針葉樹の葉に積もった雪が、とさりと音を立てて落ちる。
すると、ちょうど真下からニャアと悲鳴が上がった。傍のポポ車に腰掛けていた青年は、小山の中から雪まみれの仕事仲間を抱き起こす。
真白に包まれた、しかし決して雪に吸われない活気の満ちる前線拠点、セリエナ。
ここは新大陸古龍調査団という、古龍たちの謎を解くべく集まった人々による組織の、第三の拠点となる場所だった。
古龍とは厳密には種族を表す名称では無いものの、往々にして人知の及ばぬ力を持つモンスター達を指す言葉だ。
彼らを生物と呼ぶべきか神と呼ぶべきかは、人々の立場やその地域の信仰によって変わるため、曖昧な存在とされていた。
飽くなき探究心を持つ人々は、昼夜を問わず現地調査や拠点の整備、そして第一の拠点であるアステラとの物品交換などの仕事に勤しむ。
そんな中この場所に似合わない、砂漠地帯の主の防具を纏った大柄な男が一人。
男は白い息を吐きながら、湯気の立つ食事場を通り過ぎて、集会所へと続く階段を上がっていった。その身なりから一目で、日々フィールドに直接赴きモンスターと相対するハンターであることがわかる。
男の名を、ヒアシといった。
普段は酒を飲む先輩や同僚の声でがやがやと騒がしい集会所も、早朝ともなると比較的静かだった。
カウンターで書類に目を通していた受付嬢と目が合い、軽く会釈をする。その横を、自分の身体ほどもある荷物を抱えたアイルーが、とててて、と通っていった。
奥からは、風に乗って湯煙が流れてくる。
この新天地には、こんこんと温泉の湧き出る場所が銀世界のあちこちに存在する。ちょうど安全地帯でも源泉が見つかったものだから、調査で冷えた身体を温めるべく、人々は恵みの湯を堪能しているのだった。
調査団の大事な連絡手段となる、翼竜の止まり場を抜けて扉を開ける。
普段は汗のツンとした臭いがこもる脱衣所も、今は鏡の水滴ひとつなかった。ヒアシは慣れた手つきでベルトを外し、重い防具から貸し出されている湯浴み衣に着替えた。
せめて草履でも支給されれば良いのにと思いながら、ヒアシは酒場の冷たい床を早足で抜け、そそくさと掛け湯をした。
足から肩へと何度か繰り返した後、とぷん、と右足の指から熱い湯に身体を沈めていく。ヒアシはほーっと溜息を吐いた。
湯気の向こうからは、食事を楽しむ調査員の声が聞こえてくる。会話の内容までは分からないが、おそらく戦果に関することだろう。
集会所「月華亭」は湯屋としてだけでなく、ハンター達が集まってクエストを受けるクエストカウンター、また食事や酒盛りをする場としての役割も併せ持つ。
受付嬢たちが身体を冷やさないようにするためか、屋内では常にあちこちで火が焚かれており、湯場の側には中に入ると途端に汗が噴き出るようなサウナも設置されていた。
しかし壁のない面からは、外の雪まじりの風がもろに入ってくるため、お世辞にも温かい空間であるとは言えない。
そのため、集会所に隣接した脱衣所からこの湯場へと辿り着くまでに、身体が冷えてしまうのだった。
何せ、湯浴み衣は薄いのだ。中には、この衣と同じデザインの防具で、拠点周辺でのクエストに出かける猛者もいるが。
湯に鳩尾の辺りまで浸かると、手足の末端にビリビリとした痛みを伴って血が戻ってくる。ヒアシはその感覚に、しばらく目を閉じて耐えていた。
その痛みが消えていくのと同時にじんわりと身体に熱が広がり、再び自然と溜息が漏れる。湯に包まれる心地良さに、力が抜けていく。どこか怠いようなその感覚を、極楽と呼ぶのはわかる気がした。
「やっぱり、ここにいたか」
不意に掛けられた耳馴染みのある声に、ヒアシは振り向いた。
こちらへと歩いてきた黒髪の青年は、苦笑を浮かべつつ軽く手をあげる。自らのバディの姿に、ヒアシは口の端を上げて応えた。
「お疲れ、サク」
