精神疾患に関する描写が多いので、閲覧注意です。最早名前を漢字からカタカナに切り替える気力もないのでそこはスルーしてください。
寝返りを打つと、毛布が巻き込まれて膝の下で丸まった。血流の滞りがちな両足は今も冷たく、すぐに自分の体温の移った場所へと戻す。意味のない身じろぎを、何度繰り返しただろうか。
眠れない理由は分かっている。リストを少し確認すれば防げたのに、自分のせいで貴重な資源を沢山無駄にしてしまった。同期や先輩は気にするなと言ってくれたけれど、再び同じものを用意することの大変さは理解していた。
近頃こんなミスばかりやらかしている。集中していないからだと分かっているし、対策もしているつもりだが、リカバリーが追いついていなかった。周囲に迷惑を掛けている自分が嫌で仕方ない。最早数えることをやめた溜め息が、再び口から漏れた。
── あんな父親では、子も子だな。
ふとした拍子に嫌いな学者に吐き捨てられた言葉が蘇り、唇を噛み締めた。
驚くことに生前の父を知っている者も調査団には何人かいて、そのいずれもが自分が生まれる前か赤ん坊の頃の、若い父を語った。そういう話から逃れる為に来た場所で、父の話を聞くことに対して複雑な思いはあった。彼らは皆父の死を知らないし、息子である自分の立場も知らない。
それに、褒められることもあったが、叩き上げのキャリアを良く思っていない者もいたらしいことを改めて知った。人間のくせに、と父を鼻で笑ったのは、件の学者だった。
自分達親子の何を知っているのかと、その時は睨んだだけで場を後にしたけれど、嫌な記憶は独りになった瞬間にじわじわと蝕んでくる。言い返さなかったことは、大人として正しい対応だったかもしれない。だが、父の不名誉に対して何もしなかった自分が情けなかった。
まるで喉から鳩尾の辺りまで、錘がぶら下げられているかのように重苦しい。寝返りを打つ気にすらなれず、ひたすら浅い呼吸を繰り返していた。バディと打ち合わせも終えて、早めに寝具に横たわって、明日の調査への備えは完璧だった筈なのに。
まだ残っている睡眠薬を飲もうかと棚に手を伸ばしたけれど、以前相方に止められたのを思い出した。欲求が満たされないことに気づくと、暗い何かが腹で渦を巻いたような心地になる。心配してくれたことに対して腹を立てるなんて、と渦が胸にも広がって重みを増す。それを追い出すように息を細く吐き出すと、自己嫌悪が塊となっていくつも目から伝い落ちた。
どうしてこんなに苦しいのか分からない。自分を認めてくれる人は沢山いると言い聞かせてきたけれど、誰よりも自分が自分自身を認められない。脆弱にも程がある。対処する術も身に付けてきたけれど、それでも胸の蟠りを解けないことが嫌だった。
自分の情けなさが勝手に脳内で何度も再生されては、その度に止まったと思った涙が溢れた。横になっているだけの時間は、生産するものなど何も無い。それが分かっているのに、身体がどうしても言うことを聞かなかった。時間が流れていくごとに、枕が濡れて不快感が増していく。部屋の中は暖かいけれど、涙が気化して頬やら鼻筋やらが冷えていった。
やがて鼻の中に流れてきた涙の鬱陶しさに我慢ならなくなり、塵紙に手を伸ばす。無駄遣いは良くないと思いながらも、二枚目も引っ張り出した。鼻はすっきりしたけれど、頭がぼうっとして、乾いた目が腫れぼったい。それでも眠れる気がせず、ベッドに肘をついてゆっくり起き上がった。
暗い部屋でずっと起きていたからか、灯りの付いていない廊下や階段も難なく通ることができた。もしここで落ちて怪我をしたら仕事に行かなくて済むかもしれないと思いかけて、馬鹿な考えを浮かべた自分を制する。
ふらふらとリビングを歩き、ソファに倒れるように腰掛けた。大きな音を立ててしまったかもしれないと、身を硬くしたが、陽脚やミランが起きてくる気配は無かった。雪明かりがカーテンの隙間からうっすらと漏れている。流石にこの時間に大声を出すような者はいないけれど、自分の代わりに誰かが今も働いているのだろう。そんなことをぼんやりと考え、火の消えた暖炉に目を移した。
下の階は、暖気が上っていた寝室よりも肌寒い。ソファの端に畳まれているブランケットに包まっても、なかなか震えが治らなかった。地熱の恩恵を受けた床に座ろうかと思ったけれど、ここに来るまでで気力を使い果たしてしまっていた。結局場所が変わっただけで、先ほどと同じ状況になってしまっている。時間ばかりが過ぎて、焦りが募った。
その時、二階から微かな物音が聞こえ、びくりと肩を震わせた。やはり起こしてしまったかもしれない。もしトイレに起きたのだとしてもこの部屋を通るし、灯りがつけば自分がここに居ることも分かってしまう。寝たふりをしようと、ブランケットを頭まで掛けて端を握った。
