新たに生まれた気流に乱され、陸珊瑚の卵がばらばらと舞う。
翼竜の胸当てに付いた金具に、スリンガーのロープを引っ掛けていると、末端から血が下がっている手が、空を吹き渡る風にさらされて冷たかった。
徒歩で移動すれば、それなりにかかる距離も、空を飛べばそうかからずに済む。
人に飼い慣らされた翼竜は、鳥のような澄んだ鳴き声を上げながら、真っ直ぐに研究基地へと羽ばたいていた。
遠くに小さく見えていた気球が、少しだけ近くなってきて、このまま何事もなく帰れそうだと、二人は息を吐いた。
その時、急に冷たい突風が吹き、翼竜の動きが乱れた。
二人と二匹の背に影が落とされるとともに、ばさりと聞き覚えのある羽音が聞こえ、振り返った先には。
「レイギエナ……!」
一対の薄い皮膜がついた鶏冠をもつ、陸珊瑚の台地の主、風漂竜レイギエナ。その飛竜は風を巧みにとらえる青く美しい翼を持ち、空を自由自在に飛び回る。
彼らは、大型の飛竜の中でも指折りの縄張り意識が強い種であった。そして、そんな台地の主が侵入者を易々と見逃してくれる筈もなく。
まもなく、威嚇を意味する甲高くどこまでも響き渡る鳴き声が、珊瑚の卵の漂う空を劈いた。こうなっては、移動などしていられない。
「仕方ない、降りるぞ!」
ヒアシが叫ぶと、二人は翼竜に高度を下げる指示を出し、再び陸上の海底へと潜った。
レイギエナは逃げていった翼竜を追うことはせず、二人の方へと舞い降りてきた。
あのイビルジョーが出現中の今も、こうして生きているということは、このレイギエナの生命力の強さと、運の良さを表していると言っても良い。
身体中に古い傷痕が見られる割には、皮膚に艶もある。調査団の区分で言うところの最上位──マスターランクに相当すると考えるのが無難だろう。
細長い首が持ち上がり、息を吸い込むのと同時に、二人は防具に内蔵された耳栓をした。
「来るぞ!」
レイギエナは二度目の長い咆哮を終えるやいなや、翼を折り畳んで二人の方へと突っ込んできた。空気抵抗を極限まで減らしたその動きは、凄まじく速い。
ヒアシは背に担いだ槍に手をかけると、回避の勢いを利用してレイギエナの頭を目掛け、それを突き出した。
黄金に輝く槍、ロストバベル。
陸珊瑚に降り注ぐ柔らかい光を反射したその鉾先は、レイギエナの眼球から、ヒトの指三本分ほど離れたところを通った。
しかし、台地の主はそれを簡単に受け入れるほど甘くはない。
レイギエナはすぐに空中で体制を立て直すと、胸を反らして大きな翼を広げた。
パキパキ、と軽い音と共に、みるみるうちに氷麗がレイギエナの胸に美しい氷の花を咲かせる。もしそれに見惚れてしまえば、忽ち表皮を凍らせる寒風に身を晒すことになるだろう。
レイギエナは二人の位置を確認すると、一息に翼で前方を扇いだ。
ごう、と地面が凍りつく。何も無かった砂からは霜が生え、辺りは生物の動きを鈍らせるほどの冷気に包まれた。
敵の動きを確認次第、次の攻撃をするためにホバリングを始めたレイギエナ。
その傍から一対の刃が弧を描きながら宙を舞い、台地の主の大腿を二度、三度ととらえた。
すぱりと切れた傷口は、一拍置いて痒みを伴う痛みを訴える。鬱陶しい、とレイギエナが尾で薙ぎ払うも、素早い獲物はそれを避けてしまった。
ぎろ、と対象を睨んだところで、台地の主はもう片方から先程の金の槍が接近していることに気付いた。高所に回避しようと翼を持ち上げる。
その時、思いもよらない速度で金槍が迫ってきて、レイギエナはぎょっとした。
先程は当たらなかったその鋒は、レイギエナの白く滑らかな下肢を的確に深く突いた。
その痛みに、陸珊瑚の主は思わず悲鳴を上げる。
こんなに小さな侵入者に怯まされるとは。一瞬の恐れは瞬く間に怒りとなり、レイギエナは再び甲高い咆哮を上げた。
その隙にサクはヒアシと目を合わせると、右腕をくい、と上げて合図をした。
このままレイギエナを上に誘導する、という意味である。
その意図を汲んだヒアシは頷き、再度武器を構えてレイギエナに向き合った。
