海面に突き出た岩に次々と波が押し寄せ、白い飛沫をあげる。
境界線などあるのかと感じるくらいに広がる青と蒼は、今日は灰と群青にくっきりと分かれていた。
怪しげな空模様に、人々は慌ただしく品物を船──否、屋根の下へと避難させる。
船着場に下りた時、ぽつりと頭に水滴が落ちてきて、サクは空を見上げた。
少し動くと汗ばむほどに暑いアステラは、それに比例して降水量も多い。稀に古龍クシャルダオラの来訪で急変することもあるが、ほとんどはその立地による影響だろう。
サクは手で庇を作り、船の帆でできた屋根の下へと急いだ。
アステラを訪れた理由は二つある。
ひとつは自らの所属変更をすること。正式にハンターとしての任を降り、編纂と救護に専念するつもりだった。
セリエナの管轄および人事は調査班リーダーが担っており、大体の手続きは行える体制がつくられていた。だが所属の変更や資格関連の手続き等は総司令がすぐに目を通せるよう、アステラで確認してもらうことになっている。
そして、もうひとつ。モーネと会い、彼女の真意を聞くことだ。
この短期間に二度もアステラに足を運ぶことになるとは。今は雨で少し肌寒く感じるが、セリエナとの気温差に風邪を引いてしまいそうだ。
サクはすれ違う面々に挨拶をしながら、賑わう中央エリアを歩いた。
それぞれの仕事場からは、鉱石のきらめき、なめした皮の匂いや花の香りなど、様々な情報が飛び込んでくる。
少し前に訪れたときは頭がぼやけて何も入ってこなかったのだから、よほど疲れていたのだろう。
やや雨脚が強くなってきた。サクは屋根の下を抜ける前にちょっと気合を入れ、小走りで滝の前にあるリフト乗り場に向かう。
サクはハンカチで軽く取手を拭うと、リフトに足を掛けた。人が利用するほか、物資を乗せた荷台も鎖のレールを上下している。
大粒の雨が顔に当たる。サクは冷えた鎖を握りながら、帰ってくる時を間違えたと後悔した。
滝よりさらに上に行き、穴の開いた船の中を通ると、アステラの集会所「星の船」に出る。酒場として創設されたそこは、普段は夕方から夜にかけての時間帯が一番賑わう。
だが今は、色とりどりの風船が飾られ、華やかな雰囲気に変わっていた。セリエナで宴が開催されている期間は、こちらもまた違うテーマの催しが行われているためだ。
食事場の中央にあるテトルーやアイルーを模した巨大な風船も、受付嬢たちの選んだものだろう。なんとも女性が喜びそうなデザインだ。
それらが濡れないためにも、屋根のない集会所も今日ばかりは大きな帆が広げられていた。
サクが奥へと歩いていくと、酒を注いでいた受付嬢が顔を上げた。書類を取り出す姿に酒場の利用ではないことを察した彼女は、酒と盆を同僚に預けると、カウンターへと着く。
「こんにちは。本日はどのようなご用件ですか?」
「記録事項の変更がしたいんです。ハンターとの兼任ではなく、編纂者と医療者としての所属に変えていただけますか」
サクはセリエナで手続きを済ませてきた申請書とギルドカードを出した。
それを見た受付嬢はちょっと目を見開き、声に困惑を滲ませた。
「あの……免許を返納されなくても、編纂や救護の業務のみを続けることはできますが……本当によろしいのですか?」
受付嬢が確認をしたのは、狩猟免状の返納申請も同封されていたためだ。
サクは一見、大怪我をしているようにも、生活に支障が出るほどの精神的な症状があるようにも見えない。
あの時の後遺症も無いわけではないが、免状の返納を決めた事由は健康上の問題ではなかった。
「ええ。お願いします」
サクはきっぱりと頷く。
自分が今しているのは全く必要のない、むしろ場合によっては不利になる行為だとは分かっている。それでもけじめを付けておきたかった。
受付嬢はやがて何事もなかったように受け取る。
「少々お待ちください」
手続きは思った以上にすんなりと進んだ。
書類に目を通して必要事項を記入し終えると、サクは判子の印面に朱肉をつける。そしてひとつ息を吸うと、思い切って印鑑を押した。
書類に赤々と鎮座する、自分の苗字。
これで、もうハンターとしてクエストを受注することはできなくなった。フィールドにスリンガー以外の武器を持参することもない。
しかし、サクの顔は晴れやかだった。
これで良い。復讐のために手にした資格など、きっと最初から無かったほうが良かったのだから。
「ギルドカードも返納されますか?」
「ああ……いえ。ギルドカードは、そのままでお願いします」
「わかりました。ただ、これからは提示されても無効となるのでご注意くださいね」
