蒼赤一閃   作:蒸しぷりん

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虚を照らす光 下

 

 

 太陽が最も高い位置に昇る頃には、アステラの賑わいもピークになっていた。朝方から調査に出かけていた調査員が、仕事を終えて昼餉を食べに戻ってきたり、彼らに振る舞う料理や食材の商いに精を出したり。そんな光景は、食事場以外でもちらほら見かけられた。

 所謂二等と呼ばれる、多くの調査員が利用する長屋からのアクセスはやや悪く、どこへ移動するにも一度流通エリアへと降りなければいけない。

 あちこちに吊るされている虫除けのハーブの香りも、飯時になるとたちまちかき消されてしまう。表情を緩めて昼食を頬張っている彼らを見ると、生きることと食べることは同義だとつくづく思うのだった。

 

 しかしモーネは、何かを口にする気分にはなれずにいた。音を立てて脈打つ胸から胃にかけての辺りが、すうすうと冷たく気持ちが悪い。何度深呼吸しても、拍動が落ち着くことはなかった。

 サクからの手紙が届いて、ちょうど一週間。今日がその約束の日だった。以前は仕事をずらすことができず、退勤してすぐに集合場所に向かったけれど、今日は一日休みだった。集中するものが無いと、止めどなく思考を占拠されてしまう。午前中は準備をしながら、ずっとそわそわしていた。

 

 もし、万が一復縁の話をされたとしても、寄りを戻すつもりは無いと答えよう。何にも気兼ねせずに自分の見つけた道を歩みたいからと。もうこちらで大事な人をつくるつもりは無いからと。

 頭ではそう思っている筈だった。それなのに、普段は気にしないような雀斑やしみにコンシーラーを乗せてしまったり、編みこんだ髪の束を引き出して抜け感を演出してみたり。

 これは人前に出る為に必要な身だしなみだと自分に言い聞かせている時点で、それだけでは無いという意識がどこかにあるのだろう。仕事以外で一対一で異性と会うのも久し振りだったし、気もそぞろになっている自覚はあった。

 

(まあ、でも。こんなに浮かれているのは、きっとわたしだけだわね)

 ピアスが耳朶の穴から外れそうになっていないか確かめて、モーネは深く嘆息する。

 夜ではなく昼時を指定する時点で、彼の誘いに下心が無いことが察せられた。そもそも双方共にどちらかというと淡白なほうだったし、そんなことは起こらないだろうとは思っていたけれど。彼はそういう線引きに関しては、潔癖な人だった。むしろそんな誠実さが、彼といる時間の中に安心感をもたらしていたのかもしれない。

 あれからずっと考えていたが、やはりサクに未練がある訳ではないのだと思う。ここ(新大陸)で、もしくは現大陸に帰って彼との家庭を築くビジョンは浮かばなかったし、ここまで来て自身のやりたいことを諦めるなどできる筈がなかった。

 だが、もし触れられたら戻れなくなりそうな危うい何かは、自分の中で静かに燻っていた。相手に幻滅して愛想が尽きた状態で別れることができていたなら、こんな浅ましい情はきっと残らなかった筈だというのに。

 

(ああ、今日は何の話をされるのかしら)

 それが早く知りたい。もしかしたらプライベートに全く関係のない仕事の話で、拍子抜けするかもしれない。それならいっそ安心するのにと思う自分と、少し落胆するであろう自分が共存していた。

 ふと、これは二年前のサクも同じだったのではないかと思い当たる。話そうとしていた内容が繊細な話題だった故に、彼を呼び出す手紙にはその旨を書けなかった。きっと彼も、同じように緊張していたに違いない。

 

 そんなことをぐるぐると考えながら居住区に張り巡らされた道を歩いていると、気づけば鍛冶場の前まで来ていた。暖かいアステラでは気温との差はさほどでもないが、入り口近くに来ると独特の臭いのある熱気がむわりと押し寄せる。

