朽ちて脆くなった骨の下を、小さな蜘蛛が走り抜けていく。
群れに追いついたその蜘蛛は、家族と共に暗闇へと消えていった。
生命溢れる、陸珊瑚の台地のずっと下。
飛竜すら立ち入らないその場所には、仄暗く静かな空間が広がっていた。
その空間は、何かの液体が降り注ぐ音や、微生物の分解によって命の成れの果てが腐敗し、泡立つような音が響く。
黄色いモヤが立ち込める場所は、余所者であれば吐気を催すほどの臭気が漂っていた。
ここは、瘴気の谷と呼ばれる場所である。
生き物がその生涯を終えては、
その一方で
瘴気が立ち込めるその場所は、比較的高地にあるため、陸珊瑚の台地から光が降り注ぐ。
粒子の流れが、不可思議な影の模様を作り出す中、正気を失った翼竜が飛び交っていた。
その時、柔らかな光を覆い隠し、何かが落ちてくる。
巨体が地面に衝突するや、下敷きになった骨は砕け、周囲の骨は飛び散った。
闇に潜んで蠢いていたモノたちは、咄嗟に物陰へ隠れる。
力尽きた飛竜が落ちてくるのは常のことだ。だが、"それ"は翼を持たない。
強力な脚を持つその身体は、上の世界からのモノでありながら、下の世界のモノのように、白いモヤで覆われ尽くしていた。
特に頭部や胸元は、ふわふわとした胞子嚢が菌糸を伸ばして張り付いており、まるで純潔を捧げる乙女のようであった。
その身体──若い恐暴竜の生命は、脳天に刺さった槍、そして龍の力の暴発によって、とうに尽きている。
娘の身体は、血の中にまで細菌が侵入し、己の意のままに繁殖していた。
それと同時に自己融解が起こり、内臓の組織は分解され、柔らかくなり始めていた。
その時、タッタッと軽快な足音が下から近づいてくる。
程なくして現れたのは、全身と皮が剥かれたガルクのような姿をした、おぞましい竜だった。
獲物が落ちてきた音につられて駆けつけたその竜は、食い出のある獲物の姿に喜んだ。
だが、亡骸の匂いをしきりに嗅ぎながらも、竜はなかなかそれを喰らおうとはしない。それどころか、キュウンと鳴きながら首を傾げる。
やがて竜はプイと顔を逸らし、不機嫌そうに鼻を鳴らして、元の場所へ帰っていった。
竜が去ると、娘が落ちてきた直後には避難していた痺賊竜の子分たちが、ひたひたと足音を立てて近づいてくる。
頭領は下層の縄張りを見回っているため、彼らの仕事は上層の見張りである。
だが、彼らもまた、身体が白いモヤに覆われており、その瞳は濁っていた。
群れのうちの一頭が、獲物の動きを奪う牙が生えそろった口を大きく開け、腹にかじり付く。柔らかくなった肉の繊維が、ブチッと音を立てて千切れた。
次の瞬間、猛烈な破裂音を立てて、ガスと臓物が勢いよく噴き出した。
若い痺賊竜は驚き、一目散に逃げ出す。
周囲には液体が飛び散り、辺り一帯が凄まじい激臭に包まれた。
体内のバクテリアによって腐敗の早まった死骸の腹部は、ガスで膨満していたのだ。
もう破裂することはないと察した痺賊竜たちは、なおも食い物にありつこうとしたが、ふいに辺りを見回し始めた。
最初に噛み付いた一頭が鳴くと、周りの個体が応じ、自分たちの持ち場へと戻っていった。
──しゃなり、しゃなり。
"彼"の気配に、その場の空気が張り詰め、厳かなものへと変わる。
肉や骨を踏み締める音すらも、どこか優雅だった。
──しゃなり、しゃなり。
“彼”は白銀の身体を、白の胞子で飾る。瞳すらも覆い尽くすその様子は、不気味でありながら、ひどく美しい。
──しゃなり。
“彼”はやがて、娘の亡骸の前で足を止めた。
腐って赤黒い臓物が飛び出した腹とは対照的に、今は旧き塔の刺さった頭部は、純白を纏っている。
古の時を生きてきた”彼”にとっては、そう珍しくもないもの。
だが、ここまで壮麗に変化した生命を目にするのは、初めてだった。
“彼”は、やっと戻ってきてくれたのか、と満足そうに赤い唇を弓形にする。
