凪いだ水面が、視界の端から端へと流れていく。どこまでも続くような大河の水は底が見えるほどに透き通っていて、白砂と石のキャンバスに広がったエメラルドグリーンが目に眩い。
河の手前に目をやれば、小石の転がる白い河岸から繋がるようにして草木が青々と生い茂っている。その木陰から空を見上げてみれば、雲一つない突き抜ける様な空色と暖かな陽光が葉の隙間から顔を覗かせた。
どこまでも満ち足りていて、調和がとれた美しい光景。その中にぽつんと一人、おれは佇んでいた。
こうして景色を眺めていると、心が晴れ晴れとするようだ。いや、心に何ら心配事がないからこそ、こうしてただ景色を楽しんでいられるのだろうか。
おれはやるべきことをやることができた。自らの義務を果たすことができた。
己の人生に意味を見出せた人は幸福だと聞いたことがあるが、それはきっと本当のことだ。
Wと言う人物として生きた。クソッたれな世界で、泥水を啜ってでも生きて、生き延びた。
Wだった人物として死んだ。彼女に、あいつに名前を託して、物語の正しい筋書き通りに。
歯車のようだと思うだろうか。物語を正しく動かすための部品の一つであることを哀れに思うだろうか。
けれども、人は大なり小なり部品のようなものだ。生きて存在している以上、どれだけ否定しようと世界を構成する一部品であることには変わりない。
だとすれば、やはり自分の、自分という部品の役割を認識できることは幸福の一つのあり方なのだ。
改めて、おれは眼前に広がる景色を見つめる。
素晴らしい光景だ。この上なく光り輝いていて、真に正しく美しい世界。
だからこそ、感じる異物感がある。
それは、おれの存在だ。
おれはもう、役割を終えた部品だ。その役割に至るまでに随分と遠回りをしてしまったが、その中で十分に、十分すぎるほどに幸せな時間を過ごしてきた。
だから、何の未練もなくこの世界から立ち去ることができる。いや、この世界から取り除かれなければならない。
用のなくなった部品が、異物がいつまでも居座っていては、この美しい世界を損なってしまうだろうから。
お誂え向きに河岸には舟がある。あれに乗って河の向こう、靄がかった方へと漕ぎ出していけば、きっときれいに消えることができるだろう。
そうして、それがおれの最期の責務であるはずだ。
木陰から立ち上がり、肺一杯に空気を吸い込む。草木の清涼な香りがなんとも清々しい。
歩くたびに聞こえる小石混じりの土のざくざくという音。時折風にそよぐ緑のざわざわという声。それに太陽の眩しさ温かさ、すべてが愛おしい。
足元はやがて土から石の河原へと変わり、石同士の擦れる音と足裏の凹凸が伝わってくる。近づいてきた大河は悠然としていて、その水面は鏡のように揺るぎない。
近づいてくる舟を視界に収めながら、おれは思う。愛おしいといえば、一等愛おしいのはやっぱりあいつだ。
たくさんのものをくれた。数えきれないほどの大切な思い出を、幸せをくれた。
なんでもない日の、なんでもない会話。朝、一緒にコーヒーを飲んでいる時の満足そうな顔。美味しいものを食べた時の溢れる様な笑顔。隣ですやすやと寝息を立てる穏やかな表情。戦闘前の自信に満ちた勝気な様子。さらさらとした銀糸の柔らかな感触。部屋でのんびりとしている時のゆっくりと流れる時間。
それだけじゃない。一緒に過ごした時間の全てが、言葉では言い表せないほどに尊いものだった。
あいつが、おれにとっての全てだった。
……あいつはどうしているだろうか。あの後へドリーたちのもとへ向かったのならば、今頃は傭兵Wとして活躍しているはずだ。おれが何かを教えなくとも、あいつの才能は本物だ。きっとサルカズ傭兵の中でも指折りの存在になるに違いない。
もしくは、おれのいた時と同じようにバベルにいるかもしれない。時代の流れというのは、おれ一人が居てもいなくともどうにもならないものだ。バベルと軍事委員会、その二つにカズデルのサルカズたちが収斂していくのは間違いない。そのどちらかであれば、やはりへドリーはバベルを選ぶだろう。……いや、選ぶしかないというべきか。