ギルドカードはハンターとして過ごしてきた日々の記録そのものだ。先日の陸珊瑚の台地でのことも記載されている。
ハンターを辞めたからといって、全てが消えるわけではない。自らの誤ちを決して忘れないため、戒めとして残しておくつもりだった。
サクは受付嬢に会釈をすると、受付を後にした。
そろそろ昼時を過ぎる頃だろうに、空は鈍色のままだ。なんとなく気分も晴れず、サクは溜息を吐いた。
待ち合わせまではまだ時間がある。だが腹も空いていないし、散歩をするにもこの天気だ。仕方なくサクは端の席に座り、給仕アイルーを呼んだ。
「星の船」では時間帯に関係なく酒類が提供されているが、昼間は喫茶店として利用する者が多い。今は宴の特別メニューでタワーケーキが提供されるため、それを幸せそうに頬張る調査員もちらほら見かける。
サクも珈琲を片手に本のページを捲っていた。船に乗っている間に読もうと持参したが、結局手が付かなかったものだ。
それは古代樹の森周辺の植生について書かれた書物だった。著者の中にはモーネの名前もある。
地衣類を含め、古代樹の植物は研究が進んでいないものも多いという。精巧なスケッチやグラフとともに緻密に記載された文章は、硬い文面でありながら好奇心に溢れていた。
じっくりと目で追ううちに、知らず知らずのうちにサクの表情が綻ぶ。
彼女の好きなものをひたすらに追求する姿勢は、少しも変わっていない。昔のままの一面があることが喜ばしかった。
知りたいことから逃げられないのは、自分だって同じだ。フィールドで痕跡を集めては編纂する今の仕事も、結局は興味のある分野だからこそ続けられているのだろう。
夢中で読み耽っているうち、とん、と肩を叩かれてサクは顔を上げる。
「あ……」
振り向いた先には、金色の髪に学者服を纏った女性がいた。
「久しぶりね」
女性──モーネは柔らかい表情を浮かべる。サクはつられて微笑んだ。
「久しぶり。モナ……モーネさ──」
「モナのままでいいわ。……来てくれてありがとうね、サク君」
モーネは目を細める。
数年ぶりに会う彼女は、少し大人びた雰囲気になったこと以外、あの時のままだった。その服装からして、仕事帰りに来てくれたのだろう。
サクが隣の椅子を引くと、モーネは礼を言って腰掛けた。
「元気だった?」
「ええ、それなりに過ごしてたわ。……あなたは? あれ以来、ずっと心配だったの」
モーネの気遣わしげな眼差しに、サクは眉を下げた。
いま思えば、モーネと最後に会った時の自分は、とても他人に見せられるような状態ではなかった。当時は話すことすらやっとだったし、別れを告げる為に会いに行ったことでむしろ心配をかけてしまったかもしれない。
そんな不甲斐ない最後にしてしまったことが、心苦しかった。
「元気、だったよ。……本当に申し訳ない」
「謝ることじゃない。ただ、サク君がまた毎日笑顔で過ごせるようになったなら、それでいいの」
「……………ごめん」
「もう。そこは"ごめん"じゃなくて、"ありがとう"でしょう。ほら、せっかくの再会なんだから笑って!」
モーネは手本を見せるように明るく頬を上げる。
かつて自分は彼女のこういうところに惹かれたのだと。荒天の中でも輝きを失わない金色の髪を眺めながら、サクは寂しく微笑んだ。
大きなケーキを運び終えたアイルーを呼び止め、サクはモーネの分とおかわりを注文した。
程なくして運ばれてきた二つのカップは、良い香りと共に湯気が立ち昇っている。両手で包み込むと、冷えた指先を温めてくれた。
「読んでくれたのね、それ」
モーネの視線にサクは頷く。
古代樹の森の地衣類の発生条件や、モンスターの特殊な行動による条件変化、それに応じた周辺の植物の再生など、魅力的だと思った項目を次々と挙げた。もしかしたら学者時代の口調に戻っていたかもしれない。
モーネはそれを聞くと、嬉しそうな顔をした。
「着眼点といい、検証の精密さといい、流石だったよ。モナさんらしいね」
「ふふ、ありがとう」
モーネは四期団として新大陸に来てから、しばらくは研究所に籠もってひたすら資料を読み漁っていたのだという。基礎知識を十分に付けたうえでフィールドワークを始めて、今は忙しい日々を送っているのだと。
「全然会わなかったのは、そういうことだったのか。四期団の先輩と一緒になる機会自体少ないけど、今までモナさんがこっちにいた事も知らなかったから不思議だったんだ」
「そういうことよ」
モーネはカップを傾けた。
「わたしは先生方と違って人間だし、こっちではまだ新米なの。だからそれは、わたしが調査団として参加した初めての本」
