「サク、伏せろ!」
ヒアシの声に、サクは咄嗟に地面へ飛び込んだ。その頭上すれすれのところで、凶悪な尻尾が唸りをあげて通り過ぎる。
軸を整えるのに踏み換えられた幹を、横に転がって躱すと先ほど負傷した背と肩に痛みが走り、息を漏らした。
もしあのまま立っていたら、その勢いで首をもがれていたことだろう。
当たり前のことだが、大型モンスターと人間では身体のスケールに差があり過ぎる。
比較的リーチのあるモンスターは、足下が安全だと言われている。だが巨躯であればあるほど、その攻撃に切り替わる予備動作を見極めるのは難しい。
ヒアシはサクに目標を定めさせないよう、イビルジョーの顔面に突きを入れた。
頭部は最も危険な場所だが、その分注意を引きやすい。
頭に血が上っていたイビルジョーは、見事にヒアシの挑発に乗り、盛んに噛みつく。
だが、ヒアシはそれらをすべて避け、または盾で巧みに受け流して、かの竜を翻弄した。
サクは這って体制を立て直し、イビルジョーから距離を取った。衝撃を受けた掌が、ひりひりと痺れている。
直前に納刀していたお陰で、無事に回避できたが、もしあの場で武器を手放していたら、と思うと肝が冷えた。
その間にヒアシは、サクと対角の位置となるようにイビルジョーに接近し、その腹部に向かって突きを入れた。
怒りによる興奮で、かの竜の心の臓は活発に血を巡らせ、組織は柔軟さを増していた。例えるならば、縄だ。どんなに太くても、逆方向から同時に引っ張られれば刃が通りやすくなる。
それと同様に、皮膚が裂けて隆起した筋肉は、槍先の侵入を深くまで許した。
「通った……!」
引き抜かれた鋒と共に噴き出た鮮血に、思わずサクは感嘆の声を漏らした。
「ッ、このままッ、畳み掛けるぞ!」
イビルジョーの噛みつきを避けながら、攻撃を続けていたヒアシは、盾を構えて力を溜めると、思い切り槍を振り上げた。
集中して繰り出された一撃は、先程まで突いていた場所を、的確に穿った。
ダメージを受けたイビルジョーが、呻き声を上げて後ずさる。これまでの状況に、僅かに光明が差したかのように思えた。
自分も再び奴の懐に入らなければ、とサクは背負った得物の柄を握る。
それを見たヒアシは、ステップで距離を取った。
双剣は、よりモンスターと肉薄せねばならない武器種だ。イビルジョーが怯んだこの隙に、肉質の柔らかい場所の近くに陣取ることが、戦況を有利にする。
サクは鋭く息を吸い込んだ。
先程の怪我では、肋骨は折れていなかったらしい。幸運だ。
肺が十分に膨らむと、そのまま姿勢を低くして駆け出す。
イビルジョーの股下に到達すると、かの竜が動き出す前に双刃で股関節の周辺を斬りつけた。できることならヒアシが作った損傷部位に攻撃したかったけれど、流石に平地でこの武器を扱うのでは、そこまで届かない。
双剣使いの多くが身につける"乱舞"と呼ばれる動きは、身長のあるサクが行うと自らの身体まで傷つけてしまう恐れがある。
そのため、普段から片手剣のように斬り上げる動きを主としてその動作を行っていたのだが、それが功を奏した。
斬撃に弱くなっている皮膚──それも、ただでさえ表皮の薄い鼠蹊部を切り裂かれ、遂に刃が血管に到達したのだ。
サクは剣を少し傾け、毒腺から液が噴出するのを促した。この間に、でき得る限りの毒を注入しなければ、すぐにかの竜の免疫系に食い尽くされてしまう。
二度目以降に毒を受けた際、自身の身体が激しく拒絶反応を起こすことは、イビルジョーにはあまり期待できない。
ここで致命傷を負わせられれば尚のこと良いのだが、かの恐暴竜が、それをそう易々と許す筈もない。
わずかだが確かな痛みにさらに苛立ったイビルジョーは、サクを標的と定めた。蹴り飛ばそうとしたが、すばしこいその獲物はいずれの攻撃をも避けてしまう。
ならばこれはどうだと、イビルジョーは身体を大きく逸らした。
振り子のようなその一連の動き。歪な牙の生え揃う顎が通った直後、地面には大穴が開いていた。左右に地を抉るそれは動きがコンパクトな分、出が速い。
