寒空の中、サクは居住区から集会所へ続く橋を怒りを滲ませた足取りで渡る。このむしゃくしゃした気分を抑える為に、もう酒を飲んでしまおうという魂胆だ。
だが扉を開けて飛び込んできた風景に、サクは頭痛がして、思わず目を押さえた。
(そうだった。すっかり忘れてた……)
新大陸では、アステラでもセリエナでも一定の周期でそれぞれの宴が開催される。
仕事を頑張れるように楽しみを作るため。月の間隔を思い出すため。ただ単に旨い飯と旨い酒を飲む口実を作るため。
理由は様々だが、賑やかな宴を心待ちにしている者は少なくなかった。
そして今セリエナの集会所「月華亭」には、星を象った装飾が、あちこちに散りばめられている。外は灯籠が絶え間なく上っており、幻想的だった。
そんないかにも冬らしい装いは、普段であれば心躍るだろう。しかし喧嘩して飛び出してきた人間を受け入れるには、些か派手すぎた。
人の少ない深夜の集会所に逃げるつもりで来たのに。しかも、よりによって「大感謝の宴」ときた。最悪の気分だった。
サクは鼻をすすり、それはそれは大きな溜息を吐いた。幸せが逃げることなど、気にするものか。
かと言って、夜も遅いというのに外にもたくさん人がいるのを見たし、話しかけられるのも面倒だ。
すぐに自宅に戻るのも癪だった。
アステラと違ってあまり広さのないセリエナでは使えるスペースが限られており、独りになれる場所も少ない。
サクは仕方なく人目につきにくい奥のテラス席を見つけ、酒場の受付嬢に注文をした。
今日は高い酒を味わうのではなく、安い酒を流し込みたい気分だった。
セリエナの集会場は、建物自体が大きな吹き抜けになっている。
設立当初は「寒い」「風が身に染みる」などという苦情が寄せられたものの、なんだかんだで改築などもされずに親しまれていた。
併設する温泉の湯との温度差は少々身に堪えるものの、心地よさに長湯してしまってのぼせる、なんて事態はあまり聞かなくなった。閉じた酒場特有の酒気と煙草の匂いも全く染みつく気配がないので、これはこれで受け入れられているのだった。
実際、かなり不本意ながら席についていたサクも、屋内なのに粉雪混じりの外の空気が当たってくるという特性の恩恵に預かっていると言えた。
冷えた空気に当たり、ぼんやりと空を上っていく灯籠を眺めているうちに、針山のようだった心の棘が、少しずつ落ち着いてきていた。
数の少ない青色の灯籠を見つけた時、幼馴染みの瞳に浮かんだ激情が脳裏に蘇った。
サクは短く息を吸い、肺が空になりそうなほど長く吐き出した。
(勢いとはいえ、なんであんなこと言っちゃったんだろう)
もしも立場が逆だったとしても、激昂するだろう。冷静になって考えてみると、あまりにも不躾な言葉だった。
そもそも、いくらバディでも相手の詳しい懐事情など知る由もない。完全に口喧嘩の勢いで出まかせに言ってしまった。
「僕の馬鹿ほんと馬鹿……」
サクはぶつぶつと独り言ち、髪を鷲掴んで項垂れる。ただでさえ四六時中キリキリと痛かった胃が溶けてしまいそうだった。
拒絶された悲しみとショックに加えて、激しい後悔が、遠くの優しい光をぼやけさせた。
その時、後ろから突然肩を叩かれ、サクは咳き込んだ。
少し時は戻って、サクが居住区を飛び出した頃。
カウンター席で女人がひとり、物憂げにグラスを傾ける。落ち着いたルージュは、彼女を年相応に魅せる。
普段は気軽に絡みに行く周囲の男衆は、彼女の霧のかかった朝のような雰囲気に、踏み止まっていた。
彼女の名は、ヴァイオレット。
菫がかった群青のアビスマリンの耳飾りが揺れる。
ヴィオラの愛称で親しまれる彼女こそが、調査団の期待を背負う、導きの青い星であった。
集会所の喧騒の中で、ヴィオラが座る辺りだけに静かな空間があった。
グラスの氷が溶け、からん、と音を立てて下に落ちる。
ヴィオラは、艶やかな髪を指に絡ませては解いていた。そんな意味のない戯れを繰り返すうち、ふと奥の人影に気付く。
少し癖のある短い黒髪には、見覚えがあった。彼も一人であるようだが、その後ろ姿はいつもの彼と違い、哀感が漂っている。
ヴィオラはやれやれ、と溜息をひとつ吐くと、徐に立ち上がった。
