蒼赤一閃   作:蒸しぷりん

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居待月

 身体に何かが被さった感覚に、ヒアシの意識はゆっくりと浮上した。

 微かにシュンシュンと湯が沸いた音がする。

 

 肩の辺りを手で探ると、薄いふわふわとした感触が手掌を撫ぜる。覚えのある触り心地に、合点がいった。

 重い目蓋を開けると、ちょうど幼馴染みがやってしまった、という顔をしたのが見えた。

 

「……ごめん、起こしちゃったね」

 

「いや、むしろ毛布ありがとう。──おかえり、サク。遅くまでお疲れ」

 

 ヒアシは欠伸をしながら、労いの言葉を口にした。ソファで寝てしまったせいで、身体のあちこちが強張っている。

 サクはちょっと目を見開いて、やがて安心したように微笑んだ。

 

「ただいま。……ヒアシも、おかえり」

 

 ヒアシはその声の張りの無さに、思わず顔を上げる。

 あの日から、サクの顔色の悪さは変わらない。暖炉の火の揺らめきが、その影をより一層濃く見せていた。

 

 だが、急にそれを聞くのも無粋だと思い、ヒアシは他愛もない話題から切り出すことにした。

 

「もう飯は済ませたのか?」

 

 ヒアシの問いに、サクは首を横に振る。

 

「まだだけど、なんか今日はいいかな。食欲がなくて」

 

「良くないなぁ。夜中に腹が減るぞ」

 

「そしたら何か食べるよ」

 

 大袈裟に目を開いて見せたヒアシに、サクはくすくす笑いながら立ち上がった。

 薬缶を火から下ろし、棚から瓶を取り出す背中に、ヒアシは少しほっとする。

 

 掛けてもらった毛布を片手で畳んでいるうちに、サクは両手に湯気の立つティーカップを持ってやってきた。

 ヒアシは礼を言って一つ受け取る。

 サクが隣に座ると、ふわりと石鹸の匂いがした。

 

 薄い黄金色のカップの中身は、蜂蜜を湯で溶かしたものだった。冷え込むセリエナの夜には、嬉しい一杯だ。

 息を吹きかけながら口に含むと、芳しい香りと、優しい甘さが舌を満足させてくれる。

 

 雪が音を吸収するため、外の音は遠い。

 眠そうだったミランには、先に布団に行くように伝えた。今頃、ベッドで寝息を立てているだろう。

 そんな中で、ふたりが白湯を啜る音と、暖炉の火が木を舐める音だけが響いていた。

 

 ヒアシにとっては心地よい沈黙だったが、サクにとってはそうではなかったらしい。何度もカップを置こうとしては、また口を付けるのを繰り返していた。

 その時、ヒアシは寝落ちする寸前まで読んでいた資料が、いつの間にかテーブルの上にまとめて置いてあることに、ふと気がつく。

 

「これ……」

 

 ヒアシの言わんとすることを察し、サクが気まずそうに口を開く。サクの挙動不審さは、これらが原因だったようだ。

 

「……ごめん。盗み見するつもりは、なかったんだけど」

 

「いいや。むしろ、置きっぱなしにした、おれが悪いしな」

 

 先程までの沈黙に、砂鉄が入ったような重さが増す。

 反応を見るに、サクはこの書類が何を指すかを知ったのだろう。それが、ヒアシにとっていかに重大なものかということも。

 

 この数枚の竜皮紙は、ヒアシが購入した義手の請求書だった。

 現大陸では、ハンデを負ったハンターのその後の生活は見捨てられる。一度のクエストで高額な報酬を手にするという、甘い蜜がある代わりに、そのリスクも自己責任だった。

 

 だが、新大陸古龍調査団という組織は、人数に限りがある。一人が抜ければ、その者が担っていた仕事周辺に、大きな損害が残るのだ。

 そのため、ギルドへの貢献度に応じて、資金の補助が下りるのだった。

 ヒアシは護衛や警備の他、調査班の活動にも積極的に参加していた。研究サンプルを着実に入手するには、こうしたハンター達の協力が必要不可欠である。

 背に担いでいたロストバベルは、闘技場でのモンスターの生態調査に貢献した証だった。五期団のエース程とまではいかずとも、ヒアシも十二分に労働力を提供していたのだ。

 