サクと呼ばれた青年は、呆れたと言わんばかりに大袈裟に溜息を吐いて見せた。
「ヒアシの風呂好きは大概だよね。どこにも居ないと思ったら、大体ここに来れば見つかるんだから」
「湯加減は違っても、故郷を思い出すんだ。君だってそうだろう?」
ヒアシが問いかけると、幼馴染みでもある彼はまあね、と頷いた。
ヒアシもサクも、温泉地として知られるユクモ地方の出身だった。
子どもの頃はよく一緒に遊んだものだが、やがて声変わりし始める頃になると二人は違う道を選び、離れることになった。
今でこそどちらも調査団に在籍しているけれど、働ける年齢に達してすぐにハンターとなったヒアシと、学び舎で様々な資格を身につけてからハンターとなったサクは、終ぞ会うことがなかったのだった。
そんな中、新大陸古龍調査団の五回目の募集がかかった。
生涯、生活に困らないだけの資金を手にするためにヒアシは応募し、見事合格して新大陸の地面を踏みしめることが叶った。
だが野心があるかと言われれば首を傾げるだろう。家族と自身が暮らしていければ良いという程度の望みだった。
その一方で、学者あがりのサクは自力で現地調査できることに加え、情報処理にも長けている。そこで編纂者として渡らないかと声をかけられたのだという。
今は救護班の助っ人として、怪我人の手当てを任せられていることが多いのだが。多種の資格持ちも色々と苦労があるらしい。
古龍調査のため新大陸へ渡る船着場で、二人は再会した。バディとして選ばれたのは偶然で、互いの顔を見て驚いたものだ。
どちらも少年時代の面影を残しつつも場数を踏み、年相応の雰囲気を持つ青年となっていた。サクは子どもの頃もう少し大人しかったと記憶しているが、暇さえあれば本ばかり読んでいるのは今も変わらない。
「ところで、用件は? おれに何か伝えることがあって来たんじゃないか」
額に滲む汗が目に入らないよう拭いつつ、ヒアシは尋ねる。
サクは笑みを収めるやいなや、そのことなんだけど、と鋭い目でこちらを見た。彼が真顔になると雰囲気ががらりと変わる。
その金色の瞳が、何か深刻な事態が起きたということを、暗に告げていた。
「今すぐに司令エリアに来い、だって。前線拠点にいるハンターと編纂者、全員に招集がかかった」
声を低めてそれだけ言うと、サクは踵を返して音を立てることなく足早に去って行った。
その姿が扉の向こうへ消えるのを見届けると、ヒアシは立ち上がり、身体の水気を払った。
***
「えっ、陸珊瑚の台地が?」
「それだけじゃないワ。谷も調査してみたけど、小型の環境生物以外の生き物がほとんど見当たらないのヨ」
古龍の痕跡があるわけでもないのに、と香の匂いを漂わせる竜人族の学者は呟いた。司令エリアのテーブルに寄り掛かるその女性は、学者衆をまとめる三期団の期団長その人である。
集まった複数のハンターと編纂者たちの前で、彼女はいつになく沈痛な面持ちでため息を吐いた。
陸珊瑚の台地は、巨大な珊瑚が連なって出来た地域一帯だ。
驚くべきことに、その名が表す通り色とりどりの珊瑚が生えているのは、海中ではない。高低差のあるその場所はいくつかの層に分かれており、それぞれで異なる様相が見られるのだった。
そして更にその下層には、この新大陸の胃袋のような役割を果たす、瘴気の谷と呼ばれる地域が広がっている。
期団長は普段、陸珊瑚の台地の上空を浮遊する飛行船の中の研究基地にいる。
そんな彼女自らがわざわざセリエナに足を運んでくるというのは、余程のことがない限りあり得ない。
「それは……古龍の来訪から、しばらくの間どこかに隠れているというだけでは? 特段珍しいことではないように思えます。我々が立ち入れない場所も沢山ありますし」
編纂者の一人が疑念を口にすると、期団長はきっぱりと首を横に振った。