 絶えず響くベルトコンベアの可動音の中で、鞴が萎むたびにゴウ、と炉の炎が燃え上がる。しかし加工屋たちは皆手を止めており、熱された金属を叩く音は聞こえない。いつもはハンターの出入りが多いこの場所も、今は機械以外は休憩時間らしい。若頭もハンマーを置き、差し入れであろう味付きの握り飯を頬張っていた。

 

 モーネは彼らに軽く挨拶をしながら、巨大な炉を丸く囲うようにできた階段を上がっていった。無骨なパイプが張り巡らされている壁は若干不気味だが、そこを通り過ぎるとぽっかりと木製の出口が現れる。屋根のある踊り場に出るとまたすぐに階段が続いており、集会所へと続くリフトが上下するのがよく見えた。リフトを使わなくても、そのまま真っ直ぐに行けば、船を支える大岩に沿ってアステラのシンボルである船に着く。

 だが、モーネの目的は枝分かれした階段の先にあるテラスだった。集会所に行っても良かったけれど、そこまで行かなくてもここであれば海全体が見渡せる。

 

 ようやく階段の終わりが見えてきてほっとしていると、椰子が庇を作る道の先に、小さな旗のある屋根が見えてくる。一期団の人々も、この達成感のままにあの旗を付けたのではないかと思うと、なんだか可笑しかった。

「あら」

 モーネは目を瞬かせる。屋根の下には、先客がいた。上はインナーのみ、腰から下は防具という装いからしてハンターだろう。その後ろ姿には、見覚えがあった。

「アルトゥラス?」

 モーネが同期に声を掛けると、彼は──足音で既に気づいていただろうが──こちらを見た。気さくな彼は、五期団の後輩たちからはハンサム先輩、などというふざけたあだ名で呼ばれている。

 だが近くに行くにつれ、彼の目元と鼻が赤くなっていることに気づき、モーネは思わず足を止めてしまった。

「やあ、モーネ。悪いな、見苦しいところを見せた」

 アルトゥラスは鼻を啜り、口角を上げて見せる。だがうまく笑えていなかった。

 この高台はアステラだけでなく、古代樹の森も大蟻塚の荒れ地も、遠く広がる海も空も、雄大な大峡谷も、すべてが一望できる。この風景に縋りたくて、彼はここに来たのだろう。

 アステラで数少ない喧騒から離れられる場所ではあるが、辿り着くには鍛冶場の職人たちをはじめとした多くの人の目に留まることになる。だがそれらは、追い詰められた者への最後の一押しをしない為に、必要なのかもしれなかった。

「わたしこそ、邪魔をしてしまったみたいね。もし嫌なら離れるわ」

「いや、いいんだ。……今日は彼女の、命日だから。誰かが傍に居てくれるなら、有り難い」

「レジーナ……そう、そうだったわね。もうそんなに経ってしまったなんて」

 アルトゥラスの横顔には、愛する人を喪ってから、未だに癒えない寂しさと悲嘆が滲み出ていた。心底大事そうに指輪を撫でる手つきは、哀れだった。

 目を閉じると、彼の隣でいつも微笑んでいた、亡き同期の顔が瞼の裏に浮かぶ。聡明な彼女は、陸珊瑚の台地に起きた異変を真っ先に察知した学者だった。そして寄生された冥妃(イビルジョー)に喰われていく順番の中に、数えられてしまった人でもあった。

「どうか、あまり気を落とさないで」

 無理なことを言っているのは分かっている。だが、今のモーネにはこれ以外の言葉が浮かばなかった。

「ありがとう」

 アルトゥラスは滲み出てきた涙を押し隠すように目頭を指で拭い、俯いた。普段明るく振る舞う分だけ、押し隠したつらさは蓄積される。この組織に限った話ではないが、何か大きな苦痛に曝露した時、他人に弱みを見せられない人間から潰れていってしまう。

