北天に輝く   作:ペトラグヌス

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醒覚命運─End of Reminiscence

 ロドス・アイランド。この船には、たくさんの思い出が詰まっている。まだここに来てからほんの少ししか経っていないというのに、たくさんの思い出が。

 艦内を歩いていると、それらはふとした拍子に顔を覗かせる。何でもない通路、その辺の欄干、ちょっとした窓、そんなありふれた、至る所に。

 

 Wは、船の中を当てもなく歩いていた。

 怪我の方は完治し、臨時病棟から割り当てられた個室に移って仕事を待っている状態の彼女であったが、仕事がないからと言って部屋でじっとしてなどいられない。……あの部屋に一人でいると、自分が独りだということがとても寒々しく感じられて。

 それでも、ヘドリーやイネスの所に行けば、適当な話をして気晴らしをすることはできるだろう。それも悪くは無いし、そうやって気持ちを切り替えることは傭兵にとって重要なことだ。

 だが、Wはそれで良しとすることができなかった。この、誰にも説明できない自分だけの感覚は、そうやって見ないふりで終わらせてはいけないような気がした。

 だから、彼女は今日もそれと対峙する。その苦しくも、満たされた幻と。

 

 彼女が足を踏み入れたこのエリアは、内装工事が終わっていないのか未だに所々配線が飛び出ている。感電しないように気を付けながら、そんな廊下を朧げな気配に導かれるようにして進んでいけば、たどり着いたのは大きな扉の前だった。

 電装系が未完成なのか、自動では開かない扉を独りで無理やりこじ開ける。一息ついてから中に足を踏み入れれば、そこには広大な空間が広がっていた。

 Wは、その部屋をぐるりと見渡す。建材が剝き出しの壁に、規則正しく並ぶ柱。部屋を大きく二つに分断する土台に、のたうつようなパイプたち。それらを視界に入れてから、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。

 

 

 

 瞬間、脳裏に声が響く。一つ、二つ、いやそれ以上。数えきれないほどの声たちが、その部屋にはあった。Wには、その内容を聞き取ることはできない。けれども、それでも確かに伝わってくるものがある。それは、ここが喜びに溢れた場所だということだ。

 とたとたと、弾んだ足音が聞こえてくる。折り重なる声が、楽しそうに響き合う。子供の少し甲高い声。年老いた者のしわがれた声。色々な声が、賑やかに空間を彩る。

 

 Wの瞼の裏には、その情景がありありと映し出されていった。

 広間に、たくさんの人たちが集まってくる。皆何かを心待ちにしているようで、期待と興奮が入り混じったさざめきが部屋中に広がっていく。

 彼女は、そんな集まった人たちをかき分けながら進んでいった。見渡す限りそこかしこに笑顔が咲く、華やかで賑やかな会場を奥へ奥へと進んでいく。

 やがて、彼女がたどり着いたのは、二つに分かれた部屋のその向こう側だった。中に入り込むと、また先程とは違った音が聞こえてくる。ドタドタと忙しなく動く足音に、金属同士のぶつかる高い音。時折聞こえてくる特徴的な音は、蒸気が吹き出す音だろうか。

 そうして待っていることしばらく、周囲からは次第にいい匂いが漂ってくる。鼻をくすぐるその香りは、美味しそうな料理の香りだ。

 出来上がったその匂いは、次々と会場の方に運ばれていく。それにつれて、遠く向こうから上がりはじめる歓声が、皆がそれを待ち侘びていたことを伝えていた。

 料理は次から次へと完成していき、それらはすべてこの場所から運ばれて出ていく。時間が経つにつれて、会場が賑やかになる一方で調理場は静かになり、匂いも消えていった。

 その中にあってただ1箇所だけ、未だに美味しそうな香りがしてくる場所を見つけて、Wは吸い込まれるようにしてそちらへ歩いていく。

 そこに待っていたのは──

 

 

 

 ゆっくりと、目を開ける。眼前に広がっているのは、誰一人いない空っぽの空間だ。何の音も、何の匂いもしない、ただ広がっているだけの何もない空間。それらをしばらく見つめてから、Wは踵を返す。

 

 ……ひどく、腹が空いた。

 

 

 

 

 

 

 

「あんたが仕入れ担当のクロージャ、であってる?」

「ん?そうだけど……誰?」

 

 その日、Wが訪れたのは工作室だった。とは言え、工作室そのものには用はない。用があるのは、目の前にいる人物の方だ。

 確か、テレジア殿下と"初めて"会った時にもあの場にいたように思う。そうは言っても、ちょうど彼女がWに気づいたタイミングでどこかに行ってしまったので、こうして面識は無いのだが。

 

「傭兵W。初めまして、とか言った方が良かったかしら?」

 

 質問にそう答えを返すと、Wは改めて彼女のことを見据える。

 尖った耳が特徴的な黒髪のサルカズ──クロージャは、突然の来訪者を前に怪訝そうな目付きをしていた。

 まあ、それも仕方の無いことだとWは思う。彼女のような人物を訪ねてくるのはある程度決まった人たちだろうし、そうでなくとも傭兵は縁遠い存在だろう。W自身も、普段の自分ならばまずここにやってくることはなかったに違いないと感じていた。

 では、そんな彼女が何故ここを訪ねてきたのか。それは、とある思い付きを実現するために、物品を仕入れることのできる人物の協力が必要だったからだ。

 その人物としてクロージャを選定したことについて、Wは恐らく間違いではないだろうと思った。

 ……なぜなら、彼女にもまた、既視感を感じたから。

 

「……なんの用?正直、あたしは今忙しいから──」

 

 そんなWの内心とは裏腹に、クロージャは訝しげな視線を崩さないまま会話を打ち切ろうとする。

 はっきり言って、取り付く島もないといったような態度。それに対して、彼女は自然と頭に浮かんできた誘い文句を口にした。

 

「……儲け話に興味って」

「話を聞かせて貰ってもいい?!」

 

 ……どうやら、効果は覿面のようだ。

 

 

 

 

 

 そこからはもうとんとん拍子で話が進み、クロージャから必要な品物を受け取った日の夜。Wは、一人ロドス・アイランドの甲板を歩いていた。

 肌にあたる夜風が、少し冷たい。周囲はほとんど真っ暗で、僅かばかりに船の各所に取り付けられた灯火が光を放つのみだ。

 乏しいそれらの灯りと月明かりとを頼りに、Wは暗闇の中を進んでいく。やがて、座るのにちょうどいい場所を見つけた彼女は、担いできた荷物を下ろすとそこに腰かけた。

 ほうっと息を吐いて空を見上げれば、漆黒のキャンパスには双月と無数の星が瞬いている。別に空にも星にも興味はないけれども、Wは時折こうして空を眺めることがあった。

 

「…………」

 

 しばらくして、彼女は視線を手元に戻すと、持ってきたものをその場に広げ始める。背の低い金属製の台座に何本かの薪と小枝に着火剤、小さな鍋、それから鍋を吊るすための三脚と金具類、証拠隠滅のための道具等。

 一通り物を取り出してから、Wはまず台座を組み立てるとその上に薪を組み始めた。真ん中に幾つかの着火剤を放り込んでから、中心軸に向かって立てかけるように薪を並べていく。

 そうして木組みを終えたあと、その直上に枝でできた三脚を広げてチェーンとフックを取り付ければ準備は完了だ。

 

 マッチを取り出して擦ると、暗闇の中にぽうっと小さな火が点る。ゆらゆらと儚く揺れるそれを、Wはそっと木組みの真ん中へと差し込んだ。

 火は音もなく静かに着火剤へと移り、燃え広がっていく。そうして、いつしか小さい火から炎へと変わったそこに、彼女は小枝を継ぎ足していった。

 炎は上へ上へと立ち上っていき、細い木の棒を駆け上がっていく。枝を足して炎が弱まれば都度息を吹き込み、徐々に徐々に炎を大きくしていく。

 やがて、手元から小枝が無くなった頃には、炎は薪へとたどり着いて煌々と光り輝いていた。

 