自らの創り出したモノが、自分の棲む奈落の底まで辿り着いたことは、喜ばしかった。
顔貌に浮かべられた感情は、龍の知性の表れだった。
尾に付着した胞子嚢が、”彼”の機嫌に呼応するように、胞子を噴き出す。
“彼”は臭いや汚れを気にするそぶりなど、露ほども見せず、若い娘の頬に、自らのそれを擦り寄せる。
冥の王に見染められた処女は、もう二度とこの世で目を覚ますことはない。
“彼”は胴体を持ち上げて、咆哮をあげた。
数多の亡者たちの声をかき集めたようなそれは、薄暗い空間で反響する。
弔い歌であり、歓喜の歌でもあるそれは、周囲の生命ある者たちを畏怖させた。
次の瞬間、“彼”の身体へと、みるみるうちに白い瘴気が吸い上げられていく。
その根源は、力なく横たわった娘の身体だった。
卵の殻を破ってから、親の温もりすら知ることなく、孤独な生涯を終えた娘。
故郷の森からは瘴気によって追い出され、それらによって操られた彼女に、安息の場所などなかった。
腹の満たされる幸せを享受することなく、喰っても喰っても満たされず、耐え難い渇きに呻きながら生きてきた。
最期に向けられたのは、妻を失った夫の憎悪とやり切れない悲しみ、彼を守ろうとした若者の怯えと敵意。そして、己にとどめを刺した小さき者たちの、哀れみと大事なものを護ろうとする決意だった。
娘がようやく飢えから逃れられたのは、死した後。
そんな彼女が、生まれて初めて他者に求められた瞬間であった。
たとえそれが、生命の糧となることを意味していたとしても。
生のエネルギーを喰らい終えた冥の王は、妃の目蓋に口付けた。
二重の細い顎に生えた鋭い牙は、彼女を傷つけることなく離れていく。
栄養の殆ど無くなった亡骸は、もう朽ちる一方であろう。
いずれ、この地の一部として成り代わっていくのだ。
”彼”はしばし考えた後、大きく息を吸い込んだ。
妃に向けて灰色のブレスを吐きかけると、皮膚が所々剥がれ落ちながらも、その巨体が少しずつ動く。
ずりずりと音を立てながら、妃の身体は下へと運ばれていった。
途中で出会った、酸の尾を持つ竜や、轟く声を持つ竜は、心底悍しいものを見たような目を向けて逃げていく。
彼らの行動は何らおかしくはない。むしろ、この光景こそが異様であった。
やがて妃が運び込まれたのは、死体が山積みになった最奥だった。
筋で閉ざされる狭い入り口は、本来の妃の身体であれば、おそらく通り抜けられなかったであろう。
そこは龍脈──新大陸を栄養する血管のようなものが、煌々とそれらを照らしている一方で、手前は発光する酸が湧き出ている。
蒼と赤の光の中で、妃は頂点へと横たえられた。
冥の王は慈しみに満ちた眼差しで、動かない妃を愛した。
この上なく丁寧に、壊してしまわないように。
時間を止めることはできないけれど、微生物の営みに働きかけ、腐食を遅らせることはできる。妃の若く美しい姿を、長く見ていられるのだ。
王は、これほどまでに自分の力を誇らしく思ったことはなかった。
脈が止まっていることが惜しいが、仕方がない。彼女は、元々この場所で生きる者ではないのだから。
そして、生きていればきっと、自分とは相容れないのだから。
王は妃に再び頬擦りをする。
押し付けられる一方的なその情を、妃が知ることはない。
だが、胞子嚢の下の表情は、変わらず穏やかなままだった。冥土に連れ込まれた娘は、もう苦しみを味わうこともないのだ。
娘の魂と肉体は、これから長い時間をかけて分解されていく。
そして、強き者たちを惹きつけてやまない結晶へと、変わっていくのだ。
嗚呼、新大陸とは、なんと素晴らしい場所であろうか!
瘴気の谷で、間違った滞在の仕方をすれば、誰もが正気を失っていくという。
その主すらも、もしかすれば。
薄暗い谷の底には、ぽこぽこと泡が水面で弾ける音だけが響いていた。