「それは無い。あったのは、異臭と巨大な足跡だけヨ」
「……異臭と、巨大な足跡?」
ヒアシがおうむ返しをすると、期団長はかけていた眼鏡を下ろし、彼に視線を向けた。
「この異変が、生物によるものだと証明する臭いネ。足跡の形状は、獣竜種のものと似ている。……でも、あんな大きさ、見たことがない」
陸珊瑚の台地にいる獣竜種と聞いて、まず皆の頭に浮かんだのは白い体毛を持つアンジャナフ亜種だった。
しかし、暴れん坊の異名を持つ竜の亜種と言えど、一帯の様子を変えてしまうほどの力はない。瘴気の谷にもディノバルド亜種やラドバルキンなどがいるが、わざわざ彼らが上がってくるとは考えにくい。
そうなると、考えられるのは一種のみ。
「……まさか」
サクが目を見開くと、期団長は頷いて見せた。
「そのまさかヨ。まだ確証はないけど」
その地域の生態系を狂わせる獣竜種として、真っ先に浮かんだのは恐暴竜の異名を持つモンスター、イビルジョーだった。
かの竜は高い体温を保つためにひたすらに肉を喰らい、食料を求めて各地を彷徨う。そして時にはその地域の生態系を根絶やしにしてしまうこともある、恐ろしい捕食者。
この種は現大陸でもよく知られ、上位階級以上の実力を持つハンターのみに、狩猟が許されていた。
基本的に、イビルジョーが目撃された地域は、狩猟もしくは撃退が達成されるまで、原則立ち入り禁止となる。その付近の危険度が跳ね上がることは勿論、人々を支える物流にも甚大な被害をもたらす存在として、忌み恐れられていた。
イビルジョーは、新大陸でもアステラの近隣にある古代樹の森というフィールドで発見されたことがあった。五期団の中でも抜きん出た実力を持つ"青い星"と呼ばれる猛者が、かの竜を狩猟しに行ったことは記憶に新しい。
「あれ、でもおかしくない?」
飛雷竜の装備を纏った女性ハンターが、疑問の声を上げた。
実際に彼女の言う通り、イビルジョーがいる可能性が高いというには、些か不審な点がある。
小型の環境生物以外の生き物がいないという状況は、通常ならば一部を除く古龍のみが作り出せるものである。青い星が出向いた時さえも、小型の草食竜はのどかに草を食んでいたという。
それならば、なぜ。
「古龍とイビルジョーが、同時に出現したという可能性は無いのですか? それに、未発見のモンスターだということも考えられませんか」
サクの問いに、ヒアシを含めた数名は自分も同じ考えだと、期団長にこくこくと頷いて見せた。
しかし、彼女はまた首を振る。
「わからない。でも、上と下の両方で異変が起きている。……それも、死を纏うヴァルハザクが発見されてから」
ヒアシは何故そこでその名前が出たのかと疑問に思ったが、何人かは思い当たる節があるようだった。
それに、と期団長がこれまで以上に虚な声で告げる。
「死者が、出たのヨ」
その一言で、司令エリアにいた全員が絶句した。
向こうにもハンターは残っているのに、どうして期団長がこの事について知らせに来たのか。
おそらく、凍てついた大地に生きるモンスターと対等に渡り合えるほどの強者でなければ、手に負えないと判断したからだ。
「こんな時に……」
先程の編纂者が唇を噛んで俯いた。その隣にいた同僚も天を仰ぐ。
「こういうことは、今まで青い星が解決してくれていたんだがな」
五期団のエースとその相棒の編纂者、そしてフィールドマスターの三人は、現在ここには居ない。
死を纏うヴァルハザクをはじめとする、モンスターたちの混乱を引き起こした、地殻変動。その原因であろう"大いなる存在"を追って、地脈が続く先へと調査に行っているのだ。
そして本来なら待機している筈だった総司令や大団長、調査班リーダーといった調査団のトップの人々も、後からそちらへと向かってしまったのだった。