 塗りつぶすような暗闇を、焚き火の暖かい光が押しのけていく。ぱちぱちと火の粉の爆ぜる音が静まり返った夜に溶けていき、心を落ち着かせてくれるようだった。

 Wは座り直すと、ぼんやりと焚き火を見つめる。琥珀色の瞳の中で、炎が静かに揺らめく。

 焚火の発する熱はとても暖かい。はじめに感じていた夜風の冷たさは、もう気にならないほどだ。けれども──

 

「…………寒い」

 

 ──その暖かさを以てしてもなお、隣に誰もいないという寒さを和らげることはできなかった。

 独りで準備をして、独りで火を起こして、そうして今も独りきり。Wは、孤独だった。

 別に、文字通り周りに誰もいないというわけではない。傭兵たち同士でそれなりに仲間付き合いというものはできるし、ヘドリーやイネスはそれなり以上の付き合いだ。

 それでも、そんな彼らとでも、Wの中にあるこの記憶は、決して分かち合えない。起こってすらいない、最早記憶と呼べるのかすらわからないものを、共有できるわけがない。

 だから、彼女は独りだった。独りきりで、それと向き合い続けていた。

 それが苦しみを伴うことは痛いほどに知っている。自分自身でも、これが自傷行為のような行いなのだとはわかっている。

 それでもこの記憶に縋っているのは……どうしても、忘れたくないからだ。

 自分しか覚えていない、朧げな記憶。それは、自分が忘れてしまえば、二度と返って来ないものだから。

 

 Wは、懐から銀紙で包んだじゃがいもをいくつか取り出す。一度蒸かされたそれは、体温のおかげもあってか未だに温かいままだ。

 近頃はどういう訳か食料がほとんどこの蒸かし芋しか無く、彼女の飽きはいよいよ限界に達していた。

 じゃがいもなど、これまで幾度となく食べてきたはずだ。これまで生きてきて、この蒸かして、或いは焼いて、塩をかけただけの食べ物に不満を抱くことなんてなかった。なぜなら、ずっと当たり前のように食べてきたものなのだから。

 彼女がそれに物足りなさを感じるようになったのは、いつからだっただろうか。

 以来、自分の食事当番の時は色々なものを試してみたり、記憶の底から浚ってきたメニューを作ってみたりもした。簡単なものだけではあるけれど、少しだけ、腹と一緒に心も満たせる気がして、Wはそれを続けていた。

 

 今回彼女が作ろうとしているものもまた、そういった料理の一つだ。

 まず、銀紙を剥いでじゃがいもを取り出すと、それらを半分に切っていく。皮に関しては付けたままだ。

 そうして半球状のじゃがいもを量産したら、今度はそれを皮目を上にして広げた銀紙の上に並べていく。

 と、ここで彼女は荷物からコップを取り出した。思い出しながらで作っているので色々とあやふやなところがあるのだが、多分これで合っているはずだ。コップの底を使って、並べたじゃがいもを上から潰していく。

 半球から程よい厚みの円盤になったじゃがいもをひっくり返していき、表面に片栗粉をまぶせば下ごしらえは完了といったところだろうか。

 Wは鍋に下ごしらえを済ませたじゃがいもを並べていくと、そこに浸るくらいの油を注いでいく。棒を使ってその鍋を三脚に吊るしたフックに引っかけると、チェーンを巻き上げて焚火との距離を調整し、火加減を中火にした。

 そのまましばらく待っていると、油が沸々と煮えてきて、細かい泡が底から立ち上ってくる。触りたくなる気持ちをどうにか抑えてじいっと待っているうちに、徐々にじゃがいもに色がついてきた。

 そうして、いい感じにこんがりとしてきたら中身を油から取り出し、適量の塩を振ればフライドポテトの完成だ。

 

 Wは出来上がったポテトを一つ摘まみ上げる。指先から揚げたての熱さとクリスプな感触が伝わってきて、湧き上がってくる欲望に逆らわず、彼女はポテトに齧りついた。

 瞬間、辺りに鳴り響いていると錯覚するほどのサクッという音が口の中から聞こえてくる。いや、これはもうサクッというよりはザクッというべきだろうか。

 官能的とも言えるようなザクザクとした食感と共に、ガツンと効いた塩味が口の中に広がる。揚げたことによる油の風味も相まって、これまでの蒸かし芋とは段違いのジャンクさだ。だが、この明らかに健康に悪そうな味が最高に美味しい。

 そんな表面とコントラストを成すのが、中身のじゃがいもの部分だ。ザクザクとしたクリスプな外身とは対照的に、一度蒸かされていることによるホクホクとほぐれる食感の中身はねっとりと濃厚な余韻を齎してくれる。

 少し油が多すぎるだとか、塩が掛かっている場所が偏っているだとか、完璧ではない所はあるにせよ良い出来だ。きっと、記憶の中にあるものと同じようなものが出来たに違いない。

 

 Wはポテトをもう一つ頬張る。やっぱり美味しい。蒸かし芋に飽ききった舌を喜ばせてくれる美味しさだ。

 更にひとつ口に放り込む。小気味良い音と共に咀嚼すれば、これまた美味しい。

 ……美味しい。このフライドポテトは、確かに味は美味しいのだ。

 でも、Wにはそれを心から美味しいと思うことが出来なかった。どんなに美味しいものを作っても、食べても、独りきりではそれを分かち合えない。味の感想を言い合ったり、美味しいことを確認し合ったりすることが出来ない。

 自分のために料理を作って、自分一人で食べる。これまで散々やってきたことなのに、それがとてつもなく空虚なものに思えてしまった。

 ……本当に、何をやっているのだろう。Wは、手にしたポテトを見つめながら自嘲する。

 勝手に一人で料理をし始めて、勝手に一人で傷ついて、バカみたいだ。

 どれだけ記憶を辿ろうとも、この心が満たされることは無い。無いものを探し回ったところで、何も見つかるはずは無い。そんなことはわかっている。

 記憶に縋っている限り自分が前に進めないことなんて、十分すぎる程にわかっている。

 でも、それじゃあどうすれば良いというのだろう?

 あちこち欠けた心は、満たされようと記憶に引き寄せられて、その度に欠けを自覚して傷ついて。けれども、そもそもの心自体がボロボロで。

 縋らずとも生きていけるはずなのに、縋らないと生きていけなくて。

 こんなどうしようもなく足りない世界を、自分はどうやって生き永らえていけばいいのだろうか。

 徐々にぼやけていく視界の中で、Wは問いかける。投げかけられたそれに、もちろん答えなど返ってくるはずもない。投げつけたボールが点々と転がるがごとく、虚しく残響だけが広がっていって──

 

「──っ!」

 

 と、Wは背後に気配を感じて、ポテトを手放し振り返った。こんなに近づかれるまで全く気づかなかった自分の迂闊さを嘆くと共に、まるで暗闇の中から急に現れたかのような技量に戦慄を覚える。

 果たして、後ろに向けた視線の先にいたのは、一人のサルカズだった。濃紺のコートに身を包み、帽子をかぶったその男からは、実力者特有のどこか威圧感のあるような雰囲気を感じる。バベルの戦闘要員だろうか、であれば何をしに来たのだろうか。

 

「すまん、驚かせたか?」

「……誰かしら?」

 

 Wがそうしてあれこれと考えている中、男は至って気楽な調子で口を開いた。彼女の剣呑な視線を感じ取ってか、小さく両手を挙げるような仕草すら見せる。

 そんな様子に毒気を抜かれながら、Wは彼に何者かを問いただした。

 

「Scout。ここで小隊を一つ任されてる。……あんたは?」

「……W。最近ここに来た傭兵よ。で、そんな奴が何しに来たわけ?」

 

 単なる一要員にあらず、目の前の人物はバベルで小隊長を務めているらしい。自らの推察が悪い意味で当たっていたことを知って、彼女は警戒を強めた。

 何かをやらかしたという認識はないが、万が一ということもある。用心するに越したことはないことは無い。

 だが、彼女の警戒をよそに、彼──Scoutは欠片ほどの敵意を見せることも無く、Wの質問に答えた。

 