バベル、延いてはロドス・アイランドにはたくさんの人たちがいる。あの場所でだったら、きっとあいつにもたくさんの出会いがあるはずだ。
その中で、誰か心を通わせることのできる存在ができれば尚のこと良い。そういった存在は、何にも代えがたいものだ。……おれにとってのあいつがそうであったように。
何をしていても構わない。どこにいても構わない。おれがただ一つ願っているのは、あいつが生きて、そして幸せになることだ。
あいつは、おれに十分すぎるほどの幸せをくれた。だから、今度はあいつが幸せになる番だ。
舟に乗り込んで、オールを手にする。どうやら、これで自分で漕いで行けと言うことらしい。渡し賃が必要ないという点では良心的と言えるだろうか。
向かう先、河の向こうは不思議と霞んでいてよく見えない。けれども、そちら側に行けばもう二度とこちらには戻ってくることができないということはわかった。
もう一度、後ろを振り返る。視界に入る、完璧に正しい世界。このまま異物が去ることで、きっとこの黄金比は完成するだろう。
恐怖は無い。後悔もない。おれの心は、まるでこの水面のように凪いでいる。美しい景色を、ほんとうにただ美しいものとして見ることができる。
そうして、おれは前を向き直った。心の中で、もう一度さよならを告げる。世界に、あいつに。いつかどこかで、あいつが幸せを見つけることを願って、おれは舟を──
『あなたは、本当にそれでいいの?』
──いいに決まっている。あいつが生きているんだ。これ以上何を望むことがあるだろうか。
『思い残したことがあるんじゃないかしら?』
…………そんなものはない。これだけ長い時間を生きていたんだ。思い残すことなんてあるはずがない。
『……本当に?』
…………やりきったんだ。やるべきことを、やりきったんだ。傭兵のWとして、他者の命を啜りながら生きて。それで、最後にやっとあいつと会えて、あいつのことを救えて。
それ以上はない。それ以上を、望んではいけない。それが、絶対的に正しいただ一つのやり方なんだから。
おれが、あいつにできるただ一つの…………
ふと、鏡のようだった水面に波紋が広がっていく。さながら、どこからか雫が一滴、大河へと落とされたかのように。
たった一滴、されど一滴。それが呼び水であったのか、波紋は際限なく増え広がり、やがて水面を波立てる。
視界の中に、銀糸が舞う。こちらを振り返る、とびっきりの笑顔が目に浮かんでくる。
思い出が、大事にアルバムに閉じ込めて物置にしまい込んだ思い出が、堰を切ったように溢れ出してくる。
『……あなたが最後に、本当に想っていたことを思い出して』
…………おれは。
……ただ、あいつに生きていてほしくて。幸せになってほしくて。
……それだけで満足で、だから、このまま死ぬことだって…………
…………
…………
…………
…………死にたく、ない。これが何よりもきれいな死に方だとはわかっているけれども、それでも。
まだ生きていたい。どれほどみっともなくても、まだ生にしがみついていたい。
あいつとまた話したい。あいつにまた触れたい。
ちゃんと幸せになるところを、この目で見たい。
『……なら、あなたはまだ戻ることができるわ。こちら側に来るのは、もっと先でも遅くはないはずよ』
おれは進みだそうとしていた舟を飛び降りると、河に背を向けて全力で走り出す。
河原の石を飛ばしながら、草原の草をかき分けながら、どこまでも。
何か目印があるというわけではない。けれどもただ、何か温かい感覚に導かれるようにして、おれは走り続ける。
だんだんと息が苦しくなる。肺が酸素を求めて、ぜいぜいと呼吸が荒くなっていく。
でも、それが証拠だ。生きている。おれはまだ、生きている。
走り続ける中で、徐々に景色が白く染まっていく。強い光に包まれるような、そんな感覚。
おれはいつの間にか、光の中を走っていた。そうして、徐々に光源が目の前に────
『……きっと、あなたのことを待っている人がいるわ』