残る戦力は、四期団と五期団に属する一部の団員のみ。
「……あいつや調査班リーダーたちは今、大いなる存在の謎を突き止めに行っているんだ。ここはオレたちがなんとかしなきゃな」
四期団のハンターが、努めて明るく言った。しかしその声はどこか頼りない。
暫しの間、沈黙が降りた。
「悩んでいても仕方ないわ。その調査にあたる者と、ここに残る者で分かれないといけないわね」
五期団のハンターの"ドスバギィの一声"に皆が顔を上げ、ややあって頷いた。彼女のバディが懐からメモ用紙を取り出し、その場にいる全員の名前を書き出していく。
その様子を見ていた期団長は表情こそ変わらないものの、どこかほっとしていたように見えた。
その時、すっと手が上がる。
「僕を、今回の調査に携わらせてください」
凛とした声で言い放ったのは、サクだった。すると辺りにどよめきが起こる。
「お前はここに残った方が良いんじゃないか」
「そうよ。青い星たちが戻ってきたときのために、救護班は少しでも人数が多い方がいいわ」
同僚が口々に制止の言葉をかけるも、サクは意思を変えなかった。
「死を纏うヴァルハザクと関連がありそうなところが引っかかるんだ。僕は微生物について少し明るいし、武器も持てる。
そんな幼馴染みの姿を見て、ヒアシも挙手をした。
「それなら、おれも。一度でも奴らとやり合ったことのある者の方が、生存率は高まるだろう」
ヒアシの言葉をきっかけに、他の皆々も自分の意見を口に出し始めた。
そして最終的に、もしも全滅した場合の被害を考えねばならないという理由から、およそ三分の一が飛行船に乗ることとなったのだった。
外はもうすっかり日が高くなり、ちらちらと舞う雪の結晶がその光を弾いていた。
まるで、強力なモンスターの痕跡に群がる導虫のように。
***
情報共有の時間も兼ねて、二人は朝餉を食べに行くことにした。
セリエナの食事場では、おばあちゃんの料理長をはじめとしたアイルーたちがせっせと料理の仕込みをしている。彼女らは、日々温かい食事で調査団の腹を満たしてくれているのだ。
料理長が切り株のように分厚いポポノタンを用意している間に、他のキッチンアイルーはグラタンを竈門へと放り込む。肉とごろごろ野菜の煮込まれたブラウンシチューに、焦げたチーズの匂いがたまらない。
重い話題の後でもきゅう、と腹が鳴った。
料理長の鼻歌と共に料理ができあがっていく様子を眺めつつ、ヒアシとサクはテーブルで地図とメモ帳を広げていた。
以前二人が調査を担当していた地区とはいえ、あれからだいぶ時間が経っている。特に今回は地形や環境の変化も考慮する必要があった。地理を把握しておくことは、重要な生存率の上昇因子となる。
「お坊ちゃんたち、お仕事してるところごめんなさーいね」
料理長の声に顔を上げると、アイルー達が料理を持ってこちらを覗き込んでいる。つい熱中して話してしまったために、時間が経つのを忘れていた。
成人して久しいのにお坊ちゃんと呼ばれる気恥ずかしさに顔を赤らめつつ、二人は頭を下げてテーブルの上を片付ける。
テーブルに置かれたのは、ほこほこと湯気の立ち上る朝餉というには品数も量もヘビィ級の食事。生クリームで飾られたシチューにスープ、ジュワジュワと音を立てるチーズがなんとも食欲をそそる。
この量を一人で食べ切れないサクは、パンとグラタンを半分取り皿に分けてヒアシに渡した。
最初から少なめにしてもらえば良いのにといつも思うけれど、サクはヒアシが沢山食べるのを見て満足するらしい。実際自分もぺろりと平らげてしまうし、この寒さでは多少余分なエネルギーを摂っても太らないのだから何も言えない。
料理アイルーのうちの一人が、時折周りを飛ぶ蝶に気を取られながらも大鍋をかき混ぜている。その姿を横目にヒアシはまず、熱々のシチューをはふはふと口に含んだ。
