虚を照らす光 上
別れてしまえば赤の他人。そんな言葉を聞いたのは、一体いつだっただろうか。自分を慰めるつもりで発されたであろう言葉が、何年も経った今でさえ胸のどこかに棘となってつかえている。
伝えたいことがあるので直接会って話したい。かつて恋仲だった相手からそんな手紙が届いたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
降雨の多いアステラでは、保管する書物の全てにある程度の防水加工がされていた。しかしそれはあくまでも湿気に多少強くなる程度のもので、飲み物を溢しでもしたら駄目になってしまう。給湯室などというものは無いため、研究所に出入りする調査員らは各々で食事場やら自宅やらに戻って休憩していた。
ちょうど昼時の為、食事場はハンターで満席だった。自宅で簡単に昼食を済ませ、一服してそろそろ戻ろうとしていた頃、ノック音が聞こえてきたのだった。
モーネは顔の横に落ちてきた髪を、耳にかける。
改まってどうしたのだろう。学生時代にお世話になった教授──彼の父親に関することは二年前に全て伝えた筈だし、掲示板にも
ガラス製のポットの中で、茶葉の色素がゆらゆらと水の中へと降りてゆく。手紙を読んでいるうちに、それらが水出しとは言えやや濃すぎるくらいに抽出されていることに気づき、モーネは慌てて茶漉しを取った。
モーネの通っていた学舎では、卒業後も研究の継続を希望する学生は、実験やフィールドワークの際に下級生の面倒を見ることになっていた。ちょうどその班で一緒になったのが、彼──
彼は学舎で教鞭をとっている教授の息子であるということに加え、人目を引く容姿の一年生が微生物学科に来たということで話題になっていたらしい。モーネは彼の属性について特に気にしたことは無かったけれど、本人は周囲から寄せられる好奇の目に対して、居心地悪そうにしていた。
それはそうだろう、と思う。生まれ持った容姿についてとやかく言われることもそうだが、ここには他人の身分や家柄も気にする人が大勢集まっている。かくいうモーネも専攻を選んだ時には、自分に対する陰口に対して聞こえないふりをしていたものだ。生まれが何だというのか。モーネは姉の結婚によってそういうものからは逃れられたけれど、それでも華々しいネームバリューを得なければ周りは黙らないらしい。
緑は生命の循環に必要不可欠なものだ。地衣類と共生する微生物に関する研究だって、すぐにとはいかなくてもきっと世の役に立つ。そう信じて、モーネはひたすら自分が好きなものに対する研究と勉強を続けた。救いだったのは、定期的に手紙をくれる両親と姉が、自分の進路を応援してくれていたことだった。そうでなければ、今自分は新大陸に居なかっただろう。
モーネは渋味の出てしまったぬるい紅茶を口に含む。氷を入れるのを忘れたことに気づいたのは、液体を飲み下して、香りと苦さだけが舌に残った時だった。
(だからこそ、サク君はわたしに興味を持ってくれたのかも)
切欠が何だったのかは忘れてしまったけれど、研究室で会話を重ねるうちに、いつしか彼の眼差しに温かなものを感じるようになっていった。
二人の関係が変わったのは、彼の入学から一年半ほど経った、研究室の無機質な窓から三日月が綺麗に見える夜のことだった。下級生のうちは座学が中心とはいえ、出される課題の量はかなり多い。モーネも先輩に世話になったから、そのお返しのつもりで後輩達の面倒を見ていた。
要領の良い学生達はさっさと終えてしまって、元気な足取りで寮やら自宅やらに帰って行った。だが、サクは教科書と睨めっこしながらレポート用紙を細かい文字や式でびっしりと埋めるものだから、なかなか終わらない。先輩は先に帰ってください、と気を遣ってくれたけれど、どうにも過去の自分を重ねてしまい、放って置けなかった。
伽藍とした部屋でようやく書き終えたのは、学部棟が閉まる半刻前だった。サクはモーネに何度も頭を下げ、無事に紙の束を提出ボックスに入れたのだった。
茹だるような暑さの昼間と裏腹に、湿った匂いのする涼しい風が頬を撫ぜる。月明かりに照らされた道を、二人は並んで歩いた。
──この時間になると涼しいわね。
──そう、ですね。
元々どちらも口数が多いわけでは無いけれど、普段はもっと会話の応酬が続くのに。モーネがサクの方をちらりと見やると、長いまつ毛で縁取られた瞼は伏せられ、視線は下の方で彷徨っている。明らかに緊張している様子の後輩が可愛らしく思えて、モーネは彼の名札をとん、と突いた。
──そういえばあなたの名前、ユクモ地方の文字よね。どういう意味のある字なの?