足音はほとんど聞こえない。陽脚もミランも気配を消すことに長けていて、足音だけではどちらが来るのか分からなかった。薄目を開けると、蝋燭の灯りがゆらゆらと壁を照らしながら降りてくるのが見えた。
小さな足音が、こちらへ向かってくる。後ろを通るかと思っていたが、それは自分の横でぴたりと止まった。
「朔?」
囁き声は、自分の相方のものだった。もしミランだったら寝たふりを貫こうかと思っていたけれど。否、本当は彼であると分かっていた。
気づいてほしくないのに気づいてほしくて、再び目が熱くなってくる。おずおずと顔をそちらへ向けると、陽脚は自分の顔を見てほんの少し目を見開いた。それからランプをテーブルに置いて傍らにしゃがみ込む。
「……起こしてごめん」
陽脚は答えずに首を横に振り、肩をさすってくれた。
「寒いだろう、暖炉を付けようか」
陽脚が慣れた手つきで暖炉の火を起こしている背を、ぼんやりと眺める。部屋が明るくなると、ほんの少しだけ気持ちも和らぐような気がした。水を汲む音が聞こえたかと思うと、陽脚は暖炉の上に薬缶を置いた。湯が沸くまでは、暫くかかるだろう。そんなことを思っていると、戻ってきた陽脚はソファの前に腰を下ろした。
陽脚は何を言うわけでもなく、ただ時間が流れていく。初めてこの姿を目の当たりにした際、陽脚は酷く狼狽えていたけれど、次第にこうして当たり前のように寄り添ってくれるようになった。自分が何も言わなければ、必要以上に会話をすることもない。
夜、眠れなくなるたびに今度こそ起こさないようにと思うけれど、いつも起こしてしまう。毎回みっともない姿を見せたくないと思いつつ、見栄の奥底にある寂寥感が、拒絶の言葉を口の中に押し留めた。今も、淡い期待を裏切らずに来てくれたことに対して喜んでしまっている自分がいる。自分自身のそんな幼さが恥ずかしい。
陽脚の気遣いへの有り難さと申し訳なさが入り混じり、つい我慢していた嗚咽が漏れた。すると陽脚はこちらを向き、ブランケット越しに肩を撫でてくれる。
「大丈夫、大丈夫だよ」
穏やかな声に、まるで父にあやされているかのような感覚に陥った。温かい手の重みが往復するたびに、目が溶けそうなほどに涙が産生される。このひとになら、弱いところを曝け出しても許される。そんな傲慢な考えが、胸を満たす安心感へと変わっていた。
身動ぎをすると、それを待つかのように撫でる手が止まる。あれほど動くのが億劫だったのに、気づけば陽脚の隣へと座り込んでいた。尻や太もも、足の裏へ床の温もりが伝わってくる。
痛みが来る前兆のように頭が重いし、きっと顔も酷い有様になっているだろう。涙を拭って鼻をかんでいると、陽脚はこちらの肩を優しく叩いて立ち上がった。どこへ行くのかと思ったけれど、どうやら湯が沸いたらしい。
マグカップを片手で二つ持って戻ってきた陽脚は、それらを一度テーブルに置いてから手渡した。礼を言って受け取ると、陽脚は応じながら再び隣に座った。
息を吹き掛けて口に含むと、花茶の柔らかな香りと微かな甘みが広がる。少しずつ飲んでいるうちに、罪悪感のような感情の波がぶり返してきた。瞬きもしていないのに、目の下から熱い粒が生まれては重力に従って落ちていく。ただでさえ視力が悪いのに、更にぼやけて目の前のテーブルの輪郭すら定まらなかった。
マグカップが置かれる音がしたかと思うと、背中に温かい腕が回される。色々なものが込み上げてきて、顔を手で覆った。
「ごめん、本当ごめん。僕やっぱり君の隣に立つ資格なんてない……仕事も失敗ばっかりだし、大人のくせに、泣くのも我慢できない。情けない……っ」
「それだけ頑張っている証拠だろう。適当な奴なら、そんなこと考えもしない。好きなだけ泣けばいい」
「っこれ以上迷惑、かけたくない」
「おれが好きでやっていることだ」
またそうやって、と首を横に振る。自分を肯定してくれる言葉は心地良いけれど、受け入れてはいけない気がしていた。これでは親に甘える子どもと同じだ。いくら兄弟のような関係とはいえ、友達にそんな役目を背負わせるわけにはいかない。
「なんで」
思わず口をついて出た言葉。間違いなく陽脚を困らせる、と後悔が滲んだが、取り消す元気もなかった。
「ううん、なんでと言われてもなぁ」
陽脚の反応に、臍を噛んで俯く。一方で、陽脚はふいに柔らかい笑みを浮かべた。
「そういえば君と喧嘩した日、同じことを思っていたよ」
答えになっていない答えに、瞬きをする。確かに仲直りをした時、何故そこまで尽くしてくるのか疑問に思ったという旨のことを言っていた気がする。自分としては、バディなのだからお互いが大変な時に支え合うのは当然だと思っていたのだが。いざ自分がその立場になってみると、バディとしても友人としても、他人に対してここまで献身的になってくれる意味がわからなかった。