自分に寄せられる視線は気にも留めず、彼のいるテーブルへ、すたすたと歩く。それでも顔を上げる気配のない彼に、彼女は軽く景気付けをすることにした。
咳き込んだのは決して驚いたからだけではない。数秒経っているというのに、まだ叩かれたところがジンジンと痺れる。
こちらに構うなという雰囲気を少なからず作っていた筈だが、相手が気にしていないのか、自分が情けないだけなのか。
「まったく、あんた何そんな辛気臭い顔してるんだい」
サクが振り返ると、豊かな髪を横に流した女性が、腰に手を当てて立っていた。
「ヴィオラさん……」
サクは慌てて下瞼に溜まった涙を拭った。
「ご無沙汰、しております」
「やだね、ちょっと会わないうちに人見知りかい。堅苦しい敬語なんてやめとくれよ、わたしらは同期じゃないの!」
ヴィオラは豪快に笑った。並の男衆よりも筋肉質な女人の腕が、ばしばしと音を立ててサクの肩を叩く。
「いだだだだ、痛いって」
「ははは! 悪い悪い」
彼女からすれば、ほんの僅かな力で叩いたつもりだったのだろうが、日頃から大槌を振り回す筋力に、病み上がりの身体が悲鳴を上げる。
彼女がサクの人を寄せない雰囲気になど、屈する筈がなかった。
「隣失礼するよ」
ヴィオラは近くにあった椅子を引き、長い足を組んで腰掛けた。それから給仕係のアイルーを呼び止めると、ウィッチシードルを注文した。
「今は一人かい?」
「ご覧の通り」
ふうん、とヴィオラは事も無げに流す。
程なくして、アイルーがお通しと共に重たそうに運んできたジョッキを美味そうに煽る。今日はもう完全にオフの日らしい。
独りになるために来たのに、とサクは内心ぼやく。
ヴィオラとは、幾度か怪我の手当てをするうちに顔見知りになった。細かな傷は多いものの、そのいずれも綺麗な受け方をされていた。
多くの女性ハンターは同性に治療を頼む。だがヴィオラはそんなことはどうでも良い、むしろ話し相手にちょうど良いのだと言って、しばしばサクがその傷を請け負っていた。
最近は他の調査員の担当である日が多かったため、たまに遠目で見かけるくらいだった。
ヴィオラが動くたびに、雪の結晶のような細かい装飾がキラキラと光っていた。
冰龍・イヴェルカーナを制した者のみが纏うことのできる、雪崩の異名を持つドレス。世辞抜きで美しいが、大きく開いた胸元は、正直目のやり場に困る。
サクの居心地悪そうな様子に気づいたのか、ヴィオラはテーブルに肘をつき、妖艶に紅を弓形にする。
「わたしの相棒がね、宴の飯が食べたいって言うから、どうせならと思って一張羅で来たのさ。どうだい、見劣りはしないだろう?」
「はあ……よく似合ってる」
「あら嬉しいこと」
「その相棒さんは今どこに?」
「あの子は帰ったよ、もう夜も遅いからね。飲み相手を探してたら、あんたが居たってわけさ」
ヴィオラはジョッキをちょっと持ち上げて見せた。
ヴィオラとそのバディである編纂者は、五期団の推薦組だ。つまり、彼女こそが調査団の誇るエースだった。
ヴィオラは、誰よりも早く標的の元へと駆け、自らの胴よりも太い得物を軽々と振り回す。狙い澄ました精密な一撃は、地を啼かせる龍すらも沈めた。
その実力を買われ、未知のモンスターの調査へとよく駆り出されているが、その分傷を受けて帰ってくることも多かった。
現に今も、煌びやかな装飾に隠れた包帯が、時折顔を覗かせている。
「わたしはさっき、導きの地の調査から帰ってきたんだ。……フフ、聞いて驚きな。猛り爆ぜるブラキディオスが見つかったんだよ」
猛り爆ぜるブラキディオスの名に、サクは視線を上げる。
「ああ……あの特殊な粘菌の?」
「そうさ、あのおっかない粘菌のヤツだよ」
「それはすごいね」
勿論リアルタイムでのことだろうが、ヴィオラは敢えてサクが食いつく話題を選んだのだろう。
しかし、普段なら興味の湧く専門分野の大事件にさえあまり感動を覚えることができず、サクは自分でも驚いていた。一体自分はどうしてしまったのだろう。
サクの反応の薄さに、ヴィオラは肩透かしを食らったような顔をしていた。
少しの間サクの様子を眺めていたが、やがて辺りを見回し、再び肘をついた。
「ねえ、あんた」
ウェーブのかかった黒髪が、はらりと一房落ちる。とろりとした琥珀の眼差しが、こちらを見上げた。
「良ければ、この後ウチで飲み直さないかい?」