『……いってらっしゃい、■■』
靄がかった景色の中に、意識が浮かび上がってくる。
身体は動かない。感覚も鈍く、あるのは朧げな視覚と、右手に感じる温かさくらいのものだ。
そんな中に、ふと見知った顔が表れる。
ケルシー先生。バベルの上層部の一人で医師である彼女が、どうしてここにいるのだろうか。思わずその名前を口にしながら、おれは鈍い思考を回す。
部屋の感じからして、恐らくここはロドス・アイランドだろうか。
……なぜ、自分はこの場所にいるのだろうか。頭の中の、様々な記憶が入り混じる。
ロドスで目を覚ましたことは、それこそ数えきれないほどある。何気ない日常の一コマとしての時もあれば、そう出ない時も。
……あいつは。あいつは、どこにいるのだろうか。頭の中に、最悪の光景がいくつも浮かんでくる。
一体、おれはいつに戻ったのだろうか。早く、早く確かめなければいけない。そうしなければ、またおれは失うことになるかもしれない。
けれども、どれだけ起き上がろうとしても身体はちっとも言うことを聞いてくれなくて、できたのはせいぜい頭を少しばかり傾けることだけで。
そうして、視界に入ってきた小さな影。真っすぐに伸びた耳と揃いの栗色の髪をした少女は……アーミヤ、なのだろうか?
呼んだ名前が疑問形だったのは、きっとその目を見てしまったからだろう。彼女のその目は、まるでテレジアの、魔王のようで。
なぜ、アーミヤが。その疑問を残して、おれの意識は再び闇に沈んでいった。
パチリ、とまるでスイッチがオフからオンになったかのように目が覚めた。
視界に入ってくる景色は変わらないままで、身体がうまく動かないこともこの前と同じだ。けれども、意識の方は幾分かしっかりと目覚めたようだった。
この間はケルシー先生とアーミヤがいたが、今回はおれ以外には誰もいない。一人きりで横たわっているここは、きっと病室か何かなのだろう。
というのも、意識がはっきりとしたお陰で、いくつか気が付いたことがあったからだ。
まず、目覚めたばかりでぼやけていたと思っていた視界。その左側は、いつになっても狭いままだ。不思議に思って確かめようと左手をやろうとして、そうして奇妙なことに気付いた。
思うように身体が動かないにしても、右手には確かに服やベッドの繊維の感覚がある。それなのに、左手の方からはそう言った感触を何一つ感じないのだ。
それで、首をどうにか動かして狭いままの視界に左手を収めようとして、ようやく理解した。
ないのだ。左腕が。
本来ならばそこにあるはずの腕が、丸々無くなっている。
それを見て、理解して、飲み込んで、そうしてわかった。
左目も、ないのだ。眼球が千切れ飛んで言ったせいで、ここに残っているのは空っぽの眼窩だけだった。
その事実を、ゆっくりと咀嚼する。
無くなった左腕と左目、ロドス・アイランド、ケルシー先生、アーミヤ、そして魔王。
目覚めてから見てきたものと、混濁していた記憶とが結びついていく。
……この、考えが正しいのならば。もし、そうならば。おれは…………きっと
おれがいるこの場所は、この今は……
「目を覚ましたか」
「!」
そんなおれの思考は、入り口の方から聞こえてきた声によって遮られた。
「ケルシー……先生……」
「……意識もはっきりとしているようだな」
掠れた声しか出ない喉からその名前を漏らすと、彼女は何か言いたいことをこらえるようにしてこちらに近づいてくる。
そういえば、この間はケルシー先生の前で色々なことを口走ってしまった気がする。聡い彼女のことだ、そこに疑念を抱かないはずがない。
恐らく、おれは彼女によって詰問されることだろう。……いや、詰問で済めばいいほうか。
客観的に自分のことを見てみると、おれは相当に怪しい人物だ。特に、アーミヤを見て魔王と言ってしまったのが致命的で、彼女の対応も厳しいものとならざるを得ない。
となれば、このまま尋問されるのだろうか。なまじ意識がはっきりしていて、受け答えもできそうな分、そうなる可能性は高い。身体が動かないこの状況では、生殺与奪の権は完全に向こう側にあると言える。尋問なんてし放題だろう。