モーネは誇らしげに笑う。昔よりも、今の方がずっと生き生きとしているように見えた。
そしてサクは、同時に悟った。この聡明な女性は、このまま新大陸で学ぶ者として生きるつもりなのだと。
きっと彼女は、誰かの作った型にはまるような生き方を良しとしない。だからこそ、新大陸へと渡る船に乗り込んだのだろう。
それを感じ取って、どこか安心している自分がいた。口の中に残った珈琲の香りと苦味が、後になって舌の奥で感じられた。
「あ、そうだわ。この前の台地での調査お疲れさま。怪我の具合はどう?」
モーネの言葉に、カップに口を付けていたサクは目を瞬かせた。
「え、知ってたの?」
「たまたま掲示板で見かけたのよ。本当はお見舞いに行きたかったんだけど、断られちゃって。それであなたのバディの方とオトモさんに声を掛けて、繋いでもらったってわけ」
「そうだったんだ。怪我もおかげさまで大分良くなったよ」
サクの火傷は範囲が広く、傷口から感染しないよう病室には医療者しか入ることができなかった。しばらくは面会もできず、独りで悶々と考える時間が長かったのはこのためだ。
自分の昔の知人から話しかけられて、ヒアシとミランは驚いたことだろう。
(ヒアシとも、早いうちに話し合わないとな……)
心身共に落ち着いた今であれば、今後のことも冷静に確認し合うことができるだろう。置き手紙を残してくれた以上、向こうの準備は整っている筈だ。
とはいえ、声を荒げ合った手前なんとなく話し掛けづらく、そのままになってしまっていた。
サクはカップの中の黒褐色の液体を揺らす。
そんな様子を見て、モーネはテーブルに肘をついて微笑んだ。
「彼、優しそうな人ね。ちょっと話しただけだけど、人柄が伝わってきたわ」
サクは視線を上げ、すぐに手元に戻して顔を緩ませた。ずっと二人三脚で仕事をしてきたバディを褒められるのは、素直に嬉しい。
サクはしみじみと呟く。
「……うん。僕には勿体ないくらいの相棒だよ」
「そう……」
それを見たモーネの瞳に、混じり気のない穏やかな色が浮かんだ。彼女がどうしてそんな表情をしたのか、サクにはなんとなく分かった気がした。
パッと辺りが明るくなり、二人は顔を上げた。見れば、アイルーや受付嬢たちがランプやバルーンの明かりを付けている。
いつの間にか雨は止んでいた。
二人の間に、不快ではない沈黙が降りる。
しばらくして、サクは肝心なことを聞いていないのを思い出した。
「それで、話って?」
サクが尋ねると、モーネは少し口籠った。目線を彷徨わせながらしばらく言葉を探し、やがて意を決して息を吸う。
「…………あなたにとって、つらいことを思い出す話題かもしれない。先に謝っておくわ」
"つらいこと"。その一言が彼女の口から出たことで、どういう話かなんとなく察しがついてしまった。
サクは束の間自分の手元を見つめていたが、やがて続きを促した。
「あの日……先生が亡くなってから、研究室の整理をしたでしょう? その時に先生の私物は引き取ってもらったわよね」
「……うん。父の遺品は実家にあるけど……それがどうかした?」
サクが問うと、モーネは胸元に下げたロケットペンダントを開けた。中から取り出した紙を広げ、サクに見せる。
その中身を見たサクは、目を見開いた。
「これは……」
幼子が描いたものだと一目でわかる、両親に手を引かれる子どもの絵。紙の中の三人は、満面の笑みを浮かべている。
それは、自分が幼い頃に父の誕生日に贈った絵だった。裏の隅には、父の小さな字で当時の日付と共に「三歳の朔から」と書かれている。
「どうしてこの絵が……?」
サクが消えそうな声で呟く。
「あの後、研究所にある雑誌を読もうとして、開いたらこの絵が挟まっていたの。今思えば、先生が研究室でよく読んでいた本だったんだわ。……これ、やっぱりサクくんのもので間違いないわよね?」
サクは何も言えなかった。やっとの思いで、ひとつ頷く。
「いつか再会できたら渡したいと思って、ずっと保管していたの。……まさか、新大陸で会えるとは思わなかったけれど」
モーネはテーブルに投げ出されていたサクの手を開き、その絵を渡した。
サクは二十年以上も前に父によって書かれた、角張った字を指でなぞった。こんなものを、父は後生大事にしていたなんて。
目を閉じると、幼い頃に父が頭を撫でてくれた感触が蘇る。ずっと忘れていたというのに、手の温もりと優しさの記憶はまるで昨日のことのようだった。
「その時にね、思い出したことがあるの」
モーネは静かな声で語る。
