蒼赤一閃   作:蒸しぷりん

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更待月

 サクが落ち着いてきた頃を見計らい、ヴィオラは鍋で温めたポポミルクを出してくれた。

 それから自分も椅子に座り、薄黄色の甘い乳に息を吹きかける。

 

「そうさね。話してもらってばかりじゃあ何だし、むかし話でもしようか」

 

「むかし話?」

 

「ああ。今は遠い、西の国の話だよ。その国の、貴族に生まれた娘の話さ」

 

 ヴィオラは、パチパチ爆ぜる暖炉の炎を見つめて、話し始めた。

 

「現大陸に、シュレイド地方があるだろう。そう、黒龍伝説のそれさ。シュレイドには西と東にそれぞれ国があってね。

 東の国は山岳に囲まれた盆地にあるから、冬はとにかく寒いんだ。海沿いのセリエナとは少し違う寒さだけどね。

 でもキャラバンも発達してたから、人の出入りも多い場所だった。

 ガウシカやポポなんかが主な食糧だったから、彼らの鳴き声や追い立てる声が響く……。わたしの故郷は、そんな国なのさ」

 

 ヴィオラは、語り続けた。

 

「その大都市に、由緒ある貴族の家があった。それが娘の生家だったわけさ。

 娘は家族に囲まれて、何不自由なく暮らしていたよ。だからこそ、思い通りにならない暮らしというものに興味があった。

 娘は次女だったし、ある程度は拘束が少なかったから、ある日両親にわがままを言って、身一つで飛び出したのさ。

 ……あんた、ミナガルデには行ったことがあるかい?」

 

 問われてサクは首を横に振る。

 

「いいえ。故郷のユクモ村を出てから、ずっとドンドルマを拠点として過ごしていたので」

 

「そうかい。あそこは色々な人種が集まる、賑やかなハンターの街さ。

 そこには、とある腕の良いハンターが居たけれど、その人はもう高齢でね。だから、ハンターは何人か弟子をとったんだ。

 中でも秀でていたのが、ミーシャ。ライトボウガンを扱う、寡黙な青年だった。

 街にいた時、ミーシャとひょんなきっかけで出会って、娘は後の師匠のところに転がり込んだのさ」

 

 ヴィオラの目に、懐かしむような色が浮かんでいた。

 

「師匠は厳しい人だった。狩り場になんて最初は絶対に行かせてくれなかったし、朝から晩まで稽古に家事に、何でもやらされたよ。

 箱入り娘が皿洗いや床拭きのやり方なんて知るわけもないから、何度も怒られた。疲れて意識を飛ばそうものなら、拳骨が飛んでくる」

 

 ヴィオラは柔らかく笑った。

 

「必死に喰らいつく日々だったよ。そんな中で兄弟子のミーシャが気にかけてくれて、そのうち娘はミーシャと一緒に鍛錬をするようになった。師匠から散々しごかれた後に、夜遅くまで訓練場に残ってね。

 娘はミーシャとは違う武器を選んだけど、ミーシャは師匠の身体の動きを覚えるのが上手かった。だから、見たままの動きを娘に教えたのさ。

 娘は娘で、モンスターの動きを模して的を動かしてやって練習に付き合ったよ。そうして、二人は師匠の教えを叩き込んだ」

 

 なんとなく二人の行く先が読めてきて、サクは何故こんな話を自分にするのだろう、と不思議に思った。

 そんなサクをよそに、ヴィオラは楽しげに話し続ける。

 

「免許皆伝後のミーシャと娘は、ペアを組んで狩りをしていた。

 バルバレにドンドルマ、ギルデカラン……色々なところを旅して回ったものさ。途中の村に寄ったりもして、その時々で依頼を受けて回った。

 そうしているうちに、ハンターランクはどんどん上がっていった。どっちが手負いのモノブロスを狩猟するかで揉めたこともあったね」

 

 事もなげに言ってのけたヴィオラに、サクは顔を引きつらせた。

 手負いのモンスターは恐ろしい。それも飛竜クラスになると、G級──最高ランクの依頼として入ってくることが殆どだ。

 それなのに、あろうことか凶暴なモノブロスの依頼を受けようとする辺り、彼女が青い星になるべくしてなったのだと思い知らされる。

 

 ヴィオラが髪をかき上げる仕草に、サクの意識はそちらへと戻った。

 その時、ヴィオラの左薬指がきらりと光った。

 

(そういえば──)

 