尤も、聞かれたことに関しては話す心積もりではあるが。
そう、密かにおれが身構えていると、ケルシー先生はベッドの隣にある椅子に座った。そうして、おれの身体に繋がった計器類と情報端末を見て色々と入力を始める。
「……何か、特別に痛むところはあるか?あるのなら、隠さずに教えてほしい」
「え……あ……特……には……」
「……そうか」
そう言うと、彼女は何やら手元の端末に打ち込んで、今度はおれの方を向く。目線から、ケルシー先生がこちらの各部の様子を観察しているのだとわかった。
続けて、触るぞと一声かかってから、腹部に白く細い手が触れる。彼女のその冷たい手の温度から、おれは昔聞いたある言葉を思い出した。
曰く、手の冷たい人は心が温かいのだと。
「……なんだ」
「……いえ……」
「……続けるぞ」
……ここまで来たら、流石にわかる。
ケルシー先生は、ただおれのことを検査していた。彼女の、医師としての職分通りに。
「……聞か……ないん……ですか?」
「……何をだ?」
「……色々……と……」
だから、思わずおれは聞いてしまった。どうして、何も尋ねないのか。聞きたいことは、それこそたくさんあるはずなのに。
そんな問いかけに対して、ケルシー先生は淡々と、表情を変えずに答える。
「……今の君に必要なのは検査と治療だ。患者に対して、それ以上の負担をかけるわけにはいかない」
「……そう……ですか」
……やっぱり、ケルシー先生はケルシー先生だ。どこまでも真摯に人を救おうとしている、おれが尊敬した人その人だ。
例えここがどんな世界であっても、やっぱり芯の部分というのは変わらないものなのだろう。
粛々と検査を進める彼女を眺めながら、おれはそんなことを思った。
後日、一通り検査が終わったところで、ケルシー先生から結果の方を聞き出した。
あの時の怪我の具合から何となく想像はしていたが、まあ酷いものだ。
わかりやすいところから行けば、左腕は見ての通り肩口からすっぱりと無くなっている。だが、鋭い刃物でやられたお陰で断面の状態は悪くないらしい。義手を装着すれば、今までの様な動きができる可能性もあるという。これに関しては、生身が片方残っているだけでありがたいというものだ。両方無くなったこともあったが、あれはしんどかったからな。
次に、眼球の取れた左目。こちらはあまり良くはないらしい。そもそも眼球がないという点と、持っていかれるときについでに視神経も滅茶苦茶にされたせいで視覚の回復はかなり難しいそうだ。将来的に技術が発展すれば脳インプラントとやらで視覚が回復する可能性はあるらしいが、当分先の話なのは間違いない。こいつについては、取りあえずちゃんとした義眼を作って入れるに留まるだろう。
それから、あの時のおれは一連の戦いでかなりの血を失った上、最後には脇腹やら色々な部分にぼこぼこと穴を開けられたわけだが、そちらについても勿論様々な影響が出ている。
ケルシー先生の話によれば、おれはあいつを送り出して意識を失った後、たまたま通りがかった彼女に救われたらしい。……それを話していた時のケルシー先生には少し違和感があったが、まあそれは置いておこう。
ともかく、偶然テラでも有数の医師が通りがかってくれたお陰で迅速な処置が行われ、出血多量からの多臓器不全や脳損傷のような致命的な事態に陥ることもなく、おれはこうして生きている。だが、それでも何もなしとは行かず、内臓だけでも肺に腎臓、肝臓、おまけに小腸、大腸に至るまで、色々なところが損傷を受けていたらしい。
呼吸機能の低下により激しい運動に制約が掛かり、腎機能、肝機能の低下は息切れや出血のしやすさなど、広範に渡る影響を及ぼす。これに加えて骨やら神経やらもあちこちがボロボロだったというのだから、本当に良くもまあ生きていたものだ。
こんな中でも唯一幸いと言えるのは、長いこと眠っていたおかげで負傷した当初よりは各部に回復が見られるらしいことだろうか。