まず葡萄酒のコクのある味わいが、口いっぱいに広がる。そして肉を頬張ると、ほろほろの舌触りと柔らかい旨味が心まで満たしてくれた。
それをじっくり味わってから嚥下すると、飲み物で口の中を落ち着けて、ところで、と切り出した。
「さっき期団長が仰っていたことだが、死を纏うヴァルハザクとどう関連があるんだ?」
サクはグラタンに息を吹きかけていたが、その冷ましかけの一口の乗ったフォークを皿に置いた。
「ゾラ・マグダラオスが眠りにつく前、大峡谷に通り道ができたよね」
「ああ、それで調査範囲が広がったんだよな」
熔山龍ゾラ・マグダラオス。五期団が新大陸に渡ってくるきっかけとなった、巨大な火山がそのまま命を宿したような古龍である。
以前はアステラの位置する側と研究基地のある側の間に大峡谷があり、行き来することができなかった。
しかし、彼が大峡谷を訪れた際、そびえ立つ岩壁に穴を開けたのだ。
「あの道を通れるようになったのは僕たちだけじゃない。当然モンスターにも同じことが言える」
サクは、一呼吸おいてヒアシの方を見た。
「おそらく、古代樹の森に死を纏うヴァルハザクが来て環境が大きく変わったから、そこに住めなくなった個体が移動してきたんじゃないかと思うんだ」
「!」
流石に新大陸に生息しているイビルジョーが、過去に討伐された一頭のみということはない筈であるし、それなら唐突に谷と台地で被害が出始めたことにも説明がつく。
「けど、それならもっと早くに気づいていた筈じゃないか? あの調査から結構経っていると思うが」
「そこが僕もわからないんだ。急に食い散らかすようになったとしても、一体どうして……?」
サクはふと思い出したように、すっかり冷めてしまったグラタンを口に入れた。
険しい顔で飲み込んだ時、それまで鍋の具合を確かめていた料理長が、ふいに口を開いた。
「オバーチャンよくわからないけど、お腹がものすごく空いてたら、いっぱい食べたくなっちゃうと思ーうわ」
彼女らしい、ほんわかとした喋り方。しかしそれが核心を突いていることに気づき、サクはハッと顔を上げた。
「もしかして台地に現れたのは、怒り喰らうイビルジョー!?」
怒り喰らうイビルジョーは、数年前にタンジアという海産物で有名な地方周辺で、初めて存在が確認されたモンスターだ。年老いて食欲を抑えることができなくなった個体がそう呼ばれるのだという。
通常イビルジョーという種はその生態上、多くが短命であるが、運と実力で生き延びた個体はひたすらに食べ物を求めて暴れ狂う。
そして書物には、彼らは通常個体よりも一回り大きな身体を持つとも書かれていた。
もし本当にそんなモンスターが暴れまわっているならば、生態系のバランスはたちまち崩れてしまうだろう。生態系の破壊者の異名は、決して大袈裟なものではないのだ。
期団長は、このことに気がついているだろうか。どちらにせよ、早急に現場に向かわねばならないことに変わりはない。
二人は顔を見合わせて頷くと、冷めかけた食事を急いで口に運んだ。
***
飛行船の扉が開いた途端、陸珊瑚の卵による独特な甘い匂いと胸の悪くなるような臭いが混ざって押し寄せる。それまでも隙間から入り込んできてはいたものの、現場は比にならなかった。
頭装備を外していたサクは、思わずえずいて口を押さえた。菌の発する臭いには慣れていても、ここまで強烈なことはほとんど無い。
ヒアシも手で鼻の辺りを覆いながら、彼の背をさする。
「大丈夫か」
期団長の言っていた異臭というものが、ここまで酷いとは想定していなかった。
瘴気の谷のそれとは違う、血と酸っぱい何かとこやし玉の臭いを混ぜて濃縮したような悪臭は、ヒトの嗅覚で感じるにはあまりにも強烈だった。
「……ありがと、も、だいじょぶ」
