女性の姿が充分に離れてからミャオが口を開いた。
「脅かす結果になっちゃったけれど、よかったの? レン君」
ミャオはもう尻尾を仕舞っている。レンは顔を伏せ、「いいんだ」と言った。
「俺も我慢し切れなかった。自分の悩んでいることを誇らしげに言われちゃ、堪ったもんじゃねぇよ」
レンはミャオに見えないように奥歯を噛み締める。あの女性はレンの〝体質〟について何も知らない。無自覚なまま言っただけだ。それでもレンにしてみれば、その偽りが許せなかった。中途半端にこちら側の世界を覗き込んだ気になられては、レンの今までの苦痛も怒りも全てちゃちなものに思えてしまう。ミャオが女性の行った方向を見やりながら、言葉を発する。
「あの人も、悪気はないんだと思うよ。きっと、それなりに悩んでいるんだと思う。でも、他人の痛みを勝手に自分のもののように語るのは、やっぱり違うよ」
レンはミャオと並んで歩きながら、「酷いことしちまったかな」と呟いた。ミャオは澄ました声で、「いいんじゃない」と返す。
「どう考えたって悪いのはあの人だよ。でもレン君が肩入れしたくなったのもちょっと分かる。あの人、似ているもんね」
「似ている、って、誰に?」
「アカリちゃんだよ」
レンは何も言葉を返そうとはしなかった。無意識中に感じていたのかもしれない。突然に、逃がしてくれと言われて従ったのも、本気で相談に乗ろうとしたのもアカリに似ていたからなのか。姿かたちだけではない。満ち足りず、何かが欠損しているような横顔があの女性にはあった。
ならば、アカリも満ち足りていないのか、と考えてレンは首を振った。これ以上、突っ込んで考えるべきではない。あの女性とは二度と会わないだろうし、アカリとはまた会うかもしれない。その時に今日のような感情を持ち越すのはいいことではない。
「レン君の見立てでは、あの人はどうなの?」
「どうって何が?」
「見えているのか、ってこと」
レンはしばらく逡巡の沈黙を挟んだ後に答えた。
「多分、見えてない。見えていたとしても、それにむらがある。俺ほど鮮明に見えるわけじゃないんだろう」
春日ならばもっと詳しい分析を下すことができるかもしれないが、レンに言えるのはそこまでだった。自分を絶対の尺度にすることに抵抗があったからかもしれない。元々、一般常識から弾かれたような人間だ。測るには偏っている。ミャオは、「そっか」と返した。
「レン君がそう言うんならそうなのかもね」
「何だよ。引っかかる物言いだな」
「別にそういうことじゃないよ。ただ、あの人はそれだけが拠り所みたいな感じだったから。レン君にとっての意味とあの人にとっての意味は違うんだろうな、と思っただけ」
それは恐らくミャオの言う通りだろう。レンも女性の態度にそういった面を見出さないわけではなかった。偽りだけを指針にして生きているのか。レンとは正反対だった。見えるという〝体質〟を隠さなければ世界に順応できないレンと、見えるということを偽りでも信じさせなければ世界から取りこぼされてしまうあの女性とは、お互いに踏み込めば踏み込むほどに平行線なのだろう。
「意味なんて、みんな違う。同じ行動でも善悪が分かれることもある」
レンの発した声にミャオは、「そうだね」とどこか冷たく返した。ミャオは女性のことを気に入らなかったのかもしれない。レンは、というと自分でも分からなかった。突き放すような物言いをしておきながら、相手のことを「嫌い」というカテゴリーで断じることができずにいた。
「どうするの? デートは何だか白けちゃったし。これから」
「事務所に戻る、気にもなれないな」
レンは足を止めた。ミャオが振り返り、
「じゃあ今日はここでお開きにしよう。レン君だって思うところはあるだろうし」
その言葉にレンは息をついて頷いた。橋を渡り、アパート方面と街との分かれ道でミャオと別れる。
「俺、こっちだから」
「じゃあね。レン君」
ミャオが猫の姿のまま雑多な街の中に溶けるように消えていった。それを見送った後、レンは家路についた。