 サクはふとあることに気付く。

 ヴィオラの左の薬指には、ノヴァクリスタルが埋め込まれた、ごくシンプルな指輪が嵌まっている。

 デザインから見て、おそらくそれは装飾というより、相手が居ることを示すための物。

 しかしカルテには独身であると記載されていたため、恋人を現大陸に残してきているのだろうと思っていた。

 

 ヴィオラの目に、かすかに哀しみの色が浮かんでいた。

 

「ずっと一緒に過ごしていれば、情だって湧く。……お互いに相手が唯一になっていることなんて、とうに分かり切っていたよ。

 でも、どちらも素直じゃなかったから、二人の関係が一線を越えることはなかった」

 

 ヴィオラの目の中の哀しみの色が深くなった。

 

「素直になれるくらい歳を重ねた時には、既にミーシャの身体は限界だったのさ。

 タンジアの港にいた頃だった。腹を痛そうに押さえることが増えて、目や肌がどんどん黄色くなって……。

 どんなに強い狩人でも、病に勝てるとは限らない。場所が悪くてね……手術すらも、できなかった。

 こういう時、ハンターにできることは何も無いんだ。何一つ、ね」

 

 ヴィオラの言葉にサクは絶句した。その症状と手術ができないということが、何を意味するか判ってしまったからだ。

 おそらく病に蝕まれていたのは、ミーシャの膵臓か肝臓だ。膵臓に重い病を患えば、再び健康に長生きすることはとても難しいと言われていた。

 

 武力、知力、行動力、免疫力……すべてに対して秀でた人間など、存在しない。

 病に対してハンターがあまりに無力であることも、サクは身に染みて知っていた。

 この新大陸でも病気になったり持病が悪化したりして、泣く泣く調査から降りるハンターを診てきた。

 調査団のハンターは比較的若い者が多いため、死に至ることは少ない。

 それでも、治る見込みがなく家族の元に帰るための船に乗る者や、劇症化して息を引き取る者も、零ではなかった。

 

 サクは相槌を打ちながら、ひたすらヴィオラの気持ちに耳を傾けつづけた。

 

「相方を亡くして暫くの間、娘は現実を受け止めることができなかったよ。朝起きるたびに、おはようってつい言ってしまうんだ。返事なんて来ないのにね。

 それでも、時間は容赦なく過ぎていくし、ミーシャとの別れの儀式も形式上は全部済んでしまって、自分の生活をしていかないといけないことに彼女は気付いた。

 ハンターが狩りをしなくなったら、後には何も残らない。だから娘はハンター業を続けた。生きていくためというよりもむしろ、他に何も考えないようにするために。

 自分への罰だけを求めて、何か、本当に怖いものを見ないようにするために」

 

 それは、とサクは小さく唇だけを動かした。それは今の自分、そしてかつての自分と同じだ。

 父親を目の前で失い、心に大穴が空いたようになったあの時の姿。そして今、ヒアシの怪我の重さを思い知って、逃げるように大量の仕事を求めた自分の姿が浮かんでくる。

 ぐさぐさと剣が心に突き刺さるようだ。苦しいけれど、不快とは少し違う。

 その剣の痛みはただ悲しかった。哀しかった。

 

 ヴィオラは、とうに温くなったポポの乳をひとくち飲み、話を続けた。

 

「ちょうどその頃、タンジアのハンターズギルドに、イビルジョーの狩猟クエストが入ってきた。生憎そこらで名を上げていたハンターは、溶岩島の調査に行っていたからね」

 

 イビルジョーの名に、サクはびくりと肩を震わせる。

 ヴィオラはそれに気付いているのかいないのか、淡々と話し続けた。

 

「その頃の娘は、ハンターとしてある程度の地位を築いていたから、推薦されない筈がなかった。

 イビルジョーは強かったけど、討伐するのはそう難しく無かったよ。ただ、その後が問題だった」

 

「その後?」

 

「そのイビルジョーにはね、想ってくれる相手がいたんだよ。しかもイビルジョーよりもずっと非力な存在だった。彼らの間に何があったのか、娘は知らない。

 それでも……よほど離れがたい存在だったんだろうね。相手が自分よりも力量が上であることくらい、わかり切っていた筈さ。それでも奴は、食ってかかってきた。かけがえのないものを奪った相手を、殺すために。

 その目に浮かんだ色が、ミーシャを病に殺された時の自分と、あまりにも似ていたから……娘は、号哭したよ。そこでようやく、ミーシャが死んだことが身に迫ってきた。

 やっと心の整理がついて独りで狩場に赴くようになった頃には、娘は大人の女になっていた」

 