しばらく苦しそうにしていたサクは、何度か唾を飲み込むと、滲んだ涙を拭いながら礼を言った。臭いを確かめるために防具を外していたのが仇となってしまったと、苦く笑う。
「この中を調査しなきゃならないなんてな」
「全くだよ。消臭玉が欲しいくらいだ」
サクは鳥の嘴のような形状の防具を身につけ、多少ましになったらしい。明らかな異変に警戒しつつ、そんな軽口を飛ばす。
今回の調査の目的は、あくまでもこの状況を作り出した元凶の特定と観察。
もしも襲われて逃げることになったときのために、少しでも身軽になるようにと、荷物になるタル爆弾などは用意していない。
ベースキャンプから飛び降りるよりも、慎重に進んだ方が良いだろうと、二人は丸太でできた足場からの道を選んだ。
そして岩の下にある小さな抜け穴を通り抜けた途端、この異臭の謎が一瞬にして解けた。
「なんだこれ……」
そこにあったのは、広範囲に渡って地面を汚す大量の吐瀉物。
陸上にいながらも深海へ潜っているかのような錯覚にとらわれる、幻想的で美しい景観が台無しだった。次の一歩を踏み出すことすら躊躇ってしまう。
この惨状でも青白く光りながら律儀に痕跡に群がる導虫に、ヒアシはぎょっとした。
胃腸の病を患った大型のモンスターが、ここに来たのだろうか。それにしても、その量が多すぎる気がする。
茫然と立ち尽くすヒアシをよそに、サクは周りにモンスターの気配がないことを確認し、籠手を外して手袋を嵌めた。
嘔吐物や排泄物は、往々にして危険な感染源となるためだ。
その痕跡の側に蹲み込むと、サンプルを特殊な容器に採取する。素早く手袋を丸め込み、にが虫由来の消毒液を手に擦り込んだ。
サクはしばらく地面に広がったそれを観察していたが、やがて振り返った。
「これ、全部うまく消化されてない。見て、所々に肉塊があるんだ」
ヒアシは爪先歩きで、サクの傍に移動した。
サクの指差す先を覗き込むと、そこにはどろりとした吐物に混じって、胃酸で溶けかけた肉塊や骨が数多くあった。
鼻が慣れてきたらしく、最初ほどの気分の悪さはもう感じない。
「もし、これの主がイビルジョーだったとして……吐き下してまで食事を続けようとするかな」
「いや、あいつらに限って流石にそれはないだろう」
ヒアシは首を横に振った。
生きる栄養を得るために食べるのに、それを体外に排出してしまっては意味がない。
他の生き物以上に食に特化したイビルジョーが、正気でも失っていない限り、そんなことをするとは考えにくい。
「ん?」
今、何かが引っ掛かったような気がしたのだが。しかしいくら考えてもその正体がわからず、ヒアシは気のせいかと首を傾げた。
サクは装備を直しながら、しばらく汚物の周辺を観察していたが、やがて何かを見つけたようで、あっと声を上げた。
「見つけた、足跡だ。確かに獣竜種のもので間違いなさそうだけど、かなり大きいな」
見間違えではないかと疑ってしまうほどの大きさの足跡が、糞便の側にあった。サクくらいなら、すっぽりと入ってしまえそうだ。
ふと目線を上げると、薄桃色の珊瑚の幹に、何か衝撃を受けたような凹みがあることに気がついた。
「サク、見てくれ。これもそのモンスターのものなんじゃないか」
「本当だ。何度も思い切り打ち付けられたみたいな凹みだね。──ん?」
珊瑚に近づいてその痕跡を観察していたサクが、再び何かに気づいたような声を上げた。
「これは……ナルガクルガ? 結構古いけど、ここを通ったみたいだ」
緑に光る導虫が集まっていたのは、既に乾き切っており時間の経過で所々薄くなっている足跡。
大きく丸みがあり三本の爪の跡が見られることから、おそらくこれは迅竜ナルガクルガのものだろう。
このフィールドに降り立ってからまださほど経っていないが、怒り喰らうイビルジョーらしきもの以外のモンスターの痕跡も見つかり、二人は少しだけほっとした。ここの生態系が、完全に食い尽くされたわけではないとわかったからだ。