「……あれは確か、あなたと出会う前の、遺伝子についての講義の後だった。わたしが質問をしに行った時にね、先生が家族の話をしてくださったのよ」
──私には、息子が一人いてね。顔は妻によく似ているんだが、気難しくて不器用なところは私にそっくりなんだ。
父の口調を真似て低めた声。
サクは一言一言を噛み締めるように聴き入った。
モーネはサクをちらりと見て、かつて己の師が残した言葉を紡いだ。
──我が子は、いくつになっても愛おしいものだ。あの子が私と同じ道に進みたいと言ってくれた時、心配で突っぱねてしまったが……本当は、とても嬉しかったんだ。
「え……?」
サクは目を見開く。今モーネから聞いたのは、自分に都合のいい幻聴ではないだろうか。
サクは戸惑いを隠せず、首を横に振る。あの父の口から出た言葉だということが、信じられなかった。
「……そんな…………お父さんが……? まさか、そんなこと……言う筈がない……」
「ずっと前のことだから、多少口調は違うかもしれない。でも、先生が仰っていたことはよく覚えているわ」
モーネが偽りを口にしているようには、とても見えなかった。つまりそれは、父の言葉そのものであるということだ。
「その時の先生の表情が、本当に温かくて。ああ、この方は息子さんを心から大切に思っているんだって感じたわ。……やっとあなたに伝えられた」
モーネの唇が静かに閉じられると、サクは顔を手で覆う。まるで頭の中が、何かにかき混ぜられたようだった。
父の遺した言葉は、あまりにも家族──息子である自分への慈愛に満ちていた。その本質は、昔の父が向けてくれていた愛情と何ら変わっていない。
もう自分には関心を寄せてくれないと思っていた父。
けれど、学力以外の障害がなく学者への道を志せたのは、母の協力だけで果たせたことだったか。学生時代に食に困るほどの苦労をしなかったのは、誰のおかげだっただろう。
本当は、どこかで父の思いに気が付いていた。見ないふりをしていただけだった。
「あの事故の日、先生が庇ってくださったから、今わたし達はここにいる。──わたしは……そのことを、決して忘れはしないわ」
モーネは強い光を湛えた目でサクを見た。
思慮深い彼女が、何故あの日サクの父親が犠牲になったかを理解していない筈がなかった。きっと自責の念も伴っていただろう。
長いこと自分を蝕んできた苦痛でたまらない体験を、共に心に留めてくれる人がいる。サクはそれだけで、救われるような心地がした。
サクは再び父の字に目を落とし、表の絵を見つめる。
固く冷えたままだった蝋燭に、小さな火が灯った。火は揺れながらも、柔らかだが確かな光を伴った熱で蝋を温める。
やがて溶けて縁いっぱいに溜まったそれは、透明な雫となって溢れ落ちた。
様々なものが綯交ぜになった感情の波が胸に押し寄せ、うまく息を吸うことができない。
(──そうか。お父さんが亡くなって、心の整理がつかないままで……僕はずっと寂しかったのか)
考えてみれば簡単なこと。それがようやく府に落ちた。胸の中で燻っていた成長しきれない自分に、ようやく日の光が差したような気がする。
今すぐ父に会いたかった。会って、感謝を伝えたかった。
それなのに、父はどうしてこの世に居ないのだろう。生きていてくれさえすれば、機会はあったかもしれないのに。自分たちには、もうその機会すら無い。
サクは深い哀しみと後悔、そして突き抜けるような愛惜しさに、嗚咽を堪えきれなくなった。今にも身がバラバラに張り裂けてしまいそうだ。
モーネが腕をそっとさすってくれるのを感じながらも、サクは俯くことしかできない。
もし自分が生きて現大陸に戻ることができたら、真っ先に父の墓参りに行こう。父の身体は残らなかったけれど、魂はそこに居てくれると信じて。そして、陸珊瑚色の花を供えよう。
ぼやけた文字に、父の優しい笑顔が重なって見える。サクはそれを胸に抱き、ぐしゃぐしゃになりながらもこの上なく幸福な表情を浮かべた。
モーネを送り届けた帰り際にふと思いつき、サクは流通エリアに立ち寄った。少し迷ってから選んだのは、良い香りのする小さな花束だ。
サクはそれを二つ抱えて、人通りの少ない道を進む。やがて見えてくるのは、並んだ慰霊碑だ。
先程の雨で濡れてしまっているが、墓石の前に萎れた花はなく、定期的に人の手が入っていることがわかる。
サクはしゃがみ込み、そっと二つの花束をそれぞれの碑の前に供えて黙祷した。
喰った者も喰われた者も、いずれも命を落とした彼らに罪はない。彼らだって、必死に生きようと足掻いただけに過ぎないのだから。もたらした結果に憤りを覚えることはあれど、あのイビルジョー自身にも恨みは無かった。