このレイギエナによる襲撃は、侵入者を追い出すことが目的だろう。そうであるならば、こちらが縄張りの主として相応しいのだと示せば自ずと去っていく筈だ。
ただでさえ生命が薄くなっているこの地の生態系の崩壊を、助長してはならない。今はとにかくレイギエナの戦意を喪失させ、安全な場所へと逃げてもらうのが優先だった。
ヒアシはレイギエナの後方に回り込もうとするが、主も意地を見せ、どこまでも追いかけようとする。このままでは埒が明かないとヒアシは敢えて盾を構え、レイギエナに先制を許した。
レイギエナは、遂にスタミナが切れたか、とほくそ笑み、牙の生え揃った口を開けて、盾の上から噛み付こうとする。
ヒアシは狙いを定めて台地の主に向けて左腕を振るうと、槍が唸りながら空を切り、その顎を打ち付けた。
まさかカウンター攻撃が来るとは思っていなかったのか、レイギエナは短く悲鳴を上げる。
ヒアシはすぐに槍を持ち直し、バックステップで距離を取った。
その隙にレイギエナの懐へと潜り込んだサクが、逆手で太腿を切り裂いた。
先程から集中攻撃されているその脚は赤く染まり痛々しいが、致命傷を避けるには、内臓や太い血管を避けた場所を狙うしかないのだ。あと数回は切れるか、とサクは遠心力を使って刃を振るい続ける。
飛竜一頭分くらい離れたところから、それを見ていたヒアシは、突如レイギエナが力を溜めるような仕草をしたのを認めて、目を見開いた。
「危ない!」
ヒアシは身体を傾けて坂を一気に滑り降りると、咄嗟に肩を捻って足でブレーキをかけ、サクを後ろにして大楯を構えた。
次の瞬間、レイギエナの巨体による衝撃。
さらに、氷の混じる冷風。
なんとか受け流したものの、金属製の盾はきんと冷え切り、表面は霜で白く覆われていた。
「大丈夫か」
ヒアシが問いかけると、耳栓で声は聞こえなかっただろうがサクは頷いた。そのレンズ越しの目には、安堵と何かが混ざった色が浮かんでいたが、今のヒアシにはそれを考える余裕は無かった。
吹き飛ばしたかった相手が無事なのを見て、レイギエナの腹の虫の居所はさらに悪化した。
サクは、目を爛々とさせて低地であるこちら側へと駆けてきたレイギエナを避け、やや大袈裟であるほどに距離を取る。
そして助走をつけて坂を一気に滑り降り、地面を強く蹴った。
双剣は他の武器種と比べれば小さく見えるものの、その実、多くは人の腕ほどの長さがある。
サクは身体の回転軸を横に傾けるとそのリーチを存分に活かし、勢いを威力として乗せ、レイギエナの頭から尾にかけて滑るように何度も斬りつけた。
最後の一薙ぎが尾の先端を切り裂くと、サクは、ざっと音を立てて着地した。詰めていた息を吐き、相手を見やる。
台地の主は、尚も目の端を吊り上げていたが、その口の端からは、だらだらと唾液が垂れ流されていた。
サクは再び集中して双刃を己の顔前で構え、向こうに居る相手を鋭く見据える。
その武器の名はベニカガチノドクヅメII。骨素材でできた一対の剣には、寒冷地に生きる飛毒竜の、鮮やかな赤褐色の毛皮や鱗などの装飾が施されている。
そしてその中に隠された袋に繋がった針からは、劇烈な毒が噴き出す仕組みになっていた。
その効果は、覿面だった。レイギエナは毒に極端に弱いのだ。
冷気を操る力と軽やかな身のこなしを得た代わりに、その代謝が災いして、毒素が身体に入るとあっという間に全身に回ってしまう。
最初の三閃の時点で、猛毒針はレイギエナにしっかりと刺さっていた。それが時間をおいて、彼の消化器をはじめとした身体のあちこちを蝕んでいたのである。
レイギエナは苦しげに鳴き、幾度となく多量のどす黒い血を吐きながらも、眼光を失うことなく懸命に威嚇する。だがその動きは、目に見えて鈍っていた。
このような生き物がこのままここにいれば、先程消したとはいえ、残った瘴気の影響を大いに受けてしまうことは明らかだった。やや荒い手立てではあったが、あちらが戦闘状態になってしまった以上、こうするしかない。