サクは顎の届く距離と、自分に到達するまでの時間を瞬時に測り、右方向に顎が振り切ったのを確認するや否や、そちらへと飛び出した。
遠心力で威力が増大するその攻撃は、すぐには止まれない。イビルジョーの背後は、がら空きとなった。
ヒアシはすう、と息を吸い込んだ。
標的までの距離は、およそ大型モンスター一頭半といったところだ。
腰を低く落とし、槍を地面と平行に構える。ぐ、と踏み込んだ直後、ヒアシはイビルジョーの斜め後方から駆け出した。
走れば走るほど、その突撃は威力を増す。
あとドスジャギィ一頭分ほどのところに来た時、遂に最高速度に達した。
ヒアシは脇を締め、平行だった槍を僅かに上方に持ち上げる。角度さえ気をつければ、鍛えられた長槍は、相手が巨大なモンスターであっても届くのだ。
鋭い鋒は、イビルジョーの脇腹へ。そしてそれは厚い角質、表皮、真皮をあっという間に貫き、深く肉を抉った。
予想外の場所からの攻撃に、イビルジョーは驚き、尻尾でなぎ払おうとする。
肉に巻き込まれた槍が持っていかれそうになるのを、ヒアシは走力で補った。イビルジョーの思惑通りに事が運ぶどころか、身体を捩ったことにより、槍が自らの体内に侵入するのを助長したのだ。
「やったか……!?」
サクは期待の声を上げ、様子を見守る。
その刹那、イビルジョーと目が合った。
──イタイ、痛イ。痛い。必ず喰ってやる。
言葉は無くとも、イビルジョーの剥き出しの感情が、ダイレクトに伝わってくる。
そのあまりの強さにサクは心底ぞっとして、すぐに目を逸らした。元来モンスターと目を合わせるのは、良しとされていない。
その時、ランスが刺さっている場所の側から、ぼふっと粉状のものがけむり玉のように舞い散った。
「うわっ!」
ヒアシはすぐに息を止めて槍を引き抜いたが、微量に粉を吸い込んでしまい、咳き込んだ。
「ヒアシ!」
サクは近くに落ちていたヒカリゴケを鷲掴みにすると、イビルジョーの顔に向かって思い切り投げた。ヒカリゴケは破裂すると、内部のアメーバ状の物質が広がり、赤く発光する。
それが目の側に当たったイビルジョーは、激しく顔を振った。
サクは巻き込まれないよう距離をとりつつ、耳栓を片方外してヒアシに駆け寄った。
「大丈夫?」
サクが尋ねると、ヒアシも同様にしながら頷いた。
「ありがとう。少し吸い込んだが問題ない」
それを聞いたサクはほっと息を吐いた。そして、顔を地面に擦り付けているイビルジョーを、険しい眼差しで見やる。
「あれは多分、真菌だ。まさか活性を失っていなかったなんて……!」
真菌とは、即ちカビの仲間である。
死を纏うヴァルハザクが、通常瘴気の出ていない古代樹の森で生活できた理由。それは、その地に元々いた真菌とバクテリアの共生に成功したためであった。
その真菌は胞子塊を作り、破裂させることで子孫を残す。その勢いで瘴気のバクテリアが放散されれば、どうなるかは一目瞭然だった。
暴れ回るイビルジョーを、なんとか避けながら会話を続ける。
「さっきまで何も無かった筈なのに、どうして急に?」
ヒアシの問いに答えようとサクは口を開いた。だが、目に飛び込んできたものに、言葉を失う。
「あ……!」
先程ヒアシが突撃してできた傷口は、いつの間にか白い何かに、びっしりと覆われていた。
表面には小さな子実体──真菌の繁殖する役目を果たすものが、いくつもできている。
元々ところどころが白かった身体は、頭から小麦粉をかぶったような姿になっていた。
「なんだあれ!」
イビルジョーのおどろおどろしい変化に、ヒアシは眉をひそめる。
その一方で、元研究者であるサクは目を輝かせた。
「うわぁサンプル持ち帰りたい」
「えっ」
「あっ。……んんッ」
ぼそっと呟かれた言葉に、ヒアシが振り返る。サクは顔を赤くして咳払いをした。
「──じゃなくて、これが鍵になるかもしれない」
「鍵?」
ヒカリゴケを除き切れないと悟ったのか、イビルジョーは再び二人に狙いを定めた。
それを見たヒアシとサクは腰を落とし、イビルジョーの次の攻撃に備える。
イビルジョーは側にあった珊瑚に噛み付くと、力づくでそれをへし折り、こちらに投げてきた。