この世に生まれた命が旅立つのは道理。残される者は、別れを惜しむことはできても連れ戻すことはできない。そして長い時間が傷を癒すことはあっても、その瞬間の痛みは避けられない。
(きっと、あのナルガクルガも──)
彼も、そのどうしようもない悲しみを背負って生きていくのだろう。
人とモンスターでは、ものの感じ方や価値観は異なる。それでも、彼の眼差しと声からは確かな感情が伝わってきた。
願わくば、彼の大切な存在が無事に天へと昇れるといい。
サクは目を開けて立ち上がると、大峡谷のほうを見やった。その先には陸珊瑚の台地がある。
ナルガクルガの心にも、再び暖かな晴れ間が差すことを願った。失った代償の為に頑なになっていた自分が、周りの人々に手を差し伸べてもらったように。
もしかしたら、あのジンオウガが支えになってくれるかもしれない。
雨で荒れていた海は、いつしか穏やかな旋律を奏でるばかりになっている。
遠くの雲の切れ間からは、赤みがかった陽脚が差し込んでいた。
***
日が落ちてもなお、人々の働くセリエナは真暗闇に包まれることはない。
昼間の目を焼くような照り返しと違い、篝火や月光を反射する雪明かりが、穏やかに足元を照らしていた。
窓から明かりの漏れる居住区のあちこちから、夕餉の匂いが漂ってくる。
サクは滑らないように気をつけながら雪路を進み、懐から鍵を取り出した。
「ただいま」
「おかえりなさいニャ!」
靴底の雪を落としてから玄関に入ると、ミランが出迎えてくれた。風呂に入ったばかりなのか、まだ白い毛がしっとりとしている。
「あれ、ヒアシは?」
靴はあるのに、姿が見えない。
ミランが「旦那さんなら」と言いかけたところで、ドアが開く。
「あ、おかえり」
「……た、だいま」
タオルで髪を拭きながら、ヒアシが顔を覗かせた。面と向かって彼と話すのは、かなり久しぶりに感じる。
「こっちの風呂使ってたんだ」
「ああ。家なら、何も気にせずゆっくり入れるからな」
「そっか」
交わされる会話は、どこかぎごちない。
何となしにサクが目線を彷徨わせた先に、ヒアシの左腕があった。風呂の直後なのだから当然だが、それは義手ではなく彼が生まれ持った腕だ。
サクはヒアシが何気なく言った"何も気にせず"という言葉が、人目を指すのだということを察してしまった。
集会所の浴場は沢山の調査員が利用する。
防具を着ている時ならまだしも、肌を見せるとなると、人々に悪気はなくともついヒアシの方を見てしまうだろう。
彼はそれを厭って自宅の風呂を使ったのかもしれない。それまでは広い集会浴場を好んで利用していたというのに。
サクはすぐに視線を戻し、考えを振り払うように新たな話題を出した。
「二人とも、夕飯は?」
「これからだ。さっき帰ってきたから、まだ下処理しかできていないんだが」
「サクさんはもう食べたのニャ?」
「ううん、まだだよ。僕も今着いたところなんだ」
サクはマフラーを外しながら、ヒアシの名を呼ぶ。ヒアシが振り返ると、サクは少し躊躇った後に口を開いた。
「あのさ……料理、僕も手伝っても、いいかな」
サクの言葉に、ヒアシはちょっと目を見開く。これまでは基本的に料理はヒアシが担当していた為、サクがこんな提案をしてくるのは珍しい。提案というよりは、ニュアンス的には確認の方が正しいだろうか。
ヒアシは束の間黙っていたが、やがて表情をやわらげ、頷いた。
備え付けられた小さな台所は、大人が二人並ぶには少し狭い。
「これ、どう切ればいいの?」
「まず横から包丁を入れて、縦に同じくらいの間隔で切れ込みを入れる。それから横方向に切ってくれ」
「わかった」
ミランが箸やら食器やらを用意してくれている間、サクとヒアシは必要な会話だけをしながら調理した。
切れ込みを入れたオニオニオンをみじん切りにしていく。独特のにおいを嗅いでいるうち、目がツンと痛くなり涙が滲んできた。
鼻をすすって顔をしかめながら残りを切っているサクを見て、ヒアシがくすくすと笑う。
「口で呼吸をすれば、涙は出にくくなるぞ」
「そうなの? 先に言ってよ……」
相変わらず目は痛いままだったが、ヒアシが久しぶりに笑顔を見せてくれたのが嬉しい。サクは口角を緩めながら、熱したフライパンに少量の油を引き、切った具材を炒めた。
そのうち香ばしい匂いが漂ってくる。
飴色に変わったそれらとポポの挽肉をヒアシが捏ねている間、サクは根菜を切っていく。
下に水を入れた蒸し器に切った根菜を並べて火にかけると、サクはヒアシの隣に並んだ。
