船体が波を切る音が、断続的にくぐもって聞こえる。そろそろ流氷の浮かぶ区域を抜ける頃だろう。
小窓から差す帯は、朝の澄んだ光から昼の眩しいくらいのものに変わっていた。
仕事をする者や、昼間から酒盛りをする者などで船内は騒々しい。そんな中、一人の細身の男が物思いに耽っていた。
男──サクは何をする訳でもなく、手に持った紙切れをぼんやりと眺めている。
それは、相方に長年連れ添っているオトモアイルーからの伝言をメモしたものだ。
主とサクがうまく意思疎通が図れていない状況の中、ミランはわざわざ時間を合わせて話しに来てくれたのだった。
彼女本来の性格もあるだろうが、こういうところはずっと一緒に居ると似てくるものなのだなと思う。
──あのね、アステラでサクさんに会いたいって人がいたのニャ。
セリエナならともかく、アステラで自分と関わりの深い人など居ただろうか。心当たりを探すサクに、ミランはこんなことを呟いた。
──四期団の研究者さんで、金色の髪の綺麗なおんなのひとだったニャ。確か名前は──……。
研究者。金色の髪。女性。
その特徴を聞き、サクは束の間何も言うことができなかった。
だって、その条件で思い当たる人物はひとりしかいない。忘れる筈がなかった。
(まさか彼女が、
既にアポイントメントは取ってある。ミランの言う人物が本当に彼女であるなら、すぐにわかるだろう。
「モナさん……」
サクは口の中で呟く。
それはかつての呼び名。互いに心を通わせ、共に歩む未来を夢見たこともあった。
自分が守りたかったひと。守り続けることができなかったひと。
あの事故で自分がモーネを庇ったことで、父は命を落とした。決してモーネのせいではない。それでも、暫くはまともに彼女の顔を見ることもできなかった。
もしもあの事故のとき、自分たちが一緒にいなければ、結末はまた違うものになっていたかもしれない。新大陸に来ることもなく、ごく普通の家庭を築いていたかもしれない。
だが、過ぎてしまった過去は二度と変わることはないのだ。
モーネは今、どうしているだろう。
彼女は一体どんな思いで、何の目的で自分に会いたいなどという伝言をしたのだろうか。こんな甲斐性のない男に。
会ってみるまで、モーネの真意はわからない。再会してから彼女にかける言葉を探すけれど、いくつも浮かんでは泡のように消えていく。
(──もし、やり直したいと言われたとして……)
この新大陸で、もしくは現大陸に帰って。また恋人として傍に居たいと思ってくれたとして。
果たして自分は、その思いを受け入れることができるだろうか。悲しみと混乱のあまり、一度はモーネのことが大切かどうかさえ判断できなくなった。そんな自分が、彼女を一人の女性として幸せにできるのか。
(……ああ、また迷ってばかりだ)
復縁しても絶対にうまくいくという保証はないし、結婚にまで至るかもわからない。
けれど、もし子どもを望むなら相手の年齢や国への帰還も考慮しなければならない。男性と女性では、流れる年月の重さも意味も異なるのだから。
自身も研究者である母から、ずっと言い聞かされていた言葉だった。
そうは言っても、自分が夫となり子の父親になる姿は、うまく想像できない。
そもそも新大陸古龍調査団の一員としてここにいるのだから、研究をしたいがために来ている筈だ。そんな彼女が、探究心よりも生活を取るだろうか。
それに、自分の気持ちもわからないまま先へと思考を巡らせるのは、モーネに対して失礼だと思った。
(何はともあれ、会ってみるしかない)
自分はこれからどう生きていきたいのか。
仕事を取るか、生活を取るか。
勿論、ヒアシを傍で支えたい気持ちや、新大陸で調査を続けたいという気持ちも大きい。そしてこれらは、決して矛盾するものばかりではない。
船は止まることなく進んでいく。
アステラに着くまでサクは仲間の輪に加わることもせず、ただただ波に揺られていた。
***
朝の日差しがちかちかと雪に反射する。瞬きをすると、目蓋の裏に景色そのままの残像が見えた。