部屋に戻った時間がいつもよりも早かったので、レンはテレビを点けた。滅多に見ない夕方のドラマの再放送を流しつつ、早めの夕食の準備を進めているとCMに入った。バラエティ番組のCMが流れる中、おどろおどろしいフォントと音楽が多用される番組の宣伝が流れる。レンが目を留めると、巫女服を着た女性の姿がアップになった。その女性を見て、レンは視線が外せなくなった。
「……昼間の」
テレビに映っている巫女服の女性は先ほどまでレンと一緒にいた女性だった。タレントをしていたのか、とレンは珍しくテレビを食い入るように見つめる。そう考えればサングラスをしていたのも納得ができた。
「稀代の美人霊媒師、ミヤビ登場!」というあおり文句と共に女性が髪をかき上げる。ミヤビ、という名は最近耳にしたような気がするが、どこで聞いたのかは思い出せなかった。
しかし、どうやらあの女性はミヤビという名前らしいということは分かった。番組の企画では、再来週の回で金海市に来るらしいことが宣伝される。CMが明け、再びドラマになる。刑事が容疑者に証拠を突きつけている場面だった。レンは、「霊媒師、ねぇ」と呟いた。テレビのバラエティで取り上げられる霊媒師のほとんどがインチキだということは経験で分かっている。だが、その一部と会ったのは初めてだった。
「やっぱり、自分の立場が一番大事なんだろうな」
見える、見えないではなく、バラエティ番組では大仰なパフォーマンスをしてみせることが重要なのだろう。そのためならば、見えていない人間が大多数を占めているのをいいことに嘘八百を並べ立てることもいとわないのが連中だとレンは思っていた。
唾棄すべき、とまでは思わない。彼らなりの生き方があるのだろう。こちらにお鉢が回ってくる以外ならば、彼らがどんなことをしようが気にしなかった。だから、昼間のように怒りを滲ませたのは彼らからしてみればとんだ不意打ちのようなものなのだろう。ミヤビという女性も、その一部だ。
レンは冷蔵庫から卵を取り出し、ボールの上で割ってときながらぼんやりと考える。本物である自分は彼らにとってどう映っているのだろうか。商売を邪魔する厄介者として映っているのだろうとレンは当たりをつけて、油を引いたフライパンに卵を流し込んだ。
もう片方の鍋で具を作りながら、中空を見つめて益体のない思考に身を任せる。
金海市に来るのならば、そのロケのためにミヤビは来たのだろう。ならば仕事のはずだ。だというのに、どうして逃がしてくれなどと頼み込んできたのか。仕事が嫌になったのか。それとも偽っている自分が嫌になったのか。タレントなんて職業は視聴者を騙してこそ意味があるのだろうとレンは勝手に考えていた。タレントは素顔を見せてはならない。
それこそ、当たり前のように仮面を被っていなくては務まらないはずだ。ミヤビは何を考えて自分を選んだのか。それとも、選んだなどというのはとんだ思い上がりで誰でもよかったのかもしれない。偶然目に付いたのが自分だったという話だ。だが、どちらにせよ一般人に助けを求めるということは相当切羽詰っていたということなのだろう。それほどまでに追い詰めるものは何だったのか。
「何があの人をそこまで……」
呟くと焦げ臭いにおいが鼻をついた。見下ろすと、フライパンで焼いている生地が焦げている。レンは慌てて火を止めて、具の調子を見た。具も少し焦げている。レンはため息をつきながら、具を生地で包んだ。
「俺が気にしても仕方がない、か」
焦げたオムレツを皿に乗せ、レトルトの味噌汁を作り、ご飯をよそってレンはテーブルについた。オムレツが僅かに苦く、レンは顔をしかめた。
金海神社に挨拶に言った後、ホテルに帰り着くと、マネージャーに呼び出された。お叱りの言葉を受けるのだろうな、と思っていると、マネージャーは開口一番に言った。
「逃げてみて、どうだった?」
ホテルの一室でマネージャーがコーヒーを入れながら尋ねる。その質問は予想外だったので、答えるのに時間がかかった。逃げてみて、自分はどう感じたのだろう。結局、行き場所などないことを再確認しただけではないのか。少年の姿が思い起こされる。背丈が低く、頼りなさげだったが自分よりも強い光を眼差しに持つ少年。会ったばかりに彼にすら、自分は拒絶されてしまった。
「……別に。何とも」