ヒアシが先に茹でておいてくれたミリオンキャベツの中心に、肉だねを適量置いて、くるくると巻いていく。爪楊枝を刺しても、ヒアシが巻いたものと違い、自分のものは少し形が崩れて不格好だ。
肉だねが溢れないように気をつけながら巻いているうち、気づけば最後の一個になっていた。
サクがバットにそれを置くと、二人は同時に相手の名前を呼んだ。
「あ……ごめん」
「こちらこそ。先にどうぞ」
サクはヒアシに向き直り、目を伏せた。
「……この前は、本当にごめん。勝手なことを言い過ぎた」
「おれの方こそ、酷いことを言って悪かった。あの後、反省したよ」
意地を張って、言いたくても言えなかったことがやっと伝えられた。二人は互いにホッとした表情を見せる。
「封筒、受け取ってくれなくても、いい。ただ──」
サクはちら、とヒアシを見て口を開閉させた後、決心したように切り出した。
「また何か困ったことがあったら……いや、大して困ってなくてもいいから、いつでも頼ってほしい」
サクは真剣な眼差しでヒアシを見つめる。その金色の瞳は、あの日に陸珊瑚の下で見せたものと同じ光を湛えていた。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど、君が独りで苦労しているのを見るのは、つらい。力になりたいんだ」
「……!」
ヒアシは眉を下げた。
喧嘩した日にサクが封筒を渡そうとしてくれたのも、きっと同じ気持ちからではあったのだろう。
時間を経て、彼はこちらの気持ちを汲んだうえで言葉を掛けてくれた。相棒からの思いやりが、心に染みる。
「……ありがとう、サク。頼りにしている」
ヒアシは柔らかく目尻にしわを寄せた。
サクはヒアシの表情に吐息を漏らす。
「正直……バディ解消しようって言われることも、覚悟してた」
サクの呟きに、ヒアシは心外だと言わんばかりに目を見開く。
「君は、誰か他のやつとバディを組み直したいと思ったことがあるのか?」
「そんなこと一度だって無いよ!」
「そうか。おれもだ」
サクが慌てて顔を上げると、ヒアシは満足げに微笑んでいた。してやられた。サクは頬と耳を赤く染め、ヒアシの背をぽん、と軽く叩いた。
ヒアシは笑いながら手を洗う。水気を切ると、ロールキャベツを詰めた鍋に、セリエナの料理長から分けてもらったスープを注いで火にかけた。
蒸し野菜の具合を見ながら、ヒアシは再び口を開く。
「おれは、この先も新大陸でハンターとして生活していきたいと思っている。できるだけ、今まで通りに働いていきたい」
「……うん」
もうヒアシの意思が揺らぐことは無いのだろう。サクは相方の行く末を案じて不安げにヒアシを見つめる。
するとヒアシはちらりと目線だけをサクに向け、ニッと口角を上げた。
「それと、これからも君が相棒として隣に居てくれたら、おれはとても嬉しい」
「ヒア……」
拒絶されてしまうのではないかという恐れは、ヒアシ本人の言葉によってかき消された。一拍遅れて、傍に立つことを認めてもらえたのだという喜びが胸を駆け巡る。
サクは顔の緩みを隠すように、そっぽを向いた。
「そんなの、当たり前じゃないか。言われなくてもそうするよ」
「君ならそう言ってくれると思った」
ヒアシとサクは笑い合い、調理の続きを始める。
そんなふたりの様子を、ミランは後ろからにこにこと見守っていた。
やがてテーブルには、色とりどりの食事が並んだ。暖色の照明の中に湯気が立ち上り、なんとも食欲をそそられる。
「うわぁ、すごい豪華だね」
「久しぶりに皆揃っての飯だからな」
「おいしそうニャー!」
ヒアシは椅子に座りかけたところで、悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「せっかくだし、酒も飲むか」
「賛成!」
「ニャ!」
いただきます、と皆で手を合わせる。
サクはまず息を吹きかけながら、スープを口に含んだ。野菜や肉の優しいコクの中に、ぴりっと胡椒が効いている。スプーンで切れるほどに柔らかく煮込まれたロールキャベツは、頬張るとスープやら肉汁やらがじゅわっと溢れ出した。
ヒアシは香草を練り込んだソーセージやマッシュポテトを、パンに乗せてかぶりついた。ハーブと小麦の香りが鼻に抜ける。
もうさほど熱くない温野菜も、ミランにとっては怖々と口に運ぶ温度らしい。彼女が用心深く何度も息で冷ます様子を、ふたりは顔を見合わせて笑った。
盛んに「おいしいニャ!」と顔を綻ばせるミランに同調しながら、ワイングラスを傾ける。
「こんなに食事が楽しいって感じたの、久しぶりだな」