針葉樹のそびえ立つ雪原の中、ヒアシは腰をかがめて草陰に隠れていた。ここは渡りの凍て地の中でもエリア一と呼ばれる区画だ。
目線の先にいるのは、凶暴な肉食モンスター……ではなく、巨大なポポ。
彼らは労働力としてだけでなく、肉は食糧、骨は資材、そして脂は燃料としても重宝されていた。成熟した個体であれば、一頭分だけでも多くの調査員の腹が膨れる。
今回のクエストは、物資班リーダーからの依頼だった。
古龍イヴェルカーナの到来によって苦しくなっていた食糧事情が回復してきたため、また何かあった時に備えて貯蓄する分の肉が欲しい、というわけだ。
普段はあまり受けない任務であったが、今回は体調や義手の具合の確認も兼ねている。おとなしい草食モンスターの討伐とはいえ、ただ狩れば終わる、という簡単な仕事ではない。
「それじゃあ行ってくるのニャ」
「頼んだぞ、ミラン」
小声でオトモアイルーの背中を見送る。
セリエナへ続く道の中で、平らな場所を通っていけるルートは一つ。
そのルートには肉食の翼竜コルトスに加え、獣纏族ボワボワと呼ばれる部族の縄張りがある。
調査団は一部の部族と友好関係を結んでいるが、フィールドにいるボワボワ達は異なる種族だった。ボワボワ達に敵意がないことを示し、道を譲ってもらえるよう交渉することが、今回のクエストの鍵だ。
ミラン達オトモアイルーは、覚えた異種族の言葉についての勉強会を積極的に行っているらしい。ここぞとばかりに磨いてきた腕を試そうというわけだ。
「お、早速こっちに来たぜ」
ポポの群れの動きに、隣で同僚のエドが囁く。
ヒアシとミランのほか、このクエストに参加しているのはエドとキャスリーンの二人だ。どちらも五期団のハンターで、力には自信があるという。セリエナでは度々話したり食事をしたりする仲だが、仕事で一緒になるのは初めてだ。
ミランがボワボワへの協力を仰ぎ、一名が辺りの警戒を、そして残りの二名が荷車を押すという手筈だった。流石に同胞の遺体をセリエナのポポに引かせる訳にはいかない。
ヒアシとキャスリーンは頷き、じっと様子を窺った。
成体三頭、幼体一頭。ポポの中では平均的な群れの規模だ。
そのうち二頭は、母親らしき個体よりも一回り大きい。差し詰め、あれらが牡だろう。ヒアシは注意深くその個体と群れの動きを観察する。
のどかに雪の下の草を食むポポの姿に、「わかってると思うけど」と笑顔で釘を刺した物資班リーダーの顔が浮かんだ。
──できるだけ、大人の牡をお願いね。ポポが少なくなっちゃうと大変だもの。
セリエナの土地は限られているため、農場のような施設は作れない。厩舎も簡易なものしかなく、繁殖は期待できなかった。
そこで野生の個体を狩るのだが、逃げ足の遅い幼体は他の肉食モンスターの餌食になりやすい。
そのため自分たち人間はポポの繁殖を妨げないよう、生殖上の余剰となる牡を狩る。
アステラと定期的に資源のやり取りをしているとはいえ、食糧が足りなくなっては調査団の士気が落ちるからだ。
「今回はエリア一で仕留める手筈で良いんだよな?」
ヒアシが囁くと、キャスリーンは頷いた。
「ええ。南の方から狙えば、うまく群れも捌けると思うわ」
あまり同じ場所で狩りをすると、ポポ達に拠点近くが危険な場所だと認識されてしまう。この辺りに寄り付かなくなれば、わざわざ遠出しなければならなくなる。
ポポには分厚い皮下脂肪があるとはいえ、討伐自体はさほど難しくはない。しかし、食べられる状態でその身体を持ち帰るのに骨が折れるのだった。
凍て地の奥であればあるほど、様々なモンスターの縄張りが複雑に絡まり合っているため、運搬の難度が増す。
過酷な環境で生きるモンスター達は、常に獲物の気配に目を光らせている。幼体、手負いの個体、群れから逸れた個体などは格好の的だった。
捕食者たちは血の匂いに敏感だ。遠い場所からでも的確に嗅ぎ分け、自らの糧にしようとする。
そんな彼らにとって、仕留められた獲物を乗せた荷車など、食卓に並べられた御馳走のように見えるだろう。
そのため仕留めたポポを荷車に乗せた後は、一刻も早くセリエナに帰らなければならなかった。