暴れるオドガロン亜種を長時間咥え続け、ディアブロスをも容易に投げ飛ばす顎の筋力は、伊達ではない。
幸い、下がキノコのような柔らかい珊瑚だったため、砕けた欠片が飛んでくることはなかった。
しかし、イビルジョーは連続で、的確に珊瑚を飛ばしてくる。どうやら視覚は戻ったようだった。
「っ、これじゃ近寄れない!」
前後左右に避けながら、サクは顔をしかめた。
ヒアシは、比較的小さな珊瑚は盾で受けつつ、前に踏み込み、着実に距離を縮めた。
それに気づいたイビルジョーは、素早く息を吸い込み、ヒアシに向かってブレスを吐く。
ヒアシは二度横に飛び、ブレスの範囲から逃れる。
それを見たイビルジョーが、顔を傾けてなんとか当てようとするものの、その時には既に、ヒアシは懐に入り込んでいた。
イビルジョーはその場で片足を蹴り上げる。当たった、と思ったのは束の間。
盾で受け流していたため、殆どダメージが入っていなかったのだ。
カウンターで手痛い攻撃をされたのを覚えていたイビルジョーは、一度回避の体勢をとり、狙いを変えることにした。
イビルジョーが身体をたわめる。ヒアシはサクに呼びかけると、十分に距離をとって盾を構えた。
その直後、ずん、と地面が揺れる。
かの竜は、この青い珊瑚の特性を理解しているようで、その着地点は中心部を避けていた。
盾を着いてすぐに重心を分散できるヒアシと違い、双剣使いのサクは揺れを逃せない。
攻撃を回避した彼が、片手をついて姿勢を低くしているのを確認すると、ヒアシは相棒が狙われないよう、即座に槍を突き出した。
その時ふいに、ぽっかりと空いた空間に影が差す。
その影は翼竜の作るものとしてはあまりにも大きく、素早く、そして──。
「嘘だろッ……!」
「ナルガクルガ!?」
一陣の風と共に現れたのは、迅竜ナルガクルガだった。
ナルガクルガは奇襲を仕掛けるつもりだったようだが、気づいたイビルジョーが咄嗟に、振り向きざまに噛みつく。
「!?」
ナルガクルガは短く悲鳴を上げ、即座に珊瑚へと逃れた。牙が引き裂いたその右肩は、皮膚がべろりと剥がれ、筋肉が剥き出しになっていた。
痛々しい傷を負ったナルガクルガを、イビルジョーは更に攻めようとする。当然だ、サクとヒアシよりも、余程食い出がある獲物が現れたのだから。
だが、わざわざ戦術を立てて挑んできたナルガクルガが、ただ黙っている筈がなかった。
イビルジョーが大口を開けてナルガクルガに迫る。
ナルガクルガは爛々と光る目で、イビルジョーを鋭く睨み付けた。
そして次の瞬間、その場で高く跳躍した。
「あ……!」
イビルジョーの巨顎が、ナルガクルガの尻尾を捉えようとするが、虚しく空を切る。
ナルガクルガは空中で身体を捻るやいなや、長い尻尾を振り下げた。
その勢いで回転が生まれ、双刀が月光を反射し、青い軌跡が描かれる。
そして左右の刃翼が、重力を伴ってイビルジョーの巨体に深く斬撃を与えた。
一瞬遅れて、どす黒い血飛沫が飛ぶ。
ナルガクルガは、大怪我をしているとは思えない動きで、素早く着地した。そしてイビルジョーに向かって、鋭く威嚇の咆哮を放つ。
ヒアシは最初、あのナルガクルガは、縄張りの侵入者を排除する為に来たのかと思っていた。
だがイビルジョーのみを標的にしたことと、その明らかな警戒と怒りの滲む声音に、これは何かあると察した。なんとも人間臭いが、野生のモンスターが感情的になる場面は幾度も経験している。
イビルジョーは珊瑚の壁に打ち付けられたものの、なんとか踏みとどまった。しかしダメージは大きかったようで、背からは血が溢れている。
大型モンスター同士の戦いは、双方へのダメージが大きい。
だが、迂闊に立ち回れば攻撃に巻き込まれる可能性が高く、あまりにも危険だった。今のイビルジョーは、ナルガクルガと応戦しているが、いつまた意識がこちらに向くかわからない。
それに、あのナルガクルガがこちらへ敵対してくる可能性も十分にある。
サクとヒアシは目配せをし、一時撤退をすることにした。
それぞれが自分のポーチを探り、モドリ玉を取り出した。この煙幕を見た翼竜はすぐに飛んでくる。