 長い話がおわった時、薪はあらかた燃え尽きて、熾に変わっていた。やや薄暗くなった家の中に、静けさがもどってきた。サクが、つぶやいた。

 

「その娘が、あなたなんですね、ヴィオラさん」

 

「……そう、その娘がわたしさ」

 

 ヴィオラは、酷く寂しげに微笑む。

 

 この人にも、自分と同じ剣が深々と刺さっているのだろう。

 そう思うと、サクにはこれまでどこか人間離れした存在だと思っていたヴィオラが、あえかな女性に見えた。

 

「わたしが傍に居たかったひとは、ずっと前に、遥か彼方の星になってしまったけど……あんたたちは、星ほど遠くは無いじゃないか」

 

 サクはヴィオラを見つめた。

 

「大切にしたいと思うなら、どんな形だっていい。傍に居たいと思ったって、相棒として幸せを願ったっていいんだ。ただし、伝えたい言葉は、口に出さなきゃ伝わらないよ」

 

 ヴィオラは笑みを収め、とん、とサクの肩に手を置いて離した。

 サクは頷き、自分の胸に手を当てる。

 

「僕は──」

 

 自分は一体、どうしたいのだろう。

 五年前、タンジアの港で新大陸への船に乗ったのは、編纂者として渡らないかと誘いを受けたから。

 しかしそれは表向きの理由で、真実の理由は父親の死という柵から逃げるためだった。

 

 現大陸で、人間でありながら目覚ましい研究成果を出し、叩き上げの地位を手にした父の名は、それなりに広く知れ渡っていた。

 そして、あの悪夢のような事故を経て。彼が亡くなってから、周囲のあちこちから憐みの眼差しが向けられる日々。

 まるでお前のせいだと指をさされているようで、やがて研究室にすら行けなくなり、サクは崩れ落ちるように心を病んだ。

 同時に、あれほど望んだ研究の道からサクの足は遠のいていった。

 

(他の仕事を降りて、怪我人の治療に専念することも、今の僕にはできるんだよな……)

 

 息子を心配した母は、自分とて辛かっただろうに、これまでの経験を生かせる新たな道を提案してくれたのだった。そしてその経験は、現在も大いに生きている。

 

(ハンターとして武器を振るうのは……正直、もう無理だ)

 

 医療の勉強に少し慣れてくると、サクは学生時代の少ない稼ぎを注ぎ込んでギルドに足を踏み入れた。

 程なくして仇のフルフル亜種が、既に討伐されていたことを知り、自分の行動が無意味だったことを思い知った。

 自分がハンターと学術を両立できないことなど、とうに分かっていた。潮時だと区切りをつけるのを、いつまでも先延ばしにしていただけだった。

 

 新大陸に渡った後も、瘴気の谷には興味を惹かれたが、三期団の研究基地も極力避けていた。

 父を知りながら、父の死を知らない学者に声を掛けられるのが、辛かったからだ。

 

 そして今も、現実を変えようとしているように見えて、その実、責任の重さから逃れるのに必死になっている。

 ヒアシの為と言いながら、肝心な彼の気持ちに耳を傾けられていなかった。

 

(ヒアシは、どうすることを望んでいる……?)

 

 あの時ヒアシは、これからもこの地(新大陸)でハンターとして生きる道以外は考えられないと言っていた。

 そして、自身の怪我のことをサクが気負う必要はないとも。

 つまり、イビルジョーの一件が起こる前からできるだけ変わらない日々を過ごしたい、ということだろう。

 

 これまでの自分たちの関係。

 それは同郷の幼馴染みで、友人で、バディで、同居人で、理解者だった。

 もしこの先これらが崩れるとすれば、残るのは幼馴染みであるという肩書だけだ。

 

(──じゃあ僕は、これからヒアシとどう付き合っていきたいんだろう)

 

 サクは手の中のティーカップを覗き込んだ。円の中には、膜のできた真っ白な飲みかけの乳しか見えない。

 

 自分から金銭の話を持ち出した以上、ただの友人では居られなくなってしまった。

 それは覚悟しているし、ヒアシが最初に拒んだのは、サクがこの線を越えようとしたからだろう。

 