「頼んだぜ、ヒアシ」
エドはヒアシの背を軽く叩いた。
「任せてくれ」
ヒアシは左肩に装着した、以前使っていたものより少し銃身の長いスリンガーを構えた。
それは義手というよりは、手の機能の代わりに、狩りに特化した道具をそのまま取り付けたような見た目をしていた。工房に注文する際、ヒアシがデザインよりも実用性を重視してほしいと頼んだからだ。
通常のスリンガーよりも長く、目と一直線にしやすいため、威力と精度の高い射撃ができる。
背中のハーネスが筋肉の動きを義手に伝えて、右手を使わずとも肘を曲げるなどの複雑な動きを可能にしていた。
今はこれが体重のバランスを保つ重りであり、ワイヤー移動やスリンガー弾射出の道具であり、そして武器でもある。
サクとはあれ以来話せておらず、結局すべて自費で支払ってしまった。
だが置き手紙を残してきたし、彼ならきっと解ってくれる筈だ。根拠はないが、どこか確信めいたものがあった。
ヒアシは仔ポポの足元を狙って、石ころを打ち出した。次の瞬間ざく、と小さな音がして雪に穴が開く。
仔ポポや周囲の成体は首を振り乱して驚き、悲鳴を上げながら一目散に逃げ出した。
そんな中で一頭、その場に留まって猛然と牙を振り回す個体がいた。
ポポは幼体に危険が迫ると、体躯の大きな牡が残って群れを守ろうとする習性がある。
キャスリーン考案の作戦は、それを利用したものだった。スリンガーの弾を使って驚かせ、幼体や牝達が逃げたところで牡を狩ろうというわけだ。
これならば巻き込み事故も少ない。
やがて草叢の中に明らかに生物が潜んでいるとわかる場所を見つけたポポは、そこへと突進した。
ポポの前脚が下草を踏む。直後、ポポは驚いたように仰け反った。だがそれ以上身体が持ち上がることはない。その前脚には、ピンと縄が張っているからだ。
仕掛けられていたのは、小型モンスター用の簡易な罠だった。ヒアシとキャスリーンがわざと居場所がバレるようにしていたのは、ここまでポポを誘き出すためだ。
興奮状態に陥ったポポは、罠から逃れようと暴れ出した。牙を振り乱し、縄を千切ろうと後退する。
ポポが隙を見せた次の瞬間、雪原に薬莢が割れる音が響いた。一拍遅れて、巨体が新雪に倒れ込む。
その胸からは血がどくどくと流れ出していた。エドの撃った斬裂弾が、心臓上部の頸動脈を貫いたのだ。
「よーし! 持ち帰るぞ!」
「腸抜きが先よ。美味しく食べられなくなるじゃない」
はしゃぐエドをキャスリーンが嗜める。その傍らで、ヒアシは絶命したポポへ少しの間黙祷した。
「旦那さん! こっちは準備完了ニャ!」
ミランが雪に埋まりながら駆け寄ってくる。どうやらボワボワ達への交渉は成立したようだ。
「おかえり、ミラン。助かるよ」
ヒアシは真っ白になってしまったミランの雪を手で払った。白い毛並みの彼女が飛雷竜のポンチョを着ていると、まるで雪だるまのように見える。
ヒアシに撫でられると、ミランは嬉しそうに喉を鳴らした。
「流石だな、エド。一発で決めるなんて」
「お前がうまいことポポを退かしてくれたからさ、ヒアシ。サンキューな!」
二人が労い合っている間に、キャスリーンは周囲の危険を確認しながら長い手袋を嵌めた。
キャスリーンは腰から剥ぎ取りナイフを抜くと、ポポの下腹部に刺し込み、分厚い毛皮や皮下脂肪を裂く。
キャスリーンの鮮やかな手付きに、ヒアシは思わず見入ってしまった。長くハンター業に就いていても、普段はここまでしっかり剥ぎ取らないため、新鮮だった。
ポポの尿道を取り出して外に向けた後、慎重に皮を切っていく。すると腹膜に包まれた内臓の塊が顔を出した。
彼女はポポの胸を開いた後、暫くナイフを片手に腹の内側へ腕を突っ込んでいた。やがて肺やら心臓やらを引っ張り出し、巨大な臓器塊が雪の上に滑り出た。
「うん、臓物にも特に異常は無さそうね」
キャスリーンは内臓のうちから、食べられるものだけを選り分ける。
周囲には独特の臭いが漂っていた。腹を空かせた屍肉を喰らう者達が、それに気付かない筈がない。