ただでさえ飛行能力に優れているというのに、気が立っている状態のレイギエナから飛んで逃げるのは至難の技だ。
今の状況ではあまり騒ぎは起こしたくないし、手早く済ませねばならない。
ここにいるのは危険だと判らせるように。
そして、なるべく翼は傷つけないように。
レイギエナは尚も苦悶していたが、やがてサクに向かって細長い尾を鞭のようにしならせた。
サクはそれを腰を屈めて避けた。立ち上がると同時に納刀し、上方向に射出したスリンガーのトリガーを引く。
ロープが巻き取られると同時にサクの身体も引き上げられ、ヒアシの後ろへと着地した。
サクの役目はここまでだ。
ヒアシはステップをして飛んできたレイギエナの尻尾を避けながら、彼の斜め後方へと入り込み、筋肉だけに刺さるよう脇腹に槍先を突き出した。
黄金を引き抜く度に、鮮血が飛び散る。
あまりの具合の悪さに最早怒りすら湧いてこなくなったのか、攻撃を受けても、レイギエナの動き自体は先ほどよりも落ち着いていた。
低空に舞い上がり鋭い爪でヒアシを捕らえようとするも、平衡感覚を失ったレイギエナの狙いは、当たらない。
何度繰り返しても空を切るばかりで盾すら掴めず、レイギエナはとうとう嫌気がさした。
やがてレイギエナは鳴きながらよろよろと後退り、負け惜しみのような咆哮をあげた。
そして傷のない翼を広げ、上空へと飛び立ったのだった。
耳栓を外し、二人はどちらともなく歩み寄る。
「やっと行ったね」
「ああ。無事でいてくれると良いが」
小さくなるレイギエナの背を束の間見送ると、ヒアシとサクは翼竜を呼ぶ指笛を吹こうと、人差し指と親指でつくった輪を下唇に当てる。
狭い隙間に吹き込まれて抑揚のある軽い音に変わった息に、近くに隠れていた翼竜が律儀に飛んできた。
スリンガーから再びロープを射出し、翼竜の胸の金具に取り付ける。
ヒアシにやや遅れてサクもロープに掴まると、ふわりと身体が宙に浮いた。
予想外の戦闘に、帰還が遅くなってしまった。
これも報告しなければ、と考えながらふと下を見たサクは、凍りついた。
淡い珊瑚のカーテンの向こう側。
夜の闇と見まごう黒い身体が。
その顔に纏わり付いた白いモヤが。
そして何より、濁りきった瞳が真っ直ぐにこちらを見上げていたのだ。
「まずい、気付かれた……!」
「なんだって!?」
予想すらできないほどの、最悪の事態だった。
二人は失念していたのだ。
一度目にかの竜がこちらを襲ってこなかったのは、その動きがあまりに微小だった為に、自らの食らう命として捉え損ねていたに過ぎないことに。
このまま最寄りのベースキャンプに戻れば、その位置をわざわざ教えるようなものだ。
いくら大型モンスターが入ってこられないような場所を選んでベースキャンプを立てているとはいえ、それはそこに仮の拠点があることをモンスターに知られていないのが前提である。
イビルジョーをはじめとする獣竜種は、見上げるほどの巨体を持ちながら、軽々と崖をも登ってみせるのだ。
しかも、この地に最初に設置されたベースキャンプの裏には、ヒアシ達が乗ってきた三期団の気球がある。
巨大な気球が燃え盛る炎によって空へと浮かび上がるには、少しとは言えないだけの時間がかかるのだ。
もしイビルジョーを連れてきてしまえば、全滅は免れない。
「ヒアシ……」
サクの呼びかけに、ヒアシは強張った顔で頷く。
こうなったら、ヒアシとサクに残された道は一つ。この地に残り、かの竜を撒いて逃げ延びることだった。
しかしその成功率が限りなく低いということは、二人の間の沈黙が何よりも雄弁に物語っていた。
今回の調査はクエストとして受注したわけではないから、余程遅くならなければ、二人が帰還するまで他の調査員は来ない。
もしも最悪の事態になった時に犠牲者は少なく済むけれど、それは同時に、二人が助かる可能性の低さも残酷に突きつけていた。
ヒアシとサクが掴まる翼竜の飛ぶ方向をしっかりと濁った目に映し、涎を滴らせながらかの竜はついて来る。
どこまでも、どこまでも。