不意の問いかけに、彼はきょとんと目を丸くしてモーネの方を見たが、やがて口を開いた。
──ええと……新月、だったと思います。物事を一から始める力を持てる子に育つように、って。
──まあ、素敵な名前ね。実はわたしの名前も、うちの地方では"月"という意味なの。わたし達、なんだか似ているわね。
モーネが微笑みかけると、サクはいよいよ暗がりでも分かるくらいに顔を赤くした。それから彼は決心したように、鞄からチケットを取り出した。
──あの、もし良かったら。今度、ふたりで出かけませんか。
それは、この辺りでは有名な花火大会のチケットだった。手に入れるのも大変だっただろうに、わざわざ二枚取っていてくれただなんて。
モーネが了承すると、サクはそれはそれは嬉しそうに笑った。あれが、彼の表情が大きく変わったのを見た、初めての瞬間だった。時間が経った今でさえ、ありありと思い出せる。
モーネは引き出しを開けた。手帳に挟まれているのは、美しい花火の描かれたチケットだった。もうとうに色褪せてくしゃくしゃになってしまっているけれど、どうしても捨てられずにいる。未練があるかと言われれば首を傾げるが、思い出の物であることには違いなかった。
それを手に取って眺め、モーネは溜息を吐いた。
何度か二人で過ごす日を重ねるうちに、彼と思いを合わせるようになった。今思えば、若いうちにしか得られない輝きを放っていた日々だったと思う。
これまで異性と交際をしても、どうしても自分のやりたいことを蔑ろにすることができず、愛想を尽かされてしまうことがよくあった。周りの友人にもプライベートを優先する娘は多かったし、その辺りの感覚が、自分はずれていたのだろう。
だが彼はそんなことは気にせず、自分の姿勢を肯定的に認めて応援してくれた。年齢差を埋めようと背伸びをして頑張る姿も好ましかったし、何よりモーネのことを大切にしてくれた。
外面にあまり関心がないのが玉に瑕ではあったけれど、気づいて欲しいならアピールをすれば良いだけのことだった。
価値観の擦り合わせもこまめにしていた為、大きな喧嘩やすれ違いも起こることなく過ごすことができた。互いの相性も良かったのだろう。
モーネは卒業しても学舎の研究員として働いていたし、向こうが就職してからも交際を続けていた。学者という職業上、お互いに経済的に安定しているかと言われればすぐには頷けないが、なんとか食べていくことはできる。まとまった資金が必要になるであろう将来のことも、少しずつ考え始めていた。
同棲が決まった際は、二人で暮らしていくにあたり必要なことも、若いながらも懸命に調べたり周りに聞いたりしてくれた。期間を決めて、それでも思いが変わらなければ一緒になりたい、とまで言ってくれた。彼が自分との将来を真剣に考えてくれているのが、嬉しかった。
そんな日々に終わりが訪れたのは、一週間後に同棲を控えた日のことだった。
新人教育を目的とした複数分野での合同のフィールドワークで、偶然サクとモーネが琴平教授の班になった。確か、地底洞窟が火山地帯に飲み込まれる前の、限られた期間にだけ繁殖する菌類に関する調査だったか。二人で同じ班になれたことに浮き足立っていた所もあったかもしれない。
それにサクは以前から、いつか父に良い所を見せたいのだと言っていたから、彼にとっては満を辞してのタイミングだったのだろう。これまで積み重ねてきたものを見せれば、きっと認めてもらえる筈だと。
経験を積んだ教授が居るとはいえ、危険なフィールド調査ということでハンターも雇っており、十分な警戒態勢が敷かれていた。事前に予測されていた天候も安定していて、モンスターの繁殖期も避けている為、環境は良好だった。そう、良好な筈だったのだ。
(わたし達にあてられた予算は少なかったし、当時はあれが限界だった。でも、もっとエマージェンシーに慣れているハンターが居たなら……)
安全地帯で生活している一般の人間は、中型モンスターにすら遭遇したことがないという者も多い。実際、それまでのモーネも獣人族以外のモンスターは、荷車を引くアプトノスや、乳を搾るために飼育されているポポくらいしか間近では目にしたことがなかった。調査団に入団してからは当たり前となった、モンスターの残した痕跡探しも、あの頃は足跡すら見分けが付かないほどだった。