ポポの処理はエドとキャスリーンに任せ、ヒアシは空に向けてスリンガーを構えていた。
寄ってくるコルトスの、すれすれのところに弾を撃ち込んでいく。あくまでも威嚇射撃であるため、絶命させる必要はないからだ。
ミランもブーメランで加勢してくれていた。
「ウルグが来ないうちに、終わらせねえと、なっ!」
エドとキャスリーンはドサ、と重い音を立てて荷車の上にポポを乗せた。牙を落として内臓も抜いたとはいえ、ポポの体は人間の数倍もある。
筋骨隆々とした体格を持ち、こうした狩りに慣れたハンターだからこそこなせる仕事だった。
恐れているのは、ウルグと呼ばれる小型の牙竜種だ。ギルオスのように社会性を持つ彼らは、群れで協力して獲物を狩る。
また縄張り意識も強く、この辺りはよく偵察役が様子を窺いに来ていた。
もしウルグに囲まれたら、格好の餌食になってしまう。せっかくの獲物と苦労を無駄にするわけにはいかない。
残った内臓を雪の下に埋めると、エドとキャスリーンは荷車を浮かせ、雪道を歩き始めた。寒冷地用の車輪とはいえ、動かしにくいことに変わりはない。
やや視界の悪い雪路を抜け、エリア二と呼ばれる区画に差し掛かると、一気に雪が深くなる。
歩きにくい雪原で、嵌った足を引き抜いてはまた嵌る。それを繰り返すうち、セリエナへの門が見えてきた。
ふいに子どものような声が聞こえてそちらを見ると、茶色の毛玉と形容するに相応しいシルエットが複数。色とりどりの角のボワボワたちが、小さな丘の歓声を上げていた。
ボワボワはポポの姿を見て飛び跳ねているようだ。彼らは愛らしい見た目に反して狩猟民族であり、狩りの腕に長けた者を尊敬するという。
キャスリーンがお裾分けに、とポポ肉の一部を切り分けると、ボワボワは大いに喜んだ。
彼らはそれをぶつぶつ交換と捉えたらしく、蓑から何かを取り出そうとする。
その時、雪原の向こうから妙な音が聞こえた気がして、ヒアシは足を止めた。
気のせいだろうか。否、気のせいなどではない。近づいてくるにつれ、これは足音だとはっきり判る。
地を揺らす特徴的なこの音は──。
ヒアシは目を見開き、二人に危険を知らせた。
「まずい、ティガレックスだ!」
現大陸でもよく見られる轟竜ティガレックスは、最近この渡りの凍て地でも発見された。
ティガレックスやナルガクルガ、ベリオロスなどは飛竜でありながら原始的な骨格を持ち、四足歩行で生活している。
一般の人々はともかく、寒冷地で生きるハンターが何よりも足音を警戒するのは、それが危険な飛竜の存在を示すものだからだ。
ティガレックスの本来の生息地は乾燥地帯であり、寒さを苦手としている。だが食に貪欲な彼らは、好物のポポを求めてわざわざ寒冷地に足を運ぶ。一部の学者は、ポポにしか無い必須の栄養を求めているのだろうと考えた。
ティガレックスである限り、大陸は違えどその生態は変わらないのだろう。
「なっ……ここは奴の行動範囲なんてとっくに過ぎてる筈じゃないの!」
しかし、キャスリーンが驚いたのはそこではなかった。
隣接するエリア一区画はポポの姿をよく見かけるが、ティガレックスの狩場ではない。モンスターは基本的に縄張りの外へは出向かない筈だ。
もし外れた行動を取るとすれば、それは何か異変が起きていることを意味していた。
「くそ、まだ地殻変動の影響が残っていやがったか……」
地啼龍アン・イシュワルダによる自然への影響は、すぐに元に戻るわけではない。植生の変化や地盤の崩落などで、住処を追われた生き物は多かった。
おそらくティガレックスの狩場付近に生息していたポポは、こちらへと逃げてきてしまっていたのだろう。
「隠れるぞ!」
エドとキャスリーンは荷車を岩陰に隠し、自らも伏せた。
その直後、針葉樹林に飛び出してきたのは、黄土と青緑のゴツゴツとした鱗を持つ竜。ヒアシの見立て通りだった。
ティガレックスは血痕を見るや、頻りに鼻をひくつかせる。やがて雪に埋まったポポの内臓を嗅ぎ当てた。
ティガレックスは発達した前脚で掘り起こしたそれを、うまそうに喰らう。
