「──瘴気侵蝕状態?」
「え?」
サクの呟きに、ヒアシは意識を引き戻された。サクはヒアシの方には目もくれず、イビルジョーを凝視していた。
「あのモヤ、瘴気の谷にいるギルオスやラフィノスの状態とよく似ている。でも、これまで大型モンスターが瘴気に侵されたなんて、聞いたことがない」
囁き声でそのことをヒアシに伝えると、サクは極力装衣が動かないようにしながら、帳面に記録を付け始めた。
サクの指摘に、ヒアシは再びかの竜を見た。
確かに、頭部の様子は瘴気の谷に跋扈する、肉に飢えた獣たちの状態とよく似ていた。
しかしイビルジョーは小型モンスターのように、瘴気に侵されるほど柔な身体をしていない筈だった。そのようなことがあり得るのだろうか。
もう殆ど可食部のない亡骸を、かの竜は一心不乱に齧る。
地形の影響と竜が作り出した状況によって、酷く空気の澱んだ腐りゆく肉や血の臭いのする空間。そこは陸珊瑚の台地でありながら、宛らその下の層にある瘴気の谷を思わせる様相になっていた。
次第に余裕が戻ってくると、ヒアシはかの竜の足元にナルガクルガ以外のモンスターの亡骸もあることに気がついた。
肉片の様子からしてまだ新しそうだが、殆どが喰われてしまっているオドガロンの鉤爪のある足、アンジャナフ亜種の尾らしきもの、かろうじて残ったレイギエナの嘴と頭の甲殻。
小型モンスターの亡骸が見当たらないのは、その場で丸呑みされたからだろうか。
縄張り意識の強い彼らは、おそらく外敵を排除するために必死に戦ったのだろう。それでも抵抗虚しく命を落としてしまったのだ。
それにしても、イビルジョーが獲物を一箇所に持ち込むとは。
台地にも上ってはくるものの、普段は食料の少ない瘴気の谷をテリトリーとするオドガロンは、得た肉を塒に持ち込む習性がある。
しかしイビルジョーという種において、このような行動が見られたという例というのは聞いたことがなかった。
この竜は自らが生きのびるために効率を求めている。そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。
ブチッ、と音を立てて肉塊を引き千切ったかと思うと、異端なイビルジョーはぴたりと動きを止めた。
何を考えているのか、唸るような呼吸音を響かせるばかりで、ただその場に突っ立っている。
せめて前面が見えれば何かわかるかもしれない、とサクが腰を上げかけたところで、イビルジョーは口に咥えたそれを飲み込むことすらせずに、予兆なくこちらへと振り向いた。
「……ッ!?」
背筋が凍りつく、とはこのことだ。
わずか三歩ほどで一気に距離を詰められ、咄嗟に背の武器に手をかける。柄のヒヤリとした感触は、まるで今の自分の心臓を掴んでいるようだった。
しかし、かの竜は二人のことなど目に入っていないかのように走り去っていく。前につんのめるようなその走り方は、まるで何か見えないものに引っ張られているかのようだった。
大いに肝を冷やしたが、取り敢えず体制が整わないまま応戦することは避けられたと、ヒアシはほっと胸を撫で下ろした。
狩場での油断は命取りになる。当たり前のことだが、こうして観察に夢中になったり、対象を深追いしすぎたりした時には、つい忘れがちだ。
今生きていることは、この上なく幸運だと言えるだろう。
「寿命のことも考えて迷っていたけど、これは見逃してはおけないかもしれない」
まだ青い顔で苦々しく呟くサクに、ヒアシは頷いて同意を示した。
「今回の異変も、奴が元凶と見做して良いだろうな。あれほどの個体なら、地域一帯を駄目にしかねない」
貯め込まれた大量の食料から、この地に降りてすぐに見つけた吐瀉物も、あのイビルジョーによるものだと、ほぼ確定したようなものだった。
「少しあの辺りを探ってみよう」
サクは周りを見回し、イビルジョーが戻ってこないことを確認すると、隠れ身の装衣を脱いで、手早くもう一つの装衣を纏った。ヒアシもそれに続く。
灰色の生地で、のっぺりとした見た目のそれは、免疫の装衣と呼ばれ、特殊加工をされているため高い抗菌作用を持っている。唯一の欠点はそのダサ──実用性に全振りしているところだろうか。
近くに襲ってくるモンスターの気配が無い限り、屍肉という危険な菌の温床となるものに近寄るならば、隠れ身の装衣よりこちらの方が適していた。
モンスターの返り血を浴びることも珍しくないこの職でそんなことを気にするのかと言えばそれまでだが、危険の種は少しでも取り除いておいた方が良い。