「いや、少し夜風に当たろうと思ったらこれを見つけてな。……しかし、ここで焚き火なんて良くやるな。ケルシーさんに見つかったら大目玉だぞ」

「ケルシーって、あの気に食わない医者のことだったかしら?あれの回し者ならさっさと帰りなさいよ」

「……あんた、もしかしなくても結構な命知らずか?」

 

 表情は見えずとも、Scoutから呆れ半分、畏怖半分といった様子が伝わってくる。どうやら、彼は別にあの女の手先という訳では無いらしい。むしろちょっと避けられていそうで、いい気味だと彼女は思った。

 

「ただ思ってることを言うのがそんなに悪いことなの?」

「マジでどうなっても知らないぞ…………まあ、それは置いといてだ」

「?」

 

 そんな前置きの言葉と共に突然Scoutの様子が変わって、Wの頭に疑問符が浮かぶ。さっきまでの深刻そうな感じとは打って変わって、どこかうきうきとして落ち着かない様子だ。

 正直なところ、Wにはもう彼に対する警戒などといったものは殆ど無かった。これまでの感じから判断するに、ただバベルに所属する人物が、たまたま甲板を訪れただけの事だと思っている。

 だが、それにしてもこの変貌は一体なんだろうか。彼女が訝しんでいると、Scoutはそわそわとしながらある一点を指さして口を開いた。

 

「それ、貰ってもいいか?」

 

 Wは、指し示された先を目で辿る。そこにあったのは、つい先程揚げたフライドポテトの山だった。

 

「このポテトのこと?」

「そう、その旨そうなそれだ。最近は蒸かし芋ばっかりで流石に……わかるだろ?」

「……ふーん」

 

 彼の言葉に、Wはそう呟くとフライドポテトを一つ手に取る。まだほの温かいそれを持ったまま彼の方に向き直ると、あからさまに表情が輝き始めたのがわかった。

 それを見て、彼女はポテトを──自分の口に運んだ。

 

「あーー!」

 

 期待に満ちた顔をしていたScoutが、痛切な悲鳴をあげる。その様子を尻目に味わうポテトは、さっきまでよりは幾分か美味しく感じるような気がした。

 ザクザクと音を立てながらじっくりとその美味しさを味わうと、Wは未だに固まったままの彼に声をかける。

 

「どうしたの?そんな顔して」

「…………あんたなぁ……」

 

 少しとぼけて見せれば、Scoutからは恨みがましい視線が向けられる。やり過ぎると終ぞ感じなかった敵意がここに来て向けられるような気がして、彼女はさっさと弄るのは止めにすることにした。

 

「……冗談よ。ま、あのじゃがいもに飽きたっていうのはわかるし、ちょっとくらいは分けてやるわ」

「……!」

 

 そう言ってポテトを一つ差し出すと、彼はまるで何か割れものでも取り扱うかのようにそっとそれを受け取る。そうしてマスクをずらし、フライドポテトを静かに口元へと運ぶと、少し見つめてから待ちきれないというようにかぶりついた。

 ザクリ、という軽い音を立ててポテトが口の中に消えていく。小さな咀嚼音だけが、辺りに静かに響き渡る。Scoutは未だ一言も言葉を発さない。そのせいか、見ているだけだというのに、Wは何だか妙な緊張を感じてしまう。

 やがて、ごくりと喉を上下させてポテトを食べ終えた彼は、真顔を保ったまま彼女の方を向き、口を開いた。

 

「これめちゃくちゃ旨くないか?」

 

 言葉と共に、Scoutからいたずらっぽい笑みが溢れる。意趣返しを食らったとわかってやられたと思った反面、なぜだかこちらも笑みがこぼれてきた。

 

「当たり前でしょ?あたしがわざわざ作ったんだから」

「いや、本当に旨いぞこれ。……ちなみに、もうちょっと貰えたり……」

「……しょうがないわね」

 

 Wは渋々といった表情を作ると、Scoutのことを手招きする。そうして、二人は焚き火の周りに腰かけた。

 座るや否や、盛られたフライドポテトと自身との間で視線を行き来させる彼の姿に、彼女はため息と共に手を差し出して食べていいと合図をする。待ってましたとばかりに早速ポテトを頬張るScoutを横目に、彼女もまたそれを口に運んだ。

 ……同じだ。先ほどまでと、全く同じ。味も、食感も、舌触りも、何もかもが変わらない。同じものを食べている以上、当たり前のこと。

 横では、Scoutが笑いが止まらないと言った様子で旨い旨いと言いながら次々と皿に手を伸ばしている。Wもまた、それにつられるようにしてもう一つを摘まみ上げて齧りつく。

 

 同じだ。同じはずなのだ。

 けれども、何故だろうか。全く同じものを食べている筈なのに、不思議と先程までよりも美味しく感じられる。自然と、口元に笑みが浮かんでくる。

 今、目の前に存在しているこの景色。それは、欠けていたものそのものではないかもしれないけれど、確かに心を満たしてくれる気がした。

 

 

 

 

 

 

「おいおい、これ売り出す気なのか?しかもクロージャと?」

「結構いいアイデアだと思うけど?あんたを見てる限り、売れるのは間違いなさそうね」

 

 相も変わらず煌々と焚き火が燃え盛る中。それを眺めるようにして、WとScoutはそんなとりとめのない会話を交わしていた。

 ここまで話していた話題は、彼女がここにやって来た経緯、この船について、乗っている人物たちについてなどといったところだ。当たり障りのない範囲のものではあったろうが、話は大いに弾んでいた。その証拠に、山盛りに盛られていたフライドポテトも、いつの間にかあと数枚を残すのみとなっている。

 程よい満腹感と炎の暖かさが時間の流れを押しとどめ、心地よく緩やかな空間がそこにはあった。

 

「はあ……くれぐれも、ケルシーさんには見つからないようにやってくれよ?」

「何よ、他人事みたいに。言っとくけど、あんたも食べた時点で共犯よ」

「勘弁してくれ………………っ!?」

「……だいたい、何であのクソ医者がそんな取り締まりなんてしてくるのよ。医者なら医者らしく、大人しく薬臭い部屋に籠って……ってちょっと、あんたどこに…………」

 

 そんな気持ちよく、ほのかに微睡みながら話していたWの横から、Scoutが並大抵ではない様子で飛び出す。一体そんなに急いでどこへ行こうというのだろうか。脱兎の如き後ろ姿を眺めながら、眠気で鈍る頭で彼女がそんなことを考えた、その次の瞬間だった。

 

「……何をしている」

「っ!?」

 

 背中から感じた猛烈な冷気に、一瞬で眠気が吹き飛ぶ。不機嫌という言葉をそのまま体現したかのような声色を耳にして、Wは弾かれるようにScoutを追って駆けだした。

 噂をすればという奴なのだろうか。いつの間にか背後に忍び寄っていたのは、今さっき話題にした人物だ。彼女は、言い出した張本人にも関わらず、真っ先に逃げ出したScoutに向かって怒鳴りつける。

 

「あんた逃げる前に一言くらいかけなさいよ!」

「ケルシーさん!違います!俺は何も関係ないです!」

 

 何やら誤魔化しの言葉を叫びながら逃げる背中を、Wは必死に追いかけた。

 どうせ捕まるなら、あれも道連れにしてやろうと。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 何やら騒ぎながら、徐々に遠ざかっていく二つの背中。それを見つめながら、ケルシーは小さくため息を吐いた。視線を手前に戻せば、そこには何をどうしてそうしようと思ったのか、猛烈に炎を噴き上げる焚き火の姿がある。船の甲板で火を焚こうとは、一体どのような思考回路から考えだされたのだろうか。

 漏れ聞こえてきた話ではクロージャも関係しているようで、面倒ごとの予感と共に、彼女はどうしてWとクロージャが接点を持つに至ったのかに疑問を覚えた。

 そもそも、疑問と言えば──

 