だがその時、動きが止まっていたイビルジョーが、これまでにない奇妙な呻き声をあげた。
「なんだ?」
二人が振り向いた直後、イビルジョーはティガレックスに並ぶ音量の大咆哮をあげた。
「うっ……!」
「ッ、さっきの傷が……!」
先程のナルガクルガによる大きな裂傷は、イビルジョーの咆哮と共にどんどん白くなっていく。これを見るに、どうやら傷の深さに応じて真菌が活発になるらしい。
次の瞬間、傷口から大量の胞子とともに瘴気が噴出した。
「吸っちゃダメだ!」
その声に、ヒアシはすぐに兜の口当てを押さえながら、先刻サクが言おうとしていたことを察した。
”鍵”──すなわち真菌とやらは、おそらく傷の深さに応じて体表に出てくる。
イビルジョーの傷口を治そうとしているのか、むしろそこから喰おうとしているのか。本当の意図は分からないが、後者の可能性に賭けてみよう、ということなのだろう。
二人と二頭のいる空間は、見る見るうちに真っ白になってしまった。これではモドリ玉の煙が見えない。そのうえ、二人の距離は大きく離されてしまっている。
この状況で下手に動けば、無防備な姿をさらすことになってしまう。
どうすべきかと必死に考えていた時、ふと聞き覚えのある螺貝の音が聞こえて、サクはハッと顔を上げた。
「下で合流しよう!」
そう叫ぶや否や、サクは珊瑚の下へと潜り込んだ。すぐにその姿は見えなくなり、珊瑚と地面の隙間から差し込む光が戻る。
それを見てヒアシは相棒の意図を察し、納得した。
ヒアシは槍を背に納めると、劣悪な視界の中でじっとかの竜の動きを窺った。幸い、ナルガクルガが乱入してくれたおかげでイビルジョーの注意は散漫している。少し観察すれば、大体の意識の流れは把握できた。
(──今だ!)
その隙を見計らい、ヒアシは背後の珊瑚の隙間に素早く滑り込んだ。
一方でサクは、常時であればほふく前進して入るような場所に、勢い良く飛び込んでしまった。距離感を見誤り、危うく段差から落ちそうになる。
咄嗟に右手で蔦を掴み、反動で壁に身体をぶつけはしたものの、何とかことなきを得た。
緊張で呼吸は乱れ、心の臓はドクドクと音を立てている。
見られていない時を狙ったとはいえ、いつまたイビルジョーが追いかけてくるかわからない。
サクは急いで蔦を降り、幾つもの珊瑚の段を下っていった。
少し降りたところに、小さく色鮮やかな羽を持つサンゴドリたちが優雅に舞う広場がある。どうやら、台地に生息している彼らの多くがここに避難しているようだ。
通常は三羽ほどの群れが、一つのエリアにいくつか存在する程度だが、今日はその規模が大きかった。
「少し、お邪魔させてもらうね」
人間の言葉が伝わる筈もないが、サクは彼らに声をかける。
大人しい気質のサンゴドリたちは、頻りに鳴きながらも逃げたり威嚇したりしてくることはなかった。
サクは青みがかった身体の雄がいる群れの横を通り過ぎ、その傍らにある珊瑚の影に座り込んだ。
少し開けたところにずれると上の通路から見えてしまうが、ここならば死角になる。流石にどこが足場になっているかも確認できないところには、あのイビルジョーが来るとは到底思えなかった。
下層は比較的、強い湧昇風が吹いている。そしてこの広場を降ったところには、朽ちた珊瑚が自然のトンネルをつくる細い通路があるのだ。
おそらくヒアシはそこを伝ってこちらへ来るだろう。尤も、その通路こそが当初目指していた場所だった。
上から断続的に、地響きや威嚇の鳴き声が聞こえてくる。
サクは来た場所を見上げ、息を整えた。呼吸をするたびに傷を受けた場所が痛む。
傷口の周辺をそっと手で触ると、サクは徐にポーチから透明な緑色の液体が入った瓶を取り出した。鎮痛作用のある薬草を煮出して、成分を抽出したそれは回復薬と呼ばれるものだ。
新大陸に生える薬草は、アオキノコと調合すると薬効が失われてしまう。そのためある意味では、現大陸よりも簡単に入手できるものとなっていた。
金属の蓋を開けると、薬独特のにおいが広がる。これはグレートと評される上級品であり、それを少しずつ飲み下すと微かな苦味と、混ぜ込まれたハチミツの甘味が口腔を満たした。