ただ、眠っていた分全身の筋肉が衰えているから、差引ゼロ、つまり身体の状態で言えば十分に悪い。歩くのも、食べるのも、呼吸をすることでさえ、今のおれにはままならないのだ。
ケルシー先生は、希望を捨てるなと言っていた。長く苦しいリハビリにはなるだろうが、幸いサルカズはかなり頑丈で回復力もある。だから、いつか完全に元通りとはいかないまでも、以前の様な生活を取り戻せる可能性はあると。
もちろん、希望を捨てる気など毛頭ない。人間、生きてさえいればどうにでもなるものだ。
この言葉を伝えたあいつも、きっとどこかで生きている。おれには、不思議と確信があった。
おれも生きていて、あいつも生きている。なら、大丈夫だ。諦めない限り、きっとどんなことだって実現し得る。
あいつに関することは除いてケルシー先生にそれを伝えると、彼女はただいつものように「そうか」と言った。
けれども、そう言う彼女の目は、いつもよりも少し優しいものに思えた。
それからの日々は、ひたすらにリハビリを続ける毎日だった。
目覚めたばかりのおれは、自分の力では文字通り生きることすらままならない状態で、栄養や水分は点滴で、呼吸は人工呼吸器で賄っていた。だから、まずは基本的な生命維持機能を取り戻すところからリハビリは始まった。
深呼吸の練習をするだなんて、昔のおれに言ったら何かの冗談だと思っただろう。でも、それが大真面目なのだ。大きく息を吸おうとするだけで、今までは数十分の近接戦闘でも感じなかったような疲労が圧し掛かってきて、おれは自分の衰えに愕然とした。
身体に関しても、自分の力ではまともに身じろぎすらできないために、人に身体を動かしてもらって徐々に筋肉や神経を回復させていった。自分の身体であるはずなのに自分では動かせず、人にうごかされているということに苦痛を感じなかったと言えば、嘘になるだろう。
ケルシー先生が言っていた苦しさというのが、遅まきながらわかったような気がした。
それは身体的な苦しさというだけではなく、精神的な苦しさでもあるのだ。以前の自分と、今の自分の間にあるギャップ。意識せずとも出来ていたはずの当たり前のことが、どうやってもできないもどかしさ。それらを否応なしに認識させられる苦しさがあった。
一か月ほど経ってだろうか。ある程度、本当にゆっくりとだけれども、自力、自分の力というものが戻ってきてからも、その苦しさは続いた。なまじ他人にされるがままでない分、余計に感じたと言ってもいいだろう。
上体を起こすだけで体力を使い果たし、ただ座っていることすらもできない。立つこと、歩くことなんてはるか遠くのことのように思えて、自分はこのままベッドの上にしかいられないのではとすら思った。
ようやく口から摂取するようになった食べ物も流動食で、食感のしの字もない。どろりとした舌触りだけの食事には、ようやく物を食べられたという感動も色褪せていった。
きっと、漫然と取り組んでいたのならば耐え切れなかっただろう。理想ですらない、自分にとっての普通と現実との落差に、諦めてしまうことだってあり得ただろう。
けれども、おれにはやりたいことがあった。目指すものがあった。だから、折れずにいられた。
それは、あいつが幸せになるところをこの目で見るということ。あいつが今どこにいるのかは知らないが、このままベッドの上に居ては、探しに行くことすら叶わない。
それを思えば、この苦しみだって受け入れられた。受け入れて、その上で乗り越えていこうと思うことができた。
やっぱり、おれはまたあいつに逢いたいから。
……例えそれが、赤の他人としてでも。
リハビリに取り組んでいる間、ケルシー先生は本当に何も聞いてこなかった。勿論、医師としてのあれこれは聞いてきたし、逆におれからリハビリや身体の状態など諸々について尋ねることはあった。けれども、彼女が本当は聞きたいであろうあれこれについては、尋ねようとする素振りすら見せなかったのだ。