 勿論、罪の意識は大いにある。暫くの間はずっと苦しみ続けることになる筈だ。

 だがそれ以前に、ヒアシの為に自分にかかる負担など、どうでも良いと思ってしまえるくらいには、ヒアシはサクの心の深いところにいた。

 幼い頃のお互いを知っている上、こちらに来てからもう五年も一緒に過ごしてきたのだから、大事な片割れだと思っていた。

 サクがヒアシの言葉に傷付いたのは、彼にとってはそうではなかったのか、と思ったからだ。

 

 サクはポポの乳を飲み干し、カップをテーブルに置いた。そして、視線を上げる。

 

 もう一度話し合ってみよう。

 お互いの距離感を、ふたりの望む関係を探り合っていこう。

 それは、自分がこれから新大陸でどう生きていきたいか、ということにも繋がる。

 もしかしたら肩書きが減るかもしれないし、新しく増えるかもしれない。

 それでも──。

 

「今までだって、あいつが居てくれたから乗り越えられた場面はたくさんあった。だから、今度は僕が支えになりたい。その思いは変わりません」

 

「なら、その正直な気持ちを本人にお言いよ」

 

 ヴィオラは仕方ない子だね、とでも言いたげに目尻を下げ、頷いてくれた。

 

「ありがとう、ヴィオラさん。やっと自分がすべきことに気付けた気がします」

 

 サクは憑物が落ちたようなさっぱりとした笑みを浮かべる。

 第三者の力を借りて、ようやくずっと頭を悩ませていた事柄に整理がついた。あとは、これらをお互いの心にどう収納していくかだ。

 

「なに、お互い様だよ。……まあ、もしうまくいかなくても、慰めるくらいはしてやるさ。ハグでもしようか?」

 

 冗談めかしたヴィオラの言葉に、サクは肩を竦めて苦笑した。

 

「そうならないように頑張ります」

 

 ヴィオラは満足げに口角を上げ、伸びをした。

 そして一拍置いてサクに視線を向け、「で、」と切り出した。

 

「あんたはちょっと寝て食べたほうがいいね。うちのリーダーに話つけとくから、二、三日休んでおきな!」

 

「えっ」

 

 唐突な休暇宣言に、サクは目を瞬かせる。

 休む間を惜しんで皆が働いている時に、この人は一体何を言い出すのか。

 

「そんなこと言われても、今週は休みなんて──」

 

「あの心配性な兄ちゃんが、今のあんたの働き方を知って許すと思うかい?」

 

「ええ……調査班リーダーにバラす気満々ですか」

 

「勿論。職場はホワイトでなきゃね」

 

 サクが顔を顰めると、ヴィオラはけらけらと笑った。

 

「あんた一人が無理しなくても、この組織なら大丈夫だよ。存分に休んで頭を冷やしてから、目の前のことに向き合いなさいな」

 

 とん、と胸を指で突かれたような心地を覚え、サクは目を瞬かせた。

 人手が足りないからと気を張っていたが、今思えばなんだかんだで現場は回っていた。休んでも、良いのだろうか。

 

 考え込むサクをよそに、ヴィオラはソファに移動して寛ぎ始めた。

 「そうそう」と声を掛けられ、サクは顔を上げる。

 

「別にこの後ウチに泊まっても構わないけど、今のあんたじゃ、わたしが居ると眠れないだろう? 気持ちも落ち着いただろうし、さっさと帰って寝な」

 

 サクは頷き、礼を言った。豪快でありながら、どこまでも行き届いたヴィオラの気遣いが有り難い。

 

 

 

 鍵を開け、おそるおそる自宅のドアを開ける。真っ暗な空間は、しんと静まり返っていた。どうやら、ヒアシとミランはもう寝ているらしい。

 サクは足音を立てないよう、慎重に洗面所へ向かった。

 鏡に映った、ランプの灯りに照らされた自分の顔は、どことなくすっきりしているように見えた。

 

 自室に戻ると、籠に外行きの服を放り込み、寝巻きに着替える。温かい飲み物を出してもらったとはいえ、すっかり湯冷めしてしまっていた。

 サクは震えながらベッドに潜り込んだ。

 

 半刻ほどの間、何度も体勢を変えてサクは溜息を吐く。

 疲れて眠たい筈なのに、目を閉じても一向に寝付けない。先程まであんなに意気揚々としていたのに、独りになると途端に不安が襲ってきた。

 

 ヒアシに自分の気持ちを伝えたとして、もし再び拒絶されたら。

 顔も見たくないと言われて、本当にバディを解消されてしまったら。

 急に休みが欲しいなどと言って、代わりの誰かに過度の負担がかかってしまったら。叱責を受けるだろうし、そもそも休みなどもらえないかもしれない。

 