 従って、ヒアシの義手は、殆どがその補助金によって賄われていた。だが、それでも総額のうちの二割は自己負担なのだ。軽くはない負担となることに、変わりはなかった。

 

「……ハンター、続けるつもりなんだね」

 

 サクの静かな声に、ヒアシは息をか細く吸い込み、やがて諦めたように吐き出した。

 コト、と音を立ててティーカップを置く。

 

「君に、隠し事はできないな」

 

 ハンターを続けるだけの機能や耐久性のある義手は、それだけで家が買えてしまうような額になる。

 そのことはサクも知っている筈だから、その値段で判断したのだろう。

 

 今ヒアシが装着している義手は、外見の復元や、体重のバランスを整えることを目的とした、仮の義手だ。

 アステラで測ったサイズや可動域、希望する機能などの記録を元に、本義手は後日セリエナの加工屋で受け取ることになっている。

 

「この仕事を辞めることも、国に帰ることも考えたよ。だが、別の生き方をする自分の姿は……どうしても浮かばなかったんだ」

 

「そう……」

 

 ハンターは一度にたくさん稼げる代わりに、武具のメンテナンスなどで、その多くが消費されてしまう。

 母への仕送りをしていたヒアシにとっては、今回の医療費は無視できない痛手であった。

 

 ハンター業以外で手取り早く稼ぎを手にしたいのであれば、暗宿に潜ることもできる。しかし新大陸古龍調査団では、人員損失のリスクを減らす為に、定期的に性感染症の検査が行われていた。

 救護班を中心に、微生物学に長けた学者が病理医として加わるのだが、ヒアシはサクが呼ばれる場面も目にしていた。

 何故なら、彼の本職は細菌学分野の研究だからだ。

 

 検査の際に対面することはないかもしれないが、採取した検体には名前が貼られるため、ヒアシのものだとすぐに分かってしまう。それを見た時のサクの気持ちを考えると、そちらに手を伸ばそうとは思えなかった。

 

 国に帰るという選択も、すぐに決断できることではない。

 新大陸にいるうちは名誉よりも実績で評価されるが、現大陸に戻ればそうはいかない為だ。新大陸帰りのハンターには、大なり小なり噂がついて回る。

 

 

 やがて、暫く黙り込んでいたサクが、懐から厚い封筒を取り出し、ヒアシの前に置いた。

 それから、ぽつりと呟く。

 

「その費用、僕が出すよ」

 

「……え?」

 

 あまりに突然のことで飲み込めず、ヒアシは茫然とした。

 

「今、なんて?」

 

 ヒアシが聞き返すと、サクは目を伏せたまま話し始めた。

 

「医療職としての経験は浅いけど、大怪我をしたハンターは何人も見た。ハンデを背負ってでも続けようとした人達のことも、その末路も」

 

 ギルドに所属するハンターは、クエストを受注する際に契約金を支払っている為、負傷時に救命措置は為される。だが、予め設定された金額以上に、高度な治療が必要になることも少なくはなかった。

 それでも、纏まった金額を用意できるだけの職は限られていた。ずっとハンターとして生きてきた者ならば、他の道ですぐにそんな額を稼げる術を知る筈もない。

 彼らの選択は、賄い切れない額の医療費を得る為、止む無く選んだ道だったのだ。

 

 やがて、借金返済に充てる金を稼ぐのに精一杯で、狩りの為の準備が十分にできなくなる。そして無念のままに命を落としていくハンターも、数多く居た。

 

 サクは、ヒアシの瞳をじっと見据える。その語尾は、微かに震えていた。

 

「僕は君に、そうなって欲しくない」

 

 サクには全てを伝えることはできなかったが、ヒアシは言わんとすることを察していた。何せ、自分の方がハンターとして生きてきた年月は、ずっと長いのだから。

 