だから、おれのほうからも治療以外のことで彼女に何か尋ねることはしなかった。本当のところは、今のカズデルの状況であるとか、バベルは一体どうなっているのかなど色々と聞きたいことがある。でも、ケルシー先生が一線を引いてくれている以上、触れてしまっては申し訳が立たないような気がしたから。
だが、リハビリを始めて三か月ほど。ようやくどうにか自力で立って、補助を受けながら歩くくらいのことができるようになってきた頃、いつものように病室にやってきたケルシー先生は言った。
「そろそろ、君と改めて話をしたい」と。
来るべき時がきた。おれは、そう思った。
おれはこの三か月間、基本的にこの部屋を出ることはなかった。診察を担当するのはいつもケルシー先生だったし、リハビリを手伝ってくれていたのもいつも同じサルカズの青年だ。それは恐らく、おれに関する情報が極力外側に漏れないようにするためのことなのだろう。加えて、色々と知っていそうな上に、どんな人物かもわかっていないおれを言い方はあれだが軟禁しておく意図もあったかもしれない。
つまり、何が言いたいのかというと、どうやらこの話し合いの結果次第で、おれがここから出られるかどうかが決まりそうだということだ。
病室のドアを施錠したケルシー先生は、部屋に置かれた椅子に腰かける。そうして、机を挟んだ向かい側に座るおれのことを見ると、ゆっくりと口を開いた。
「……まず、率直に聞こう。君はかつて、Wと名乗って傭兵をしていた。……そのことに、間違いはないだろうか」
「……………………よく、ご存じですね」
声を出さなかった自分を褒めてやりたい。果たして自分の顔は平静を保てているだろうか、あまり自信がない。
完全にしてやられた。どうやってかは知らないが、彼女はおれのことを相当調べてからここにやって来たらしい。昔のように悪目立ちすることは避けていたつもりだし、特定される要因になり得る銃なんかはあいつに渡したはずなのだが、流石の博識具合だ。
ともかく、これで会話の主導権は完全に向こう側だと言って良いだろう。まあ、最初のセッティングの時点からそうと言われればそうなのだが。
「…………では、君はここで目を覚ました時のことを覚えているか?」
「……ええ」
「……あの時君は、私のことを見てこう言ったな。……『ケルシー先生』と」
「…………」
「……何故、私のことをそう呼んだ?」
「……ケルシー先生のことは、以前から存じ上げていました」
「……君はこれまで我々と接触を持ってはいなかったはずだし、まだ若い。伝聞で私のことを知ることはあっても、あのような場面で自然と名前を口にするようなことはできないのが普通だろう。単に知っているということとそれを実際に用いることとの間にある隔たりは、余人の想像する以上に大きい。……だが、君はそうではなかった。それの意味するところが何であるか、わからないわけではないだろう」
……相変わらず鋭いなあ。
淡々と詰められているのにも関わらず、なんだかおれは懐かしい気分になる。
彼女の言うことは、これまでのどの世界でもいちいちもっともなことだった。膨大な情報がその頭の中に詰まっていて、それをどこまでも論理的に出力してくる。それでいて他者の心情に無理解なわけでもないのだから、彼女と口でやり合おうというのは無謀な話だろう。
だから、これは本当にただの話し合いだ。彼女の方はどうか知らないが、おれには駆け引きをする気なんてこれっぽっちもない。
とは言え、物事には順序というものがある。いきなりおれが全てを洗いざらい話始めたとして、はいそうですかと受け入れられるものではないだろう。
故に、段階をきちんと踏んでいく必要がある。話し合いとは、そう言うことだ。
「……昔、お世話になったことがあるんです。尤も、ケルシー先生は覚えていないでしょうが」
「……………………そうか」
「……ええ」
「…………我々が今いるこの場所は、ロドス・アイランドという名前がついている。……君はそれを、初めから知っていたな?」
「……はい。……知っていました」
「……何故かと聞いたら、君は何と答える?」
「……それも、昔に」
おれの答えを聞いて、ケルシー先生の瞳が鋭く細められる。