食事に気を取られている今こそ、撤退のチャンスと言えた。
エドとキャスリーンはティガレックスの動きに警戒し、なるべく音を立てないように荷車を押す。
だがその時、近くにいた小さなボワボワが興奮して声を上げた。その体格から、まだ狩りの経験が浅いのかもしれない。
即座に仲間が彼もしくは彼女の口を塞いだが、遅かった。
間もなく、ティガレックスが長い首を持ち上げてこちらを見た。その視線は、荷車のポポに注がれている。
「あーあ、バレちゃったわね……」
キャスリーンが苦々しげに呟く。
三人とボワボワは固唾を飲んでティガレックスを見つめていた。
いつまで経ってもポポの側を離れない自分たちを、ティガレックスは敵と認識したようだ。どうやら内臓だけでは腹が満たされなかったらしい。
轟竜が、息を吸い込んだ。
針葉樹の葉に積もっていた雪が、ばらばらと落ちる。
耳を塞いでいてもなお、圧に押し負けそうになる音の波。いくつもの修羅場を潜り抜けてきた三人の心臓さえも、拍動を増した。
だがその咆哮に掻き立てられたのは、それだけではない。
「はは、ターゲットにされちまったみたいだな」
エドは口角を上げ、背負っていた重弩を下ろす。折り畳まれたそれを素早く展開し、銃口をティガレックスへと向けた。
「元々あいつが狙ってたポポだったんじゃないか? でかいし」
「呑気に言ってる場合じゃないでしょ!」
盾の具合を確かめるヒアシの呟きに、すかさずキャスリーンが突っ込みを入れた。
ティガレックスが一直線にこちらへと駆けて来る。
自分たちは狩人だ。己の力と武器をもってモンスターと対峙する者だ。
エドはやれやれと首を振った。
「ったく、せっかくオレ達が綿密に計算してここまで来たってのに」
キャスリーンは背中の大剣を抜刀した。勿論エドの言葉に対する指摘も忘れない。
「"オレ達"じゃないでしょ。あんたアタシの話聞いてなかったじゃない、エド」
「はいはい、感謝してるよキャシー」
「ふん、どうだか」
そんな軽口を叩きながらも、ティガレックスから目線が外されることは決してない。
敵と見做されたならば、こちらとて迎え撃つのみ。
全速力でティガレックスが突っ込んでくる。強靭な前脚でぐっと踏み込んだかと思うと、竜は一息に飛び掛かってきた。
新雪が煙のように宙に舞い散る。
身体の大きなティガレックスはそれでもよく分かるが、小さな──人の中では大きい方だが──人間達とアイルーは、雪に紛れ込んだ。
一面の白の中に、きらりと光るものがあった。それは雪煙を突き抜け、ティガレックスの側頭へと振り下ろされる。
一拍置いて、キャスリーンの黒く長い髪がぱらぱらと靡いた。
ティガレックスは即座に飛び退き、先程鼻先があった場所に刃が刺さった。
獲物の姿こそ捉えられていないが、これで十分だとばかりにティガレックスはその場所へと噛み付く。だが、噛み応えはない。
徐々に鮮明になっていく視界に、ティガレックスが今の獲物を見つけようと目線を彷徨わせた。
その目の端に捉えたのは、迫ってくる赤だ。頭を殴られる、と瞬時に首を反らす。しかしこちらに訪れたのは殴られる痛みではなく、首の皮を切り裂かれる痛みだった。
ヒアシは深追いすることはせず、盾を構えながら後ろに飛んだ。その盾の両側と下からは、仕込み刃が覗く。
惨爪竜の名を冠したランス・惨槍オドガロン。瘴気の谷に生きる牙竜の赤い装甲は、その硬さに反して驚くほど軽い。
この左腕で槍を持つことは、もう諦めている。その代わりに得たのが、特注の刃が仕込まれたこの盾だった。元々設計されていた形も斬撃に適したものだったが、これはさらに片手で扱いやすくなっている。
ティガレックスは苛立ちを隠しもせずに唸り声を上げた。
ティガレックスは種族の特性上、力に任せた狩りが得意だ。ちょこまかと翻弄してくる相手とは、あまり戦いたくはない。
ならば。ティガレックスは舌舐めずりをして、腰を落とした。二人をまとめて轢いてしまおう、と。
「キャシー、そっちに行くぞ!」
後方から援護射撃をしていたエドの掛け声に、キャスリーンは回避の準備をした。