 けれど、苦痛の根源である大切なものを喪う悲しみばかりは、他人にはどうすることもできない。時間が苦痛を和らげてくれるのを待つのみだ。モーネも、これ以上仲の良い同期を喪いたくはなかった。

「わたしも、お墓に行くわ。あの娘に……レジーナに、会いに行こうと思う」

 モーネが微笑み掛けると、アルトゥラスは少し目を見開いてこちらを見る。それから顔をくしゃくしゃに歪め、頷いた。

 その時、どこまでも続く紺碧にぽつりと浮かぶ船が視界の端に映り、モーネは顔を上げた。アルトゥラスのことは気掛かりだったが、モーネに見せた表情からは、すぐに行動に移してしまいそうな危うさは読み取れなかった。

 モーネはいつでも相談してほしいという旨を伝え、その場を後にして階段を駆け降りた。

 

 

 

 波が打ち寄せるたびに、磯の匂いが身を包む。大きな荷物を抱えて船を降りてくる人々の中に、癖のある黒髪が見えた。サクはこちらを認めると、笑って手を頭のあたりまで上げた。

「モナさん。出迎えありがとう」

「サク君も、わざわざ来てくれてありがとう。たまにはわたしをセリエナに呼んでくれてもいいのよ?」

「フフ、それなら案内ルートを考えておかなくちゃね。そうだ、これ良かったら。ほんの気持ちだけど」

 後に続いて降りてくる人々の邪魔にならないところまで来ると、サクは持っていた包みを渡す。

「まあ、ありがとう。何かしら」

「お酒のチョコレートにしてみたんだ。ブレスワインのフレーバーとか、何種類かあるんだって。モナさん、こういうお菓子が好きかなと思って」

 包みには、シンプルだが美しいデザインの箱が入っていた。モーネの好みを覚えていてくれただなんて。喜びと共に、年下の彼に気を遣わせてしまったことに引け目を感じ、モーネは眉を下げた。

「ごめんなさい、こんな素敵なものを貰えると思わなくて、何も用意してなかったの。今日はわたしが奢るわね」

「いいよいいよ、僕の気持ちだから」

 サクは柔らかく微笑んで首を振る。その眼差しには、すっかり光が戻っていた。

 モーネは目を瞬かせる。元々優しくはあったけれど、昔はここまで気が回るような人ではなかったのに。この場所には居ない誰かの影を感じ、モーネはサクをちらりと見て、再び箱へと視線を戻した。

 

 ピークを過ぎると、食事場の混雑は落ち着いてきていた。忙しなく働いていたアイルー達も、やれやれといった様子で皿を磨いている。

「そういえばお昼は食べたの?」

 階段を上り終えたモーネが問い掛けると、サクは頷いた。

「船の中で簡単に済ませてきた。モナさんは?」

「わたしもよ。それじゃあ、ここじゃなくて上に行きましょうか」

 本当は食べていないけれど、いちいち言うこともないだろう。そう思い、リフトを指差す。最初から一気に上ってしまっても良かったのだが、せっかくなら歩きながら話そうと思い、アステラをぐるりと囲むように続く階段を選んだ。

 セリエナ暮らしの長い彼には酷かと思ったけれど、フィールド調査は続けているようで、難なく着いてきていた。そんなモーネの考えていることを察したのか、サクは悪戯っぽく笑う。

「明日は筋肉痛かも」

「あら。まだ翌日なだけ良いじゃない」

「えっそれどういう意味」

「いつか分かるわ」

 モーネが遠い目をすると、サクはひくりと顔を引き攣らせた。そんな冗談もそこそこに、下から上ってくる鎖にリフトを引っ掛け、小さな足場へぐっと体重を乗せる。数年前は乗り場に一つしか無かったけれど、今はいくつか予備があるので、サクも続いて足を掛けていた。