チーズを齧りながらしみじみ零したサクに、ヒアシが微笑みかける。
「それは良かった。元気になって何よりだ」
「心配かけてごめん。あと、朝食と置き手紙もありがとうね」
ヒアシはロールキャベツをおかわりしつつ、緩く首を振る。
それまでちびちびとワインを飲んでいたミランは、サクに尋ねた。
「休暇、ゆっくりできたのニャ?」
「おかげさまで。知人にも会って話をしてきたよ」
サクの返事に、ヒアシはあっと臍を噛んだ。
「すまない、そのことを伝えそびれていた」
「ううん、ミランが教えてくれたから気にしないで。──あと、事後報告で申し訳ないんだけど……僕、ハンターは辞めることにした」
サクは黙っていたことを非難されるのではないかと身構えたが、ヒアシはあっさりと了承した。
「何となく、そんな気はしていた。無理をすることはないし、君がやりたいことをやればいい」
「……うん。心機一転して頑張るよ」
サクは朗らかな笑みを浮かべた。
食器を片付け終えて、二人と一匹は各々でくつろいでいた。時計の針は、そろそろ日付が変わる時分を指している。
ソファで茶を飲みながら、ヒアシはぼんやりと呟いた。
「……あの時」
「うん?」
風呂から戻り、隣で濡れた髪を拭いていたサクは、視線をヒアシに向ける。
「君は何故そんなにおれに肩入れするんだ、って不思議に思った」
「何故って……僕らはずっと一緒にやってきたんだから、負担を分け合うのは当然のことだと思ったんだよ」
サクはちょっとばつが悪そうに乱れた髪を手櫛で整える。
「ずっと、か。……そうだな。昔を入れると、もう十年以上も一緒にいたことになるのか」
「え、そうだっけ? ……あ、本当だ。離れてた時はあるけど、下手すると親元にいた時間より長いかもね」
指を折って数えていたサクは、懐かしそうに少し遠くを見た。
ヒアシは目元に微笑を浮かべる。
「そう思うと、なんだか感慨深いものがあるな」
「まあ、そうだけど……もう、何だよ急に。水臭いじゃないか」
「いや、別に。ただ何となく考えてみただけだ」
「なにそれ」
サクはくつくつと笑った。
その横顔を見てふと思い当たり、ヒアシはサクに尋ねる。
「君は、もう研究の方に戻るつもりはないのか?」
サクがハンターを志した理由は聞いていたが、なぜ学者の道を諦めたのかヒアシは知らない。
幼少期から父のような研究者になりたいと目を輝かせていたサクが、夢を諦めざるを得なかったその理由を。
ヒアシの問いに、サクは酔いが覚めていくのを感じる。
目を伏せて指を絡め、しばらく黙り込んでいたが、やがて視線を上げて口を開いた。
「そのことなんだけど……少し、長くなると思う。…………聞いてもらっても、いい?」
ヒアシとミランは手を止めて、じっとサクの言葉に耳を傾けた。
サクは時折詰まりながらも、一つ一つ語っていく。
父のこと、あの日の事故のこと。
ナルガクルガの親子に対しても、父を失った自分と重ねてしまったこと。
──そして。
ヒアシが庇ってくれたとき、再び自分のせいで大切な人を失うのではないかと恐怖したこと。
苦い昔を思い出す研究職ではなく、今は新しい道で生きていきたいのだということ。
すべて話し終えて、サクは口を閉じる。
あまり口数の多いほうではない相方が、何度も相槌を打ってくれているのは分かっていた。それでも、しばらく顔を上げられなかった。
すると、右手が温かな感触に包まれる。見れば、ミランが身を乗り出して両手で握ってくれていた。言葉はなくとも、彼女の表してくれた気持ちは十二分に伝わってくる。
ヒアシに視線を移すと、二つの優しい群青は、潤んだ光沢を持っていた。
ヒアシは右手をサクの肩に置いた。
「……話してくれて、ありがとう。……今まで、頑張ってきたんだな」
混じり気のない、真っ直ぐな言葉。
それは、サクがずっと待ち焦がれていたものだった。
ヒアシの言葉の一つ一つが、手の心地よい重みと共に、サクの心に刻まれた深い傷を癒していく。
これまで身を削って重ねてきた経験と時間は無駄ではなかったのだと。ようやく、そう思うことができた。
「…………ッ、うん」
ふたりは視線を合わせ、目尻にくしゃりとしわを寄せた。
ヒアシが指で目頭を拭う。
「つらい思いをした分、これからはいっぱい笑ってほしいのニャ。旦那さんもボクも付いてるニャ!」
ミランが振ると、ヒアシはしっかりと頷いた。
熱いものが込み上げてきて、サクは天を仰ぐ。するとヒアシに肩を揺さぶられ、思わず笑いを溢した。