「わかってるわ、よっ!」
キャスリーンを通り越した直後、ティガレックスはその場で両脚を動かして方向転換し、ヒアシの方へと突っ込んでくる。
追尾を逃れるため、ヒアシは突進の要領で大きく避けた。ヒアシを通り過ぎたティガレックスは、おそらく次の標的をとらえるだろう。そう、思ったが。
鉤爪の生えた前脚は、その場で足踏みをする。ヒアシがハッと盾を構えると、鞭のようにしなる尻尾が叩き付けられた。
「ぐ……ッ」
あまりにも強烈な衝撃に、盾を持つ腕が痺れる。これをまともに食らえば、骨を何本か持っていかれることは必至だ。
ティガレックスは直線的な突進を得意としており、ジグザグに避けることができれば苦労しない。
しかし慣性を無理やり止めてまで回転してきたこの攻撃は、こちらの手を読まれているとしか思えなかった。
その時、騒がしい雪原には異質な角笛の調べが響く。
ミランは高台に上り、羽飾りのついた巨大なホルンに息を吹き込んでいた。自分の身体ほどもあるのに、様になっている。
ミランの十八番の曲のリズムに乗ると、長い距離であっても走れるような気がしてきた。
フィールドで楽器演奏をしていれば当然目立つ。ティガレックスはミランに向かって走り出した。
ミランは楽器を背負うと、素早く雪の中に潜った。彼女の白い毛並みはこの地ではよく紛れる。
ティガレックスはミランを見失い、荒い鼻息を吐き出した。見回した先にきらりと光るものが見え、考える前に前脚で雪玉を蹴飛ばした。
空気中の水分が固まった雪は、下手をすると岩よりも重いため、軽く投げたくらいではすぐに落下してしまう。
だが凶悪な前脚から弾き出されたそれは、真っ直ぐに潜んでいた狩人の方へと向かった。
武器を背負う暇すらなく、エドはボウガンを抱えるようにして転がる。
「くっそ、相変わらずガンナー殺しな奴だぜ……ッ!」
眼鏡を掛け直し、にやりと笑う。その背には冷や汗が流れていた。
動体視力に優れたティガレックスに目を付けられた際は、少しも油断できない。複数で相手をするときは、より顕著だった。
「ティガレックスだけあって、流石にしつこいわね……ッ、ウルグが!」
気づけば黒と白の毛に覆われた牙竜たちが、ポポに群がっていた。
狡猾な雪狼たちは、深雪に潜んで機会を窺っていたのだろう。この辺りには居ないと思っていたが、最初からこうするつもりだったのかもしれない。
エドが彼らの足元に数発撃ち込むが、何頭かがこちらに牙を向けるばかりで散る気配はない。
このままでは、全て喰い尽くされてしまう。
別の個体を捕獲しようにも、ポポの群れはセリエナから離れた場所に逃げてしまっていた。そうなれば、またこうして狙われるリスクは跳ね上がる。
ポポを取り返して、撤退しなければ。
だが自分は片腕だし、荷車を押してうまく逃げることは難しい。足手まといになる可能性すらあった。
だとすれば。ヒアシはスリンガーに弾を装着しながら、エドとキャスリーンに声を掛けた。
「おれが囮になる。君たちは荷車を頼む!」
「何ですって、一人で大丈夫なの!?」
キャスリーンの驚愕に、ヒアシは口角を上げて見せた。
「何も狩ろうというわけじゃない。隙を見て逃げるさ」
「ボクが援護するニャ!」
ティガレックスが再び突っ込んでくる。ヒアシは雪原の中央にスリンガーを向け、岩に金具を引っ掛けた。
ワイヤーを巻き戻してヒアシが通り過ぎた直後、ティガレックスとすれ違う。一瞬でも遅れていれば、間に合わなかった。
獲物に当たらなかったと気づいたティガレックスが、再び雪を撒き散らす。
ヒアシはその顔にスリンガーを向けるや、鋭く叫んだ。
「目を閉じろ!」
直後、眩い閃光が辺り一帯を包んだ。
常でも非常に強いその光は雪に反射し、影となる場所がほぼ無くなっていた。
ティガレックスは仰け反り、その痛みとも形容できる眩しさを激しく嫌がった。おそらくウルグの群れにも効いているだろう。
言葉の伝わらないボワボワは大丈夫だったかと心配になったが、咄嗟にミランが教えて免れたようだ。
「死ぬんじゃねえぞ! ヒアシ、ミラン!」