そして雇っていたハンターのランクも、小型モンスターの討伐が主で、仲間と協力してやっとイャンクックを討伐できる程度。通常種の飛竜はともかく、亜種の行動パターンなど、知る筈も無かったのだ。特に地底洞窟に生息しているフルフル種の痕跡は、粘菌などの菌類や元々の岩肌の質感と混同してしまいがちだった。だからこそ、見落とされてしまった。
あの悲痛な事故を思い出し、モーネはこめかみを抑えた。同期や後輩だった身体から吹き出す血飛沫が降ってくる悪夢を、今もたまに見ることがある。その度に酷い動悸と恐怖に襲われ、己の身を掻き抱くことになるのだった。
肉食モンスターが他のモンスターを喰らうのは、道理だ。小型であれば、その姿も遠目でなら見たことがない訳ではなかったし、別段グロテスクなものが苦手という訳でもなかった。
しかし、喰われているものが人体となると話は別だった。本体から引き千切れて皮や脂肪の垂れ下がる肉を美味そうに喰らう様は、悪魔としか言いようがなかった。そして尊敬する教授の顔も、肉塊の中に紛れていた。
義父になるかもしれない人だったとはいえ、血の繋がらない他人でさえ、これほどまでに恐怖と嫌悪を刻みつけられている。敬愛していた肉親を自身の目前で奪われたサクは、どれほどの気持ちだっただろうか。
護衛のハンターが必死の形相で彼を押さえつける中、冷たく嫌な風の吹き抜ける洞窟に、響き続けた絶叫が脳裏に走る。声が枯れても、洞窟から離れて車に乗っても、彼の全身を裂かれるような苦痛に満ちた呻きは絶えることはなかった。
あの時、自分が腰を抜かさず走って逃げることができていたら。彼が自分を守ろうとしなければ、そしてその息子を教授が守らなければ。一体どんな未来があっただろうか。もしかしたら琴平親子は無事だったかもしれないし、むしろこうして自分達が生き延びることもできなかったかもしれない。
それからのことはよく覚えていない。威圧的なギルドの役人からの調査もあったし、学舎の遺族への対応やら現場にいた者への事情聴取やらで目まぐるしかったような気がする。
だが、後日の葬式で、抜け殻のようになってしまった彼を見るのが、モーネには本当につらかった。
喪主であるサクの母親もつらそうではあったが気丈に振る舞っていた。そしてサクは、遺族として果たすべき役割を淡々とこなしてはいたけれど、よく輝かせていた黄金色の瞳からは光が消えてしまっていた。悲嘆のあまり涙すらも出てこないのだろう。そう思うと、己もこの結末を招いた一因であるということに、凄まじい罪悪感が胸を炙った。
それから程なくして、同棲の話は取り止めとなった。いつしか、サクの姿を学舎でも見かけなくなった。そのうち、琴平教授の息子が休職届を出している姿を見たという噂が流れた。
どうやら噂は本当だったらしい。モーネが帰り際にサクの住む寮の近くを通っても、灯りが付いている日の方が少なくなっていった。サクの傍に居たいと思ったけれど、今は人に会うことすら苦痛だろう。そう思うとどうしても一歩踏み出せないまま時間だけが過ぎていく。
モーネは何度か心の治療を依頼して、ようやくこれまでと同じような日常生活を送れるようになってきていた。琴平教授が教えていた教科は、ぼそぼそと聞き取りづらい話し方をする教授が代わりに講義を行うことになった。
彩りに溢れていた日々が味気なく感じるようになって、どれほど経った頃だっただろうか。会いたくて仕方のなかった人が訪ねてきたのは、大粒の雨が波紋を生み出し続ける夕方だった。
(きっと、あの時のわたしでは彼を支えるなんてできなかった)
久しぶりに会った恋人は、顔色が悪いどころの話ではなかった。身なりは辛うじて整っているものの、明るく暖かい部屋に通すと、その容貌が明らかとなる。まるで死人のようになってしまった彼は、モーネと目が合うとその顔をさらに苦しげに歪めたのち、深く頭を下げた。
雨の湿気を吸った黒い髪が、重力に従ってぱらぱらと下がってゆく。その様を見た時に理解してしまった。ああ、これで自分たちは終わりなのか、と。
──誰も悪くないって、頭ではわかってる。でも……このままじゃ、僕は大事なひとを恨んでしまうかもしれない。そんな思いを抱えたまま、モナさんの傍には居られない。
やっとの思いで発されたであろう掠れた声は、全てを語ったわけではなかった。それでも、彼が言わんとすることはモーネには十分伝わっていた。
もしもモーネを庇わなければ、とあり得たかもしれない未来を、頭の回る彼が考えていない筈がなかった。やり場のない感情を消化する為に、モーネを糾弾すれば少しは気が紛れるだろうに。