「ケルシーったら、あんな風に追い払わなくても良かったのに」

「──テレジア」

 

 そんなケルシーの思考は、背後から聞こえてきた声によって中断された。振り返れば、微笑を湛えたテレジアがこちらに向かって歩いてくる。先ほどのやり取りも見ていたあたり、どうやらほとんど同じタイミングでこの甲板にやって来たようだった。

 彼女たちが二人してこの場所にいるのは、何も偶然というわけではない。テレジアがケルシーをこの場所に呼び出した為だ。正確には、以前テレジアから頼まれた調査についての結果を知らせようとしたところ、甲板に来るように言われたという経緯になる。

 ケルシーとしては、議長室でいいのではと思っていたのだが、個人的な頼みだからだろうかと自分を納得させていた。……尤も、まさかそれが理由であんな場面に出くわすことになるとは思ってもいなかったが。

 

「あら?あれは……」

 

 と、何やら声を上げながら、こちらに向かって来ていたはずのテレジアが横を通り過ぎて焚き火の元へと歩み寄っていく。彼女のその動きに合わせるようにして視線を動かしていくと、やがてテレジアは炎のたもとで何かを拾い上げる。

 見れば、彼女の手にしているのはフライドポテトだった。先ほどはそこまで気付かなかったが、改めて確認すれば、焚き火の周りには油の入った鍋や塩と思しき白い粒の入った容器などが散らばっている。どうやら、あの二人はここでポテトを調理をしていたらしかった。

 Wは置いておくとしても、一体Scoutまで何をやっているのだろうか。顔をしかめるケルシーだったが、その目の前で更に頭の痛くなる出来事が起こった。何を思ったのか、テレジアが拾い上げたポテトを口にしたのだ。

 

「…………」

「ケルシー!これ、すごく美味しいわ!ちょうど二つ残っていたから、もう一つはあなたに──」

「テレジア。…………君は、もう少し用心というものをしてくれ」

 

 こういう言い方をしてはなんだが、どんな場合であっても拾い食いとは決して褒められる行いではない。百歩譲ってScoutとWが食べていたものだとしても、残っていたものが大丈夫なものなのかどうかは何の保証もないのだ。ましてやWなどはここにやってきて日も浅く、危険な人物でもある。

 そんな思いが表れたのか、テレジアの言葉をぴしゃり断ち切って言い放つケルシーの顔に、ポテトを差し出しかけていたテレジアは、ばつの悪そうな表情をして手の中のそれをそっと皿に戻す。

 

「ごめんなさい。あの二人があまりにも美味しそうに食べていたものだから、つい……」

「…………はあ」

 

 一つ大きく息を吐くと、ケルシーはテレジアの傍へと歩み寄った。そうして、皿に乗ったフライドポテトを近くにあった銀紙で包むと、ポケットの中へとしまい込む。

 

「…………!」

「……食料を無駄にするのは本意ではない。それに、危険なものでないか確かめる必要もある」

 

 そういつも通りの調子で告げるケルシーを見るテレジアの表情は、先ほどの萎びたものとは違って華やいだものだった。それを目にして、ケルシーの口元にもまた、ほんのわずかに笑みが浮かぶ。

 

「ええ、そうね。それで、もし何もなかったらあなたも食べてみて。きっと気に入ると思うわ」

「……ああ」

 

 やはり、先程よりも今の表情の方がいい。返事をしながら、彼女はそう思った。

 

 

 

「……それで、ケルシー。お願いしたことの結果を教えてもらえるかしら」

 

 そんなやり取りもほどほどに、テレジアがその言葉を口にした瞬間、空気が一気に変わる。ここからは真面目な話だということなのだろう。柔らかく和やかな雰囲気がどこか厳かなものになったのを感じて、ケルシーは心持ちを切り替える。

 彼女からお願いされていたことというのは、あの傭兵Wについてのことだ。かの人物がここバベルにやってくるまでどういった足跡を残してきたのか、特にこれまでバベルの人員との接触はあったのかとこの船と関わったことがあるかの二点についてを調べてほしいというのがその内容だった。

 

「……結論から言おう。あくまで調べられた範囲ではあるが、傭兵W、或いはその前の名前を持たないサルカズにまで遡っても、彼女が我々と関わりを持ったことはなかった。勿論、この船ともだ」

「…………やっぱり、そうなのね」

 

 ケルシーの言葉を聞いて、テレジアは詳細を問うこともなく、背を向けて甲板の端へと歩んでいく。彼女は手すりのすぐそばまで近寄って立ち止まると、遠く暗闇の向こうを見つめているようだった。

 その後を追って自らも歩を進めながら、ケルシーは今回のことについて考える。

 Wについて調べるということ自体は、彼女を含む傭兵の面々とコンタクトをとった時点で行われていたことだった。契約をしようとする以上、ある程度の裏を取ることは必要だからだ。

 だが、今度のテレジアの”お願い”はそれとは毛色が違うものだとケルシーは感じていた。経歴、人となり、能力、そういったものではなく、バベルやその関係者との関わりというその点に重点が置かれているように思えたからだ。

 そもそも、彼女にはなぜテレジアがかの傭兵にこのような特段の興味を抱いているのかがわからなかった。Wは傭兵としてはそれなり以上の実力を持ってはいるが、言ってしまえばそれだけだ。とびぬけた実力があるわけでもないし、王庭に連なるような特別なバックボーンがあるわけでもない。

 アーミヤやバベルの面々のように面識を持ってから関係を深めていくということはあり得るが、ほとんど初対面の状態からこのような関心の持ちようは、いくらテレジアであるとは言え不自然だ。

 

 ……ただ一つ、何か心当たりがあるとすれば、それはWと初めて対面した時のテレジアの言葉。恐らく魔王の力で彼女のことを読み取った際に発した、あの一言。

 何を見たのかと問うたケルシーに対して返ってきた”逆よ”という答え、それくらいのものだ。

 

「……テレジア。なぜ君はあの傭兵にそこまで入れ込んでいる?」

 

 故に、テレジアのすぐ隣にまでやって来たケルシーは、その翡翠のような瞳を彼女へと向けて問う。

 その視線を受けながら、しかしテレジアは変わらず遠くを見つめたままで口を開いた。

 

「……ねえ、ケルシー。昔教えてくれたわね。この大地は水平線の向こうにまで広がっていて、けれどもそれは球体の表面をわずかに覆う土でしかないって」

「…………」

「この夜空の向こうには、私たちの足元にあるのと同じような大地が無数にあって、筏のように空の軌道を旅しているって」

 

 テレジアは、ケルシーの質問に答えぬままに言葉を紡いでいく。

 

「私にとっては見果てないこの大地がちっぽけなものだなんて、世界ってとっても広いのだと思ったことを覚えているわ」

「…………」

「……それで、最近思ったことがあるの」

 

 彼女はそこで一度言葉を切ると、向こうにやっていた視線を傍らのケルシーの方へと向けた。

 こちらを見つめるテレジアの表情は穏やかなものだ。しかし、その目は真剣そのもので、この会話がただ昔を懐かしんでのものではないと語っている。

 だからこそ、続く彼女の言葉は、ケルシーの内に困惑を生じさせた。

 

「そんな果てしなく広い世界には、こことは違う別のテラも存在しているんじゃないかって。……どうなのかしら、ケルシー?」

「…………それを探し出せるかはさておき、宇宙のどこかに我々のこのテラと極めて酷似した環境の惑星が存在する可能性は否定できない。平行世界、こことは別の世界の存在をまで考えれば、君の言うような文字通りの別のテラも存在し得るだろう」

「……その別の世界のテラには、私達もいるのかしら」

「……別の世界と言っても色々なものがある。我々の観測可能な宇宙の外側の領域は別の世界と言えるだろうし、宇宙誕生の刹那に無数の平行世界が形成されたという仮説もある。または、あらゆる可能性に応じた別の世界が存在すると考えることもできるだろう。最後の類型の場合ならば、そこには我々が存在する別にテラがあると言えるかもしれない」