亡骸の傍まで来ると、ヒアシは片膝を付いて目を閉じ、束の間頭を下げた。
ハンターとは、誰よりも命を思う者のことだ。ヒアシはそれだけは決して踏み外してはならぬと、自らの胸に刻んでいた。
足音に顔を上げると、隣でサクも首を垂れているのが見えた。
装衣の隙間から覗く幼馴染みの横顔を眺めながら、ヒアシは別のことを考えていた。
サクは優秀な人材だ。元々の能力もあるのだろうが、育ってきた環境による影響も大きいのだということを、ヒアシはなんとなく察していた。
父の堕落によって苦しい生活を強いられていたヒアシと違い、両親が共にギルド直属の学者であるサクの家は、比較的裕福だった。
だが、サクの母が華美なものを好まぬ質だったようで、着ているものも話し方も自分たち親子とそう変わらなかったし、気さくに接してくれていたから、隣に住んでいた頃は特に何も感じることはなかった。
しかし、成長してからサクが学び舎に進むということを聞き、その時初めて彼と自分との間にある、溝の存在に気が付いたのだった。
ヒアシはサクに気づかれないよう、小さくため息を吐いた。
殆ど女手一つで自分を育ててくれた母に、少しでも楽をしてもらいたい一心でハンターになった。この職は収入に年齢も性別も関係なく、自身の功績のみで評価される。
そのことは後悔していないし、危険と引き換えに自分がいつ命を落としても、母が国で暮らしていけるくらいの稼ぎは手にした。
しかし、目を輝かせて調査に勤しむ幼馴染みの顔を見ると、時々えもいわれぬ寂寥感に苛まれるのだ。
決して今の仕事が楽しくない訳ではない。むしろこの組織に入ってからは充実感を覚えてすらいる。
だが、大人しい草食竜のポポのようだと揶揄されるくらいには、ヒアシは元来温厚な性格であった。
ハンターになりたての頃は血を見ることすら嫌だったし、生きたモンスターの肉に武器の鋒が刺さった感触を初めて味わった時には、手の震えが止まらなかった。
セリエナでのヒアシの仕事内容は、主に兵器置き場の警備と、研究班や物品班の護衛だった。
実際に武器を振るう回数は、そこまで多くは無いものの、やはりどうしても柄に手を掛けなければいけない時はあるのだ。
特に、止むを得ず攻撃することになったモンスターに、拠点や何かしらの匂いを覚えられてしまった場合。担当者は細心の注意を払っているものの、漏れを零にすることはできない。
そういう時に、ハンターの力が必要になる。モンスターに警戒されるだけならまだしも、襲ってくるようであれば残された選択肢は討伐一択だった。
ヒアシはそっと目を伏せた。
この仕事は、生と死が常に間近にある。
自分も生きていれば、モンスターだって生きているのだ。家族を愛する気持ちも、死を恐れる気持ちも変わらないと思う。
依頼を達成するためにフィールドへ赴き、自然を観察し、同胞を守るために武器を振るい、時には相手の命を奪う。
楽な仕事などありはしないけれど、この職を続けるならば心に蓋をしない限り、自分が壊れてしまうと悟った。
ハンターや調査団の一員としての誇りはあれど、重苦しさを振り払えないまま仕事を続けるヒアシには、サクの姿が眩しく映った。
彼は研究職に就くために学び舎に通ったと聞いていたが、何故ハンターの道を選んだのかと尋ねたことがある。もっと安全な居場所を選ぶことだって、サクには容易だったろうに。
するとサクは、探索する際に護衛を頼む手間が減るからだ、とこちらを見ずに答えた。調査をすることもでき、自分の身を守れるならば、これほど効率的なことはないと。
その言葉を聞いて、ヒアシは胸に小さな風穴が開いたような心地がした。
そうか、この道を選ばざるを得なかった自分と、そうでない彼との間の距離は埋まることはないのか、と冷たい納得をしてしまったのだった。
サクを羨む仄暗い気持ちも、きっとどこかにある。
だが、ヒアシの胸を沈める鉛となっているのはそのことではなく、隣にいながらも決して手の届かない存在だと思ってしまう、自分自身の気持ちそのものだった。
これまでのように普通の仕事仲間として、幼馴染みとして接していたいのに、それがどうしても難しい。彼のことを良い奴だと思っているからこそ、その葛藤が苦しかった。
ヒアシ、とやや強く名前を呼ばれ、ヒアシは間の抜けた声をあげた。サクの心配そうな眼差しに、それまで自分が彼を凝視していたことに気がついた。