「任せたわよ!」
ウルグから荷車を取り返した二人は、セリエナへ続く門へと走る。ミランが先回りして、盾ともなる重い木を引き上げた。
その間にヒアシは二人と一匹を後ろに庇い、腰を落とした。
未だ視覚の戻らないティガレックスは、その場を動かないまま盛んに噛み付いた。近くに寄る者を逃さまいとする動きは、いかにも貪欲なかの種らしい。
ヒアシはティガレックスの頬にスリンガーの弾を数発打ち込み、敢えて居場所を教えた。
硬い鱗には石ころごときでは、与えられる痛みなど些細なものだろう。だが細い瞳孔はギョロリとこちらを向いた。気の短いティガレックスは、すぐに挑発に乗ってくれる。
ティガレックスは素早く軸を合わせ、こちらへと突進してきた。
ヒアシは高台の影から直角の方向へと駆け出す。その先にあるのは、雪原と雪原を繋ぐ谷だ。深い雪に足を取られて走りにくかったが、なんとか抜けられた。
「ミラン、こっちだ!」
背後で雪が砂埃のように舞い、幹がミシミシと音を立てて崩れる。
ティガレックスはヒアシとミランがいないことに気付いた上で、口に入った厚い幹を噛み砕いた。側にいるのは分かっている、次はお前がこうなる番だとでも言うように。
その時、ふとティガレックスはヒアシ達とは違う方に目を向けた。視界は回復してしまったらしい。
視線の先には、セリエナへ続く門を閉めようとしているキャスリーンの姿。門は拠点側から閉めれば、こちらからはどうにもできない構造になっている。
「いけない!」
キャスリーンが腰に下げたナイフを構える。ティガレックスがそちらへと駆け出す。
初動はややティガレックスの方が早かった。巨大な鉤爪が門に迫り、キャスリーンは決死の表情を浮かべる。
ヒアシは夢中でティガレックスの前脚に向けて、ハジケ結晶を数発打ち出した。
ピシピシと音を立て、いくつもの結晶が破裂する。同時に、キャスリーンが門を持ち上げる縄を切り落とした。
次の瞬間、ティガレックスが足をもつれさせて倒れ込んだ。その目前で勢いよく門が閉まる。
ヒアシはティガレックスから目を離さず、追加のハジケ結晶を装填した。衝撃が加わると弾けるその結晶は、モンスターすらも怯ませる。
大人の足で百歩ほど離れた場所からでも当たったのは、スリンガーの性能ゆえだろう。
ティガレックスの背に銛が当たる。見れば、ボワボワが加勢してくれていた。おそらく、ポポ肉のお礼のつもりなのだろう。
獲物にありつく寸前で邪魔され、尾を踏まれたような心地になったらしい。程なくしてティガレックスの前脚が充血していく。
こちらへと振り向いたその目は血走り、爛々と光っていた。
ヒアシはティガレックスが軸を変え切る前に足を踏み出した。それに続き、後ろから激しい足音が迫ってくる。
地を駆けることに特化したティガレックスの速さから、まともに逃れることなど不可能だ。
故に、ヒアシはケルビのように右へ左へと交わしながら走った。疲れにくいのは、耳に残った曲のリズムに合わせているからだろう。
それに加えて、これほどに身軽な動きができるのは、飛毒竜トビカガチ亜種の素材のおかげだ。軽く温かいうえに、身に付けていても動きを邪魔しない。
相棒はかの竜の猛毒を武器にしていた。対して自分は、その俊敏さを身に纏っている。
バディ揃って、凍て地のモンスターの力を借り、彼らに生かされている。その事実に、必死の状況だというのに、なぜか口角が上がった。
開けた場所に出ると、ヒアシは雪の積もった場所に向かって走り出す。
ティガレックスは腹立たしい獲物を押し潰してやろうと、さらに速度を増した。
ヒアシはティガレックスの翼の下を、前転をして掻い潜る。すれすれのところを、獰猛な巨体が通り過ぎた。
ヒアシはポーチから金属の円盤を取り出すと、地面に置いて上部を回した。規程位置にはまったことを確認すると、すぐにその場を離れる。
直後、凍て地に似合わない火花が散った。
ティガレックスは積まれた雪の上で再びバタバタと足を動かし、こちらへと向き直して掛けてくる。