鎮痛効果が表れるまで、およそ四半刻。できればじっとしていたいが、そうもいかない。
イビルジョーの唾液が付着した防具は、次第に茶色く劣化してきており、動く度にぱらぱらと破片が落ちていた。このまま腐食が進めば、皮膚にまで到達する恐れがある。
下手に脱ぐと皮膚へ付着するリスクもあるため、このままの方が良いだろう。
ふとサクはあることを思い出して、もう一度蔦を降りた。
「あ、あった」
水場で人の顔ほどもある貝殻を見つけると、サクはよろよろと歩み寄った。
腰の剥ぎ取りナイフを抜き、柄を下にして何度か叩き付けると、貝殻は適当な大きさに砕ける。
サクは上でまだ戦闘音がしているのを確認すると、再びポーチを開け、紙の包みを取り出した。中に入っていた丸薬を取り出し、薬包紙を広げて貝殻の破片を置くと、柄で集中的に砕いて粉末にする。
イビルジョーの唾液と逆の性質を持つそれは、その場しのぎの簡易な中和剤である。
サクは薬包紙を折って、ある程度まで砕けたそれを一所に集めると、指で摘んで防具へと振りかけた。
唾液に粉がかかるとじゅわじゅわと溶けて泡が生じ、やがて反応が鎮まる。これで酸は弱まった筈だ。
あくまでも応急処置ではあるが、何もしないよりはましだろう。
「これじゃ足りないかな……」
サクは少し考えた後、貝殻の欠片をもう二つ砕くことにした。この後応戦するうえで、再び唾液を浴びる可能性は高いためだ。
かの竜は脳への影響のせいか常時空腹状態であるらしく、危険な唾液が産生され続けているようだった。その証拠が口を開いたときに一瞬見えた、爛れた頬と舌だ。
おそらく凄まじい空腹感だけでなく、異常に産生され続ける酸による身体症状もあるのだろう。体内の均衡は保たれて然るべきなのだ。
薬包紙を念のため採取容器に入れた時、微かな金属音と足音が聞こえ、サクはハッと顔を上げた。
「サク、無事か」
「ヒアシ!」
サクは少し前に別れた相棒の姿を認め、安堵の息を吐く。
「無事に会えてよかった。……ところで、それは何をしているんだ?」
ヒアシの問いに、サクは手元を見せながら答えた。
「即席だけど、あの唾液を中和する粉を作ってるんだ。ヒアシは浴びたり噛まれたりしてない?」
「今のところ大丈夫だ」
そっか、と応答をしながらサクは手早くそれらを片づけ、代わりに砥石を取り出した。
「まさか、ナルガクルガが乱入してくるなんて」
「ああ。どうやら、訳ありのようだが」
「やっぱりそう思う? ともかく、あのナルガがイビルジョーに傷を負わせてくれたから、この後少しは楽になるかもね」
サクは、剣の表面についたぬめりや皮脂を丁寧に落としていく。
この場所は深層部の割に、珊瑚や岩から出た水で小さな滝ができるほどに水源が豊富だった。純度の高い水を遠慮なく使えるのが有り難い。
「最後のあれは、正直おれたちだけではどうにもならないな。傷の深さを測る目安にはなりそうだが、その前にこちらがやられてしまう」
ヒアシは小さな白い袋を取り出すと、口に当てて勢いよく吸った。これは生命の粉塵と呼ばれる、吸入して服用する薬だ。呼吸器のダメージを軽減するため、瘴気の谷に降りる調査員の必需品とされていた。
使用済みの袋をしまうと、ヒアシもランスの手入れを始める。
「ヒアシも気づいていたか。……ああなったらもう、菌が全身に回るのも時間の問題だろうな」
粗方汚れを落とすと、サクは本格的に刃を研ぎ出した。刃こぼれした骨製の剣から削れて出た細かな破片が、水を濁らせる。
研磨する小気味良い音を聞きながら、ヒアシは上を見た。それから、意を決して相方に声をかける。
「一旦このまま研究基地に戻ろう。奴がナルガクルガに気を取られている間に、応援を呼んだ方が良いとおれは思う」
生態系が崩れるのを見逃すわけにはいかない。だがこのまま戦闘を続ければ、自分たちが助からない可能性は跳ね上がる。そうまでして続ける必要のある仕事だとは、ヒアシには思えなかった。
「そうだね。そのほうが──いや、待って。ナルガクルガ?」