次の言葉を言う前に、陽脚は何かを思いついたような声を出した。
「なあ、共犯者になってくれないか」
「え」
陽脚は悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち上がる。突然何をするつもりだろうか。涙を拭いて待っていると、先ほどよりも浮ついた調子で陽脚が戻ってくる。その手に収まっているのは、可愛らしいサイズの木箱だった。
「それ……」
暗くてよく見えないが、シルエットには見覚えがある。それは陽脚が一粒一粒大事に食べていた生キャラメルだった。今年はポポ乳の品質が特別良かったとかで、あっという間に売り切れてしまったという。
「君が食べなよ、もう無くなっちゃうじゃん」
遠慮したが、陽脚は聞きもせずに包みを開けている。それからこちらの口元に押し付けて、あ、と口を開けて見せた。ここまでされて断ることもできず、渋々それを食む。とろりとした食感と共に、まったりとしたコクと濃厚な甘みが口に広がり、これは一瞬で売れる筈だと納得する。
「こんな時間に甘い菓子を食うなんて、とんでもない重罪だ」
陽脚はニヤニヤしながら、自分も最後の一つを口に入れた。あまりにも得意げなものだから、思わず笑ってしまう。
「っふ、なにそれ」
まだ漠然とした重さは胸に残っているけれど、相方の思いやりが素直に嬉しかった。歯に纏わりつくこともなく溶けていった甘さを、花茶で落ち着ける。全て飲み干す頃には、大分凪いでいた。
「ありがと」
陽脚は微笑んだ。暖炉の火に照らされた群青は、優しくこちらを見つめている。そのうち気まずくなって、目線を逸らして暖炉を眺めるふりをした。
暫くして「なあ」と呼び掛けられ、光源の逆側に伸びた影が動く。
「嫌だったら、言ってほしい」
「えっ?」
目を瞬かせている間に、陽脚がこちらに向き直る。それから、遠慮がちに手を広げた。そのポーズが示すことを察し、陽脚の顔を見た。先ほどまでと異なり、やや張り詰めている。今まで向けられたことのなかった、友達への思いとは異なる光が垣間見えた。もし受け入れればどうなるのだろうとは思う。だが、不思議と嫌ではなかった。
鼓動が高鳴るのを感じながら、ぎごちなく陽脚の背に腕を回した。
「嫌じゃ、ない」
次の瞬間、大きな温かい身体にそっと抱き込まれる。父以外の同性にこうして抱かれたのは初めてで、一瞬たじろいでしまう。だが石鹸の匂いと、自分よりも早い鼓動が聞こえて、ほうっと息を吐いた。
「ずっと、こうしたかった」
耳元で聞こえた声に、目を閉じる。この言葉が、自分達の関係の変化を如実に表していた。もう、元には戻れないだろうと。陽脚と向かい合ってそう思ったのは、これで二度目だった。
「つらい時に、卑怯なことをしてすまない」
「……。いいの、僕なんかで」
「君が、いい。君が大切なんだ」
即答されて、むず痒いような心地になる。同時にあの件以降、次第に柔らかくなっていった陽脚の態度に納得が行った。自分に対して、これでもかと言うくらい誠実に尽くしてくれていたのも、彼なりの好意の表れだったのかもしれない。
学生時代、自信を失っている時にそのまま流れで恋仲になった相手もいた。けれど、陽脚が向けてくれているこの感情は、あの時の恋情よりもずっと温かくて、愛おしい。これまで全くそういう目で見ていなかったことが、不思議なくらいだった。また泣きそうになってしまって、それを気取られないように、陽脚の胸に顔を預けた。
***
結局眠れそうにないと思っていたのに、気づいた時にはカーテンの隙間から漏れる光が、もう夜ではないことを告げていた。暖炉もいつのまにか消えていて、火の後始末もされている。薄暗い視界の中で、テーブルに置き去りにされたマグカップと包み紙が、昨夜の記憶をぼんやりと思い起こさせた。
身体を起こそうとした瞬間、首が強張って顔を顰める。どうやらソファで寝たせいで寝違えてしまったらしい。目も腫れぼったく、擦っても瞼の重さは変わらなかった。仕事に行く前に、冷やしておかないといけない。
ふと隣を見ると、陽脚が座りながら寝息を立てている。あれは夢では無かったのかと、しみじみその寝顔を見つめた。横にした方が良いかと思ったが、一度睡眠を妨げてしまったのにまた覚醒させるのも忍びないと思い、結局ブランケットを掛けるだけに留めおく。
テーブルを片付けるのも、朝になってからで良いかと諦めた。きっと隣で眠る相方も、同じことを思ったのだろう。
明るいと言っても、夜の間真っ暗だった空の端が青みを帯びているくらいで、まだ起きるには大分早い時間だ。現に、ミランも降りてきていない。
朝日が昇るまでの間、もう少しだけ微睡もうと、相方の右肩に頭を寄せて目を閉じた。