「待ってくれ、サク。気持ちは有り難いが、流石にそれはできない。これは受け取れないよ」

 

 だが、それとこれとは話が別だった。添い遂げることを決めた伴侶であるならまだしも、サクとはそこまで深い関係ではない。

 確かに自分たちは幼馴染みで、新大陸でも二年以上バディとして過ごしてきた。

 けれど、金銭面でお互いの人生に干渉するような付き合いはしていない。それが二人の距離だと、認めていた筈だ。

 

「なんで? 今回の件では、出て当然の案でしょ」

 

 サクの顔に、さっと剣呑な雰囲気が滲む。

 普段であればあり得ない程に変化の激しい感情の波を、ヒアシは怪訝に思った。

 今思えば、イビルジョーの一件以来、サクがまるで別人のように思える瞬間は何度かあったのだ。

 その揺らぎが、最も大きくなっているように感じた。

 

「なんでって……君に義手のことは関係ないだろう」

 

 戸惑いを隠せないヒアシの言葉に、サクはぴくりと眉を動かした。

 

「……関係ない、だって?」

 

 その刹那、双つの金色に烈火が宿る。

 

「ヒアシ、それ本気で言ってる? どうしてこうなったのか、君が一番よく分かってるだろ。僕を庇って負った怪我だ、僕に責任がある」

 

「それでも、おれの選択だ。自分がしたいからそうした。こんなところまで君の世話になる訳にはいかない」

 

 きっぱりと告げると、サクはぐっと眉を寄せる。ヒアシが引こうとしている線引きに、どうしようもなく腹が立ったのだ。

 

「それじゃ結果的に、君だけが不利益を被ることになる。そんなの許されないよ」

 

「これくらい、覚悟していたことだ。ハンターなら、誰だってこうなる可能性はあるし、完全に働けなくなった訳じゃない」

 

 ヒアシは溜息を吐く。すると、サクはいよいよ身を乗り出してきた。

 

「だから、それが問題なんだって。ハンターとして必要な額に加えて、これからは治療費とかメンテナンス代だって嵩むんだよ。少しでも負担が少ない方が良いでしょ」

 

「……おれにだって貯蓄はある。君がそこまで負担する必要はない」

 

「それなら僕にだって貯蓄はあるよ。たぶん、君よりもある。……っ、僕の負担のことは考えなくていい」

 

 口に出してしまってから、サクは失言に気づいた様子を見せたが、言葉を切ることはなかった。

 

「そういう話じゃないだろう……」

 

 平行線だ。話が進展する様子が全く見えてこない。

 自分も頑なになってきているのかもしれない、心の隅でそう思ったけれど、それ以上に、サクの口から突いて出た言葉がヒアシの心の余裕を奪っていた。

 

 どうして、彼がおれの懐事情を知っていて、そこに口を出そうとする?

 ヒアシは右の拳を握った。それは、ヒアシの逆鱗のような、敏感なところに触れかけている。

 それ以上、踏み込んでくるのなら────。

 

「おばさんを安心させてあげたいんだって、聞かせてくれたじゃないか。それも難しくなるんだよ? だったら──」

 

「……っ」

 

 ヒアシの唇がわななく。

 それを見たサクは、一瞬怯んだ。

 

「……君に。君にそこまで言われる筋合いは、ない!!」

 

 滅多に聞かない幼馴染みの怒声に、サクはびくりと肩を震わせた。サクの目の光の反射が変わり、その周りが赤くなっていく。

 しかし、それでも眉をぐっと顰めて睨みつけてきた。

 

「……なら、どうして僕を庇った。死ぬか怪我するかの、どっちかだって、すぐに判った筈だろ」

 

「君が喰われると思ったから、咄嗟の判断だった。狩り場でごちゃごちゃ考えている暇はない」

 

 ヒアシの言葉に、サクは浅く息をしながら、尚も言い募る。

 

「もし……ッ、…………助からな、かったら……どうするつもりだったわけ? ……誰も彼も、置いていかれる方の気持ちも知らないで!」

 