 ここまでは、いつも通りだ。モーネはサクに気づかれないよう、静かにゆっくりと詰めていた息を吐き出した。

 彼とは新大陸で再会して以来、仕事のやり取りをすることもあったし、他の同期を交えて食事をすることもあった。けれど意識的に二人きりになることは無く、あくまでも同じ組織に所属する人間として、良好な関係を保てていたと思っていた。

 サクの表情からは、言いたいことは読み取れなかった。ということはやはり、仕事の話なのか。もうすぐで胸のつかえが取れる安堵と、まだ何を言われるか分からない不安が入り混じっていた。

 

 

 

 船の甲板にある集会エリアは、人の姿は疎になっていた。クエストの斡旋やサークルの管理をする受付嬢たちやアイルーの姿がいつもの場所にいないからと見渡すと、それぞれが思い思いに散らばっている。

 彼女らは籠いっぱいの色とりどりの花を、集会所のあちこちに撒いていた。そういえばもうすぐ開花の宴か、と思い出す。考えてみれば、朝に植生研究所の若所長が調査員に大きな籠を押し付けていたのは、それだったのだろう。

 

 期団旗の並べられた奥の席に歩いていくと、給仕アイルーが駆け寄ってきた。今日は暖かい為、モーネはアイスラテを注文する。セリエナとの交易船が出るようになってから、ようやく乳製品が手に入るようになった。飼育に向かないケルビでは、子を持つ母親から乳を搾ることなど到底できない。

 冷やされたおしぼりで手を拭うと、指先や手首からすっとした心地よさが広がる。ふとサクの方を見ると、使い終わったそれはきちんと畳まれていた。新大陸に来てからも染まっていないのだな、と思わず小さな笑いがこぼれ、それをきっかけに取り止めのない雑談を交わす。

 ややあって、飲み物が運ばれてきた。今日ばかりは向こうも冷たい珈琲を注文しており、広いテーブルに二つのグラスが並ぶ。

 間に第三者を挟まないことで気まずくならないか、と心配していたけれど、杞憂だった。まるで付き合っていた頃に戻ったかのようだ。

 

 やがて、自然な話の終わりを待っていたかのように、サクが再び口を開く。

「それでね。手紙のこと、なんだけど」

「ええ」

 彼は下唇を巻き込み、一つ息を吸って吐き出す。それから意を決して、こちらに眼差しを向けた。

「籍を、入れることになりました」

 モーネははじめ、何を言われたのか理解できなかった。目を瞬かせる僅かな時間のうちに、その意味が頭に浸透していく。気づけば、口が勝手に動いていた。

「そうなの。おめでとう、サク君」

「ありがとう」

 自分はうまく笑顔で祝福できていただろうか。だがサクの安堵したようなはにかみに、自分の表情筋と声帯がマニュアル通りに動いていたことを知る。

 その一方で内心は「ああ、道理で」と凪いでいた。彼の雰囲気の変化や、どこか薄い紙を一枚隔てたような距離感は唯一と決めた相手ができたことが理由だったということだ。同時に、気掛かりが解決して、自分でも驚くくらいにあっさりと溜飲を下げていた。

 モーネは手元のカフェラテを口に含む。いつしか氷が溶けて、上の層に透明な水の膜を張っていた。ミルクが入って、より下の濃厚な液体との分離は顕著になっている。

「こんなこと、お付き合いしていた相手に言うのは非常識だろうし、直前まですごく迷ってた。でもモナさんには、どうしても伝えなきゃって。──いや、ごめん。そんなことを言って、本当は僕がすっきりしたかっただけなのかも」

 サクが頭を下げる。モーネは首を横に振った。

「何を謝ることがあるの? 喜ばしいことじゃない」

 モーネの言葉を聞き、サクは眉を下げながらも微笑んだ。恥ずかしそうに絡めた指に、指輪は嵌っていない。気を遣われたのだと分かった途端、胸に苦いものが広がった。

 