「どうしたの? 体調が優れない?」
「いや、大丈夫だ。……すまない」
サクは、ならいいけど、と一瞬こちらにちらりと視線を寄越し、すぐに亡骸の方へと戻した。
「どれも腐敗し始めてはいるけど、そんなに古くないな」
サクが口の中で呟く。
その言葉の通り、どの亡骸も独特な臭いを発しているものの、そこまで時間が経っているようには見えなかった。
おそらく、喰われた時期はほぼ重なっているだろう。
「さっきの痕跡に下血は見られなかったし、症状としては食中毒に似ているんだよね。原因のバクテリアにもよるけど、あれは大体食後から数刻で症状が出始めるから、痕跡と合致している」
「ああ……アステラで注意喚起されている、あれか」
ヒアシの呟きに、サクは頷いた。
食中毒は原因菌が口を経て大量に体内に入ることで発症し、嘔吐や下痢、発熱のほか、重症ならば麻痺などの症状を引き起こす。
第一の拠点・アステラは比較的温暖な気候であるため、食品に付着した毒性を持つ細菌が、あっという間に増殖してしまう。よって、食材の加熱調理が推奨されていた。
イビルジョーがここに持ってきたらしい最も古い痕跡は、数刻前に食べられたと予測されるものだった。
「そうなると、もう何かを食べられるような状況じゃないと思うんだけど。あれから回復したにしては、早すぎる。まだ新しい嘔吐の形跡もあったし」
でもイビルジョーだからなあ、とサクは溜息を吐いた。
優れた身体能力を持つ牙竜種・ジンオウガは「無双の狩人」の異名を持つが、「喰」における無双の名を冠するのは、間違いなくかの種だろう。
「大層食い意地が張った奴らだものな。それくらい、やってのけてしまいそうだ」
「まったくだ。ヒトの枠で当て嵌めようとしたら、例外ばかりでキリがないよ」
サクは獣医ではないが、先程の予想も、人間の症状に当て嵌めて考えるとこうだ、ということだろう。
「人間の場合は、どちらかというと生肉や生魚を食べたり、放置したものを食べたりして罹ることが多いんだけど」
サクは眉を潜めて、ヒアシをじっと見た。
「そもそもの話だよ。普段から加熱調理なんてせず、腐肉すら平気で食べるモンスターが、急に食中毒を発症っておかしくない?」
「ああ、確かに」
考えてみれば当たり前のことだ。ヒアシの反応に、サクは辺りを見回して危険が無いことを確認しながら「でしょ」と頷いた。
「しかも、瘴気の毒素はどちらかというと、気道とかに害を及ぼす傾向が強いから、直接この吐き下しに関係しているとは考えづらいし。それに、何よりあの変な動き方も気になるんだ」
「あれは不気味だったな。……まるで、死体が歩いているようだった」
ヒアシの例えは言い得て妙だった。
ぴたりと動きを止めたかと思えば、突然駆け出すあの一連の動作は、どこか生き物離れしていたのだ。
「それに、行動が変わっているのも気になる。あれは本当に、イビルジョーなのか?」
ヒアシの疑問に、サクはいよいよ腕を組んで唸った。
その地域の生態系を食い荒らすのは、イビルジョーという種においては、さほど珍しいことではない。
だが、こうして獲物を溜め込むことや、過剰とも見られる量の獲物を一度に喰らおうとすること、体躯が異常発達していること──狩猟において"通常"で括ることは危険ではあるが、あの個体は目安を超えすぎている。
「このことと瘴気のようなあのモヤは、何か関係がありそうだけどね。そこまではまだ掴めないな」
瘴気に侵蝕されたモンスターに共通する症状といえば、大人しかった個体までもが凶暴化するくらいだろうか。
それが単に気分が優れず苛々しているからなのか、脳に何らかの物質が影響しているのかはわからない。
「凶暴化する……瘴気……」
蝿が音を立てて飛び、骨に付いた肉片に止まると、忙しなく前足を擦り始める。
その様子をぼんやりと眺めていたサクは、唐突にあっと声をあげた。
「そうだ、何か引っかかると思ったら狂竜ウイルスだ!」
狂竜ウイルス。
それは、とある盲目の古龍の幼体が、周囲を知る術としてばら撒く鱗粉、または成体による生殖細胞のことを指す。
五期団の陽気な推薦組の青年が、以前一緒に飲んだ際に語ってくれた情報によると、それらに感染したモンスターは暴れ狂い、ドス黒い体液を流して命を落とすのだという。
ヒアシはしばらくユクモ地方で活動していたので、耳に挟んだことがある程度だった。
だがサクはその頃ドンドルマという大きな都市の学び舎にいたため、より身近なものだったようだ。