サクは一度頷きかけたが、突然、顔からさっと血の気が引いた。
「あの殺気……まさか、あれは……」
「どうしたんだ?」
ヒアシが心配になってサクの目を覗き込むと、サクはヒアシのいる場所を見つめ返した。だが、それはどこか不自然だった。
まつ毛が震え、瞳に水の膜ができていく。
「ううん、何でもない……」
「何でもなく無いだろう。言いづらいことなら、無理して言わなくてもいいが……もし大丈夫なら教えてくれないか」
ヒアシが優しくサクの腕に触れると、サクはひとつ息を吸い、ぎゅっと眉を寄せながらヒアシに訴えかけた。
「僕の思い過ごしかもしれないし、こんなこと考えちゃ駄目だって、分かってる。……でも、もしもあれが、あの時の足跡の主で、このまま喰われてしまったら、子どもが……」
「子ども?」
ヒアシは相方が何の話をしているのか掴めず、聞き返す。
サクは頭を抱えた。
「ミツムシの広場で見つけた足跡だよ。もしあのナルガクルガが親なら、みなしごになってしまう。そう考えたら……」
そんなの駄目だ、とサクは首を振る。
その言葉に、ヒアシは道中で見かけた小さな足跡のことを思い出した。
「確かに、その可能性はあるが……」
ヒアシは肯定の言葉を返したものの、内心ではその違和感に首を傾げていた。サクは一体どうしてしまったのだろう。
同じナルガクルガという種であっても、全く関係ない個体の場合もある。実際、陸珊瑚の台地では、よく見かけるモンスターだった。
もしくは、逆に子を奪われた親かもしれない。
だが、後者をサクに伝えるのは、なんとなく憚られた。
「あのレイギエナと同じように、早くナルガクルガも逃すべきだ。やっぱり僕らがなんとかしなきゃ」
「待ってくれ、おれたちだって丸腰なんだぞ。一度体制を整えないと、こちらがやられてしまう」
ヒアシが反論すると、サクはでも、と食い下がった。
「せめて、興味を逸らすことはできない? そうしたら、あのナルガクルガにとって有利になるかもしれない」
今のサクは、驚くほどに冷静さを欠いて、思考が一点に集中してしまっている。
ヒアシは、幼馴染みの肩を掴んで、彼の目を覗き込んだ。
「サク、せっかく伝えてくれたのにすまないがあそこに戻るのは危険だ。生態系を守ることは大事だが、何故そんなにあのナルガクルガにこだわる? 一体どうした、君らしくないぞ」
その言葉を聞くと、まるで夢から覚めたかのように、サクはハッと目を見開き、肩を跳ねさせた。
「……ごめん、僕どうかしてたかも」
サクは囁くような声で謝ると、項垂れた。
その表情があまりにも悲痛で、ヒアシは思わず手を離してしまう。
このやり取りで、ぼやけていた違和感が、はっきりとした形を成した。
サクはただ焦っているだけでなく、何かをとても恐れている。
確かに幼体は非力であるし、同情したくなるのもわかる。
しかし、今回は非常事態だからこそ自分たちが介入したものの、この世界の理が弱肉強食であることには変わりはない。本人の言葉通り、サクもそれはわかっている筈だ。
それなのに、どうしてサクはナルガクルガにここまで感情移入してしまったのだろう。
これではまるで──。
ヒアシは唸り、しばらく考えていたが、やがて腰を上げた。
背に光を取り戻した長槍を納め、盾を持ち直す。
「……わかった。準備が終わり次第、すぐナルガクルガのところに戻ろう」
「え……」
良いの、と言葉無しにまるい金色が問いかけてきた。
ヒアシは頷き、手を差し伸べる。
「できるところまで、頑張ってみよう。それに、行くなら早く向かった方が良いだろう」
相棒の穏やかな声と意志の強い眼差しに、胸がぽうっと熱くなる。サクは目元を赤く染めて何度も頷いた。
幼馴染みが知らない自分の過去も、いつか話さないといけないとは思う。だが未だ心を蝕み続ける苦しい時間のことを口にしたら、彼も困ってしまうかもしれない。
今は、何も聞かずに受け入れてくれることが有り難かった。
サクは唇を噛み締めてぐ、とヒアシの手を握り返す。
その時、二人が聞き馴染みのある──そしてここでは聞こえる筈のない咆哮が、辺りをこだました。