苦しみの最中にあるこの期に及んで、彼はモーネを気遣ってくれている。優しいこのひとをこれ以上傷つけずに寄り添ってあげられたら、どんなに良かっただろう。
時間が経つにつれて、珈琲の熱が香りと共に空気中に奪われていった。湯気すら立たなくなったそれらは、窓を止めどなく濡らす雨とは裏腹に、二つのカップの中で静かに佇んでいた。
──今まで本当に幸せでした、ありがとう。そして僕と付き合っている間、モナさんの大事な時間を奪ってしまって、ごめんなさい。
紡ぎ出されるにつれて震えていった言葉に、モーネはたまらなくなった。よく共に食事をしたテーブルに手をついて通り過ぎ、力無く項垂れた彼を抱き締める。自分がなにを言ったのかは覚えていないけれど、とにかく彼の言葉を否定していた気がする。時間を奪われただなんて、微塵も思っていない。こんな惨い運命を辿らされた人が、自分自身を責める必要などこれっぽっちも無いのだ、と。
傘から出ていた肩口はしとどに濡れて、ただでさえ低い彼の体温をさらに奪っていた。モーネは自分が濡れることなど考えもせず、冷たく骨ばった身体を強くかき抱いた。自分の背に彼の手が回ってくることは無かったけれど、程なくして聞こえてきた嗚咽が、彼の心情を何よりも明確に伝えていた。
それからは空虚な時間だけが過ぎていった。失恋の悲しみ、などという言葉で片付けられるものではない。これまで彼がいた空間や聞こえてきた声、使っていた柔軟剤の匂い、そういった身近なものが全てなくなってしまった。
失って初めて、彼が自分の中でどれほど大きい存在であったかを思い知った。まさか他人に興味を持てなかった自分が、これほどまでに誰かを想えるとは思わなかったから、心の冷静な部分で、場違いに感心してしまった程だ。
これがお互いにとって最善の道であるということには、理解していたし納得もしていた。それに、不思議といつか再び同じ関係を取り戻したい、とも思わなかった。長く付き合いはしたし、彼がいなくなってぽっかりと虚は空いてしまったけれど、何故かそれを埋めるのは彼自身ではないような気がしていた。
ただただどうしようもなく哀しい。それは事故に対してなのか、大切な人と別れざるを得なかったことなのか、不甲斐ない自分を呪ってのことなのか。感情の整理が必要だと思う一方で、実は自分を取り巻いているものは案外シンプルなのかもしれなかった。
モーネはポットの中に残っていた、一杯分というには少ない茶をカップに注ぐ。渋みの強いそれを飲み下し、深く息を吸って吐き出した。
(──でもあの経験があったからこそ、今わたしはここに居る)
あれから、随分と時間が経った。それまでの間には、それなりに仲を深めた相手もできたが、結局誰ともきちんとした交際をしないまま終わっていた。でも、別にそれで良いと思っていた。
粗熱のような苦しみが過ぎ去ってしまえば、残るのは自分とその前に広がる道のみ。モーネはこれまで通り、自身の興味のあることにだけ集中することにしたのだった。
社会の体裁を気にしないようになれば、驚くほど心が軽くなった。女性だから何歳までにどのようなキャリアを重ねる必要があるか、出産や子育てがあるから選べない道はどれか、などといった型に嵌めていた未来予想図を捨てた途端、この歳になっても可能性は無限大にあることを知った。論文も沢山書いたし、いつしかそれが上層部の人間の目に留まっていたらしい。
いま新大陸古龍調査団としてここに居るのは、正真正銘自分で切り拓いた道の先で得たものだった。
モーネは最後の一口を飲み干すと、カップを軽く洗って立てかけた。物思いに耽っていると、時間が経つのがあっという間だ。
サクがこちらへ来るまでにはまだ一週間ほどあるし、また夜にでもゆっくり考えよう。
ペーパーナイフを筆箱に仕舞い、椅子に掛けていた薄手の上着を羽織る。ドアを開けると、水の匂いと共にそれまで聞こえていた滝の音が大きくなる。
部屋の鍵を掛けると、モーネは住居の建ち並ぶ長屋を後にした。
ずっとハーメルンにアップしようかどうか迷っていた話です。蒼赤本編から2年と少し後、青ナナの半年くらい前の話。
槍剣コンビ(今回はサクだけですが)やモーネの人となりについて掘り下げた番外編の前半でした。いかがだったでしょうか。後半も近いうちに投稿しようかと思っております。
よろしくお願いいたします。