 まるで、血を吐くような言葉だった。

 ヒアシはつかの間言い淀む。それから下唇を舐め、再び溜息を吐いた。

 

「……あの無茶なシフトは、その為か」

 

 ヒアシが低く問うと、一瞬サクは図星だという反応を見せた。

 

「っ、今その話はどうでもいいでしょ」

 

 ヒアシは憔悴してしまったサクを、何よりも案じていた。

 セリエナの住居に戻ってすぐに目にしたのは、休みなく予定の詰まったシフト表だった。

 調査班と救護班では管轄が違う為、サク本人が申告しない限りは、上の者は把握できないのだろう。

 まだ若い男とはいえ、生身の人間が働くには、あまりにも無茶なスケジュールだった。自分の為にそんな働き方をされるのは、心苦しい。

 

「良くない。今だって、酷い顔色だぞ。おれが君を庇ったのは、君を苦しめる為じゃない」

 

「…………じゃあ、どうすればいいっていうんだよ」

 

 先程とはまた違う、苦悩にも似た何かを滲ませた低い声で、サクは絞り出すように呟いた。

 

 二人は暫く、無言で睨み合っていた。

 怒りで潤んだ互いの目尻に、暖炉の火が揺らめく。

 

 声にならない息が震えて、鼻を啜る音。ヒアシははっとした。

 咄嗟にサクに声をかけようとして、言葉に詰まる。そのうちに、苛立たしげな溜息が沈黙を破った。

 

「……もう、いい。勝手にして……勝手にしろよ」

 

 そう言い放つと、サクは乱雑にカップを置き、コートを掴んで出て行った。

 封筒は、置き去りにされていた。

 

 

 ヒアシは、音を立てて閉じられた扉をしばらく睨んでいたが、やがて深く嘆息する。

 

 長い移動の後なのだし、もう寝てしまおうか。

 ヒアシは悩んだ末、封筒を共用の棚に仕舞う。

 収まりのつかない苛立ちを滲ませつつも、音を立てないように自室のドアを開けた。

 患部に体重がかからないように気をつけながら、毛布とマットレスの間に、身体を滑り込ませる。

 

 明日は見舞いに来てくれた人への挨拶やら何やら、やるべきことが沢山あった。

 早めに寝て、体力を温存せねばならない。

 そう思うのに、目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。

 

「……まったく」

 

 ヒアシは深く溜息を吐いた。

 サクはこんな寒空の中どこに行ったのかと思ったが、自分が知ったことではない。

 

「旦那さん……」

 

 か細い声の方に目をやると、いつの間にか起きていたミランが、こちらを見上げていた。

 ヒアシは努めて棘のない声を作る。

 

「騒いで悪いな、ミラン。うるさかっただろう」

 

「ううん、ボクは良いのニャ。でも……」

 

 ヒアシは続けようとしたミランを抱き上げ、優しく背を撫でた。

 

「気にしないで大丈夫だよ。落ち着いたら、話し合うつもりだ」

 

 考えてみると、こんなに激しく口論になるのも久しぶりだった。

 数年ぶりの──下手をすると再会してから、初めての喧嘩かもしれない。

 普段は冷静な幼馴染みが、ああまで怒りを露わにするのは、ヒアシも片手で数えるほどしか見たことがなかった。

 

 深呼吸をすると、アロマランプの芳香が鼻腔を通り抜ける。ミランの柔らかい毛を撫で、好きな香りを嗅いでいるうちに、どうしようもない苛立ちが次第に収まってきた。

 時を同じくして、途端に苦い後悔が突き上げてくる。

 いくら触れられたくないことに踏み込まれたからといって、あまりに薄情な言い方をしてしまった。カッとなってしまった自分に嫌気が差す。

 

 自分が怒鳴った時の、サクの怯えた表情が脳裏に過ぎる。勢いも勿論あるが、おそらくその内容が原因だった筈だ。酷く傷ついたに違いない。

 こんなつもりでは無かった。ただ、心配していることや、サクがそこまで負担に思う必要はないことを、伝えたかっただけなのに。

 