「……それじゃあ、いつかその違う世界に行ってみることもできる?」

「…………可能性は否定しない。だが、それは雲を掴むような話だ。そもそもの観測すらままならない平行世界に行くというのは、我々が現在直面している、源石という問題の解決よりもはるかに困難と言わざるを得ない。……源石の時点で、我々にとっては途轍もない困難を伴う問題であるのにも関わらずだ」

 

 質問そのものには答えながらも、ケルシーはテレジアのこの質問の意図を測りかねていた。

 別の世界などというのは言葉でもはっきりと述べた通り、あるかもしれないものではあるが現状ではどうしようもないものだ。それよりも眼前に迫っている源石の問題に対処する方が、はるかに優先順位が高い。人々が源石に苦しめられていない世界というのも存在するのかもしれないが、そのようなものを求めるのははっきり言ってただの現実逃避だ。

 しかしながら、テレジアの様子からは、現状の困難さを嘆くあまり逃避を始めたという風も見られない。それどころか、希望と、それから決意に満ちた表情をしていた。

 

「…………なら、()()はきっと奇跡ね」

「……テレジア。済まないが、先程から君の言っていることがわからない。「これ」とは何だ?Wの件は何か関係があるのか?」

「……上手く説明できるかわからないのだけれど……でも、一つだけ言えることはあるわ」

 

 質問を重ねるケルシーに対して、テレジアは告げる。自身の中に芽生えた、否、より強く根を張ったその想いを。

 

「希望を失わなければ、きっとどんなことでも起こり得る」

 

 こことは違う、遠く離れた世界の記憶が蘇ることだって起こり得たのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「W」

「ヘドリー?報告はどうしたのよ」

 

 バベルの下にやってきてから初めての任務。それを無事にこなし、ロドス・アイランドへと戻ってきたWの元にやって来たのは、何やら複雑な表情をしたヘドリーだった。

 傭兵部隊の代表として、今度の任務の報告をしに行っていたはずなのだが、どうにも浮かない顔だ。任務自体は完璧にこなせたはずなのだが、一体何があったのだろうか。

 そう疑問符を浮かべるWに向かって、ヘドリーは口を開く。

 

「……殿下がお前のことを呼んでいる」

「……は?」

 

 

 

「急に呼び出してしまってごめんなさい。でも、少しあなたと話したいことがあったの」

「殿下が……あたしと?」

「ええ」

 

 ヘドリーに言われるがままメインブリッジにまでやって来たWは、戸惑いを覚えていた。二人のいる一角は人払いがされているのか、人の気も少ない。どうやら、話をしたいというのは本当のことのようだ。

 しかし、テレジアが自分のことを呼んでいるという時点で何の心当たりもなかったのに、それに加えて話したいことがあるから呼んだと言われれば、輪をかけて訳がわからなくなる。

 テレジアとは一度この船を探索している時に邂逅したのみで、それからは言葉を交わしたこともない。自身がテレジアと気軽に接するような立ち位置に居ないことくらいは理解しているつもりだ。

 だからあらゆる意味で、Wはここに呼ばれたわけが全くわからなかった。

 そんな彼女の心の内を知ってか知らずか、テレジアはにこやかな笑顔を浮かべながら語り掛ける。

 

「本当は議長室で話そうとも思ったのだけれど、ケルシーに怒られてしまいそうだし……それに、この場所には覚えがあるでしょう?」

「……?」

「昔……というのも変な話だけれど、とにかく昔ここで話をしたことがあったわね。確か…………そう、名前についての話だったかしら」

 

 名前についての話。それはあの時廊下でしたもののはずだ。このメインブリッジで彼女と話をしたことなど──

 ──いや、ある。

 Wは、自らの朧げな記憶を辿ってそれを見つけた。……そうだ。確かにこの場所で、テレジアと話をした覚えがある。今よりも親し気に、この船の名前についてや自分たちの名前について話をしたことが。

 だが、それは存在しない出来事のはずだ。この記憶だって、Wにしかない、決して誰かとは分かち合えないはずの──

 

「──まさか」

 

 …………でも、ありえない。そんな、都合のいいことがあるわけない。だってこれは、自分の中にしかないもののはずだ。不確か極まりなくて、他人から見ればただの妄想にしか思えないようなものだ。

 テレジアとこの場所で話をした記憶だって、つい最近この船にやって来てから今までにこのメインブリッジに足を踏み入れたことがない以上、現実にはどうやっても起こり得ない。

 だから、それを覚えているだなんて、そんなわけが……

 

「……やっぱり、あなたも覚えているのね。そうじゃないかとは思っていたのよ」

 

 だが、そんなWの否定を打ち砕くかのようにテレジアは言葉を続ける。

 あなた()覚えているのね。彼女が確かに口にしたその言葉の意味するところがわからないほど、Wの頭の回転は遅くはない。ただ、信じがたいのだ。覚えているというよりは、まだアーツか何かでこちらの頭の中を覗き見たと言われた方が納得できる。

 ……だが、テレジアはWがそのことを思い出すよりも先に出来事を口にして見せた。逆に彼女がこの記憶をWに植え付けたのだとしても、それをする理由がどこにも見当たらない。

 そんなこと起こるわけがないと、頭の中で必死に否定しようと考えれば考えるほど、とある想いが胸に広がっていく。

 もしかしたらという、淡い希望が。

 

「……本当に……殿下も……?」

「……ええ。どうしてかはわからないのだけど……あなたに出会ってから思い出したの」

 

 テレジアが、Wの震える声での問いかけに頷く。

 その答えに、彼女は少し目を伏せると口を結んだ。

 様々な想いが心の中で渦巻く。ずっと感じていたもの、無理やり押し殺していたもの、奥底に眠っていたもの、そう言ったものすべてが。

 そうして、しばらくの沈黙の後、Wは顔を上げてテレジアの瞳を見つめる。

 

「…………ずっと……わからなかった」

 

 彼女の口から零れ出た言葉には、苦悩が刻まれていた。

 

「……これが、本当のものなのかどうか。……あたししか覚えてなくて、他の誰にも確かめられなくて……」

「…………!」

 

 あるかどうかも不確かな記憶と、たった一人で向き合い続けていた。その孤独が、寂しさが伝わってきて、思わずテレジアはWのことを抱きしめる。

 

「……大丈夫よ。この思い出は、確かに存在しているものだわ。他の誰も覚えていなくても、私たちの中には」

「あ……」

 

 強張っていた心が、身体が、ほぐされていく。さながら、母親を見つけた迷子の子供のように。

 触れた場所から伝わってくる、人肌の温かさ。それは、まるでWにこう言っているようだった。もう、一人ではないと。

 寄り添って、支えてくれる人は、確かにここにいるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 Wは変わった。

 そう認識されたのは、いったい何時からだっただろうか。ただ確かなのは、そのように形容されるほど、ある時を境にして彼女に変化が起こったということだ。

 長く共にいたヘドリーやイネスは勿論のこと、ロドス・アイランドにやって来たばかりの頃の彼女と出会ったことのあるような人物、例えばアーミヤやクロージャでさえ、その変容は感じ取ることができた。

 以前までの彼女は、不思議と陰のある人物だった。頭のネジが何本か吹き飛んでいる傭兵という評判通りの人を食ったような態度を見せる一方で、どこか寂しそうで、悲愴で、苦しみを抱えているように見える、そんな人物だった。

 だが、今のWは違う。彼女を取り巻いていた陰は、いつの間にか消え去っていた。……いや、消え去ったというのは違うのだろう。今でも時折、彼女は船の中でどこか遠くを見やる彼女の姿はあった。だが、それは以前のような悲痛なものではない。その証拠に、そんなときの彼女の口元は、緩く弧を描いていた。

 

 それは一言で言ってしまえば、こういうことになるのだろう。すなわち、Wはようやく前を向いて歩いていくことができていた。時折過去を振り返ることはあれど、それは決して縋るためではない。自分の中の、大切なものを思い出すためだ。