サクは珊瑚の痕跡の周辺をナイフで削り、容器に入れる。それから得た情報を帳面にさらさらと書き込むと、ぱたりと閉じた。
それにしても、生き物の気配が薄い。この劣悪な環境では、普段低空を飛び回っているサンゴドリたちも見られなかった。
二人は無闇に物音を立てないよう、ターゲットの足跡を辿って慎重に歩めを進めていく。
足跡はそれなりに新しいものであった。だが道中で見かけた、危険が近づくと腹の色を変える生態を持つキッチョウヤンマは落ち着いていた。それがかえって不気味だった。
死んで白くなった珊瑚のある広場を歩いていると、ヒアシは砂地に妙な筋があることに気がついた。
古くなっているようだが、爪の跡でも翼で引っ掻いたものでもない。例えるならそう、幼い子どもが砂場に棒で線を引いたような。
「なあサク、これ──」
言いかけた言葉を、サクがシッと遮った。
「何か聞こえる」
音などするだろうか、と耳を澄ませる。
だがしばらく待ってみても何も聞こえず、気のせいではないかとヒアシは口を開きかけ……いや、聞こえた。
微かに、だが確かに何かを砕くような音がした。
「ここからは、隠れ身の装衣を着た方が良さそうだ」
ヒアシはそれまで小脇に抱えていた、周囲の背景に溶け込むカモフラージュの役割を果たす小型のマントを広げた。粘着性のある表面に珊瑚のなれ果ての白粉をまぶし、所々にぬめりのある植物を付ける。
準備を終えると、カモフラージュの役割を果たすそれを頭からかぶった。
二人は目を合わせると、息を殺して音の方へと近づいていく。静かにツタを上るのは少々骨が折れた。
ばくばくと鳴り続ける心臓の音が、緊張によるものなのか、運動によるものなのか、わからなくなった。
音がしていたのは、ツルの降りた窪地状のエリアだった。そこは、この台地に住むパオウルムーくらいのモンスターが座れそうな、リュウノコシカケに似た珊瑚が集まって形成されている。
二人は音の主に気取られぬようゆっくりと近づき、万一に備えて武器に手をかけ、覗き込んだ。
まず目に入ったのは、ボロボロになった黒い体毛の生えた尻尾。ナルガクルガだった。とうに力尽きているようで、あちこちを食い破られて無残な状態になっている。
そしてその亡骸の背中に突き立てられる、ゴツゴツとした牙。
黒い体毛が口に入るのも厭わず、乱暴に首を振って強靭な顎で肉を引きちぎる姿は、見る者に絶望と恐怖を与える。
光を反射する、ぬらついた濃い緑色の皮膚がおぞましい。
ナルガクルガは、そこまで小型の竜ではなかった筈だが、首の太さとそれを喰らう竜の足の太さは、ほぼ同じであった。
決して喰われている個体が特別小さいのではない。竜が大きすぎるのだ。
亡骸を貪っていたのは、最大金冠を優に超えるであろう恐暴竜イビルジョーだった。
ヒアシはごくりと唾を飲み込んだ。鼓動は早鐘のようで、この心音が聞こえてしまうのではないかと不安になった。
だがその一方で、サクは怪訝そうに眉を潜めて、じっとかの竜を見つめていた。
怒り喰らうイビルジョーとは、老齢の個体を指す名称であった筈。そして彼らの多くは、長く生きた者ほど身体中が傷だらけであることが殆どだ。
しかし今目の前にいる個体は、生傷こそあれど古傷が少なすぎる。それに皮膚や牙、爪などの質感も到底年老いているようには見えない。
中でも一番気になったのは、その体色だった。書物には、頭部に龍属性エネルギーを纏っており体表は黒ずんでいると書いてあった筈だが、記憶違いだろうか。
あの個体は、頭から胴体にかけて、白っぽい蜘蛛の巣のようなモヤがかかっているように見える。
あれは龍属性エネルギーを纏っているというよりも、むしろ──。
「……瘴気浸食状態?」