そんな前屈みになられると、どうしたって豊かな谷間に目が行ってしまう。彼女の雰囲気に呑まれそうになり、サクは咄嗟に視線を逸らした。
思わず思春期の少年のような反応をしてしまった。だが大抵の人間は、ヴィオラにこんなふうに誘われたら生唾を飲み込むだろう。
「家で」とはつまりそういうことだ。その意味するところに、サクは束の間頭を悩ませたが、やがて首を横に振る。恥をかかせるようで申し訳ないが、最近は欲すら湧かなかった。
「悪いけど、今そういう気分じゃないんだ。他をあたって」
サクが断ると、ヴィオラは鼻にかかった笑い方をした。これは酔っている。
「いいじゃなぁい、今夜はオトモがモンニャン隊メンツのとこに泊まりに行っちゃってるんだ。付き合っておくれよ、一杯だけでいいから。ね、一杯だけ!」
「わっ」
ヴィオラはサクの頭に、それまでハンマーに巻いていたアストラの布を雑に被せた。それからサクの脇の下に腕を突っ込むと、そのまま引きずって行く。
はて。”良ければ”とは、辞書に一体どういう意味として載っていたのだったか。
冰龍の息吹でキンと冷えた宮廷鎚の刃が、目前に迫る。ハンマーというより斧のような形状のそれは、サクの抵抗する気をいとも簡単に削いだ。
「ちょ、まだ飲み終わってないんだけど!」
「代わりに、うーんと良いのをご馳走してあげるよ。美女にお酌してもらえるなんて嬉しいだろう?」
いくら性差があるとはいえ、日頃から鈍器を振り回す筋肉には敵わなかった。
流石にいい歳をして駄々をこねるわけにもいかず、サクはおとなしく付いて行くことにした。
「へへ、今日の青い星はアイツをお持ち帰りだとよ」
「俺なんか、まだ声すら掛けられてへん」
「ウルファだから、誰か分からないわね」
酔っ払い達から冷やかしの口笛を吹かれ、サクは不可思議に煌めく布を深く下げた。この時ばかりは、支給品のコートを羽織っていて良かったと思う。
別にやましいことがある訳ではないのだが。いや、あるのか。彼女の真意は分からないが、仮にそういう展開になったとしても、今の自分にそれを期待する余裕はありそうになかった。
仕方がない。あのまま集会場にいるのもどうかという雰囲気ではあったし、何より今は家に帰りたくない。この夜を過ごす居場所があるなら、もうそれでいい。
何もかも投げやりな気持ちをため息に変えて、サクはヴェールの靡く彼女の背中を追った。
青い星の住居は、さもありなんと言うべきか、集会場から専用の通路を通ればすぐに辿り着ける場所にあった。
一瞬、セキュリティとかプライベートを考えてしまったけれど、それこそ、彼女が青い星だから成り立ち、維持される距離感なのだろう。
玄関の前でつま先を地面に叩きつけると、泥混じりの濡れた雪が落ちる。セリエナの道はそこまで綺麗とは言えない。他人の家に入るときには、入念に泥落としをするのがマナーだ。
ドアを開けるやいなやルームサービスを呼び、退出するよう伝えると、ヴィオラはサクを中に通した。
「ほら、入った入った」
「お、お邪魔します」
部屋に入ると、外の空気とは一変して不可視の温かい層が全身を包む。
それまで顔を隠していた布を捲ったサクは、目を丸くした。
廊下が水槽のトンネルになっており、寒冷地の魚達が優雅に泳いでいる。青い水の中は、陸珊瑚の台地を小さくしたらこんなふうになるのではないか、といった様子だった。
壁に水紋の揺れる廊下を進むと、開けた空間に出た。サクは、今度は違う意味で目を見開く。
質素な家具に、控えめな灯り。自分たちの住居と、そう変わらない。先程の水槽からして、てっきり導きの青い星ともなれば、豪華な部屋が充てられているのだろうと思っていた。
ヴィオラの華美なドレスが、どこか浮いて見える。
「コート貰うよ」
「え? あ、はい」
彼女に言われるがままに外套を外して手渡す。ヴィオラは受け取った外套の裾が床につかないように軽く折りたたむと、衣紋掛けにそれを吊るしに行く。
そこまでしてもらって、ようやく自分の気の利かなさに気が付いた。ウルファの装備は室内ではやや過剰すぎる防寒服だから、それを脱ぐことになるのは少し考えれば分かるはずなのに。言われてから動くなんて、母親に面倒を見られる子どものようだ。