 彼女がここに至る助けとなったのがテレジアであることは疑いようがない。テレジアもまたあの記憶を持っていると知り、Wをずっと苛んでいた孤独感が晴れてから、二人は幾度となく言葉を交わしてきた。

 お互いの覚えていることに食い違いがないか照らし合わせたり、テレジアがこの記憶の正体について、別の世界の記憶なのではないかと仮説を披露したり、二人きりで話し合った内容は様々だ。

 Wがどうしても思い出すことのできない、あの誰かについて話したこともあった。結局、テレジアもまた思い出すことはできなかったが、それでもそんな人物がいたということは彼女も覚えていた。

 

「……きっといつか、思い出す日が来るはずよ。それこそ、その人に出会うことだってあるかもしれないわね」

「希望を持って進めば、きっとその先のものに手が届くって、私は信じているわ。……だって、私とあなたも出会うことができたでしょう?」

 

 そんな中、彼女が微笑みながら言った言葉は、今でもWの心に深く刻まれている。

 希望を持って進む。そんな、前の自分にはできそうになかったことも、テレジアがいれば出来る様な気がしたから。

 

 テレジアはまた言っていた。いつか、人々が安らかに暮らすことのできる故郷を切り拓きたいと。この記憶の中にあるように、沢山の楽し気な声と、溢れんばかりに咲き誇る笑顔に彩られた場所を築き上げたいと。

 これまで、Wにはこれといった夢や未来像といったものはなかった。そんなもの、カズデルで生きていくためには全く不要なもので、そんな不確かな先のことを考えるよりも、今日や明日を考えることの方が遥かに大事だ。理想で腹は膨れない。どこまでもシビアな現実が、カズデルのサルカズにとっての全てだった。

 けれどもWは、そんなテレジアの描く理想に魅せられた。彼女にとって一等大切な、あの思い出のような景色を作り上げる。その未来は、賭けるに値するものだと思った。

 

 だから、ヘドリーとイネスがロドス・アイランドを離れた時、Wが残ったのは当然のことだっただろう。

 傭兵の頃から変わらぬ性格と、Scoutらバベルの面々の間で研ぎ澄まされていく能力、そうして皆と同じく胸に抱く理想。それらが合わさったWは、バベルの一員としてますます精力的に働いた。

 陰に陽に、様々な任務を遂行しつつ、時にはクロージャと組んで騒ぎを起こしたり、Scoutと仲良く正座してケルシーからの説教を受けたりもした。敵のスパイから奪ったカメラでテレジアたちと取った写真は、彼女にとっての宝物だ。

 テレシス率いる軍事委員会との内戦は激しさを増していたが、バベルはドクターの指揮の下で戦いをどうにか切り抜けている。何度か窮地に陥った時もそれらを乗り越えることができたのは、間違いなく彼の功績と言えるだろう。

 最近は妙な作戦も増えてきたように感じるが、あの不気味な男はその能力に関しては信用できる。少なくとも、Wはそのように考えていた。

 だから、今度の大規模作戦も、きっとうまくいくはずだ。テレシスたち主力がカズデルを離れる、この絶好の機会を逃す手はない。

 今回の作戦でバベルの旗を、理想を、カズデルに打ち立てる。

 彼女はそう、決意していた。

 

 

 

「…………ふぅ」

 

 手にしたマグカップから紅茶を一口啜ると、Wは小さく息を吐く。立ち上る湯気をぼんやりと眺めていると、なんだか時間がゆっくりと進むような気がして、眠れない夜を過ごすにはちょうどいいと思った。

 彼女はロドス・アイランドの食堂の一角、壁際に並んだカウンター席の一つに腰かけていた。様々な思い出の残っているそこは、彼女のお気に入りの場所でもある。時間は既に0時を回ってから久しく、周囲に人は誰一人として居ない。いつもは賑やかな食堂も、今ばかりは静かだ。

 ……カズデル奪還のための作戦が、間近に迫っている。これまでバベルでは類を見ない規模で実施されるこの作戦はその準備を終え、後は実行を残すのみの段階にまで入っていた。

 もしこれが無事に成功し、カズデル奪還を果たしたのならば、この戦いは一気に終結へと向かうことだろう。そうして、それこそがバベルの理想の第一歩となるはずだ。

 タイミングとしては最高。人員も選りすぐりの精鋭。計画は精緻にして弾力を兼ね備え、完璧に近いと言っていい。その計画からは十二分に情報が収集されていることが伝わってくるし、防諜に関しては手抜かりなく行ってきた。

 やれることはすべてやっている。成功も大いに見込める。それこそ、これまでには今回などよりも余程勝算の低い戦いを切り抜けて来ているのだ。

 だから、大丈夫なはずだ。何も、問題はないはずだ。カズデルは、無事にバベルの手に取り戻すことができるはずだ。

 

 ……だが、何故だろうか。どう考えても成功は望めるはずなのに、言いようのない不安を感じるのは。

 何か、大きな穴を見落としているような気がするのは。

 

 大規模な作戦だからだろうか?これが極めて重要な作戦だからだろうか?

 だが、それで不安を感じているというのはどうにも自分らしくないと、Wはそう思う。

 ネガティブな可能性をいくら考えたところでどうしようもないことなど十分すぎるほどに知っているし、冷静に考えても今回の作戦にこれといった特段の不安はない。

 だから、これはただの勘だ。……そして、往々にしてこの勘というのは信じられるものだ。

 まさにそれが、彼女の頭を悩ませていることだった。

 

「…………はあ」

 

 もう一度、Wはため息をつく。ここで自分が妙な不安を抱いていたとて、作戦が中止されることはない。それを判断するのはテレジアやドクター、ついでにあのクソババアのすることだ。

 恐らく、作戦は実行される。その時に自分ができることは、与えられた任務をこなすことと、それから嫌な予感が当たらないように願うことくらいだろう。

 Wはそんなことを考えると、再び紅茶を口に含んで視線を宙に漂わせる。

 

 と、その時だった。Wは背後に、何やら人がいる様な気配を覚える。と言ってもそれは刺々しいものなどではなく、寧ろ柔らかな雰囲気のものだ。

 このような時間にこの場所を訪れるとは、一体誰だろうか。同じように眠れずに飲み物でも取りに来たのか、はたまた盗み食いでもしに来たのか。

 などと思いながら、ゆっくりと振り返ったその先に居たのは、白い人影だった。

 

「…………テレジア?」

 

 思わずその名前を呟くと、当の本人はいつもの微笑に、ほんの少しのいたずらっぽさが混ざった表情でこちらにやってくる。

 

「お邪魔しちゃったかしら?」

「いいえ。でも、どうしてこんな時間に?」

「目が覚めて夜風に当たっていたのだけれど、少し冷えてしまって。それで、何か暖かい物でも飲もうと思ってここに来たのよ」

 

 寒そうに腕を擦りながら、そのように告げるテレジア。その言葉を聞いて、Wはカップに残った紅茶を飲み干すと席から立ち上がる。

 

「それなら、あたしが何か作るわ。甘いのでいいかしら?」

「あ、ええ」

 

 突然の行動に目を丸くするテレジアが思わず返事をすると、それを聞いた彼女はそのまま厨房へと足を踏み入れた。

 時折料理を作ることもあるWにとって、この場所は勝手知ったる場所だ。あんまり派手に色々を使うと目玉を喰らいそうだが、少しくらいなら目をつぶってもらえるだろう。そういうわけで遠慮なく、どういったものがあるかを物色する。

 先ほど自分が飲んでいた紅茶はまだポットに残っているが、それをテレジアにそのまま出すというのは論外だ。だが、さっきの茶葉はまだ残っていたので、新しく淹れなおしてジャムか何かを添えるのもいいかもしれない。これも記憶にあった飲み方だが、なかなか美味しいのだ。

 もしくは丸まった方の茶葉もあったので、ミルクティーというのも手だろうか。茶葉を多めに、小鍋を使って牛乳で軽く煮出したミルクティーは、寒い時にはピッタリの飲み物だろう。少し香辛料を加えてもまた美味しいはずだ。