ようやく搾り出した声にマネージャーは、「そうか」と短く返した。目の前にあるテーブルにコーヒーカップを置き、ミヤビの対面にあるソファへと腰掛ける。マネージャーはコーヒーを口に含みながら、「それで」と続ける。
「得るものはあったのかい?」
得るもの、と言われてもミヤビには何も思いつかなかった。自身の無力さが際立っただけだ。逃げてみて、自分はどうしようと思ったのだろう。桐宗のしがらみから抜け出して、どこへ行こうとしていたのか。
桐宗の規定した檻の中でしか生きられない温室暮らしをしておいて、今更外の世界や自由に憧れでも抱いていたというのか。ミヤビは膝の上に置いた拳を握り締めた。だとしたならば、自分は分不相応な願いを少年に勝手に託したことになる。
自由ならいつでも得ることができた。捨て去ることができなかったのは、この待遇に甘んじている心があるからだ。どこかで今の待遇を捨てることを恐れている。桐宗の巫女としてあり続けるしか道がないことを無意識のうちに感じている。
「得るものは、なかった」
そう答えるしかないのが悔しく、ミヤビは唇を噛んだ。マネージャーは顎に手を添えて考え込むような仕草をした。
「だったら、どうして逃げたりしたんだ? 結構、大変だったそうだよ」
「申し訳ないとは、思っている」
「そうか」
マネージャーはもう一度コーヒーに口をつけた。息をついてカップを置き、「まずいね」と言った。「えっ?」とミヤビが顔を上げると、マネージャーは立ち上がった。
「コーヒーも安物は駄目だな」
窓際まで歩き、外を見下ろす。ミヤビはその背中を黙って見ていた。マネージャーはいつになく張り詰めた背中で振り返らずに言葉を発した。
「僕は君の教育係じゃない。だから、ああしろこうしろと口を挟む権利はない。マネージャーというのは君からしてみれば予定表みたいなものだろう。だから、これから言うことも教育係とかそういうつもりで言うんじゃないんだが」
マネージャーが振り返る。冷たい光を湛えた眼差しがミヤビを射抜いていた。ミヤビは思わず唾を飲み下した。
「どうして君は逃げたりしたんだ? しかも一般人をつかまえて。関わる人間を選べとまでは言わないが、君にとって相応しい在り方というものがあるはずだと、僕は思っている」
マネージャーの言い分は桐宗のマニュアルから考えても正しい。幹部以上は政府高官や、財界とも強いコネクションを持っている。ミヤビは桐宗の巫女であり、立場は決して低いわけではない。どこにいてもそれなりの立ち振る舞いが要求されるポジションだった。
「じゃあ、それなりの人となら、私は逃げてもよかったの?」
マネージャーの言い分だとそうなる。もちろん、どちらにせよ逃げることなど許されないだろう。しかし、何か言い返してやりたかった。言われっ放しでただ非を認めるのは我慢ならなかった。マネージャーはミヤビの言葉にも感情的になることはなく、淡々と応じる。
「そうだな。納得できる理由があれば、あるいはもう少し寛大な気持ちになれたかもしれない。君が、たとえばもっと多忙で、もっと精神的に脆かったならね。そういう時に他人に頼るのは仕方がないだろう。でも、君だって大人なんだ。聞き分けのない子供じゃあるまいし、誰かと逃げようなんていう思考自体が正しくないんだって分かるだろう」
マネージャーの言葉はあくまでもミヤビ自身が逃げたことを反省するように仕向けようとしている。だから感情も表に出さず、怒りなど滲ませることはない。ミヤビは鏡と話しているような気分に陥り、すっと立ち上がった。身を翻すと、その背中に声がかかる。
「どこへ行くんだい。言っておくが、どこへも逃げられはしないよ」
「化粧室よ。それに逃げられないのはもう分かっている」
「撮影は明後日だ。体調管理は万全にしておいてくれ」
「分かっている」
マネージャーがその言葉を潮にして部屋から出て行った。ミヤビは洗面所で顔を洗った。濡れた指先で鏡に触れ、爪を立てる。顔の輪郭をなぞるように爪で引っ掻いた。鏡には傷一つつかない。もちろん、自分の生身の顔にも。
「結局、私は傷つきたくないだけ、か……」
呟いた言葉は誰にも聞き取られることなく、壁の中に吸い込まれていった。鏡の向こうの自分の頬が濡れているのに気づいたが、ミヤビは顔を洗ったせいだと背を向けた。