(ああ、おれは何ということを……)

 

 これでは、酒に溺れて怒りに身を任せていたあの男と、何ら変わらない。

 激しい罪の意識が、ヒアシの鳩尾の辺りを炙った。口元を手で覆う。

 

 正直なところ、急に深いところに踏み込まれて驚いた、というのが大きかった。

 自分たちは幼馴染みで、昔のお互いのことはよく知っている。バディで、一緒に仕事をすることもある。

 それでも親子でも、血を分けた兄弟でもないし、婚約をした恋人でもない。

 今回の件で、サクが強い罪悪感を覚えていることははっきりと分かった。だが、どうして自分にそんなに肩入れするのだろう、というのがヒアシの本音だった。

 

 無意識に言い訳を考え始めている自分に気が付き、ヒアシは首を振った。自分を正当化しようとしても、埒が明かない。

 それに、たとえ今謝ったとしても、それで解決する問題ではない。どちらにせよ、冷静に考える時間が必要だった。

 

 

 もしも、あの封筒を受け取っていたら、どうなっていただろうか。

 サクは納得したかもしれない。だがそれは、自分のプライドを捨てることを意味していた。何せ、自分はまだ働けるし、義手の費用だって払えない訳ではないのだ。

 これまでよりも周りの助けを借りることにはなるが、生きていけるとは思う。

 

 母のことも、心配してくれているのは伝わった。それでも、自分の問題には自分でけじめをつけたかった。

 サクだって、それを悟ることができないほど、鈍い男ではない。

 

(……それでも、あいつは)

 

 どうしても耐えられなかったのだろう。自分のせいで、相方が苦労をする未来が。

 

 ヒアシは、ミランを潰さないように寝返りを打った。暗闇の中で、左腕のあった場所を見つめる。

 

 こんな怪我を負ってまで、ここでハンターとして働き続けたい理由は、最終的には一つにまとまる。

 どれほどの苦悩や葛藤があろうと、結局はこの仕事が好きなのだ。

 

 現大陸では、まとまった額を手にする為に、人々に脅威をもたらすモンスターの狩猟クエストばかりを受けていた。しかし、こちらでは命を奪う仕事でなくても、きちんと評価される。

 ヒアシがよく受注していた闘技場でのクエストだって、彼らの筋肉の動きやその際に分泌される体液、思考回路などを知る為のものなのだから。

 勿論止むを得ずに背のランスに手を伸ばすことはあったけれど、そのシステムが、自分で思う以上に救いになっていた。

 

 できるならば、これからもこの組織で働いていきたいと思う。その為の負担ならば、莫大な医療費でさえも軽いと思った。

 だが、それは自分だけの視点で考えた話だ。自らを全ての原因であると責めるサクには、この決断はどう映るだろうか。

 

 大きなお世話だと、咄嗟に突っぱねてしまったけれど、それは彼の思いを拒絶するに等しかったのではなかろうか。

 サクとの仲を険悪にしたかったわけではない。ただ純粋に、彼のせいではないと思っていたのだ。

 

(置いていかれる方の気持ちも知らないで、か……)

 

 あの時の、堪らない苦痛に満ちた目が、目蓋の裏に焼き付いていた。

 自分たちが離れていた空白の時間に、何があったのかヒアシは知らない。だが、それがどうしようもなくサクを苛んでいることは、あの一件以降、痛いほどに伝わってきた。

 ともすれば、護りたいものを護ることができたという喜びすらも、自分勝手なものだったのかもしれない。

 

 イビルジョーを谷底に突き落とした、あのナルガクルガの悲痛な声が脳裏を過ぎった。

 

(あの竜は……)

 

 一体、何を想って鳴いたのだろう。

 あんな怪我を負ってまで、何を守ろうとしたのだろうか。

 やはり子どもを守るため、それとも、伴侶や友を守るためか。

 

 あのナルガクルガに、自分とサクのどちらを重ねているのかさえ、わからなかった。

 

 ヒアシは暗闇の中で、静かに目を閉じた。

 

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