 私用の冷蔵庫の中を漁ってみれば、柑橘類のジャムやシナモン等のスパイス類も入っている。使えそうなものばかりだと思っていたところで、Wはまた悩ましいものを見つけた。

 それはココアパウダーだ。これも小鍋で牛乳と合わせて作れば、美味しいのは間違いないだろう。

 紅茶、ミルクティー、ココア、どれも美味しそうで選びかねる。全部作ってしまえばいいという考えがちらつくが、これはあくまでテレジアのためのものだ。冷えた身体を温める飲み物をあまり待たせてしまってはいけない。だがしかし、どうにも自分では決められそうにもない。

 そういうわけで、早々と白旗を挙げたWは厨房から顔を出してテレジアに問いかける。

 

「ジャム付きの紅茶とミルクティー、それにココアだったらどれがいい?!」

「え?……ええと、そうね…………」

 

 

 

 彼女からの突然の問いかけに、悩みながらも返事をしてから10分ほど経った頃だろうか。

 テーブルに座って待つテレジアの鼻腔を、ふわりと甘い匂いがくすぐる。どこか蠱惑的でもあるその香りに誘われて視線を向ければ、ちょうどWが容器を二つ盆に乗せて厨房から出てきたところだった。

 

「待たせたわね」

 

 笑みを浮かべた彼女は、そう言って目の前に厚ぼったいマグカップを一つ置く。その中に入っているチョコレート色を見て、テレジアもまた微笑みながら言葉を返した。

 

「ありがとう、W。……早速頂いてもいいかしら?」

「ええ。今回のは結構自信作よ」

 

 なるほど、先程の笑みはそういう意味だったのかと納得しつつ、テレジアは取っ手を掴んでマグカップを持ち上げる。

 目を閉じて息を吸い込んでみれば漂ってくる、チョコレートの甘い得も言われぬ香り。だが、その奥には別の甘い匂いも感じられる。一体何が入っているのだろうか、どんな味がするのだろうか。その胸の高鳴り──ワクワクのままに、テレジアはココアを口に含んだ。

 瞬間、舌先に感じる甘さ。そして滑らかさ。ミルクと相まってスムーズな甘さが口の中に広がっていく。そうした甘味と共に現れるのは、チョコレート系特有の香りだ。バニラ、ナッツ、フルーツ、どれとも言い難い、それらが複雑に組み合わさったことによるチョコレートとしか言いようのない独特の、しかし魅力的な風味が口腔を満たす。

 その中にほんの少しアクセントを加えるエキゾチックな香りはシナモンだろうか。ともすれば異物となりかねないそのスパイス感は、ミルクによって包まれて見事に調和していた。

 そうして、それらの香りが遠のいていき、消えていくその間際。最後に突然、カラメルの様な香ばしく甘い風味が押し寄せてくる。チョコレートの余韻を膨らませたそれの正体は、果たして何なのだろうか。テレジアは二口、三口とマグカップの中身に口を付けていく。

 ココアの味わいのピーク、その後ろに現れる焦がした砂糖のような香り。口腔の上側を撫ぜてふわりと消えていくこの揮発感。飲み進めて行くうちにふと感じた、微かな火照り。

 そこまで考えが及んだ瞬間、テレジアはふとその名前を呟く。

 

「……ラム酒?」

「当たりよ。香り付けに少しだけだけど」

 

 正面から聞こえてきた声に、思わず彼女は目を開ける。机の向かい合った側にいつの間にか腰かけていたWは、にこりとした笑みを浮かべていた。

 彼女のその自信が垣間見える様な表情を前にしながら、テレジアは改めてマグカップを傾ける。

 初めにやってくるシナモンの香り、中頃にどっしりと構えるカカオ、そうして最後に薫るラム。全編を通して続く甘さとミルクのまったりした風味に、滑らかな舌触り。飲み込んだ途端にほっと息が漏れるのは、身体がリラックスするのと感嘆との両方だろう。

 Wの言う自信作、その意味が十二分に伝わってくる出来のココアだとテレジアは思った。

 

「……どうかしら?」

「とっても美味しいわ!……毎度のことながら、流石ね」

 

 抱いた称賛の想いをそのまま口にすれば、彼女の顔にぱあっと笑顔が浮かぶ。

 その表情は、テレジアが一番好きなものだ。そうして、前に進み続けてきた理由でもある。

 忘れていたわけではない。その想いは、いつだってテレジアの心の中にあった。

 けれども今、彼女は改めて思う。やっぱり、みんなには笑っていてほしい。

 そのために、これまで歩みを止めずに進み続けて来たのだ。そうして、これからも。

 

 

 

「そういえば、あなたの方はどうしてここに?」

「あたしも同じようなものよ。なんだか眼が冴えて眠れなくて、それでここで……まあ、考え事をしてたって所かしら」

 

 仄かな酒精も手伝ってか身体が温まってきたところで、Wはテレジアと他愛もない会話を交わしていた。

 その中でぽろりと出た、考え事という言葉。この時期にその言葉が意味するところは一つだ。それにテレジアが気付かないはずもない。

 

「……次の作戦のことね」

 

 僅かにその美しい眉を顰めながら、彼女は正面を見据える。その視線の先、煽っていたカップを下ろしたWの表情は──意外なほど晴れやかだった。

 

「ええ。けど、もう大丈夫よ」

「……!」

 

 テレジアの目が丸く見開かれるのを見ながら、Wは思う。

 確かに何か嫌な予感はする。勘が妙だと訴えかけている。それでも、立ち止まる訳には行かない。

 なぜなら、テレジアが前へ進もうとしているのだから。

 

 バベルはこれまで歩んできた道のりの中でたくさんの希望や想いを集めてきた。それを一身に背負ってきたテレジアの細い肩には、いったいどれほどの重荷が圧し掛かっているのだろうか。Wには、それは到底人一人には背負いきれない重さのように思えてならない。

 にも関わらず、テレジアは立っている。それだけでなく、思い描く未来に向かって進んでいこうとしている。みんなが笑っていられる場所、それを目指して。

 

 では、Wにできることはなんだろうか。

 今度の任務を完璧にこなすこと?敵のスパイを見つけ出して情報を聞き出すこと?

 どちらも正しく彼女にできることではある。でも、きっとそういうことではない。

 自分にできること。それは、前へと進むことだ。

 

 ココアを飲むテレジアの表情を見て、Wは思った。少しでもいい。ほんの少しでもいいから、歩みを止めようとしない彼女にも安らいでほしいと。

 テレジアは決して立ち止まらない。数多の願いは、彼女を立ち止まらせない。

 なら、自分もまた進み続けよう。テレジアの隣を、前を、或いは後ろを守ろう。

 そうしていつかたどり着くテレジアの理想の場所、みんなの笑顔がある場所。そこには、心の底から笑う彼女の姿があってほしいから。

 

「次の作戦でカズデルを取り戻す。でも、それが終わりじゃない。寧ろそこからが始まり、でしょ?」

「…………W……ええ、ええ!」

 

 テレジアが、意を得たりとばかりに大きく頷く。

 そうだ。カズデルを取り戻してからがバベルの理想の本当の始まりなのだ。誰もが安らかに眠れるような故郷を作る、その理想の。

 

「なら、あたしたちがカズデルを獲ってくるわ。……きっとうまく行くわよ、あのドクターの計画なんだし」

「……ふふ、そうね。わたしもうまく行くって信じているわ」

 

 少しおどけて見せたWを見て、テレジアは小さく笑い声をあげた。そうして、慈愛に満ちた微笑みを彼女に向ける。

 

「気を付けてね、W。……それと、次の作戦が終わったら連れていきたい場所があるの。良いかしら?」

「連れていきたい場所……?ええ、良いわ。……それならなおのこと、早く終わらせないといけないわね?」

 

 テレジアが自分を連れていきたい場所など検討もつかないが、きっといい場所なのだろう。早くもカズデル奪還を果たした後の予定が一つできたと、Wは冗談めかして返事をした。

 

 

 

 まだまだ道は先まで続いていく。テレジアと共に歩んでいく、バベルの行く道は。

 Wは、そう信じていた。

 信じて、それを疑っていなかった。

 

 あの時までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Scoutから受けた通信の内容は、悪趣味な冗談にしか思えないものだった。

 まったくもって馬鹿馬鹿しい、現実にはあり得ないような内容。

 だって、そんなはずはない。彼女は言っていた。うまく行くと信じていると。この作戦が終わったら、連れていきたい場所があると。

 それが……こんなにあっけなく?