「お相手、聞いてもいいかしら」

 サクはこくりと頷く。彼が答えたのは、モーネも知っている人物の名前だった。予想外の返答に、モーネは思わず目を見開いてしまう。

 かつて街で見かけた親子連れを目で追っていたあなたが。よりによって、自身の血を引いた子どもを一生望めない相手を選ぶだなんて、と。諦めにも似た、しんとした何か冷たいものが広がる。

(いえ、これは思い上がりね。きっとそうじゃないんだわ)

 憧れの父の背中を追って学者になるという夢も、我が子を誰かと共に育てていくという夢も。青少年の頃に抱いた夢を、すべて捨てざるを得なかった彼の人生の中で、ようやく掴み取った幸福の形なのかもしれない。

 自分たちは同じ時に同じ場所で痛みを共に感じた。しかし、それを舐め合い昇華していくことのできる道には居なかったのだろう。

 以前サクは、二年前の陸珊瑚の台地での事故で、あの時と同じような苦しみを味わったと溢したことがある。きっとその相手は、その苦しみごと彼を包み込むことができる人だったから、そのひとと共に生きることを選んだのだろう。大切なひとの傍に居られる権利を守る為に、それを他の何者からも崩されることが無いように。生涯を共にする契約で、ふたりを結んだのかもしれない。

 昔の彼のことをよく知っていたから、その分だけ彼の心情に想いを馳せることができてしまう。なんという皮肉だろう。

 

 悲しくはなかったけれど、受けたショックは大きかった。めでたい話だというのに、彼に見せる笑顔の一方で、心ノ臓は冷たく脈打っている。

 一度はまともに生活を送ることすら難しいほどに心を病んでしまった彼が、時を経て人生を取り戻すことができた。そして、愛する人を見出して再び前に進もうとしている。もう彼は自分だけの大事な人ではなくなってしまったけれど、一安心ではないか。

 サクに会う前にも、自分の胸の内を何度も確かめたのに。無駄な努力で終わるかもしれないと思ってはいた身支度も、まさかこんな形で徒労となるなんて。別に彼は悪いことはしていないのに、どうしようもなく惨めな気持ちになった。この歳にもなって自分の感情を揺らがせるなど、なんとも情けない。

 もやもやと荒れる心情を置き去りにして、口からは馴れ初めはどうだったのかやら、式は行うのかやら、いかにも心から祝福しているかのような言葉を吐き出す。

(あ、そうか)

 顔を赤くして俯きながら質問に答えるサクを見ているうちに、モーネは自身の感情の形を見出したような気がしていた。

 半分ほどにまで減ったカフェラテの中で、氷が溶けて沈む。その一方で、冷たい珈琲ははじめと比べて水の膜こそできているものの、グラスの外側を結露させるばかりだった。

 

 

 

 あれからどれくらい一緒にいたのか、いつ別れたのかよく覚えていない。確かなのは、自分の部屋に戻ってきたのはモーネ独りきりということだけだった。

 湯浴みをする元気も出ず、髪を解くとそのままベッドに倒れ込む。窓枠の中の赤い空に、トウゲンチョウが舞っているのがぼんやりと見えた。

 

 傷ついている訳ではないと思う。元婚約者が別の人と結婚していたことそのものへの嫉妬、というのも違うような気がする。

 ただ、置いていかれたと感じてしまった。自分で仕事を最優先にすると決めた筈なのに。自分が自信を持って行きたいと思った選択肢を一つ一つ辿ってきて、論文だけでなく本も出せるほどに成果を積み上げてきたのに。それが、幸せそうな彼の姿を見て、根本から揺らいでしまったような気がしていた。幸福など、他人が決めるものでもないというのに。

 元々サクと付き合っていた時も、彼との日々自体も大切だったけれど、その心底にあったのは自分も社会のレールに乗れているという快感だったのかもしれない。はみ出ていると散々言われ続けていたけれど、自分もきちんと誰かと沿うという女らしい生活に適応できているのだと。周囲から求められるものを自分は持っているのだと。