「昔、か。……どうやら、君の言う昔と私の知っている昔は違うもののようだな」
「…………!」
「……この場所がロドス・アイランドと呼ばれるようになったのは、君がここへ運び込まれた後だ。それからついこの間まで眠り続けていた君が、どうやってそれを知り得る?」
……もしかすると。ケルシー先生は、既に何となく感づいているのかもしれない。
はっきりと何かを感じているわけではないのだが、微かに匂うのだ。それは言うならば、出口のわからない迷路を手探りで進んでいるのではなく、わかっている出口に向かって道を探しているかのような感覚。
その彼女からの誘いに乗るようにして、おれは質問に答える。
「……この船の本名がそれだと、ある人に聞きました」
「…………それは…………誰だ?」
「…………」
きっと、この人の名前は劇薬だ。おれたちサルカズにとっては勿論、それ以上にケルシー先生には。
外から見ていただけでもわかった。きっと彼女にとってあの人は、単なる同じバベルを率いる立場の人間だとか、サルカズの魔王だとか、そういっただけの存在ではなかった。
こういうと矮小に聞こえてしまうかもしれないけれど、友人だとか、親友だとか、そう言ったものだったはずだ。
繰り返しではあるけれども、長い時間を過ごしてきたからこそわかる。彼女のようなある種超然とした人にとって、そのような存在がどれほど得難い物か。
だから、その名前は彼女にとっての数少ない柔らかな部分だ。それに触れることがどういった意味を持つのかは、おれには計り知れない。
……けれども、それでも、だからこそ、おれは。
「…………テレジア」
「…………!」
「彼女から、そう聞きました」
ケルシー先生と、あの人について話したかった。
きっと今はもういないであろう、テレジアのことを。
しばらくの間、病室を沈黙が包み込む。テレジアという名前を口にしてから、ケルシー先生は目を伏せたままだ。
その姿に、おれは改めて彼女という人物の存在の大きさを実感する。
……そして、ケルシー先生が今、どんな想いでいるのだろうと思う。
おれには、何も言うことはできない。ただ、黙って待っていることしかできない。
そうして待って、待ち続けて。ようやく、彼女は口を開いた。
「…………君は……それでは……アーミヤのことも、知っているな。……それも、過去に会って」
「……ええ。その通りです」
「……そうか。…………やはり、君の言う通りだったか」
「……はい?」
瞑目して、何事か小声で言ったケルシー先生。おれは思わず聞き返すも、顔を上げた彼女の目を見た瞬間、すぐに気が付いた。
これは、彼女が何か腹を決めた時の目だと。
「……以前、テレジアが言っていた。曰く、自分には別の世界の記憶があるのだと。ある日、そのことを思い出したのだと」
「……………………え?」
「……君も、そうなのだろう?……いや、君こそが特異点なのだと言うべきか」
「────」
一瞬。言葉を失った。はいも、いいえも、何も言葉を発することができない。
今、ケルシー先生は何と言った?
おれの耳がいかれていないのだとしたら、彼女は今確かにテレジアに別の世界の記憶があったと言ったはずだ。
別の世界の記憶。そいつのことを、おれはよく知っている。他ならぬおれがずっと旅してきた、ここではない世界。神様の気まぐれのようなアーツで手繰り寄せた、無数の平行宇宙。そのすべてを観測していた、源石と一体となったようなおれから贈られた記憶。
だが、それをこの世界のテレジアが持っている?少なくとも、おれの意識のあるうちでは一度も会っていないテレジアが?
「テレジアも……これを……全部、覚えている……?」
どうにか、おれは呻くようにして言葉を絞り出す。
魔王としての力でこのおれの記憶を読まれたというのならばまだわかる。だが、思い出したとはどういうことだろうか。
こちらの意識の有無を問わずに記憶を読める?いや、そもそもなぜサルカズの魔王は他者の記憶を読めるんだ?果たしてそれが本質なのか?