轟竜は怒りに身を任せ、ヒアシのいる場所へ飛び掛かった。だが着地の瞬間、悲鳴を上げて倒れ込む。その巨体は痙攣を繰り返し、随意に動かすことができなくなっていた。
ティガレックスの足元には、断続的に稲妻が走る。それは万が一ブラントドスが出た時に備えて、予めポーチに忍ばせていたシビレ罠だった。
ヒアシはそれを見届けると、その場から離れながら耳を済ませた。
微かに、だが確かに聞こえて来る。
雪に閉ざされた地に生きる者ならば、誰もが心得ている音。そして何よりも恐れる音だ。
「──かかったな」
次の瞬間、折れた木や礫を巻き込んだ雪の波が押し寄せる。ティガレックスが逃れようとした時には、既にその身体は雪崩に飲み込まれた後だった。
ティガレックスは必死に顔を出そうとするが、シビレ罠による麻痺が残ってうまく身体を動かすことができない。雪に大穴が開き、その無骨な身体は地下洞窟へと飲み込まれていった。
「これでしばらく戻ってこないニャね」
「ああ。だが念のため離れておこう」
ヒアシはため息を吐き、雪崩を見届けずにミランを連れてキャンプの方向へと走った。
少し可哀想だが、ティガレックスはあの程度で命を落とすほど柔ではない。
ポポを狩った針葉樹林を抜け、朽ちた丸太を潜り抜けると、最南のベースキャンプに着く。
それまで黙って歩いていたヒアシは、手早く簡易な炉に火を付けた。
するとミランは喜んでそそくさと肉球をかざす。ヒアシ達と同じくユクモ地方出身の彼女には、凍て地は寒すぎるらしい。
その様を眺めながら、ヒアシは椅子に腰掛けた。
紫、桃、橙へと滲み変わっていく空には、糸がいくつも折り重なったような雲が流れている。
そんな中、ふいにミランが呟いた。
「旦那さん、やったニャね。ずっと悩んでたから……久しぶりに生き生きとした姿が見られて、ボクとっても嬉しかったニャ」
ミランは少し寂しげな、それでも明るい表情を浮かべる。ヒアシの苦悩の種に立ち会えなかったことを、ミラン自身もずっと悔いていた。
ヒアシは目を瞬かせ、己の両手を見た。片方は生まれ持った、片方は造られた手を。
「そうか……」
ヒアシは空を仰ぎ、既にいっぱいになった胸で息を吸った。上がった口角から、白い息が漏れる。
「やった。……はは、やったんだ。おれは、おれは……!」
その言葉に意味はない。だが、声に出さずにはいられなかった。ヒアシは人知れず拳を握る。
(おれは、今の姿でも自分らしく生きていけるんだ)
利き手を失って、これまで通りにできないことや、他人の目を気にしないといけないことが一気に増えた。
職を失う恐怖は常に燻っていた。義手を使ったとして、もし狩りができる程までに動けなかったら。それが原因で仲間に迷惑をかけたら。そして、そのまま生命を落としたら。
外には見せないようにしていたが、やり切れない怒りを抱くこともあった。本当はずっと不安でたまらなかったのだ。
だが、今ここで己の力でもってティガレックスを撃退することができた。
槍を失っても、盾だけの立ち回りで。腕を失っても、義手をその代わりとして。
これまでの孤独や苦しみが、ようやく報われたような気がした。
流れていく雲の輪郭が、見る見るうちにぼやけていく。ヒアシは口を塞ぎ、嗚咽を漏らした。
そんな相棒の姿に、ミランはそっと寄り添い微笑んだ。
ヒアシは目尻を拭う。
「…………ありがとう、ミラン」
「ふふ、何のことニャ? ボクはなんにもしてないニャ」
これで十分だ。心から、そう思った。
「……サクさんにも、見せてあげたかったニャね」
「これから何度でも、機会はあるさ」
もう、互いの過去だけを知っている間柄ではない。知らないことも、喜びやすれ違いを繰り返すうちに、一つ一つ重ねていけばいい。
ヒアシが笑い掛けると、ミランは安心したような表情を浮かべた。
「さあ帰ろうか、セリエナへ」
「ニャ!」
大きさの違う二つの足跡が、薄く積もった雪に模様をつけていく。
遠い山の頂上では、七色の透き通った身体を持つ月の化身が、優雅に空を泳いでいた。
無事にセリエナに届けられたポポ肉が、熟成してから皆に振る舞われたのはまた別の話。