 そんな自分自身の、サクの存在さえも自己顕示欲の一部として消化してしまっていた醜さに吐き気がする。勝手に裏切られたような気になっていたが、結局自分のことしか考えていなかったのだ。触れた彼の体温も、共に過ごした時間も、きっと無駄ではない。それなのに、一度生まれてしまった虚しさは、夜の間じゅうずっと、眠りに誘う手を払いのけ続けるのだった。

 

 ふと、サクにもらった包みを思い出す。ベッドに放られたその中身を開けると、ふわりと酒精の混じる薫香が鼻を通り抜けた。箱の中には、一口大の可愛らしいチョコレートが六つ並んでいた。

 それらのうち、ハート型のチョコレートを齧る。中にはとろりとしたガナッシュが入っており、咀嚼のたびにチョコレートの甘さとほろ苦さ、そして林檎(シードル)の甘い香りと共にアルコールが舌の奥を焼く。普段であれば美味しいと感じるであろうその味も、今は孤独を助長させるばかりだった。溶けたチョコレートを嚥下する前に、もう半分も口の中に放り込む。

 

(ああ、今すぐに温かい珈琲が飲みたい)

 砂糖もミルクも入れずに、口内の甘さと消えない香りを、喉の火照りを洗い流してしまえるように。眠気に邪魔されることなく、明日使う資料を書き上げられるように。だが今は湯を沸かすことすら億劫で、代わりに水瓶から汲んだ水を口に含む。

 そうだ、これが今の自分の生き方なのだから。もう誰にも、自分の中の邪念にすら妨げられることはない。わたしには、これで十分だ。モーネはベッドの奥にある本棚の、自分がこれまで書き上げてきた論文の束をいくつもそっと撫でていった。面の柔らかな手触りは、鋭く指先を切ることも無い。

 これからも、また地道な研究を一つ一つ積み上げていこう。きっと満ち足りることは無いのだろうけれど、それらは自分自身の道標となる筈だ。

 灯りとなる虫籠の中でふわふわと鮮やかな緑の光を放っていた導虫は、嗅ぎ慣れない甘い匂いに反応してか、常よりも明るく体を光らせる。それを眺めているうちに、ざらついていた心がいくらか落ち着いてきた。

 明日はこれまでの研究発表を行う学会が控えているため、忙しくなる。早いところ身体を休めて、英気を養わなければ。それに、今日行けなかったお墓参りにも行きたいところだ。

 

 狭い部屋を隔てる薄い壁の向こうからは、同期の楽しげな声が聞こえてくる。大方宅飲みでもしているのだろうと思いながら、モーネは下着と寝間着を引き出しから引っ張り出した。

 その時、はらりと紙が床に舞い落ちた。それは昨夜も眺めていた、とうに終わった花火大会のチケットだった。モーネはそれを千切り、屑籠へと捨てる。これはもう、必要ない。綺麗な花火とあの日の熱は、記憶の中に留めていれば良い。

 

「結婚おめでとう、サク君」

 本人には決して聞こえる筈のないその言葉を、モーネは独りベッドに腰掛けながら呟いた。

 




 ここまでお読みくださりありがとうございました。というわけで、青ナナに繋がるモブの背景でした。
 モーネの心情をとっても簡単に言うとしたら、きっと「あの野郎ーー!!!!」です。本人に未練は無くても、自分が必死にキャリア積んでる時に元彼が結婚してたらそりゃあモヤモヤする。でもやはりモーネは誰かと結婚することで得られる幸福を望んでいた訳ではないので、幸せの形は色々あるよねということで書いてみたかった話でした。
 最後のお酒チョコですが、ウィッチシードルはスノウホワイト(凍て地のレアフキノトウ)入手で選べるようになるお酒ということで、サクの心はあちら(セリエナ、凍て地)にあるという暗喩にしました。
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