"しあわせ"という言葉の成り立ちは、元は様々なものの重なり合いや、巡り合わせを指すものだったという。それが転じて、幸福を表すようになったのだと。
青い星に導かれた場所で、たくさんの出会いがあった。その中でも、特にサクにとってかけがえの無いもの。
きっと、今のような瞬間をしあわせと呼ぶのだろう。ここでその言葉を遣わずして、一体どこで遣うのか。
サクは大切な友人たちに、精一杯の笑顔を見せた。
「……ありがとう。ヒア、ミラン」
タンジアの港で船に乗り、それぞれ別の人生を歩んできた幼馴染みと再会して。ひたすらに新大陸の謎を追って、凍えるほどに寒いこの地に辿り着いて。
気づけば、随分と時間が過ぎていた。
過去の柵から逃げてきた筈が、正面からその過去や自分の幼さと向き合うことになった。
それでも、今は少しも後悔はしていない。ようやく人生の次の段階へと踏み出せたような気がした。
新大陸古龍調査団での活動が、いつまで続くかは分からない。
十年程度で帰ることになるかもしれないし、一期団のように年老いてもなお謎を追い求めることになるかもしれない。
それでも。
時間の許す限りはこの地で、胸を張って自分らしく生きていきたい。
心の底から、そう思った。
***
吹き抜けからちらちらと粉雪が舞い込む中、昼間から乾杯の掛け声が響く。一仕事を終えた調査員たちは、達人ビールをうまそうに呷った。
宴が終わった後も、少し落ち着いたとはいえセリエナの集会所「月華亭」の賑わいは絶えない。受付嬢や給仕アイルーたちは、くるくると忙しなく立ち働いていた。
サクはカウンター席に腰掛け、鞄の中身と持参する物品のリストを照らし合わせていた。
今日の調査先は渡りの凍て地だ。古龍イヴェルカーナが姿を消した今、調査班の一部はその後の生態調査を任されている。
サクはリストをテーブルに置き、地図を取り出した。
(ええと、今日は地下を通るから……)
途中でトビカガチ亜種をよく見かける広場を経由するが、刺激しなければ敵対されることはまず無いだろう。
だが地下洞窟にはドクホオズキが自生しているほか、様々な性質のガスを発するガスガエルが生息している。サクは万が一に備えて、それぞれに適した解毒薬や、防毒マスク等を持ち込むようにしていた。
地図に書き込まれた注意事項と薬品を照らし合わせ、揃っていることを確かめる。
包帯やガーゼの残り枚数が十分なことも確認し終えると、サクは鞄を閉めた。
「あれ、サクかい?」
その時、後ろから聞き慣れた声と共にらコツコツと足跡が近づいてくるのが聞こえ、サクは振り向いた。
そこに居たのは案の定、オトモアイルーを連れたヴィオラだった。
「ヴィオラさん。お疲れ様です」
「お疲れさま。……で、あんたその格好どうしたんだい。武器は?」
ヴィオラは不思議そうに首を傾げる。
今のサクはハンターに支給されていたウルファ装備ではなく、編纂者用の収納が多いものを着ていた。ヴィオラが訝しんだように双剣も背負っていない。
サクは柔らかな表情を浮かべ、首を横に振った。その瞳は、満ち足りた色をしている。
「これからはもう、編纂と救護だけでやっていこうと思って。武器は家にあるんですけどね」
「あら……そうだったの」
サクの顔にヴィオラは一瞬呆気に取られたが、やがて照察した笑みを見せた。
「その様子を見るに、うまくいったみたいだね。おめでとさん」
「見苦しいところを見せてすみませんでした。……でも、おかげであいつと今後のことについても色々話し合えたんですよ」
サクはちょっときまりの悪そうな顔をした。だが、すぐに穏やかな喜びを浮かべる。
「まあ頑張りなよ。あんたなら大丈夫だと思うけど、何かあったら手伝うからさ」
ヴィオラは唇を弓形にしてばし、とサクの背を叩く。サクは笑いながら痺れる背をさすった。
「ありがとうございます。……あ、相棒が呼んでるので、僕はこれで」
サクの視線を辿ると、モンスターの骨でできた門の側で、盾を携えた男が手を振っているのが見えた。
サクは「いま行くよ」と手を振り返し、ヴィオラに笑いかけた。久方ぶりに見る、生き生きとした笑顔だ。
「じゃあ、行ってきます!」
「無事に帰って来るんだよ!」
ミランを連れたヒアシの隣に、サクが駆け寄って並ぶ。ふたりは顔を見合わせて頷くと、翼竜を呼ぶ指笛を吹いた。
翼竜の澄んだ鳴き声と共に、二人と一匹は雲の流れる空へと舞い上がる。彼らの背中を押すように、追い風が吹き渡っていた。
白雪まじりの風は、止むことなく新大陸を駆け抜けていく。
瘴気と同様、時に生き物の命を呆気なく奪うもの。だがそれは、今はただひたすらに優しいきらめきを放っていた。
Fin.