ただ、女性の部屋なので勝手ができないのも事実。「こっちだよ」という声に大人しく従うしかない。サクは少し赤面しながら彼女と隣の席に着いた。
四人ほどが囲めそうな木製のテーブル。その上には簡素ながら湯気の立つスープやパンなどが置かれていた。ルームサービスの手配だろうか。家主がいつ帰ってきても軽食をいただけるように、常に準備しているのかもしれない。
「それ、自由に食べていいよ。お腹が空いているんなら、だけど」
「……いえ。今は、ちょっと。酒も入ってるので」
「そうかい。まあ気が向いたときに口に運んでくれればいいさ。冷めてても味は悪くないよ」
流石にオバーチャンの料理には敵わないけどね、と呟きつつ、彼女はバゲットをひとつ千切って口に運ぶ。
……なんだか、彼女に言われるがままに振る舞った結果、どうしてか席に座って飯を食べる流れになった。何故、なのだろう。それこそ、集会場でやればいいのに。
そんなサクの困惑を感じ取ってか、彼女は手についたパン屑をナプキンで拭き取る。
そして数秒の沈黙を挟んでサクの方を向き、唐突に口を開いた。
「……で? 一体何をそんなに悩んでるんだい、あんた」
ヴィオラは、今度は自室のテーブルに肘をつき、凛々しい声で話を促す。
先ほど、散々面倒臭く絡んできた酔っ払いと同一人物だとは思えない。あの話し方は演技だったのだと、今になって気付く。
どう説明したものかとサクが口籠っていると、ヴィオラは伸びをした。
「安心しな、わたししか聞いてない。ハンマーを振り回す怪力女の部屋を覗こうなんざ、誰も思わないだろうさ」
ヴィオラの言葉に、サクは目を瞬かせた。
確かに、ここならば誰にも話を聞かれない。ヴィオラは初めからこのつもりだったようだ。
この人には敵わない、と苦笑する。
サクが礼を言うと、ヴィオラは面倒臭そうにひらひらと手を振った。
「礼なんか後でいいよ。……仕事かい、それとも人間関係?」
「どっちもあるけど、特に人間関係。バディと、うまくいってなくて」
「あら珍しい。あんたら、いつも仲良さそうなのにねぇ」
サクは目を伏せ、膝の上で指を組んだ。
「全部、僕が悪いんだ。このままじゃ……バディを解消されても、僕は何も言えない」
そのあまりに気落ちした様子に、ヴィオラは慌てて椅子をサクの方へと移動し、斜め前辺りに座った。
「待て待て、本当に何があったんだい? あんた達、ついこの間でかい任務を終えたばかりだろ」
サクとヒアシが達成した陸珊瑚の台地の調査およびイビルジョーの狩猟は、ヴィオラ達の調査した地啼龍アン・イシュワルダの件の陰に隠れる形になっていた。
しかし、大規模な任務クエストの話は、推薦組レベルの人間の耳には入る。意欲的に仕事を行なっている人であれば、尚更だった。
「そこで、バディが大怪我をして」
「ああ、同期から聞いたよ。腕飛んだ、ってね。でも、相手はあのイビルジョーの特異個体で、下準備も何もない遭遇戦だったらしいじゃないか。言い方は悪いけど、二人がかりでそれなら……御の字だと、わたしは思うよ」
ヴィオラの慰めに、サクは萎々と俯く。
「それがそもそも問題だった。僕が出しゃばったから、バディのヒアシも道連れにする形になったんです。編纂か救護の方に回っていれば、ヒアシはあんな怪我をしなかったかもしれないのに」
サクは手首を白くなるほど握り締めた。
後悔が溢れて止まらない。もしあの時ほかのハンター達に任せていたら、きっと違う結末があった筈だ。
「つまり、あんたはヒアシの怪我は自分のせいだって思ってるわけだね」
サクはこく、と頷く。
「僕がイビルジョーのブレスを受けて動けなくなったから、ヒアシが庇ってくれて……結果的に、その一撃が元になってイビルジョーは力尽きた。…………でも、その代償が……」
「──ヒアシの左腕だった、ってわけか」
ヴィオラは敢えてはっきりと告げる。
サクは下唇を噛み締め、再び頷いた。
「失ったものは、取り戻せない。だからこそ、少しでも力になれたらと思って、義手代は僕が工面したいって伝えたんです。……でも、断られてしまった」
「それで喧嘩になった、と」
サクは押し黙る。その沈黙こそが、何よりも明確な答えだった。
イビルジョーの件からずっと、まともに眠れていない。瞼を閉じる度に、父とヒアシが喰われる光景を見せつけられる。夢の中でも、自分はどこまでも無力だ。