今まで思いつかなかった考えを閃いたことで興奮したサクは、早口に捲し立てた。
「あのイビルジョーの状態、狂竜ウイルスの症状に似ているんだ。異常行動も、消化器のダメージを無視した過食も、何か別の生き物に操られているんだとしたら、説明がつく。それが──」
瘴気か、とヒアシが目を見開くと、サクは大きく頷いた。
「期団長は、瘴気の正体は肉食バクテリアの出すガスのようなものだと仰っていた。あのイビルジョーはおそらく、何らかの経緯でバクテリアそのものに、脳の一部をやられてしまったんじゃないかな」
詰まるところ、あのイビルジョーは寄生されているのではないか、というのがサクの見解だった。
体内の遺伝子を書き換えられて、それに身体が適応してしまえば、突然変異となる。あの大柄な体躯は、その類だと考えるのが有力だという。
想像するとゾッとした。ヒアシは防具で覆われた二の腕を、意味もないのにさすった。
「解剖でもしない限り、はっきりとしたことは言えないけど、少なくとも僕はそう考える。……そうなると、やっぱり飢餓じゃなくてもあの個体は長くはなさそうだ」
それまでの興奮を収め、サクは静かに目を閉じた。
その種類にもよるが、寄生された生き物、それも脳や神経をやられてしまった者は大抵の場合使い回されて、やがて死に至ることも多い。
もしかしたらあの巨体も、寄生による行動操作とその途中に力尽きることのなかった強運によるものなのかもしれない。
哀れだがこちらにも被害が出ている以上、何もせずにかの竜の死を待つことは難しかった。哀れむことも、狩猟の場では命取りとなる。
二人の間に沈黙が降りる。ヒアシは顔を曇らせてしまったサクの肩に手を置いた。
「多分、しばらく奴は中層あたりに留まるだろうな。今鉢合わせると分が悪いし、迂回して一度上層のベースキャンプに向かおう」
場の雰囲気を変えようとするヒアシの提案に、サクは頷いた。
普段であれば、気性が穏やかな小型の翼竜が群れを成している、桜火竜のように鮮やかな珊瑚のある広場の傍の崖を登ると、淡い色彩の広場に出る。
ここを縄張りとするモンスターが多いため、お世辞にも安全とは言い難い場所であり、御多分に洩れず今日も先客がいた。
「ツィツィヤックか……。大分気が立っているな」
広場の中央では、頭部に反射器官を持つ、中型のすらりとした鳥竜種が、苛立たしげにガリガリと地面を引っ掻いていた。
ヒアシたちがイビルジョーの痕跡を発見した辺りは、このツィツィヤックの縄張りがある。自分が領地と定めた場所の近くをあのような怪物が徘徊しているならば、こうなるのも無理もないだろう。
「普段なら素通りするけど、今はそううまくいきそうにないね」
サクは前方のツィツィヤックの様子を観察しながら、ポーチからモンスターが嫌う臭いを放つ弾を取り出し、左手のスリンガーに装着した。そして目を細めて狙いを定めると、スリンガーの射出機構を握った。
勢いよく飛び出したそれはツィツィヤックの眼前で炸裂し、竜は敵襲かと一瞬身構えた。
近くにこやし玉を投げつけられたら、その臭いをもろに吸い込んでしまうことになる。案の定ツィツィヤックは首を振って嫌がり、まるで文句でも言うかのように鳴きながらその場を後にした。
「本当は、鼻のすぐ側に当てる筈だったんだけどな」
サクは不満そうに己の左手を見る。
手先が不器用な彼は、スリンガーを扱うことが得意ではなかった。練習はしているようだが、どうもうまくいかないらしい。
「まあ、結果的に行ってくれたし十分なんじゃないか」
ヒアシが宥めると、サクは肩を竦めた。他にはいないかと辺りを見回したヒアシは、あるものに気がついた。
「ここにもナルガクルガの足跡がある。この小さい足跡は……テトルー?」
蹲み込んでよく見てみると、大きな足跡の隣に、複数の小さな足跡が残されていた。
「いや、テトルーの足跡とは形が違う。もしかしたら、幼体かもしれないね」
幼い命の存在に、ヒアシは目を細めた。
だがそれは同時に、子連れのナルガクルガがこの辺りに生息していることを意味している。
ただでさえ子を持つ親は気が立っているため、草食竜のいない今、もし遭遇したら即応戦することになるかもしれないということを表していた。
ヒアシとサクは、目を合わせて頷いた。とにかく今は、体制を立て直さなければならない。
ツィツィヤックの痕跡の下に隠された、もう一つの足跡に気づくことなく、二人は蔦を登っていった。