ。
……結局、彼女にあのことを聞くことはできなかった。
決定的な何かがわかってしまうのが怖かったのか、それとも彼女に寄りかかるのが嫌だったのか、Wにはわからない。
ただ一つ確かなのは、これからもこの喪失感と向き合っていかなければならないということだけだ。
「…………」
「テレジア、どうした?あの傭兵と何かあったのか?」
「……ケルシー。あなたは、彼女を見てどう思ったかしら」
「……経歴を見る限りでは、危険な人物のようだった。見たところ、恐らくその評価は外れてはいないだろう」
「……他に、何か気付いたことは?」
「……何を見たんだ?」
「…………逆よ」