そんな状態の中、休みなく働けばどうなるか。誤って注射針で自分の指を刺したり、調査ポイントの位を間違えたりと、普段はしないようなミスをして、周りにも迷惑をかけるばかりだった。
様々な要因によるストレス、限度を超えた過労、不眠、そして消えないトラウマ。
酒が入っていることもあるが、それらが重なってサクの精神を蝕み、次第に心の脆いところが露わになってきていた。
サクは震える息を吐き出す。
「僕の弱さに、ヒアを巻き込んじゃったんだ。これじゃあ、お父さんが亡くなった時と同じだ。ぼくが何も成長してないから、また大事なひとを傷つけて……だから、自分ががんばって、償わなきゃって」
ずっと胸の中で燻っていた本音が溢れ、サクは手で顔を覆った。幼馴染みの呼び名が昔のものに戻っていることすら、気づかなかった。どうしようもなく泣きたい気持ちなのに、涙が出てこない。
そんなサクを見かねて、ヴィオラは肩を叩く。今度は、優しい手付きだった。
「傷ついてるのは、あんたも同じじゃないか。もうちょっと自分を労ったって良いんだよ」
頷くことも首を横に振ることもできず、サクは顔を伏せる。少しの間、沈黙が降りた。
やがてヴィオラは一つ息を吸い、腕を組んだ。
「アクシデントは、起こる時には起こる。どんなに気をつけて確率を下げたって、0.1%の方に当たることだってあるんだ」
「だとしても、ヒアシが無事でいたほうが、組織にとっても良かった筈です。それなのに、また僕なんかが助けられて、ヒアシは大怪我を負って……」
サクは苦しげに呻く。
「僕が身代わりになれたら、どんなに──」
「やめなさい」
ヴィオラはぴしゃりと言い放った。
「そうしたら、今度はヒアシが悲しむよ。第一あんたの相棒は、それを防ぐために身を挺してあんたを庇ったんじゃないのかい」
サクはハッと目を見開き、顔を上げる。
「何かを守ろう、って思うのには」
ヴィオラは、サクに静かな眼差しを向けた。
その目には、あの時のナルガクルガと同じ色が浮かんでいた。守りたいものを、守れなかった者の色だ。
「必ず、理由がある。例えそれが大きかろうと、どんなに些細だろうと」
その一言一言に、まるで血が通っているような温もりと重みがあった。
サクはじっとヴィオラの言葉に耳を傾ける。
「要するにあんた達は、お互いに相手がどうして自分の為にそこまでしたのか、ですれ違ってる訳だろう? 相棒があんたを助けようとした時、何か言ってなかったかい」
その刹那、脳裏にあの時の光景が蘇る。
──いき、てて……く、て……よかっ、た……。
顔色は真っ青で、呼吸すら辛そうだというのに、どこまでも優しい光を湛えていたあの群青を。
「あ……」
ぽう、と光が灯ったかのようだった。
「あの時、生きててくれてよかった、って。僕に、そう言った……」
しかしサクは悲しげに眉を下げ、力なく首を横に振る。
「でも、僕はヒアシに無事でいてほしかった。本当に、僕はそんなふうに思ってもらえるような人間じゃないから……」
「あんたはそう思ってるんだろうけどね。その気持ちも分からないでもない。……でも、案外周りはあんたのことを大事に思ってるんだよ、サク」
ヴィオラはサクの手に自分のそれをそっと重ねる。手袋を外しているとはいえ、ドレスの影響で冷たい筈なのに、どこか温かい手だった。
「ヒアシだって、あんたが大切だから護った筈さ。幼馴染みなんだろう? こっちに来てからずっと一緒に居るんなら、それが伝わる瞬間もあったんじゃないのかい」
視界の端にあった暖炉の火が、どんどんぼやけていく。涙腺が馬鹿になっている、と思った。
いくら年上とはいえ、女人に情けないところを見せたくない。サクは唇を内側に巻き込んで俯いた。
そんなサクを見て、ヴィオラはやや大袈裟に「よっこらせ」と立ち上がる。
それから、自分は何も見ていないと言わんばかりに、辺りを飛んでいたサンゴドリ達に餌をやり始めた。
「たんと食べな。食わなきゃ力が出ないよ」
彼らは調査のために捕獲してきた鳥達だが、今ではすっかり屋内での生活に慣れている。チチチ、と囀る様が愛らしい。
ヴィオラの気遣いに感謝しながら、サクは暫くの間ハンカチに顔を埋めていた。