 いくつもの悩みの種が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。昔から何か心配事があると眠れなくなる質だった。

 サクは徐に身体を起こし、暗闇の中でも慣れた手付きで棚の引き出しを開ける。そこからネムリ草由来の錠剤を取り出すと、台所に向かった。

 

 

 

 翌日、サクの思惑は良い意味で裏切られた。

 

 出勤した時には既に話は通っていたようで、サクは朝一番に調査班リーダーに呼び出された。

 信頼を置いている青い星からの頼みに、仲間思いの彼が首を縦に振らない筈がなかった。

 ついでにサクが、なぜ早く申し出なかったんだと怒られたのは、言うまでもない。

 最低限の仕事を終えると、そのまま帰されてしまった。なんと風通しの良い職場だろうか。

 

 数時間後、サクは仮眠をとってから夜勤に入った。

 その際、駄目元で救護班リーダーにも相談したところ、拍子抜けするほどあっさりと話が通ってしまった。

 

「休みが欲しいって? いつ? ……良いわよ、そんなフラフラな状態でいられた方が困るわ。しっかり体調を戻してから帰ってきなさい!」

 

 などと言って。手厳しくも優しい上司たちに、頭が上がらない。

 

 そうして、翌朝の申し送りが終わった後から、久方ぶりの何もない休日が訪れた。

 こんなトントン拍子で進んでしまって良いものだろうか。正当に休みをもらっている筈なのに、焦燥感が拭えず落ち着かなかった。

 

 ヒアシはサクが帰ってくる前に仕事に出かけてしまった。

 だがテーブルには、まだ湯気の立つ食事が置かれていた。喧嘩をしていても、サクの分の朝食までちゃんと用意してくれるあたりが彼らしい。

 

 蜂蜜とバターのトーストをかじりながら、少し温くなった珈琲を飲もうとカップを持ち上げた際、何かがはらりと落ちた。

 

「ん?」

 

 それは小さな紙切れだった。

 その中央には少し崩れた、しかし見慣れた丸い字が綴られていた。

 

──すまないが、義手代は先に自分で払う。この件については、また話し合おう。

 

「ヒアシ……」

 

 文面を読んでも、怒りは湧いてこなかった。

 わざわざこうして置き手紙を残してくれたこと──ヒアシはこちらに対して最大限の思いやりを示してくれたのだから、それはそうかもしれない。

 

 サクは書き慣れていないその文字をそっと指でなぞった。左利きだったヒアシが、きっと右手で一生懸命書いたのだろう。

 ここまで書けるようになるのにも、かなりの苦労を要した筈だ。器用な彼のことだから案外すぐに獲得してしまったかもしれないけれど、その過程で葛藤もあったに違いない。

 ヒアシの自立に対する思いが、伝わってくるような気がした。

 

 ヒアシは二十八歳だ。

 ハンターとしてではなく、人としてはまだ若いと言える年齢だし、復帰の意志も強かったことから回復や適応が早いのも頷ける。

 利き手を失っても、そのうち大体の日常生活行動も自分だけでこなせるようになるかもしれない。

 

 そうであるならば、自分ができる支援は何か?

 どうしても生じる不便を軽減することや、身体を労わること、心理的なケアをすることなどが求められるのではないだろうか。

 自分があれこれ口を出すのではなく、助けが必要な時にだけ応じるという形ならば、ヒアシの自己効力感と自尊心を尊重できるだろう。

 この文面を見る限り、全面的に拒絶されてしまうことは無いと確信が持てた。

 

 だがヒアシは性格上、きっと自分から積極的に周りを頼ろうとはしない。だからこそ言葉のない求めを感じ取り、頼る相手がいるのだということを伝えるべきだろう。

 まずは、そこからだ。

 

 サクは掌をじっと見つめ、拳を握った。

 

 金銭でなくても、目に見える何かでなくても良い。自分にできうる限り、たった一人の幼馴染みを傍で支えていこう。

 それこそがヒアシへの償いであり、自分を助けてくれたことへの感謝を示す手段だ。少し気恥ずかしいが、近いうちに言葉でも伝えたい。

 

 その日サクは、久方振りに夢を見ないで眠ることができた。

 カーテンの閉められた窓の外には、雪がこんこんと降っている。

 サクの安らかな寝息を、振り積もったそれらが外の音を吸収して、静かに見守っていた。

 


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