 ……そんなこと、信じられない。信じられるはずがない。

 

 Wはロドス・アイランドに戻ると、一直線に彼女の元へ向かう。血と煤で赤黒に彩られた入口も、ふざけた口を利く角無しも、訳の分からないことを言うアスカロンも、全てに見ぬふりをして一心不乱に。

 そうしてたどり着いた議長室には──

 ──床を埋め尽くすほどに広がる血の海と、入り乱れた足跡があった。

 それだけ。そこにあったのは、それだけ。まるで、他には何も初めからなかったかのように。

 

 テレジアは死んだ。

 

 テレジアは死んだ。

 そのことが、事実となって身体に染み込んでいく。視神経から脳へ、脳から全身へ、そうして心にまで。

 塞がれていたはずの孔が、綻んでいった。穿たれた孔から、何かが零れ落ちていった。

 世界が急速に色褪せていく。思い出に飾られて輝いていた場所が、歪なオブジェの闊歩する廃墟に変わり、痛みと寒さを思い出させる。

 そうして残ったのは、黒く澱んだどろどろとしたもの。

 

 アスカロンは動力エリアから奴らは入ってきたと言っていた。それらをすべて一掃する。

 それだけではない。一人残らず片付ける。惨めに、絶望を味わわせて殺す。必ず報いを受けさせる。

 

 Wは歩き出した。

 黒く澱んだ復讐心を糧に、ロドス・アイランドを背にして。

 後ろは、振り返らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドクターをチェルノボーグの石棺へと送ってからしばらく。王冠の担い手となったアーミヤの検査をいつもの如く終えたケルシーは、彼女に終了を告げて椅子から立ち上がった。

 そのまま医務室の出口へと向かおうとしたところに、ふとアーミヤから声が掛かる。

 

「あの、ケルシー先生はこの後どちらに?」

「……とある患者の元へ向かう」

「……私も、付いて行っていいですか?」

「…………いいだろう」

 

 僅かな逡巡の後、ケルシーは頷いた。そもそも、アーミヤがこのように申し出てくることなどほとんどない。そしてそれが今回だったということに、彼女は少し思うところがあった。

 

 医務室を出て、廊下を進んでいく。病室の並ぶセクションを奥へ奥へと。後ろについたアーミヤもこれほどまでに奥へと来たことはなかったようで、きょろきょろと辺りを見回していた。

 やがて、とある病室の前までたどり着くと、ケルシーはロックを解除してその中へと入る。

 視界に飛び込んでくるのは、ベッドと規則正しい電子音を繰り返す機器類、それに繋がれて横たわる人物だけだ。

 

「この方は……」

「……彼がここに来てから、4年ほどになる。その間、彼は眠り続けたままだ」

「…………!」

 

 アーミヤが横で息を吞む音が聞こえる。この人物を収容したのは、まだ……ドクターが目覚めて間もない頃だ。彼が発見して、救い出した。ちょうど、傍らの少女と同じように。

 ドクターの示した、確かな善性の表れの一つ。だからだろうか、アーミヤをここに連れてくることにしたのは。

 それに、テレジア──彼女の親友もまた、この人物のことを気にかけていた。

 いつかの夜、この船の甲板で聞いた話。別の世界の記憶を思い出したという、俄かに信じられないようなその話はしかし、魔王である彼女であればまだ説明のつけようのある話ではあった。

 だが、テレジアがそれを思い出すに至ったきっかけ、傭兵としてこの船を訪れたWには、その説明は通用しない。

 どこかに、欠けた環があるはずだった。

 

 そうして浮かび上がった”誰か”。テレジアとW、その二人が存在は認識しながらも、思い出せないという人物。

 それが誰なのか、探っていくうちにテレジアは気付いた。Wの心の中で、一際大きな存在感を示していた出会いと別れ。ほんの僅かな邂逅の後、死別したと思われていたその人物。

 先代のW。その彼が死んだと推定される作戦は、Wと同じくロドス・アイランドを訪れていたヘドリーも参加していたものだった。

 そうして、几帳面に記録を取る傭兵の記した日時は一致を見た。すなわち、ドクターがこのベッドに横たわる人物を救い出した日時と。

 

 だが、結局彼は目覚めないまま、テレジアは死に、ドクターは眠り、Wはこの場所を去った。

 そのことに、何とも言えない遣る瀬無さを覚え、ケルシーは眼を閉じる。

 

「……いつか、目を覚ますでしょうか」

「……わからない。だが、彼がまだ生きていることは確かだ」

「…………」

 

 彼女の返事を聞いて、アーミヤは静かにベッドの横へと歩を進めた。

 そのまま、ゆっくりと手を伸ばす。彼に向かって、その命の温かさを確かめるかのように。

 そうして、小さな手が彼の手に触れて──

 

「……………………ぁ…………」

「……!?」

 

 ──小さく掠れた、しかし確かにケルシーでもアーミヤのものでもない声が病室に響く。

 驚愕し、ベッドの側に駆け寄って患者を覗き込むケルシー。そんな彼女の耳に、言葉が聞こえてきた。

 

「…………ケル……シー…………先生…………

「っ!?」

 

 ケルシー先生。その声は、そんな言葉を口にしていた。

 だが、おかしい。混乱の中であっても冷静なケルシーの思考が、その疑問をはじき出す。

 この人物は救出時には意識がなかった。よってこちらのことを認識してはいないはずだ。それゆえにケルシーと彼の間に面識はなく、名前を知っていたとしてもそれと姿形が結びつくはずがない。

 だというのに、彼はまるで、こちらの顔を見てからその名前を口にしたようだった。

 

「……ここは……………………ロドス……………………アイランド………………………………」

「…………」

 

 ロドス・アイランドとこの船が名付けられたのは彼がここに運び込まれた後だ。そうして、それから彼は一度も目覚めていないはずだ。

 

「…………アー…………ミヤ…………

「!?……アーミヤ?……アーミヤ!?」

 

 ふと、彼がアーミヤの名を呼ぶ。そのこと自体が異常だったが、おかしいのはそれだけではなかった。

 アーミヤが表情を歪めているのを見て、ケルシーは彼女の名前を叫ぶ。

 

なんで…………魔王………………………………」

「……っ、はあ……はあ……」

 

 魔王。最後のその言葉を発するとともに、彼は再び眠りに落ちたようだった。だが、それはきっともう深いものではないだろう。ぼんやりと、ケルシーはそんなことを思う。

 今はそれよりも、アーミヤの状態の方が重要だった。

 

「……アーミヤ、大丈夫か?」

「…………はい、先生。もう大丈夫です」

 

 顔を若干青くしながらも、気丈に頷く彼女。その姿を見て、ケルシーはアーミヤが何かを見たことを確信した。

 王冠の機能は抑え込まれているはずだが、それでもなお流れ込んできたものとは、いったい何なのだろうか。

 ケルシーはアーミヤが落ち着くまで待ってから、それを慎重に尋ねる。

 

「……アーミヤ。君は……何かを見たか?」

「…………たくさんの……同じ景色を見ました。何回も何回も、繰り返される光景を。それが…………すみません、うまくまとまらなくて……」

「いや、十分だ。アーミヤ、部屋まで送ろう。今の君には休息が必要だ」

 

 そう言って彼女を促しながら、ケルシーは考える。

 発言の数々に、アーミヤの言っていた同じ景色、繰り返し。……なるほど、どうやら彼には聞かなければいけないことがたくさんあるらしい。

 目をやった先で眠る人物は、随分と物知りのようだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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