そんな目まぐるしく回り始めた思考の端に、ケルシー先生の言葉が入り込んでくる。
「……いいや。テレジアは朧げにしか覚えていないと言っていた。……どうやら君は違うらしいがな」
それを聞いて、まるで冷や水を浴びせられたかのように思考がクールダウンしていく。
同時に、おれは自分が先走り過ぎたらしいということに気付いた。先ほどのセリフは、ほとんどすべてを洗いざらい言ってしまったようなものだ。
まあ、元々話そうとはしていたことではあるし、話が早くていいと言えばいいのかもしれないが。
おれは自分がばつの悪い表情をしているだろうと自覚しながら、彼女に向かって口を開いた。
「……信じてもらえるかはわかりませんが……ケルシー先生、おれの話を聞いてもらってもいいですか?」
おれは、ケルシー先生に全てを話した。
と言っても、本当に文字通り全てでは一生かかっても終わらない話になる。だから、話したのは大体のあらましだ。
すなわち、強大なアーツを手にした一人のサルカズが無数の失敗を繰り返し、数えきれないほどの世界を渡り歩いて、そうしてアーツをすり減らしたころにようやくこの正しい世界に辿り着いたという、そういう物語。
彼女は、そんなおれの話をただ黙って聞いていた。
「……そうして、おれはあなたによってここに運びこまれた。後は全て、ケルシー先生の知っている通りです」
「……………………俄かには信じ難い話だな」
「……そう、ですよね…………」
「……だが、事実として君が本来知り得ないはずのことを知っているのは確かだ。本来知ることのできないはずの情報を得る方法は特にサルカズであればいくつか存在するが、それらが特定の人物の名前を指し示したことは多聞にして知らない。予言の持つ揺らぎを奪うそれは、基本的に存在し得ないものだからだ。しかし、君の言うような平行宇宙でならばそれらを知ることは理論上可能だと考えられる。そのような大規模なアーツが存在するかどうかはさておき、時空間を直接的に操作して辿り着いた平行宇宙であれば同じ物理定数を持ちほとんど同様の歴史を辿った宇宙である可能性は極めて高いと言えるだろう。私の知るいくつかの傍証も合わせれば、君の話には少なくとも論理上の破綻は見られない」
「……信じてもらえると?」
「……情報の精査をする必要はある。君にはまだ聞きたいことが多いからな」
彼女の言うことを要約すれば、つまりはある程度は信じてくれるということらしい。これで漸く一安心という所だろうか。
だが、おれにも聞いておきたいことがある。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「…………なんだ」
「…………もう、テレジアは……」
「……………………ああ」
「……そう、ですか…………」
……やはりもう、テレジアはいない。おれの目覚めは、遅すぎた。まるで、それが変えられない運命であるかというように。この世界でも、テレジアは死んだ。
……でも、この世界でなら、できることもある。おれにもまだ、間に合うこともある。かつてテレジアが言っていた、せめて一人くらいには知っていて欲しかったという言葉。それを強く思い出す。
これまでは、どんなに長くともテレジアの死の少し後までしか時計の針が進むことはなかった。でも、今のおれはその向こう側にいる。だからこそ、伝えられることがある。
「……ケルシー先生。おれはかつて……その場に居合わせたことがあるんです」
「……!」
「……色々な場合がありました。議長室にまで刺客が入り込んできた時。彼女自身が全てを終わらせた時。……ある人物しか動かせないはずの防衛システムが解除されていたことも、ある人物は最期までテレジアと共にいようとしていたこともありました」
「…………」
テレジアの死には、いつももう一人の人物が関わっていた。それはきっと、この世界でも同じことなのだろう。
「……おれは。この世界の……ドクターには、会ったことがありません。だから、もしかすると違うのかもしれない」
「…………」
「……でも、ケルシー先生。あなたには知っていて欲しいんです。無数の世界の中には、おれたちを裏切って、裏切ったそのくせしてテレジアの死に心からの涙を流していたドクターがいて。おれたちバベルの皆や、何よりもあなたを守るために自らを差し出そうとしたドクターもいたということを」
「っ……!」
「……テレジアも、きっとあなたに知っていて欲しかったのでしょうから」
……これで、少しはこうして目覚めた意味もあっただろうか。おれは遠く、遠い世界へと想いを馳せる。
逸らした視線の端で顔を伏せるケルシー先生の姿を捉えながら、息遣いだけが聞こえる部屋の中で、おれは遥か遠くを見つめた。